第14話 兄と妹

 エドワードの元を辞したデクシアは、扉が閉まるなり早足で歩き出す。それを小走りで追いかけるジェシーは、デクシアの瞳に悔しさの滲む涙を見た。ヘイデンは大股に歩み寄り、ただ黙って自分の上着を脱いでデクシアの肩に掛け、薄い絹のドレスから零れ出るデクシアの肌を覆い隠した。


 赤子のようにきつく上着を巻きつけると、ヘイデンはデクシアの手を取り、走り出す勢いで部屋に連れ帰った。すぐに湯の用意を言いつけ、デクシアをジェシーに託すと、一人になったヘイデンは己の苛立ちと強い憎悪に戸惑って、声もなく廊下に座り込んだ。


 あの、欲望の権化のようなエドワードが我が国の王子であるデクシアに気安く触れたせいか……兄パーシヴァルの三年に及ぶ苦難の逃亡生活を目の当たりにしたせいか……


 いや、あの日あの夕暮れ、アリステラ王女の涙を見たこと、そして今デクシア王子がたった一人で屈辱に耐えたことへの苛立ちではないのか。その場にありながら何もできない自分の無力さへの怒りではないのか。


 五日後の夜──その全てをエドワードに報いる決意を新たに、ヘイデンは閉ざされた王子の寝室の扉を見つめた。ため息をついたところへ近づいてくる人影がある。慌てて立ち上がり、緊張しながらそちらを見ると、エフシア王太子だった。騎士の平服を着て髪を雑に括った姿は、歴戦の傭兵と言われても納得の佇まいだ。


「やあヘイデン、……アリステラはまだ戻らないのかい?」


「王太子で……」


「しっ! だめだめ。僕は今、アリステラの騎士なんだから」


 人懐っこく笑うエフシア王太子に遮られて、ヘイデンは軽く頭を下げるにとどめた。エフシアは部屋の扉を指差して言う。


「アリステラ、中にいる?」


「あ、はい王子は……」


「王子? ……ああ、そうかデクシアね。……そうそう」


「お部屋にいらっしゃいます」


「そう、ありがとう。君も早めに休めよ。なんだか顔色が悪い」


「はい。ありがとうございます、失礼いたします」


 廊下の先に去っていくヘイデンの背中を見つめて、エフシアはやれやれ、と思いながらも幾分ヘイデンが気の毒でもあった。


 エフシアが部屋に入ると、ジェシーが応接間に案内した。ワインのグラスを運んできたところで、ちょうどデクシアが身支度を整えて姿を現す。


「兄さま……兄上! お食事は? ああ、それより湯を使われますか? そうだ、お好きな菓子も持ってきています。今用意を――」


 デクシアは兄の姿を見るなり駆け寄ってきて、矢継ぎ早にまくし立てる。


「アリス、いやデクシアかな? 今はいいよ。一介の騎士が薔薇の香りを漂わせていたら目立ってしまう。それよりも、」


 落ち着かないデクシアを座らせて、エフシア王太子は来る五日後の宴についての話を始める。会場に入れる随行の騎士たちの人数と席次、残る者たちの配置、あと五日ものあいだエドワードの機嫌を損ねないように、アリステラ王女は細心の注意を払わねばならないこと……そして宴の終盤、夜空に青い花火が打ち上がったのを合図に一斉に行動を開始すること。細かい点を改めて確認しあう。


 ようやく作戦もまとまり、ワイングラスを手にエフシア王太子は、改めて妹アリステラ王女をじっと見つめる。


「アリス、なぜヘイデンはお前をデクシアと呼ぶんだい? たしかにそんななりではデクシアそのものだけれど……あんなに美しかった自慢の髪まで切ってしまって……僕がいない間、お前たちに何があった?」


 アリステラとして、久しぶりの兄に甘え、少女らしい柔和な笑顔を取り戻していた彼女は、再びデクシアとしての顔に戻って、うつむく。


「……恩知らずな者たちが……デクシア兄様を軽んじるようになりました。ダーウェントには後継ぎがいなくなったと……父上は毎日のように同盟国に手紙を出し、私に婿を取らせてどうにか国民の不安を取り除こうと必死に交渉されました。私も王女として、それが務めとも考えましたが……ですがそれではエフシア兄様とデクシア兄様はどうなります? 私は、兄様は必ず生きていると信じていました。だから、兄様がダーウェントへ戻られるまで、私が国を守りたいと思ったのです」


 そこまで話すと、デクシアは顔を上げ、エフシアをまっすぐ見つめる。


「カステルが、婚姻を申し入れてきました。ダーウェントを我がものとするためにです。当然お父様もお母様も、皆が反対しました。ですが兄上の指輪が、最後の希望を私にくれました」


「ベアトリスに贈った指輪だね。母上がいつか自分の伴侶となる女性に贈るようにと僕にくれたものだ。――彼女にはもう会った? 素晴らしい女性ひとだろう?」


「はい、とてもお美しくて、聡明な方とお見受けします」


「ああ、とても賢くて、そして強い人だ。エドワードは彼女の兄と弟を、彼女の目の前で処刑した。彼女の意志を挫くためにだ。――だが彼女は負けなかった。婚約者として初めて会った頃は、正直に言って結婚相手など誰でも同じだと思っていたよ。だが今は彼女こそたった一人の相手だと確信している」


 デクシアは、この三年で兄が変わったのを実感した。優しい微笑みと柔らかな物腰はそのままだが、兄はもう王子ではなく、一人の王として成長を遂げたのだ。


「ベアトリスは公国の正当な後継者として即位する。彼女には十分な才覚と人望があるからね。公国の人々のために最善の道だ。――いずれ僕たちに子供が生まれたら、その後を継がせればいい。二つの国は強い絆で結ばれるだろう」


 デクシアはそう言って微笑むエフシアを誇らしく思った。


「ところで――ヘイデンにはいつ話すんだい? なんだか彼が気の毒に思えるよ……それにアリス、お前はヘイデンのことが好――」


「兄上! 今はそれどころではないでしょう。すべてが終わるまで、私はデクシアとして務めを果たします!」


「……そうか。 うん、わかった」

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