サンジョバンニの日
サンタクローチェ広場は、朝から観光客でごった返していた。
ボクシングで鍛えた屈強な身体を持つ彼でも、これだけの人の群れをかき分けて進むのは容易ではない。
今日は六月二十四日――サンジョバンニの祝日。時代行列、カルチョ・ストーリコ、花火。朝から晩まで続く様々な催しに、フィレンツェ市民も観光客も一日中熱狂する。
特に今年の花火大会は地元の花火工房だけでなく、日本の業者が参戦することでも注目を集めており、日本人観光客も目立つ。
翔也は西へと進み、トルタ通りに入る。噂話を頼りに、小さなカフェを探す。
そこにジュリオ・パゴットがいるという。
店はすぐに見つかった。
待っていてくれ、フィレンツェの暴れ花火さんよ、と翔也は強く念じながらドアをくぐる。はたして彼はそこにいた。
店内の一番奥のテーブルでひとり優雅に朝の一杯を楽しんでいる男。動画で何度も見た顔だ。
簡素な白のシャツと精緻なタトゥーに包まれた肉体は屈強の一言。五分に刈りそろえた頭髪、切れ長の大きな眼、厚めの唇。鼻筋が少し右に曲がってさえいなければ、ミケランジェロの手になる造形物かと思うほどに端正な容貌。見間違えるはずもない。
「……ジャポネーゼ、俺になんか用か?」
翔也の視線に気づいたジュリオが、たいていの日本人観光客なら震えあがって即座に逃げ出しそうなまなざしをむける。
翔也は動じる素振りを見せず、流暢なイタリア語で返す。
「日本で夢を見たんだ。今日はその夢を実現させに来た」
「夢だと? それが俺と何の関係がある?」
いぶかしげに問うジュリオに、翔也は右拳を前に突き出す。
「俺の名は、翔也。三田村翔也だ。カルチョ・ストーリコの英雄、フィレンツェの暴れ花火をぶちのめしに来た男さ。覚えておいてくれ」
ジュリオは少しの間、あっけにとられた表情を浮かべたあと、不敵な笑みを浮かべた。
「おもしれえ、夕方が楽しみだ」
サンジョバンニの祝日に開催されるイベントのひとつにカルチョ・ストーリコの決勝戦がある。
別名を古式サッカー。
十五世紀から開催されているといわれる伝統あるスポーツだが、日本の蹴鞠のように上品なものではない。
一チーム二十七人、計五十四人の男たちが取っ組み合うという、球技どころか格闘技の枠すら超えた喧嘩のような競技なのだ。
翔也は、祖母がイタリア人でフィレンツェの生まれだったため、この競技のことは寝物語がわりに聞かされて育った。
これまでも興味はあったものの、自身も出てみたいと思うようになったのは、五年前にボクサーを引退し家業を継ぐ決心をしてからだ。
今年、仕事で半年間イタリアに滞在することになったのを機に、親戚を頼って参加資格をとった。
ジュリオ・パゴットはカルチョ・ストーリコの大スター。
翔也は彼が縦横無尽に暴れまわる動画を見て感動に震えた。どうせ出場するのならこの男をノックアウトしてみたい。
そう決めると、仕事の合間をみつけてはトレーニングを積んだ。
夕刻。
試合が始まった。
下半身のみ古代の衣装に身をつつみ、上半身は鍛え上げた肉体をむき出しにした男たちが居並ぶ。
武者震い。
翔也の中で現役時代の研ぎ澄まされた感覚が呼び覚まされる。
襲いかかってきた男を上体をそらして難なくかわしつつ、サイドに回りこんでボディーに一発くらわせる。そのままコンビネーションでしとめる。まずは一人。
そのまま二人、三人、四人と倒しつつジュリオを探す。
「よお、チャンピオン。ご活躍だな」
ジュリオのほうからやってきた。
自然と顔面が喜色に満たされる。
「元だよ。それにあんたほどには活躍しちゃいない」
「バンタム級王者を三回防衛した奴が何言ってやがる。なんだってこんなところにきやがった! フィレンツェの守護聖人なんざ祝うガラには見えねえぞ!」
「夢のためだって言ったろ! 俺は夢を叶えるため、でっかい花火を打ち上げるためだけにここに来た!」
「おもしれえ。お前さん、マジでおもしれえよ」
ジュリオは獰猛な哄笑をあげるやいなや、翔也めがけてタックルをしかける
翔也も腰を落として迎え撃ち、
火花が散るほどに、激しく交錯――
夜。
アルノ川の河畔に立ち、痛む身体をさすりながら、夜空に浮かぶ大輪の花を見上げていると、背後から声をかけられた。
「よお、チャンピオン」
振り向くとジュリオがビール瓶を二本持って立っている。
「よせよ、勝ったのはアンタだろ。寝技に持ち込まれちゃ、かなわねえ」
笑う翔也にジュリオもニヤリと口角を上げた。
「本業のほうの話だ。三田村煙花店。お前さんとこの花火は見事だったぜ」
「パゴット工房だって悪くない。海外にも凄い職人がいるってわかって勉強になった」
「でっかい花火を上げに来たって言ったよな? お前さん、あの花火は誰のために上げた?」
しばし痛む首をさすったあと、ゆっくりと答えた。
「さあな、観客に楽しんでもらいたいってのは、当然ある。ただ、それだけでもない。俺が俺の花火に満足できるかってのは大事だ。正直、サンジョバンニに捧げようなんて気持ちはないな。フィレンツェ市民には申し訳ないが」
「俺の花火ね……。わかるぜ。俺だってサンジョバンニのためじゃねえ。模範的フィレンツェ市民ではあるけどよ」
そう言うと、ジュリオは豪快に笑う。人を気持ち良くさせる朗らかな響き。
「正直、減量も星を詰めて花火を仕込むのも、地味すぎて投げ出したくなるときがある。でも、やめられないんだ。俺の拳が、俺の花火が誰かの心を震わすことができるならって思うと」
「それがお前さんの夢ってやつか? 俺だっていつも夢を見ている。よく似た形の夢さ。努力しても叶うかどうかはわかんねえだろ。つらくないのか」
「一年で一日でいい。今日だけは俺の日だって言える日があればいいんだ。そんな日があれば報われる」
ジュリオは翔也に瓶を差し出す。
「不器用な野郎だな。ま、俺も夢の叶えを他に知らねえ。飲めよ」
翔也は受け取り、瓶を打ち鳴らして言った。
「俺とあんたの日に乾杯だ」
《自作解説》
拳を交わすことで友情が芽生える、深めるタイプの王道展開をやってみたくて、考えたお話。
筆者は少年ジャンプのバトル漫画や、洋画の『ワイルドスピード』シリーズみたいな、拳と信頼で築き上げられる濃厚な関係性が大好物なのです。
『阿刀田高のTO-BE小説工房』第30回に応募。この回のお題は「花火」でした。
花火大会は参加者それぞれにとって素敵な記憶に残るイベントです。本作も読んでいただけた方の中のごくわずかでも良いので、誰かの記憶に残っていただけることを、筆者としては願ってやみません。
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