第16話 狼煙

 エドワードは終始上機嫌で、いつにも増して酒を飲んだ。隣にいるアリステラの手を握って離さず、口づけたり頬ずりしたりと、だらしなく赤らんだ顔は緩みっぱなしだった。アリステラは蠱惑的な微笑みを絶やさぬまま、エドワードの好きにさせていた。


「王女よ、今夜あなたの部屋に行こう。……なに、初夜が幾晩か早まるだけのこと。遅かれ早かれあなたは私のものだ」


 酒臭く生ぬるい息とともに、アリステラの耳に不快な言葉が流れ込む。思わず奥歯を噛み締めて、太ももの短剣を手で探りかけたとき、大きな音とともにバルコニーの先の空が明るく光った。


 ハッとして我に返り、アリステラは夜空に目をやる。鮮やかに光る炎の花が、腹の底に響く音とともに大きく開き、やがて光の尾を引いて消えていく。するとすぐに次の花が開き、まるで昼のような明るさで空を輝かせる。


 その時が近づいてくる、その興奮でアリステラの瞳も一層輝いた。ダーウェントの騎士たちは無言のまま、固唾を飲んで夜空の大輪の花を見つめる。金色の雨のような花火が絶え間なく打ち上げられたあと、火薬の匂いと薄い煙を残して再び夜空に静寂が戻った。


「いよいよですよ。アリステラ王女、お見逃しないよう」


 そう言ってエドワードはアリステラの手を撫でる。


「ええ、決して見逃したりしませんわ。待ちわびた瞬間ですもの」


 アリステラがそう答えて、エドワードの手を強く掴むと同時に、これまでにない大きな音を立てて再び花火が打ち上がる。甲高い破裂音とともに、会場中の人々が息を飲んで見守る視線の先に、青く輝く光が大きく飛び散った。


 一拍の無音を挟んで直後、宴の間は大歓声に包まれる。皆が夜空に花開いた眩い大輪の青い花に目を奪われる。エドワードでさえも。


 アリステラは強く握ったエドワードの右手をテーブルに押さえつけると、皿の横のナイフを掴んでその手の甲に突き立てた。テーブルに釘付けられた自分の右手を凝視しながら、エドワードは汚い叫び声を上げた。耳をつんざくような絶叫は、花火の音にかき消されて誰にも届かない。


 その隙に、ミリアムとジェシーが運び込んだ給仕のワゴンから、騎士たちの剣がそれぞれの主の手に渡る。アリステラはドレスの中に隠した短剣を抜き、豚のような悲鳴を上げるエドワードの喉に押し当てる。


 花火の音が夜の闇に吸い込まれて消えた時、ようやくエドワードの断末魔のような叫び声が会場に響いた。公国の騎士たちは慌てて剣を抜くが、主はすでにアリステラに取り押さえられ、半狂乱で泣きわめくばかりだ。戸惑って顔を見合わせる男たち。大半が金で雇われたというのは真実らしい。アリステラは短剣をさらに強く食い込ませ、剣を構える男たちに叫ぶ。


「この男の代わりになりたい者があれば名乗り出ろ!」


 剣の柄に手を掛けたまま、男たちは動かない。さらにアリステラは続ける。


「我々は、王太子エフシアとカステル公国の正当な後継者たるベアトリス公女を救い出す。真の騎士ならばその務めを果たせ!」


 やがて一人の男が面倒そうに剣を床に投げ出し膝を突く。それを見てさらに数人の男が続いた。すると公国の騎士の一人がアリステラの前に進み出て、深く礼をして話し始めた。


「アリステラ王女殿下、恥を忍んでお願い申し上げます。どうかベアトリス公女をお助けください。我ら残った数も少なく、微力ながらも、前大公殿下に誓った忠誠を忘れてはおりません。どうか我らにご命令を」


 アリステラは頷く。


「感謝する。では信頼できる騎士以外を拘束し、この男は牢へ。我々は公女の元へ行く」


 その言葉を聞いて、数人の騎士たちが、同じ騎士の服を着た男らを次々に拘束する。彼らをまとめているらしい先ほどの騎士に、エドワードの身柄を引き渡そうと、首元の短剣を僅かに緩めた、その時──


 エドワードは自分の右手に刺さったナイフを抜き取り、アリステラに襲いかかった。アリステラは咄嗟に身を翻し体を庇うが、ナイフの切っ先がアリステラの肩を掠める。


 それとほぼ同時にヘイデンが駆け寄り、小さなナイフを握りしめて狂ったように振り回すエドワードの背中に剣を振り下ろす。容赦のないその一撃で、エドワードは首の付け根から肩甲骨の半ばまでを切り裂かれて、血泡を吹いてその場に倒れた。


「殿下!」


 ヘイデンはたった今切り捨てたエドワードに目もくれず、よろけたアリステラを抱き止める。薄絹のドレスの袖を裂いて、アリステラの右の肩から細く血が流れ出る。


「かすり傷だ。それより私に剣を」


 アリステラはもうすっかり姫君をやめてヘイデンに命じるが、ヘイデンは二の足を踏む。ダーウェントでは、女性でも護身のために短剣の扱いは教育される。アリステラも身を守る為に剣の基本くらいは知っているのだろう。だが……


「ですが、肩を怪我しておいでだ。これで剣を扱うのは無茶です」


「……言われてみれば、ずっと右手で剣を握っていたからな」


 独り言のようにそう呟くアリステラを、ヘイデンは不思議そうに見る。


「ヘイデン、左利きなんだ。左手で握ったら、僕でも勝てないかもね」


 すぐそばにいたエフシアが、そう言って笑う。……病弱な王女が? 剣の名手であるエフシア王太子と対等に?


 ヘイデンは狐につままれたような面持ちで、はあ、と中途半端な相槌を打つことしかできなかった。


「アリス、僕はベアトリスを迎えに行くよ。お前たちは先に城門に向かうんだ。パーシヴァルが門の外で待ち侘びてるだろう。早く行け」


 そう言ってアリステラの頭を軽く撫でると、カステルの騎士たちに命じる。


「私はエフシア王太子だ。ここはお前たちに任せる。我が婚約者を迎えに行かねば」


 美しい衣装も、胸を飾る勲章も無いが、疑う者などない。彼らは深く頭を下げてその言葉を受け止めた。騎士を二十人ほど連れて、エフシアは離れに向かう。


 誰一人としてエフシアの邪魔をしなかった。城内にはエドワードに心からの忠誠を誓う者などなかったのだ。エドワードの周りにいたのは傭兵崩れの半ば盗賊のような者たちで、金で契約していたにすぎない。


 城で働いていたのは、家族を人質に取られ、あるいは同僚を目の前で殺された者たちだ。そして何よりベアトリス公女がエドワードの手中にあるために、やむなく従っていたに過ぎない。彼らはエフシアの一行の前に、剣を手放し静かに道を空けた。


 アリステラたちも同じく、誰にも害されることなく城門にたどり着いた。そればかりか、ベアトリスとこの国を頼むと頭を下げる者さえあった。門番は黙って門を開け、アリステラたちを送り出す。


 開いた門の向こうには、パーシヴァルらが待っていた。そしてこちらも予想に反して、まるで凱旋パレードのような風景が広がっている。市民たちは沿道で歓声を上げ、こちらに手を振っているのだ。

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