第三話 タヌキケーキでイチャつく方法


 ネオンが六条松ろくじょうまつ家に住む話はどんどん進んでいき、七海ななみは二階の空き部屋をネオンの部屋にするための準備に取り掛かり、タツは着替えや日用品などを買うためにネオンを連れて出掛けてしまった。

 

 広いリビングにひとり残された汐緒うしおは、ソファに腰掛けたままだ。深く溜息をつく。

   

 決まってしまったものはしょうがない。ただ黙って座っていても仕方がない。


 汐緒は自室に戻って私服に着替えた。

 ツバメ柄の麻混のチュニックにレギンス。チュニックは七海のブランドの新作だ。

 七海は数年前にファッションブランドを立ち上げた。低身長の女性がターゲットで、主にインターネットで販売している。

 汐緒の私服の多くは七海のブランドのものだ。


 キッチンで弁当箱を洗いながら、汐緒はまた溜息をついた。

 今日は一体何回溜息をついただろう。

 どうやら今日の夕食は汐緒がひとりで作らなければならないらしい。

 なんだろう。この微妙な気持ちは。

 誕生日だし、たまには家族みんなで台所に立ちたかったというささやかな希望が叶わなかったことが悔しいし寂しいのも確かだが……

 

 汐緒は首を振った。

 

「四人分か……」

 ネオンがどれくらい食べるのかわからないが、とりあえず父が食べる量と同じくらいだと思っていいのだろうか。

 いや、もっと多いか。育ち盛りの男の子の食べる量は、わからない。


 

 本日のメニューはオイルサーディンと菜の花のパスタ、キャロットラペ、ミネストローネスープ。

 タツとネオンはこれだけでは足りないだろうから、帰りがけに買ってきたフォカッチャをリベイクして食卓に並べるつもりだ。

 

 スープは多めに作っておいてもいいかも。残ったら明日食べればいい。

 もし足りなければ買い置きしている冷凍のおやきかお菓子でも食べてもらおう。

 

 急にひとり増えたから追加で買ってくるものがあったら連絡してくれ、と言ってタツは出掛けたが、ストック表を見る限り、大丈夫そうだ。

 

 キャロットラペは昨日作って冷蔵庫に入れてある。あとは盛り付けるだけ。

 

 オイルサーディンと菜の花のパスタは汐緒の好物なので、かなり前からこのメニューにすると決めていた。

「あれはラッキーだったなぁ……」

 こちらに引っ越してきて間もない頃、賞味期限が近いからとスーパーのワゴンで投げ売りされていたオイルサーディン缶を買ったのだ。

 菜の花は旬が過ぎているので、冷凍のものを使う。

 

 パスタは直前に作れば良いので、汐緒はスープを作るための準備に取りかかった。


 

 対面式のキッチンは吊り戸棚は無いが、パントリーはある。

 トマト缶と昨日買ってきた玉ねぎとじゃがいもをパントリーから取り出し、にんじんとキャベツを取ろうと冷蔵庫の前に立って、ふと気づく。

 

「そういえば、ケーキ足りるのかな。いつもみたいにカットで買ってきてたら足りないよね」

 

 冷蔵庫にしまってあるケーキの箱を開けて確認したい衝動に駆られるが、タツから「中身見ちゃダメだぞ」と言われているので耐えた。 

 ケーキ箱を見れば店名がわかるようで、見えないようにと弁当箱を包む大きめのバンダナでケーキ箱ごと包んであるのだ。

 それを解いてまで見ようとは思わない。


 

 スープに入れる野菜を一センチ角に切りながら、汐緒はネオンの言動を思い出していた。


 事前に何のコンタクトも取らずに押しかけてくるなんて……

 しかも、十年もの間、電話も手紙もメールも何のやり取りもなかったのだ。

 自分のことを忘れられているのではないかと思わなかったのだろうか。

 

 汐緒は覚えていなかった。

 仮に覚えていたとしても、五、六歳児の「大きくなったら結婚しようね」という約束なんて、子供の戯言だ。

 

 しかも、それきり会ってない連絡も取っていない相手など、いつまでも想い続けているものだろうか。


 覚えていたとしても、綺麗な思い出として心に仕舞い、別の人を好きになっていてもおかしくない。

 

 もしかしたら恋人がいるかもしれない。

 そういうことも考えなかったのだろうか。

 

