反共感小説
小説にしろ、漫画にしろ、「共感できる」ということが、今の時代において重要な評価基準になっていると思う。たとえばAmazonのカスタマーレビューをみると、「この主人公にはぜんぜん共感できませんでした。星1つ」みたいな人が結構いる。
でも、共感できるかどうかは作品の良し悪しとは関係ない。たとえば『罪と罰』の主人公のラスコーリニコフは、冒頭でいきなり人を殺す。そして、物語中盤くらいまで、自分の行為を正当化する奇怪な理論を延々と述べ立てる。まったく共感できない。でも、『罪と罰』は、文学作品の世界ランキングトップ100には確実に入る作品だ。
一方で、社会科学や人文科学の一部において、共感はこのところ、とても不人気だ。たとえば『反共感論』なんてタイトルの本もある(わたしはまだ読んでないけどだいたい内容は想像つく)。かわりに、ピンカーの『21世紀の啓蒙』とか、ヒースの『啓蒙思想2.0』みたいな、感情よりも理性を重んじる考え方が見直されるようになっている。日本でも前に『21世紀の道徳』という本が出版されて少し話題になったけど、この本の中でも、共感やケアといった概念はずいぶん批判されていたと思う。
共感が不人気である理由は、共感が大きな社会的リスクを生み出しうるものであることに人々が気づき始めたからだろう。たとえばSNSでは、まったく理屈の通じない人たちがいる。とんでもない陰謀論をわめき立てて、人々を扇動し、冷静な人々に批判されても相手の言葉尻を捉えて曲解する。どんなに批判されても、そういう人たちは動じない。なぜなら、彼らの社会に対する怒りに「共感」してくれる支持者たちがたくさんいるからだ。
それがSNSの世界だけに留まっていればそれほど問題ない。しかしこの10年くらいの世界的な政治的混乱を見ていれば、とてもそうした傾向がSNSでの小競り合いで留まっているようには思えない。トランプを支持する人たちは、彼のでっち上げた様々な嘘や陰謀論に「共感」したのだろう。世界最大の軍事力・経済力を持つ国の大統領がそんなあやふやな根拠で決められてしまうなんて、恐ろしいを通り越して、ほとんどシュールだと思う。
小説に共感を求める人たちは多いけれど、安易に共感の方に舵を切ってはいけないと思う。人々が何を求めているかを敏感に察知して、共感要素をてんこ盛りにした作品を書く人はいる。そういう作品は確かに「泣ける」し「癒やされる」。でも、それはトランプ元大統領の支離滅裂な演説と何がちがうのだろう? 単に人々の思考停止に加担しているだけではないのか?
中身が何も無いのならとりあえず無害だ。でもそこに何らかの政治的メッセージが入っていたら、それは人々を扇動しているのと同じ事になる。日本でも戦時中は、政府のプロパガンダ・マシーンと化した文学者たちが大勢いた。彼らは、戦地で戦っている兵隊さんたちに「共感」できる詩や物語を書いていたのだ。
共感できない小説なんて誰も読まないという考え方もあるだろう。でも、それは小説を狭く捉えすぎているからだと思う。たとえばカフカの作品は基本的に、すべての登場人物が共感を拒んでいる。「わかるー」というのんきな共感の声に対して、「あなたは何もわかっていないのです」と返すのがカフカ作品の登場人物たちだ。そして、その共感の拒絶がかえって作品の魅力になっている。登場人物たちの言っていることが何一つ共感できないからこそ、この人たちがなんでこんなことを言っているのか、もっと深く考えてみたくなるのだ。小説は思考を停止させるものではなく、思考を駆り立てるものであるべきだと思う。共感に安易に頼ってはいけない。
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