第10話 遅い帰宅


 どうしてそんな考えを持つに至ったのか不思議で仕方ない。

 物語を読んだことがあってもそれが平民の間の求婚(それも昔流行った)とは知ることはないはず。

 もし使用人から聞いたとしても貴族間で成り立つ話ではないことは育つうちに理解できると思うのですが。

 一般的な事実だと思っていた様子が不可解だった。

 戸惑いと困惑とが混じった目がクロエ様に集まる。


「そんな、だって……」


 私やアーサー様だけでなく劇場の従業員も理解できない顔をしているせいかクロエ様は怒りを消し、不安気な表情を浮かべた。


「だって、ミランダだってそう言ったわ。

 待ってる間にドレスを選びましょう、おねだりしたらきっとプレゼントしてくれるわって」


「そこに『アーサー様が』という言葉はあったのですか?」


 私が聞くと黙ってしまう。

 でも、だってを繰り返すけれど言葉は続かない。


「ドレスを贈られる関係なのは夫婦や婚約者だけですわ。

 それ以外の相手から万が一ドレスを贈られても突き返すのが一般的です。

 受け入れたら遊び相手にされてもかまわないと取られる可能性もありますけれど、ご存じないのですか?」


「し、知らない、そんなこと」


 私の問いにクロエ様の顔色が悪くなっていく。

 狼狽える様子に嘘はない。本当に知らなかったみたいね。

 そんな常識も知らないことに内心とても驚いていた。


「知らなかったとしても求婚だと思うのもおかしいと思いますよ。

 だってアーサー様はそんな思わせぶりな態度を取る人ではありませんもの。

 素っ気ないと思いませんでした?」


 知らないこと自体も問題だけれど、お母様は教えてくれなかったのかしら。


「それはっ、でも、ドレスは……。

 お母さまも……」


 混乱しているのか切れ切れに発する言葉では意味がわからない。


「なんにせよ、婚約者のある身で軽はずみに一人になるべきではありませんよ。

 あなたがどう感じていたかに関わらず婚約は成されているのですから」


「私が望んだことじゃないわ!!」


「そうかもしれませんね。

 でも、それは普通のことです」


 私だってアーサー様だって望んだわけではない。

 結果としてはとても良い縁だったというだけで。

 あなただけじゃないと告げると落ち着いていた怒りが燃え上がってきた。


「うるさいうるさいっ!

 あんたに何がわかるのよ!」


 あんた、なんて初めて言われたわ。

 あんまりな言葉遣いに絶句しているとバタバタと走る音が聞こえてきた。





「何をやってるんだ、クロエ!」


 走ってきた男性がクロエ様の肩を押さえる。

 クロエ様の婚約者は私やアーサー様よりも年上で、すでに当主として家を継いでいると聞く。

 どんな方なのかしらと見ていると、こちらを向いて勢いよく頭を下げた。


「連れが失礼をしたようで申し訳ありません」


 謝る男性にこちらも礼を返す。

 アーサー様も背が高いけれど、クロエ様の婚約者はさらに体に厚みがあり体格が良い。

 不満そうなクロエ様を押さえるように腕を取る姿は兄妹みたいにも父娘みたいにも見えた。


「遅い時間なので謝罪はまた後日させていただきたく思います。

 ご迷惑をおかけして申し訳ないですが……」


「いえ、こちらとしてもその方がありがたいです」


 アーサー様も私をちらりと見て早く帰りたいのでこの場で謝罪は結構だと答える。

 クロエ様の婚約者は劇場の人にも騒がせてすまなかったと謝罪をして立ち去っていく。

 時間が時間だからかクロエ様もおとなしくついて帰っていった。



 二人が立ち去ってから、私たちも騒がせた謝罪をして馬車に戻った。

 気をもんでいた御者が飛んできて扉を開けてくれる。

 座った途端、急に疲れが降ってきた。

 肩が触れ合ってはっと身を起こす。いつもと違い隣り合って座っていたのだった。


「もたれてて良い、疲れたんだろう」


 繋いでいた手を持ち替えられて引き寄せられる。

 すっかり馴染んでいた体温が、触れる場所が変わったことでまた少し温かく感じられた。

 近すぎる距離に気まずさより安堵を感じてしまう。

 いつからそう感じるようになったのかしら。

 アーサー様の体温の心地よさにぼうっとしてしまう。


「寝ても良い、着いたら起こすから」


「眠くはないです」


 あとさすがに寝姿を見られるのは恥ずかしい。

 そうか、と呟いたアーサー様の手が頭を撫でる。

 ああ、着いたらお茶をするという約束はまだ有効かしら。

 遅くなってしまったから固辞されてしまうかも。


『もっと一緒にいたいのに』


 自然に胸に浮かぶ想い。

 過ごしてきた時間と少しずつ交わしてきた想いが確かな形になったと感じられた。

 アーサー様も同じだけの想いを持ってくれていたらいいのに。

 手の熱を感じながらそんなことを考えていた。





 屋敷に着いて馬車の扉を開けてもらった瞬間、冷気を感じた。

 降りようとしていたアーサー様も固まっている。

 御者が明けた扉、アーサー様の向こうに腕を組んで立っているお父様が見えた。


「随分遅い帰りだったね。

 仲を深めているのは喜ばしいことだけれど、心配したよ」


 私たちの繋いだ手に目をやる。

 並んで座っていたのも見られてしまっている。肩にもたれてたところも見てたかしら。


「お嬢様をお返しするのが遅くなり申し訳ございません」


 馬車を降りたところでアーサー様がお父様へ謝罪をする。

 私も隣で頭を下げた。

 不可抗力なのよ?!と念じながら。

 話は中でしようか、と笑むお父様が怖い。

 一緒に説明しようと思っていたのにお父様に「夜更かしは美容に悪いからもう寝なさい」と笑顔で部屋に戻るように促されてしまった。


 翌日何を話したのか聞いてもお父様は答えてくれず、アーサー様は「娘を持つ父の幸せと心配について拝聴しただけだ」としか教えてくれなかった。



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