1.斧牛陸大―――オノウシリクダイ

 聖女が帰還したと同時刻。



「痛っ」




 巨大な樹木が立ち並ぶ緑に、突如その物体が落下した。


 男は目をぱちくりさせてしばらく横たわっていたがやがてのそりと動き出した。

 森の空気を吸った。吸い込んだ空気の量、肌を薙ぐ感覚、すべてが前とは違う。違和感。



「おれはアフリカにいたはずだが……あれ?」



 男の名は斧牛陸大。

 最後の記憶では荒涼としたアフリカの旧市街地で、慈善活動に従事していた。

 だがここはどう見ても荒涼とした紅い大地ではない。



『―――ワタクシと共に―――』



 誰かと話していた気がするが記憶が定かではない。



 手をついて、立ち上がろうとしたとき視界に大きな手が見えた。



「な、なんだこれは!!?」



 まじまじと自分の両手を見る。



 ボーリング玉をまるまる包み込むぐらい大きい掌だ。

 おまけに、肌の色は草に同化している。

 緑色だ。



「どうなってるんだ? 何かのドッキリか?」


 突如日常から突き落とされた彼の心情は察するに余りある。

 残酷な仕打ちは続く。


 獣と眼が合ってしまった。


 陸大は息を飲んだ。

 その生物を見て、恐怖を感じたからだけではない。



 狼だ。それも大きい。

 体高、全長共に2メートル以上。馬並の大きさだ。

 いやさらに大きい。その巨体に、牙をのぞかせた大きな口腔。赤く充血した眼がまっすぐ斧牛陸大を見ている。

 世界各地を放浪した経験から陸大は森や動物には慣れていた。だが、こんな生物は見たことが無い。

 当然だ。

 彼は今知った。思い知ったのだ。

 ここは自分が知る地球ではないと。



「よしよし、おれは敵じゃないよ」



 狼が不意にとびかかってきた。

 大きな口を開け、爪を突き出す。

 巨体とは思えない俊敏さだ。



「うわ!」


 狼は一瞬で陸大の腕をかみ砕いた。


 鈍重な身体がトラックにはねられたように大きく弾みながら転がった。


 痛みにもだえる暇も無く、狼は陸大に覆いかぶさった。



「うぉぉぉ!!!」



 野太い絶叫が森にこだました。

 狼の牙が喉元に迫る。それを必死にかわしながら熊のような両前足を掴んで抵抗する。

 身体は爪でずたずたに引き裂かれる。



(ぐっ……全く外せない。なんて力だ!! 灰色熊の三倍はあるぞ!! くそ―――仕方ない)



 頑強な肌にも強大な狼の爪は食い込み、押さえつける。



「むん!!」



 斧牛陸大は巴投げで、狼を後方へ反転させた。

 ハンドスプリングで素早く跳ね上がり、振り返ると同時に腕を振り、殴りかかった。



「うおおおお!!」



 触れた瞬間、陸大の拳が血を吹き、跳ね返された。



「か、硬っ!!?」



 拳に伝わってきた感触はまるで鉄。


 狼は悠然と陸大に近づく。

 その様子は言葉よりも雄弁に意思を物語っていた。


 抵抗しても無駄だ。

 お前はおれのエサだ。



「よ、よせ、やめろ! 来るな!!」



 突然このような状態に追い込まれ、生き残れる人類などいるはずがない。運が悪い。それに尽きる。

 並の人間なら最初の邂逅と同時に喰われて死んでいただろう。

 例え銃火器を持っていても結果は変わらない。

 恐怖で悲鳴を上げないその胆力は評価するべきだろう。

 そして、狼の胃袋を満たし、誰も何も知ることもない。

 誰もその存在を見つけることなく、何事もなかったとように世界は回り続ける。これはその摂理の一端に過ぎないのだ。


 ただし、これは、巻き込まれた人間が常人だった場合を想定した見立てだ。



「来るな、あっち行け!!」



 陸大は残った片腕を振った。狼はそれをただの悪あがきだと気に留めなかった。


 拳からの出血がいくらか手の内にたまり、それが狼の眼と鼻に付着した。


 狼が一瞬怯んだ。



 偶然か?

 逃げるチャンスだ。



 いや、陸大にそんな気は毛頭ない。



「おれは来るなと言ったぞ?」



 狼の頭部が大きく弾けた。



 打撃音は5発。



 後ろ回し蹴りを放った。もっとも強力な打撃技の一つだ。

 太い腕を回して勢いをつけながら踏み込んだ。


 狼の右側頭を弾き飛ばした。

 人型生物がその構造上最も大きい衝撃力を出せる最適解だった。



 その一発に上乗せして左のハイキック、左フック、左掌打、トドメに半月蹴り。全身を旋回させ、地に伏し、脚は上から振り下ろすようにして再びの踵。それを頭部に正確に打ち込んだ。



 全て狼の右側頭、寸分違わず同じ場所へ叩き込んだ。

 頭蓋を破壊した確かな手ごたえが右の踵に伝わってきた。



 狼はよろよろと態勢を保とうと千鳥足になり、ふと動きを止め、地面に倒れた。



 地面が揺れ、木の葉と粉塵が舞う。


「はぁ、はぁ……」


 ドしりと膝を着く陸大。

 狼の死を確認しても陸大は周囲の警戒を怠らなかった。追撃はなし。



「ん? 腕が再生してる」



 実に化け物らしく、陸大の緑の腕が骨と神経と筋肉を形成している。


 陸大は知識を思い出し、その再生の先を具体的にイメージした。集中した。

 すると一気に腕が元に戻った。



「おお、腕が生えた。待てよ……この再生力、そして牙……ひょっとしてあれじゃないか? これって……この血色の悪い肌といい、あれだよな。ルーマニアの」



 ドラキュラ伯爵と言いたいようだが違う。


 その姿は醜く愚鈍で、下劣。

 醜悪かつ鈍重で不格好。


 図体はデカイがその全身を無駄な脂肪が覆う。腕が長く太く大きい反面、短足。

 下あごから生えた牙。

 緑の肌。


 この地の人々が嫌悪と敵意を込めて一様にオークと呼ぶ下等な魔物である。



 斧牛陸大はオークになっていた。



 この不運な男は無論偶然巻き込まれたわけではない。


 彼こそは勇者が推薦し、聖女ミーティアが連れて戻るはずだった男。




 斧牛陸大、人類史上最強のホモサピエンスである。

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