第二話 悪魔の力はアプリケーション

 汐緒うしおの父タツは、少年を見て驚いたような戸惑ったような表情を浮かべたが、少年は飼い主を見つけた子犬のようにタツに駆け寄った。

 

「タツにいぃ〜! うわあ、タツ兄変わってねぇなぁ!」

「ネオン……なのか? ち、ちょっと待て! どうしてお前ここにいる⁉︎」

「どーしてって……汐緒を迎えに……」

「そうじゃない、手続きはちゃんとしたんだろうな⁉︎」

「……へ? 手続き? あー、いや、その……」

 

 会話の内容は汐緒にはよくわからないが、少年と父が顔見知りだということは確かなようだ。 

 そして、助手席に座っていた母の七海ななみは、少年に抱きつき涙を浮かべて喜んでいる。どうやら数年ぶりの再会のようだ。

 

 話の輪に入れず呆然としている汐緒に気がついたタツは「あぁそうかやっぱり汐緒は覚えてないか」と呟いた。

「マジかよ……」

 少年はそう呟き、汐緒を見つめる。

 そして、汐緒と目が合うと泣きそうな顔をして俯いてしまった。

 

 汐緒は戸惑いと焦り、喪失感にも似たようなものを覚え、何も言うことは出来なかった。



 とりあえず家の中へと少年を招き入れる。

 タツはどこかへ電話をかけ始め、その間にリビングで七海が簡単に少年のことを説明した。


 少年の名はネオン。

 生まれ年は汐緒と同じだが、十月三十一日生まれなのでまだ十五歳。

 七海の友人の子なのだが、その友人がネオンを出産してすぐに亡くなり、色々な事情もあり、タツと七海が預かり育てることになった。養子縁組はしていない。

 タツはネオンを自分の息子のように可愛がり、ネオンもタツに懐いていた。

 汐緒とネオンは双子のようにいつも一緒にいて、とても仲が良かった。 

 しかし、十年前の今日、ネオンは実の父親に引き取られた。


 

「つまり俺と汐緒は幼馴染ってことだ」

 ネオンは胸を張って言った。

「幼馴染って、小さな頃からずっと付き合いが続いている関係のことじゃないの? お父さんとお母さんみたいに」

 汐緒は思わず素朴な疑問を母に投げかけたが、答えたのはネオンだ。

「一度離れたけど、これからずっと一緒なら幼馴染でいいじゃねーか」

「勝手に、ずっと一緒とか決めないでくれます?」

 思わず冷たい声が出てしまう。

 一緒に育ったと聞いたが、汐緒にその記憶は無い。

 よく知らない(と自分では思っている)人物に対して警戒するのは仕方がないことだろう。それが年頃の異性なら尚更。

 私の意思を無視して、これからずっと一緒とか、決められたくはない。

 

「なんでだよ! 結婚するんだから、ずっと一緒だろ!」

「結婚⁉︎ なにそれ!」

 警戒対象の相手の口から、人生に関わるとんでもない二文字が飛び出したので、汐緒は思わず立ち上がりそうになったが。

「それも忘れちまったのかよ……」

 眉を下げたネオンを見て、彼のことをまったく覚えていない自分に少し罪悪感を覚え、戸惑い、ソファに身体を沈めた。


 

「あの日、離れ離れになる前にさ、俺たち結婚の約束をして、誓いの言葉を唇に封印したんだよ……」

 

 ネオンの声が少し掠れているのは、泣きそうになっているからだろう。


 

 ぶわり、汐緒の脳内に何かが流れ込んでくる感覚がした。


 太陽に照らされて生き生きと輝く木々。色とりどりの薔薇が咲く庭園と、その奥にある洋館──汐緒が生まれ育った駒込こまごめの家の、近所の風景だ。

 

 その洋館の前で、同じ年頃の男の子が汐緒の指に嵌めてくれたおもちゃの指輪は、その男の子の瞳の色と同じ色をしていた。

 

 幼い頃に父からもらったであろうオルゴールの中に、なぜか仕舞っている色褪せた指輪がある。

 

 捨てる気にならない、捨ててはいけない、大切なもののような気がして、ずっと保管している指輪。

 

 元の色が黄緑色だったのではないだろうかと、かろうじてわかるくらい色が褪せてしまっている指輪。

 

 あれは、そのときの指輪?


