壺振り鬼

 祖母の背中には鬼が棲んでおりました。

 女相場師として関西一円に名を馳せ、五つの会社を起業した女傑ですから、さもありなんとうなずく方もおられるでしょう。


 話は私がまだ幼い少女のころに遡ります。あれは小学三年の冬休み、年が改まってまだまもない日でした。

 大阪では珍しい大雪が舞う中、私は母に手をひかれ船場の祖母宅を訪ねました。祖母と母とは不仲で、この日の訪問は関係の修復を請うためのものでした。

 邸宅の門前でぶるぶると震えながら待ったことを鮮明に覚えております。大雪のせいではありません。なにしろ祖母と会うのは、父が亡くなって以来のことなので、私にとっては初対面も同然。人となりについて母から聞かされておりましたものですから、どんなにか恐ろしい鬼ババアが待ちかまえているものかと緊張で震えていたのです。

 ところが、現れたのは雪をとかす春の日差しのような笑みを浮かべる和装の女性でした。五十に手が届くとは思えないほど肌は瑞々しく、背筋もシャンと伸びて、母よりも年若く見えるくらいです。

「ようおこし」

 声もまた凛として気持ち良く響きます。

母に続いて、私も見様見真似でぎこちない挨拶を述べました。

「こら、あかんな。どや、うちと一緒にお風呂入らへんか」

 祖母は私が寒さで震えているものと勘違いしたのでしょう。いきなり私をヒョイと抱えあげました。訳もわからぬ内に風呂場へと連れて行かれ、服を脱がされました。

 お風呂はゆったりとした四角い檜づくりで、まるで旅館のよう。私の目はさぞまん丸に見開かれていたことでしょう。続けざまにさらなる驚きが私を襲いました。裸身をさらした祖母の背中へと私の目は自然とひきつけられました。

 そこには私がそれまで見たことのない、またその後もそこ以外には見ることのなかった光景が広がっていたのです。

 赤鬼がいました。腹にさらしを巻いた筋骨隆々の巨漢です。辺鄙な河原らしき場所に茣蓙ござを敷き、その前にデンと座っています。小ぶりの壺を右手で持ち上げ、その下にはサイコロがふたつ。目はどちらも一でした。

「きれいや」

 私の口から勝手にそうこぼれ落ちました。怖さは一切感じませんでした。

 湯気の中で鬼はまるで自ら熱を発して揺れているかのようで、その目は宵の明星のようなまばゆさを放って私を見つめ返してきます。

「生きとるようやろ。ほんまに生きとるんよ」

 鬼の凛とした声が浴場に響きました。

「触ってみてもええ?」

 祖母の「ええよ」を聞くよりはやく、私の指は鬼の顔に触れていました。指を顔から首、首から腕、腕から胸へと這わせていくごとに、ただでさえ赤い鬼の顔がさらに赤くなるように思えました。

「生きとるってほんまなん」

「ほんまや、毎晩、背中で壺を振るんや。今はピンゾロの丁。明日はサブロクの半やな」

「わかるん?」

「わかるもなにもうちが思った通りの目を出してくれるからな。鬼が逆らわん限り、うちは賭事には負けへん」

 そういうこともあるのだろうと思いました。

「背中、見せてみ」

 言われるがまま、背中を向けますと、祖母は私の背に指を這わせながら、亡くなった夫――私にとっては祖父――の話をしてくれました。祖父は彫師とのことでした。

「旦那が言うには、人に誰でもこの世のものやないなにかを背負うとるそうや。仏やったり鬼やったり、人それぞれに違いはあるけど、それでも背中に棲んどるなにかが浮かぶのは同じや。そいつらなぞるだけやから彫師は楽な商売やて笑っとった。実はな、おぼろげやけどうちにも見えるで、背中に棲むものが」

「私にはなにがおるん?」

「あんたの背中には、驚いたで。うちによう似た鬼やわ。ただな、この鬼は気をつけなあかん。背筋を常に伸ばしておかなあかんのや。背中を曲げたら鬼の顔が天を仰ぐやろ。天仰いだら賭けに負けるんや。そしたら二度と思う通りの目を出してくれへんようになる」

 以来、私は背筋を伸ばし、常に祖母のように美しくあるように心がけております。


 ある夜、どことも知れない土蔵の中で賭場が開かれました。すでにこの世を去った父や母、祖父、会社の関係者が客として参加しているようです。私は土蔵の隅に控え、じっと様子を眺めております。

 壺振り師は祖母がとつとめています。祖母の眼光だけが暗い土蔵の中で宵の明星のように輝いていました。とはいえ祖母も寄る年波には勝てないのか、姿勢を保つ辛さを隠しきれていない様子。私が変わってあげるには良い頃合いでしょう。

 祖母が亡くなる直前に見た夢の話です。



《自作解説》


『阿刀田高のTO-BE小説工房』第37回、お題「運」に応募した作品です。


 400字詰め原稿用紙5枚の中で、いかに密度の高い物語を展開できるかを意識して執筆してみた掌編です。ですます調の文体は文字数が増えるのですが、文字数制限が厳しいコンテストでは不利になるのを覚悟の上で、小説の世界に厚みを持たせる方向に挑戦してみました。多少なりとも本作独特の味わいが伝われば良いなと思います。


 『TO-BE小説工房』コンテストに応募した企画の紹介は本作で最後となります。

 次回、エッセイコンテストに応募した作品の紹介をもって、吉冨いちみの過去作紹介をいったん終える予定です。今まで読んでいただけた方、もうあと少しだけお付き合いください。

 

 

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