奇跡が足りない
小説に限らず、芸術全般に言えることだけど、奇跡を描いている作品にわたしはとても憧れる。
小説なら、レイモンド・カーヴァーの「大聖堂」、イサク・ディーネセンの「バベットの晩餐会」。
漫画なら、楳図かずおの『わたしは真悟』。
アニメでは『輪るピングドラム』。
『輪るピングドラム』の場合だと、「運命の乗り換え」が大きなテーマになっている。過去の大きな事件がトラウマのようになって前に進めない登場人物たちが、最後には主人公が自己犠牲によりこの世界から消滅することで全員の呪いが解かれ、運命の乗り換えに成功する。それが一種の奇跡として描かれている。
「大聖堂」と『わたしは真悟』は、出会わないはずの運命の人々が出会う瞬間を描くことが、作品のクライマックスになっている。やはりここでも「運命を変える」ことが奇跡として位置づけられている。
「バベットの晩餐会」は、表面的なストーリーだけ取り出すと、「なんだか仲の悪かった村の人々が、晩餐会で主人公のつくったおいしい料理を食べているうちに気持ちがほころんできて、最後にはみんな打ち解けてしまう」というようなものだけど、きちんと読むと、作品で描かれているのはそんなに単純なものではないことがわかる。やはりここでも運命が関わってくる。
晩餐会には、若い頃にお互いに恋して、しかしいろいろあって結ばれなかった年老いた男女が参加している。この2人はやはり結ばれないのだけど、晩餐会が終わった後で、こんなやりとりをする(訳本がどっか行っちゃったので原書から翻訳)。
—
最初に席を立ったのはローレンス老婦人だった。甥が付き添い、女主人2人がランプで足元を照らして見送ってくれた。老婦人があれやこれや重ね着するのをフィリパが手伝っているあいだ、将軍はマーチーナの手をとり、しばらくのあいだ黙ってその手を握りしめていた。そして、とうとう口を開いた。
「私はこれまでずっと毎日、あなたと共にいました。知っていたでしょうか、ずっとそうだったのですよ」
「ええ」マーチーネは言った。「もちろん、知ってましたよ」
「そして」彼は続けた。「この残された人生、私は来る日も来る日もあなたと共にいます。毎晩、食卓につくときに。直接お会いできなくてもいい。そんなこと何の意味もないのです。魂としてお会いできればいい、それがすべてです。そして、あなたと夕飯を共にするのです。今夜のようにね。愛しい人よ、私は今夜わかりました。この世界では、どんなことだって可能なのだと」
「ええ、その通りです、愛しい人」マーチーネは言った。「この世界では、どんなことだって可能なのです」
そこで、彼らは別れた。
—
このふたりは何十年も会っていなかった。そして、おそらくここで別れたまま、二度と会うことはないだろう。しかしそれでも、これまでずっと共にいたし、これからもずっと共にいるという。決して結ばれないという運命であるにも関わらず、魂としては常に共にある。これがこの作品が描く奇跡のひとつだ(本当はもっと複雑な作品で、もっと多面的に奇跡を描こうとしている。今回はあくまで一部を取り出しただけです)。
小説、というか芸術全般が目指すべきことは、こうした奇跡を描くことなのではないかとわたしは思う。そうでない作品があってもぜんぜん構わないし、わたしもそういうものを楽しんでいる。でも、奇跡が足りない作品は、大事なものが欠けているように感じてしまう。
運命と奇跡には何か重要な関係がありそうだ。しかし、単に登場人物が努力して何かの障害を乗り越えたからといって、それが運命の乗り換えと同じことにはならないし、奇跡ともあまり関係ないと思う。奇跡は人為的なものではなく、努力して手に入るものではないのだ。むしろ、どんなに努力しても変えられない運命に疲れ果て、何もかも諦めてしまった人に、ふいに訪れるものが奇跡なのではないか。
そしてそれは、小説を書くときにも同じ事だ。奇跡は意図的に書けるものではない。わたしはプロットでガチガチに固めた作品にあまり興味がもてないのだけど、それは、そうやって作品をロジックで武装すれば武装するほど、奇跡から遠ざかってしまうからだと思う。
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