 

「──だから、結婚するぞ!」

 若干大きなネオンの声で汐緒の意識は現実に引き戻された。

「いやいや、十六歳じゃ結婚出来ないんで」

「なんでだよ!」

「なんでって、この国の法律で決まってることなんですけど」

「えええ? 十六で結婚できんじゃねーの?」

 ネオンの背後で、ばしんばしん、と抗議するかのように床を叩く黒くて長いものが見え、汐緒は瞬きした。

 

「尻尾……?」 

 ということは、この少年は……

 

「えっと、悪魔?」

 遠慮がちに尋ねる汐緒に、ネオンは首を振る。

「あー、ちょい違う。半分悪魔で半分人間。一応」

「そう」

 ネオンがさらりと言うので、汐緒もさらりと流す。

 六条松ろくじょうまつ家では、それはたいした問題ではないのだ。


 

 汐緒は隣に座る母の七海を見つめた。

「お母さんと同じなのね」

 笑顔で頷く七海に、汐緒は息を吐く。

 

 七海は悪魔と人間との間に生まれた混血だ。

 悪魔の血を引くからとネオンを嫌悪するのなら、自分の母も嫌悪することになってしまう。

 

 七海は実年齢よりもかなり若く見られるようで、汐緒とふたりで出かけた時など、少し年の離れた姉妹と間違えられることもあるくらいだ。

 娘の目から見ても四十代とは思えない。

 

 陶器のような白い肌。

 学生時代に少しだけ雑誌の読者モデルのようなことをしていただけあって、整った顔立ちとスタイルをしている。

 赤みがかった茶色の大きな瞳。

 艶やかな黒髪ミディアムパーマを今日はラフにまとめている。

 

 

「ネオンの父親は悪魔で、母親は人間だ」

 

 いつの間にかリビングにやってきたタツが、ネオンの隣に腰を下ろしながらそう言うと、通信端末を弄びながらネオンに向き直った。

 

「ネオンお前、手続き全部終わってないのにうちに来たろ」

「だって明日までかかるって言うから……でもさ、でもさ、どうしても今日、汐緒に会いたかったんだよ。今日じゃなきゃ意味ねーし。仕方ねぇだろ!」

「お前は三界条約さんかいじょうやくを守らねばならん立場だろーが」 

 タツは溜息をついた。


 

 ──三界条約。

 

 汐緒は全部の事情を知っているわけではないが、その言葉は以前チラッと聞いた記憶がある。

 

 汐緒は父の顔を見つめた。 

 汐緒の父タツは天使と人間の間に生まれた混血だ。

 彼は天使である父親にとてもよく似ているらしいが、娘の汐緒から見ても外国の人にしか見えない。

 整っている顔立ちだが、どうやらかなり若く見えるようで、いまだに初診の患者に研修医と間違えられることもあるのだという。

 白い肌。意志の強そうな瞳は濃いめの空色。汐緒は父のこの瞳の色は松本の空の色と同じ色だと思っている。標高が高くて澄んだ空気の土地の、濃い空の色。

 子供の頃は金髪だったという髪の毛は、大人になっていくにつれて茶色くなっていったそうで、今は明るめのブラウンだ。

 七海や周囲からは「汐緒は父親似だね」とよく言われるが、自分ではよくわからない。


 

「お父さん、三界条約って……天界と魔界、人間界で結ばれているものだよね。たしか人間界を守るためにって、天界が働きかけて、七十年くらい前に結ばれたって言ってなかったっけ」

 

「そうだ。三界条約では魔界や天界から無断で人間界へ来ることは禁止されている。それぞれの世界を行き来する際には、事前に申請や色々な手続きが必要だ。いわゆるビザみたいなもんだな。まぁ、生まれがこっちの者は簡単な手続きで済むはずなんだが……」

 そう言ってタツはネオンをチラリと見た。

 

「え? なんか問題あんのか」

「お前は、自分の血筋を考えて行動しろ」

「血筋? 」

 ネオンは首を傾げている。 

「お前な……」

 呆れるタツの顔を見て何か思い当たったらしく、ネオンは面倒くさそうに顔を背けた。

「あのバカ親父が魔王なのは関係ねーだろ」

「大アリだ、この、バカが!」

  

