第2話 氷の王子

「待て、怪我をしているようだ。見せてみろ」


「い、いえ、大丈夫です! 失礼します!」


 ヘイデンに呼び止められた少年は、怯えの色がにじむ瞳を不自然に揺らしながら、乾いた唇を無理やりこじ開けてようやくそう答えた。だがヘイデンは、彼が上目遣いにカールトンの顔色を窺ったのを見逃しはしなかった。


「カールトン、お前は俺の執務室で待て」


 そう言って睨むと、背中を丸めて渋々カールトンは去っていった。副団長のアッシャーに言ってカールトンには見張りを二人つけさせた。


「おまえ、名はなんと言う」


 ヘイデンは改めて少年に向き直った。くすんだ暗い灰色の髪に、濃い青の瞳をした少年は、赤らんだ頬にそばかすの散る幼い顔でヘイデンを見上げる。


「怯えなくていい。カールトンには何もさせない。約束しよう。だから名前を教えてくれないか」


 大きな手を少年の肩に置いてヘイデンは静かに尋ねる。決して威圧しないよう、ただじんわりと温かい手のひらで触れるだけだった。


「……ノア・キャメロンと言います」


 服の裾をきつく握ったまま、ノアは消え入りそうな声でそう答えた。ヘイデンは少年の目を見つめて頷くと、肩を軽く叩き、詰め所へ連れて行った。椅子に掛けさせ、焼き菓子と甘い紅茶を出してやる。珍しそうに皿を見るノアの首筋には赤黒く変色しかけたアザが覗いた。


 手当とは単なる口実のつもりだったが、ヘイデンは副団長に目配せすると、菓子を食べ終わったノアを軍医に見せた。服を脱いで下履き一枚になったノアの体は、ヘイデンでさえ思わず目をみはるほどの酷い有様だった。


 真新しい赤いアザから、茶色くなったアザ、切り傷擦り傷、火傷の跡……剣の傷こそ無いものの、これはまるで拷問の跡ではないか。戦場に出るわけでもない従騎士エスクワイアの少年の体がなぜこれほどボロボロなのか。軍医も副団長も固唾を飲んで見つめる。


「カールトンがやったのか」


 怒りを隠し、淡々とした口調で尋ねる。少年はうつむいたまま、気の毒なほどに体を縮めて震えていた。ヘイデンはすぐに毛布で彼の体を包んでやり、もう一度尋ねる。


「隠さなくていい。もう二度と誰もお前を殴ったりしない。教えてくれ、カールトンか?」


 ノアは涙をこぼしながら頷く。部屋には男たちのため息が重なった。


「なぜ黙っていた。こんなことは許されない。いくら騎士だとて必ず裁かれる」


 こんなに痛めつけられるまでなぜ、とヘイデンは自分に対する苛立ちも相まって語気が強まる。


「……僕が逃げたら……次はヘンリーが殴られます。……ヘンリーはまだ九歳になったばかりで……」


 途切れ途切れにそう話すノアの頭に、ヘイデンはそっと手のひらを置いた。遠慮がちにその髪を撫で、「わかった。……もういい」そう呟いた。ノアが涙を拭い、落ち着いたのを待ってヘイデンは今朝の出来事を改めてノアに尋ねた。


「今朝、殿下とカールトンに何があったのか教えてくれ」


 ノアはずっとうつむいていた顔を上げ、ヘイデンを真っ直ぐに見上げた。


「王子殿下は悪くありません! 殿下は、僕と姉ちゃんを……ジェシー・キャメロンを庇ってくださいました」


「ジェシー・キャメロン? お前の姉?」


「はい、王子殿下付きのメイドです! ジェシ……姉は僕がカールトンさんに殴られてるのを見て、カールトンさんを突き飛ばしました。それでカールトンさんが怒って、今度は姉を殴ろうとしたんです。それを王子殿下が止めてくださいました」


 予想外の証言にヘイデンと副団長は顔を見合わせる。メイドを庇って剣を抜いた? それは本当にデクシア・ダーウェントのことなのか?


 ヘイデンは腕を組んで考え込む。そもそも第二王子がなぜこんなところに顔を出したのか。騎士団の朝の鍛錬などに用があるとは思えない。むしろ用があって、急いで弟の元へ駆けつけたかったのはメイドのジェシー・キャメロンだろう。王子はメイドをここに連れてきてやった、という方がまだ自然だ。


 冷血王子、氷の王子、耳にする噂とは正反対のその推測に、ヘイデンは頭を振る。まさか、な。冷血とまでは言わずとも、王子がメイドのために動くとは考えにくい。


「いずれにせよ、いきなり剣を抜くとは、やはり恐ろしい方ですね……」

 

 そう言って副団長のアッシャーが顎をさすりながらため息をつく。このことで赤の騎士団が氷の王子に目を付けられでもしたら厄介だ……と、ぼんやり考えながら。政治的な立ち回りを、団長のヘイデンに代わって担う副団長はこれだから、実年齢よりも老けて見えるのかもしれない。

 

「いいえ! いいえ、王子殿下は最初は剣を抜きませんでした。ただカールトンさんに、謝れって言ったんです。そしたらカールトンさんが自分の従騎士をどうしようが勝手だって言い返したんです」


 ノアが慌てて椅子から立ち上がり、ヘイデンに向かって必死に説明する。


「そしたら王子殿下がそれなら自分の騎士に私が何をしても勝手だって言って、カールトンさんのほっぺたを叩きました。そして、無抵抗の相手を殴ってもつまらないからやり返せ、って言って……」


「まさか、カールトンは王子を殴ったのか?」


 いよいよキリキリと痛む胃に手を当てて、アッシャーはノアに尋ねる。するとノアはなぜか嬉しそうに笑みを浮かべる。


「いいえ! カールトンさんは一発も殴れませんでした! 王子殿下、すごいんです! まるで軽業師かるわざしみたいにくるり、するりと動き回って。そして避けながらカールトンさんの脇や背中や顔を何度もひっぱたくんです。カールトンさんは訓練場の中をウサギみたいに逃げ回ってました。それで王子殿下がもう一度、謝れって言ったんです……そしたら、カールトンさんが訓練場に落ちてた木剣に手を伸ばしたんです。それで」


「それで王子はカールトンが木剣を掴む前に、喉元に剣を?」


 ヘイデンがそう言うと、ノアは目を輝かせて誇らしげに何度もうなずいた。ヘイデンは内心驚愕していた。カールトンは決して筋の悪い騎士ではない。むしろなりふり構わず、汚い戦い方も厭わないから厄介な相手のはずだ。それを指一本触れさせずに翻弄したと……? ノアを宿舎に帰らせ、その後ろ姿を見送りながら、ヘイデンはぼんやりとそんなことを考えた。

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