 幸い……いや、ネオンにとって幸運なことに、汐緒には恋人も好きな人も今のところ居ないのだが。


 

 汐緒は大きく息を吐く。

 溜息は、もうつき飽きた。


  

 鍋にオリーブオイルとみじん切りしたニンニクを入れ、弱火で温める。

 香りが出てニンニクの色が変わったら、玉ねぎを加えて透き通るまで炒める。

 にんじん、じゃがいも、キャベツの順に入れて炒める。野菜は一度に全部まとめてではなく、一種類ずつ加えて、じっくりとしっかりと炒めてから次の野菜を加える。

 水、トマト缶、コンソメを入れて中火で十分くらい煮込む。

 にんじん、じゃがいもが柔らかくなっていることを確認し、塩と胡椒で味を整える。

 もし残ってしまっても、明日アレンジしやすいよう、薄味にしておく。味が薄いと感じる人には、粉チーズを振って食べてもらえばいい。


  

 

 汐緒はネオンがどういう子だったのかまったく覚えていない。

 

 そんな人と同居するなんて。

 

 これからどうなるんだろう──なんて、思っていても仕方がない。なるようにしかならない。汐緒は考えることをやめた。


 

 今日は誕生日なのだ。この時間からは、良い気分で過ごしたい。



 

 タツとネオンが帰宅した。

 ネオンの母の遺骨は、すぐ近くにある納骨堂に納めてある。買い出しの前にお参りを済ませてきたと聞き、七海は安堵したように微笑んだ。

 

 とりあえず、最低限必要なものだけを買ってきたので荷物は多くない。

 部屋の準備は終わっていたので、ネオンには荷物の整理をしてもらい、七海とタツがそれぞれ分担して家の中と外を軽く掃除している。


  

 洗い物はミネストローネを煮込んでいる間に終わらせていたので、汐緒は少し休憩しようとダイニングテーブルの前に腰をおろし、通信端末でメールをチェックしていた。誕生日クーポン付きのダイレクトメールを削除していく。

 

「ごめんね。ひとりで作らせちゃって。誕生日なのに」

 七海がエプロンを付けながらキッチンに来たので、汐緒は立ち上がった。

 

「ううん。もうパスタ茹でていい?」

「それくらい作らせて。オイルサーディンと菜の花でいいのよね」

「うん」

「スープも温めちゃうね〜」

「お願いします」

 

 せっかくなのであとは母に任せ、汐緒はテーブルをセッティングし始めた。


 

「お、いい匂い」

「腹へったぁ……」

 

 掃除を終えたタツがネオンを連れてダイニングに来ると、七海はフライパンにオリーブオイルをひき、ニンニクと鷹の爪を弱火で炒めていた。汐緒はミネストローネスープとキャロットラペをダイニングテーブルに並べている。

 

「何かやることあるか?」

「大丈夫。すぐ出来るから、もうちょっと待ってて」

 タツの申し出を断り、汐緒はリベイクしたフォカッチャを木製の皿に乗せてテーブルの中央に置く。

 

「タツくん、ワイン用意して〜!」

 七海がフライパンで薄切りした玉ねぎを炒めながら声を上げた。

 

「そうだ、ワインワイン」

 鼻歌を歌いながらタツは自分と妻の分のグラスを用意している。

 

 七海は「チーズもお願いね〜」と言いながらフライパンにオイルサーディンを汁ごと加えた。

 

 オイルサーディンが温まったら冷凍の菜の花を加えてさっと火を通し、表示時間より一分ほど短く茹でたスパゲッティと茹で汁を少し加える。

 さっと混ぜて胡椒をふる。

 オイルサーディンと菜の花のパスタの完成だ。

 

「さ、出来たわよ」

「こっちも用意出来たぞ」

 七海とタツの声がほぼ同時に上がった。

 顔を見合わせて笑う七海と汐緒。


 

 その光景を見て、ネオンは鼻の奥がつんとするのを感じた。

 

 泣きそうになっていることは恥ずかしくて知られたくないのに、目を逸らせない。


 あぁ、本当に帰ってきたんだ。

 

