第8話

 朝、リメイが鹿肉を隷血種の男に届けていたときのことだ。

 リメイは驚嘆して立ち止まった。

 普段は首を垂れて目を瞑るだけの男が、その日に限って真っ直ぐリメイを凝視していた。

 野性味溢れる双眸。獣のような瞳に射止められ、リメイは呼吸も忘れていた。

 何か言い出すかと期待して待ったが、口は相変わらず動かない。

「なんなの、一体……?」

 鹿肉を音の前に放り投げ、パイプ椅子を引っ張り出して足を組んで座った。

 男はずっとリメイを見ていた。

「睨んでないで食べたら?」

「嫌だね」

「そう。だったらずっとそうして……え?」

「こんな粗末な肉、食べるわけねぇだろ」

「あなた、喋れたの……? ていうか食べないって……あれ?」

 任務が始まって二、三週間は経っている。

 その間、一度も男が喋ったことはない。

 鹿の四肢もせっせと運んで食べさせてきたのだ。ずっと。

 それを今更になって拒絶され、リメイはどうしていいかわからなくなった。

 今まで運んだ肉は食べていなかったのか。

「獣人も巨人も喋る。人間だって喋る。じゃあ、なぜ俺が喋れない?」

「確かにその通りだわ。じゃあ、今まで隷血はわざと黙ってたのね」

 リメイの問いに男は答えない。

 せっかくコミュニケーションが取るチャンスだ。

 リメイは矢継ぎ早に言葉を探した。

「質問を変えるわ。――なんで今になって喋ろうと思ったの?」

「人間が一人死んだ」

「え……」

 リメイは言葉を失った。

「軍の犬め。嗅覚が鈍ってんじゃねえのか?」

「……待って。整理するわ」

 リメイはガスマスクを装備している。

 匂いなど、よっぽど強いものでないと遮断されて嗅ぎつけられない。

 いや、問題はそういうことではない。

「隷血はなんで人が死んだってわかるのよ? どこかに死体があるの?」

「死臭だ。それと、お前からも同じ死臭がする。お前はきっと死んだ人間と会っていた。言い換えると、お前が殺した。だから喋った」

「……ふむ」

 断片的だが、想像以上に論理的な喋り方だ。リメイは愕然とした。

 パイプ椅子を立ち、男の近くに歩み寄る。

「初めて話すってのに、殺人犯扱いされて癪だわ」

 リメイは男の前に放置された鹿の四肢を縄で縛り上げ、男から離れた。

「俺を殺す気か?」

 男は相変わらず睨んでいる。人殺しと思って警戒しているようである。

「違う。食べないって言ったから保冷室に戻すの」

「むうん?」

 男は顔を顰め、変わった声で呻吟した。

 リメイは任務を全うするだけだ。餌付けしろという上官命令に対し、男が拒絶して食べないなら餌は戻す。

 季節柄、日中の気温も高く、放置すれば腐らせてしまう。

 人間が死んだという話はハダルに報告するとして、後で男から事情を聞く。

「待て」

「なに? やっぱり食べる?」

「一緒に来い。俺のせいで無駄死にした命だ。弔わせてくれ」

「とむらう……?」

 それがあまりにも男の印象にそぐわず、リメイは言葉を反芻した。

 青年は鎖に繋がれた戦車の砲塔ごと軽々と持ち上げ、すくりと立ち上がった。

 まるで斧鉞を担ぐように砲塔を肩に乗せて歩く。怪力を思い知らされた。

「その戦車、上と下で分離するの!?」

「引っ張ったら取れた。怖いか?」

「べ、別に、平気よ――」

 巨人種の怪力は受け継がれているようだ。

 純血の巨人種より痩身に見えるが、獣人種の痩躯が由来した肢体のせいだろう。


 大男がゆったりと森の奥へ進むのを、リメイは少し後ろから付いて歩いた。

 やろうと思えば、あっという間にリメイを引き離して走り去ることも可能なはず。それなのに歩調を合わせるような足取りで、リメイは首を傾げた。

「隷血はいつでも逃げられるのに、なんで逃げないの?」

「さっきからレーケツって。俺の名前はレーケツじゃねえ。アイクだ」

「アイクか。名前があったのね。私はリメイ」

「リメー」

 アイクの発音が滑稽で、リメイは笑ってしまった。

「で、逃げない理由は?」

 アイクは答えない。弱みを悟られまいとリメイは肩を張った

 当然か。彼はいつでも逃げ出すことができる。力も圧倒的に強い。

 尋問に答える不利な状況ではないのだ。


 少し歩いた所でアイクは立ち止まった。

 一帯の樹々がへし折られ、地面は所々盛り上がっている。盛り土にはそれぞれ枝が突き刺さり、葉っぱもかけられていた。簡易的な墓らしい。

 アイクは素手で地面を掘り、鹿の四肢を投げ入れた。土を被せ、針葉樹の枝をへし折り、葉っぱをかけて枝を突き刺す。

 そうして新たな墓ができあがった。

 墓前に胡坐をかくアイク。戦車の砲塔も地面に降り立ち、大地が振動した。

「……」

 アイクは黙祷していた。

 リメイが餌として運んだ肉に対して――。

 どんな文化圏で育ったのだろう。少なくとも粗暴な巨人や獣人の文化圏ではないとリメイは察した。

 人間文明においても、ここまで食肉に対する慈悲を向ける者も珍しい。

 アイクは黙祷を追えると、すっと立ち上がった。

「気は済んだ?」

「……いや。まだ俺の腹が減ったままだ」

「は? だったら今の肉、食べればよかったでしょっ」

 行動と欲求が一致しない不思議な男だ。

「これは俺が奪った命じゃねえ。今から狩りに行って俺の獲物を探す」

「面倒な価値観ね……」

 アイクは再び戦車の砲塔を担ぎながら一歩踏み出した。

「むうん?」

 すると、ぴたりと止まって眉を寄せた。

 鼻をすすり、何か匂いを辿るように首を回している。

 臭いの元を見つけたのか、アイクは手繰り寄せられるようにゆったりと別放校へと歩いていく。

 この大男、見ていて飽きない。挙動が突発的で予測不能だ。

 

 森の端。木々の隙間から村の家々が若干見え隠れする場所に着いた。

 アイクは立ち止まり、ただ顔を伏せて地面を見ていた。

 人里が怖いのだろうかと勘繰ったリメイは、彼の前に回り込んだ。

 すぐ勘違いだったと気づく。

 アイクの視線の先、胴体を引き裂かれた無残な羊の屍が横たわっていた。

「これって……」

 ラーシュの農場から羊が盗まれたばかりだ。

 この羊がラーシュの所有物だった可能性は高い。この件はラーシュとエリクに伝えた方がいいだろう。羊の屍を調べれば、エリクの疑いも晴れ、真犯人も特定できるかもしれない。

 まさかアイクが犯人だったということも――。


「わあああああああ! 誰か来てくれーー!」


 村から叫び声が聞こえ、リメイは振り向いた。

 直後、突風が吹いてリメイの髪や軍服のスカートを巻き上げた。

 何事かと思ったリメイは、アイクのいた場所を見返すと、既にアイクは森の奥地へ跳躍して去っていくところだった。

 地鳴りが何回か響いた後、再び森には静寂が戻った。

 訳がわからない。アイクのことはともかく、村から聞こえた悲鳴の方が問題だ。リメイは声がした現場へ向かうことにした。

「……」

 無残な羊の屍が視界に入る。

 何を思ったか、リメイはその家畜の死骸に上着をかけた。食餌にすら黙祷を捧げたアイクに感化されたのかもしれない。

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