エッセイ「ファイター」(公募ガイド『文章表現トレーニングジム』第7回佳作受賞作品)

 心に焼きついて離れない光景がある。一九九六年、アトランタ五輪開幕式だ。女性聖火ランナーが坂道を上っていく。坂の上で待つ最終点火者は五十代の黒人男性。会場がどよめきに包まれた。モハメド・アリ。偉大なる元ヘビー級チャンピオン。


 アリはアメリカ出身の英雄であるが、アメリカの英雄ではなかった。人種差別への反発に徴兵拒否、戦う相手は国家だったのだ。プロ資格やタイトルを奪われても、彼は倒れなかった。それゆえ人々から尊敬を集めた。


 そんな彼が国家の威信をかけたセレモニーで極めて重要な役を担っているというのだから、驚くのも無理はない。アメリカはアリとの和解を世界中に見せることで、自国が問題を解決し平和を実現しうる国家であることを見事にアピールしてみせた。


 だが、アリに失望したという声はなかった。彼がなお不屈の闘士であることも明らかだったからだ。彼は震える手でトーチを受け取る。パーキンソン病――難病との戦い。筋肉のこわばりに耐え、トーチを点火装置に傾ける。様々な理不尽と戦い続けた男が群衆に見せる勇姿。国家の意図を超えたアリの意思がそこにはあった。夜空にゆっくりと上昇した炎は点火台に灯り力強く燃え広がった。


 二〇一六年、アリは帰らぬ人となった。しかし、理不尽に立ち向かう闘志は多くのファイターに受け継がれている。二〇二〇年、東京にまた聖火が灯る。



《自作解説》


 よもやよもや2020東京オリンピックがあのような紆余曲折の末の開催になるとは、このエッセイを書いた2017年当時の私は夢にも思いませんでした。


 今回は公募ガイドのエッセイ公募コーナーで佳作をいただいた作品を紹介。


 『文章トレーニングジム』というコーナーは、編集部が提示する文章の技術的課題とエッセイのお題、ふたつの条件に沿った600字以内のエッセイを書くことで文章技術を鍛えましょうという企画でした。


 この回の技術的課題は「象徴させる」、テーマは「オリンピック」。


 表現技術の課題をいかに盛り込むかが難題で、挑戦しがいのあるおもしろいコーナーでした。

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