小説は真顔

最近、小説を書く時間を増やした。朝起きたらまず30分書いて、夜は夕飯を食べた後で1時間くらい書く。あと、この小説論みたいな奴も精神安定剤代わりに書いてる。なんかいろいろ嫌になって、もうわたしは小説で生きていくから現世とかもういいよ、という逃避モードになっている。


そうやって軸足を小説に移すと、現世の嫌なことが他人事みたいに思えてくる。現世を生きているのは自分のアバターであり、本体のわたしはモニター越しに世界を観察しているだけなのだ。そうすると、しょせんは他人事なのだから、そんなに本気でくよくよすることもないなあと思えてくる。


大槻ケンヂが以前、「人生社会科見学主義」という言葉を使っていた。つまり、人生の中で起こるできごとはすべて社会科見学の一環だと思えば気楽にやれる、という考え方だ。同じような言葉だけど、糸井重里がたしか「自分の不幸は他人事だと思えば平気になる」みたいなことを言ってた。


そうなのだけど、実際には、なかなかそうやって自分を分離させることができないのが普通の人だと思う。人は社会に生きている限り、必ず何かのポジションを与えられる。そして、そのポジションを自分自身と同一視してしまったりもする。政治家や経営者は自分が立派な人間だと思い込んでいるかもしれない。逆に、就職活動で落とされてばかりの人は、自分が社会に居場所のない人間以下の生き物だと思っているかもしれない。他人事として考えろ、って言われても、なかなかそんな風に悟りを開くことができないのが人間だ。


小説は、自分事を他人事として捉えるための良い足場になる。「自分を客観的に見る」というのとはちょっと違う。小説の世界が本当の世界で、現実世界の方がバーチャルな世界であるような、反転した感覚だ。きちんと自分の小説を信じられていると、それに近い状態になれる。逆に、開き直れなくて、照れ隠しにわざと過剰におどけたような小説を書いていると、小説は遠くに行ってしまう。愛想笑いはやめて、真顔で書く。そうしていると、怒られるのが怖くて愛想笑いばかりしている普段の自分が、どうでもいい他人のように思えてくる。


小説が漫画やアニメや映画と違うのは、「真顔」であることだと思う。はっきり言って愛想はひどく悪い。なにしろ文字ばかりなのだから。でもそこに引け目を感じて無理に愛想良くすることはない。真顔でいることを怖がらなくなれば、いろんなことが他人事に思えてくる。それが小説を書くことの効用のひとつだと思う。

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