レディビートル
整備工場に置かれた赤いスバル360を見るなり
てんとう虫に例えられる愛らしい車体に、大きな窓から差し込む夕陽が反射し、眩ゆいばかりの輝きを放っている。
見惚れる晴之に車体を整備した
祖母の一周忌法要を終えたあと、手伝ってほしいことがあるからと工場に連れてこられた。そして見せられたのが、孝治が結婚してすぐに購入した愛車だ。
祖父の仕事ぶりは完璧で、経験の浅い晴之がさらに手を加える箇所があるとは思えない。そう口にすると、孝治は「お前の仕事は別にある。まずは年寄りの話を聞いてくれんか」と昔話を始めた。
あれは半世紀も前の話だ。若造のわしは東京の自動車メーカーで営業マンとして駆け回っていた。わしにはむいてない仕事でな、成績が伸びず、上司には怒られるばかりか、なにかと難癖をつけられ、いびられた。
仕事の鬱屈は音楽で発散していたな。意外そうな顔をしておるが、従兄弟と一緒にバンドを組んだりしたんだぞ。そう、あの
中でも忘れられんのがフランス・ギャルの来日公演だ。知らんか。『夢見るシャンソン人形』と言ったらわかるか? 人気のアイドル歌手でな。カツ兄はその娘のファンで、わしも好きだった。白状すると、職場で気になっている女性に少し似ておった。
さっき話した嫌な上司からかばってくれたことがあってな。彼女はビートルズの大ファンで間近に迫った来日公演に行きたがっていた。ギャルの来日公演にはもう一つの大きな魅力があった。会場でビートルズ追加公演のチケットが販売されたんだよ。
一番手頃な席で千五百円。映画が四百円で見られる時代だ。安くない。だが、無理して二枚買った。勇気を出してその女性を誘い良い返事をもらった。
すぐにその日は訪れた。ビートルズ来日三日目の七月二日。わしはそわそわして約束の二時間前に待ち合わせ場所についた。
ところが、彼女は時間を過ぎても姿を見せない。ルーズな性格でないことは知っている。
やきもきしていると、赤いスバル360がすごい勢いで走ってきて、目の前に止まった。
見知らぬ青年が降りてくるなり、わしに言った。彼女が大変なことになっているから、ついてこいと。
訳もわからず助手席に乗り込んだ。なぜか青年に疑いは抱かなかった。それより不思議に感じたのは、車の前を一匹のてんとう虫がまるで道案内をするかのようにずっと飛んでいたことだ。
やがて車は港についた。てんとう虫はまだ目の前を飛んでいる。青年がついていけばわかるというので、わしは従った。コンテナの合間を縫って進む。すると倉庫が並ぶ寂しい一角に出た。そこで彼女を見つけた。彼女は薬品か何かのせいで意識を失っているようだった。目を凝らすとすぐそばに男が一人、ナイフを握りしめて立っている。
なんと、嫌な上司ではないか。
あいつも彼女に懸想しておったんだな。わしの誘いに彼女がのったことを知り、あろうことか凶行に走ったのだ。今にも飛びかかりたい気持ちになったが、青年はわしに冷静になるようにさとし、策を与えた。
ふたり別々の方向から倉庫とコンテナを伝って挟み撃ちにするという単純なものだったが効果は覿面。無国籍アクションみたいな派手な活劇が繰り広げられることもなく、油断していた相手を取りおさえることができた。
その夜は警察の事情聴取などでバタバタと過ぎた。もうビートルズどころじゃない。
まあ、チケットは無駄ではなかったな。結果としてわしは彼女――聖子と固い絆で結ばれることができたのだから。
ああ、そうそう青年は警察が来る前に、車ごと姿を消しておった。当時は奇妙に思えたが今ならわかる。お前はあの青年にとても似ておる。
ところで今日は七月二日。ビートルズが来日して五十周年。そして、聖子の一周忌。もうわかっただろう。今夜手伝って欲しいことが。ほら聖子がてんとう虫の姿で帰ってきてくれた。報酬もちゃんとあるぞ。あの日使えなかったチケットは今もとってある。さあ、ビートルズに会いに行こうじゃないか。
いつの間にか晴之の周りをてんとう虫が一匹飛んでいた。その姿はなんだかとても懐かしく、暖かい。晴之はスバル360に乗り込みドライブに出かけた。
《自作解説》
『阿刀田高のTO-BE小説工房』第33回のお題は「虫」でした。お題を少しひねってカブトムシ、当時ちょうど来日50周年の年だったビートルズにまつわる話にしてみました。
東野圭吾先生の『ナミヤ雑貨店の奇跡』のような少し不思議でノスタルジーな現代ファンタジーに挑んでみたいという意欲もあったかと思います。
登場車種は、ベタにフォルクスワーゲンビートルで書き始めたのですが、途中でちょっとひねって、スバル360に。『名探偵コナン』で言うと阿笠博士の愛車から沖矢さんの愛車への変更ですね。
赤いスバル360がセピア色の回想の雰囲気に、一点鮮やかなアクセントを添えるような印象になっていたら良いのですが。
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