 あの頃と家の場所は違うし、みんな年齢も重ねているが、たしかにここは六条松家だ。

 ずっと、ずっと帰りたかった場所。


 そこにやっと帰ってきたのだ。



 汐緒が菜の花とオイルサーディンのパスタを嬉しそうに食べているのを見て、ネオンはほんの少し胸の奥がちくりとした。

 美味しいのだが、ほの苦くて、ピリッとする。大人の味。

 姉たちから「ネオンは味覚がお子様ね」と言われたことを思い出す。否定できない。

 

 さっぱりとして、にんじんの甘みも感じられる、キャロットラペ。

 にんじんはあまり好きではないネオンだが、これは昔からもりもり食べられる。

 

 ミネストローネスープは、薄味だが、具材の味をちゃんと味わうことが出来る、優しい味。

 パスタよりもこちらの方が今のネオンの舌には合っている。おかわりしようと思ったが、ケーキがあるというのでやめておく。

 


  

 一旦テーブルの上が片付けられ、タツと七海から汐緒へ紙袋が手渡された。ピンク地に白い水玉模様の紙袋。持ち手の部分にピンクのリボンが結んである。

 

 中身は、ジュエリーボックスを抱いたテディベアとリップグロス。

  

 ジュエリーボックスを抱えているふわふわの毛並みのピンクのテディベアの足裏には、誕生日を祝う英文とローマ字で汐緒の名前が刺繍されている。


 リップグロスは、汐緒でも名前を聞いたことがある有名なデパコスブランドのものだ。ケースにはローマ字で汐緒の名前と四葉のクローバーの刻印。

  

 リップグロスは七海の、アクセサリーとテディベアはタツのセレクトだろう。


 

 デジタルカメラで写真を撮っているタツや、リップグロスのケースを眺める汐緒の笑顔を見ながら、ネオンは人間界へ戻ってきたことを改めてじっくりと噛み締めた。


 

「わぁ、かわいい」

 ジュエリーボックスを開け、声をあげる汐緒。

 ダイヤモンド付きの小さなオープンハートのネックレスに目を輝かせている。

 

 早速付けてやろうと汐緒の背後に回ったタツを見て、ネオンは頬を膨らませた。

 彼氏みたいなことすんじゃねーよ。

 睨むように見ていると、タツと目が合ってしまい、ネオンは思わず視線を逸らした。


  

 ネオンは汐緒へのプレゼントを用意していなかったわけではない。魔界の自室に置いたままで、こちらに持ってきていないのだ。

 しかも用意していたそのプレゼントが、なんだかとても子供っぽいものだったように思え、ネオンは唇を噛んだ。


 

 毎年誕生日にはお守りを替えているため、汐緒は今まで持っていたお守りをタツに渡した。

 父から手渡された新しいお守りを両手で胸の前で持ち、瞼を閉じる。

 汐緒の額にタツがキスをすると、汐緒の身体が淡い空色の光に包まれた。


 目を閉じていてもわかる、あたたかな光。

 

 毎年のことだが、汐緒はこのとき、不思議な気持ちになる。

 本当に自分の父は天使と人間の混血で、不思議な力を持っているのだと実感するのだ。



 今年のお守りは小さな珠が連なり、輪になっている。珠は紫色。おそらくアメジストだろう。

 その輪のなかに魔法円のようなものが描かれている連結パーツがひとつあり、その先端には勾玉のようなものが付いている。これも紫色だ。

 

「今までと同じように、来年の誕生日に新しいものに交換する。出来るだけ肌身離さず持つように。壊れたり傷がついたら、すぐに俺に言うんだぞ」

 これも毎回お馴染みの言葉だ。 

 汐緒は頷いてタツにお礼を言うと、お守りをレギンスのポケットに入れた。



  

「さ、ケーキ食べましょ〜」

 七海がケーキの乗った皿とルイボスティーの入ったカップをテーブルに並べた。

 

「うわぁ〜! タヌキケーキ!」  

 三個の可愛いタヌキケーキがテーブルに並び、テンションの上がった汐緒はケーキの写真を撮っている。

 

 松本市にある老舗菓子店で予約したケーキだ。高速道路を使っても一時間半近くかかるこの家まで、七海が助手席で抱えるようにして持って帰ってきた。

  

 ケーキに見惚れている汐緒にシャッターが切られる。ファインダーを覗き、目を細めて妻と娘を見ているタツ。

 その光景を見て、ネオンは胸があたたかくなっていくのを感じた。

 

 

「私はいいよ。三人で食べて」と言った七海に「お祝いなんだからみんなで食べよう。俺と半分ずつにしよう」とタツは提案した。 

「そうね、ワインやおつまみもあるし、ケーキは半分がちょうどいいかも」

 承諾を得たので、タツは包丁でタヌキケーキを半分に切り分けた。

 二枚の皿と二本のフォークを持ってダイニングに戻ってきたタツは、七海の分のケーキをひとくち切り分け、フォークを七海の口元に差し出す。

 自分で食べるからいい、と断ったとしても、俺が食べさせたいから良いんだと言われるのはわかっているので、七海は何も言わず口を開けた。

 

「なんか、懐かしいな」

 ネオンは目を細めて呟いている。

「そう?」

「なぁ、俺たちもやらねー?」

 ネオンはそう言うと、ケーキひとくち分を乗せたフォークを汐緒の前に差し出した。

「やらない」

「ちえー」


  

 懐かしい──か。

 汐緒はタヌキケーキを見つめた。


 ロールケーキを横に倒し、チョコレートコーティングしたボディ。

 ドーム状の頭部。

 スライスアーモンドの耳。

 ツンとした鼻。

 今にもぱちぱちと瞬きしそうな、つぶらな瞳。

 帽子に見立てた真っ赤なドレンチェリーを口に入れながら、汐緒は両親とネオンを見た。

 いつものように両親がイチャイチャしているだけの光景だが、ネオンにとっては懐かしい光景──


 

 汐緒は目を見開いた。 

 自分にはネオンの記憶だけでなく、幼い頃の記憶そのものがあまりないのだということに、今更ながら気がついたのだ。


 

 そんなことあるはずない。

 そう思うが、記憶があまりにも少ないのは確かだ。そういえば、昔の写真を見ようと思ったことも、あまりない気がする。


 汐緒はフォークを置いてルイボスティーを飲んだ。

 

 汐緒は被写体になることが苦手だが、両親は家族の写真や動画を撮ることが好きなので、イベントの時や出掛けた先では記念にとスリーショットを撮影している。

 ほとんどがデジタルデータでの保存だが、入学式や旅行など大きなイベントで撮影したものは、プリントしてアルバムに貼っている。


 そうだ、ネオンのことを忘れていたとしても、アルバムを見たら「この子だれ?」と両親に尋ねていたはずだ。


 なぜ記憶がないのだろう。

 なぜアルバムを開こうとしなかったのだろう。


 アルバムには七五三の写真もあるはずだ。

 汐緒の六歳の誕生日まで一緒に生活していたのだから、五歳の時はともかく、三歳の時の七五三はネオンと撮った写真があるはずだ。

 なぜそれすらも見ようとしなかったのか。


 いくらなんでもおかしい。あまりにも不自然だ。


 

 汐緒は動揺しながらも、それを悟られないようにケーキにフォークを入れ、味わった。

 バタークリームの懐かしい味。

 

 このタヌキケーキだって、何度も食べたことがある。

 父に連れられ、お店に行った記憶もある。

 こんな可愛いケーキ、小学校に上がる前にも汐緒に食べさせていたはずだ。たぶんネオンにも。

 でも小学生よりも前の記憶が、少な過ぎるのだ。

 

 幼稚園に通っていた記憶はあるが、あまりにも少ない。

 同じ組の男の子に名前のことや瞳の色のことで揶揄われて嫌だったこと、先生が弾くピアノの近くに行かず部屋の隅でひとり座って絵を描いていたこと、くらいしか記憶がない。

 

 小学生になる前の記憶が、こんなに少ないことってある?


  

 私は忘れてはいけない何かを、たくさん忘れているのかもしれない。



 

 そろそろ食べ終わろうかという頃、インターホンが鳴った。

 

「宅配便か?」

 タツが七海と汐緒を交互に見るが、ふたりは顔を見合わせて首を振っている。タツにも心当たりはない。


「げっ」

 モニター式のため、手元の端末で確認したタツが顔を顰める。

「どうしたの?」

 最後の一口を食べ終わった汐緒が父に声をかけた。

「うちに来るなよ……」

 ますます深く顔を顰めるタツ。

「タツくん?」

 七海が心配そうな声を出して見つめてきたので、タツは心配するなと言うように首を振った。

 

「ネオン、お前の姉貴が来たぞ」

「へ?」

  


 

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