 汐緒は唖然としてネオンの顔を見つめで呟く。

「魔王の……息子?」

 

 魔王ルシファルト──魔界を統べる悪魔の王。

 

 そのルシファルトの息子ということは、母親が人間だとしても、いわゆる王族ということになるだろう。

 その身分で軽はずみな行動を取ることは、色々と問題なのではないだろうか。

 

 

「で、お前は何故こっちに来たんだ」

「なぜって……汐緒を迎えに来たって言ってんだろ」

 タツは頭を抱えた。

 

「ネオン、汐緒を魔界には連れて行けないぞ」

「なんでだよ!」

「汐緒は普通の人間だからだ。普通の人間は魔界では生きていくことが出来ない」

 タツは鋭く言ったあと、溜息をついた。

 

「十年前、お前が魔界に連れて行かれた時も色々と問題になったというのに……」

「もんだい?」

 

「悪魔と人間との混血というのは、完全な悪魔ではない。人間という器に悪魔の性質や力が入っているという感じなんだよ」


  

 通信端末やパソコンで例えると、人間という器が本体やOS。

 悪魔の性質や力はダウンロードされたアプリケーションだ。あってもなくてもあまり問題のないアプリケーション。あれば便利という程度の。


 

「だから悪魔と人間との間に生まれた子は、悪魔の力や性質を持っていても、人間界でしか生きられない。身体が人間だからだ。魔界では、人間は環境に適応できないと言われているんだよ。衰弱し、数週間も保たないだろうと」


「でも……じゃあ、じゃあ、十年も魔界にいた俺は、どうなんだよ!」

 

「ネオンが魔界で問題なく生活出来ていたのは……改めて検査をしないと断言はできないが、おそらく魔王の子だからだろう」


 ネオンは息を呑み目を見開いた。

 ゆらり、瞳の奥が揺れる。

 

「その尻尾についても調べないとならないが……お前が持つあの力のこともあるし、特殊な体質なんだと思う」

 

「そ、そう、なのか……」 

 じゃあ、普通の人間だという汐緒が魔界に行ったら……その先を想像してしまったネオンは俯いている。

「知らなかった……」

「納得したか」

 こくり、とネオンは頷いた。


 

「……で、これからどうするんだ?」

「どうするって?」

「三界条約では、悪魔と人間との間に生まれた者は人間界で生活することになっている。魔界で生きていける身体を持つお前でも、また魔界に戻ることは難しい」

 

「マジかよ……どうしよ……」

 ネオンは途方に暮れたような目をした。

 

 聞けば、今日汐緒が十六歳になるからこれで結婚できると思い、ゲートに向かったのだという。

 

「今夜泊まるところも、荷物もなく、着の身着のままでこっちに来るとは……」

「汐緒を迎えに来ただけだから、別に必要ないと思って」

「近所のコンビニ行く感覚で来たのかよ」

 タツは深く溜息をついた。

 

 七海は心配そうにネオンを見ている。汐緒は嫌な予感が胸によぎった。



 

 天使と人間の混血であるタツと、悪魔と人間の混血である七海から生まれた汐緒。

 七海の父親は上級悪魔で、タツの父親は最強の天使とも言われている上級天使だ。


 しかし、汐緒自身は天使の力も悪魔の力も使えない、ごく普通の人間の女の子。

 

 汐緒は今日で十六歳になった。

 十六歳の純潔の乙女というのは、悪魔にとってはとても魅惑的な存在なのだという。

 しかも、背徳の味がたまらない、天使の血も悪魔の血も両方ひいている極上の獲物だ。

 

 汐緒にかけている加護と、肌身離さず身につけさせているお守りだけで護りきれるのだろうか。タツは正直不安であった。

 

 一方、ネオンは悪魔のなかでも最上級の悪魔の血を引いていて、悪魔の血も濃い──

  

 タツは腕を組み目を閉じ、家族とネオンはタツの眉間のシワを見つめている。

 

 数秒後、タツはバッと空色の瞳を開き、膝を叩いた。

 

「よし! ネオン、お前はここに住め」

「マジでぇっ⁉︎ やった!」

「ちょっとお父さん!」

「良かったわねぇ、ネオンくん」

 

 ずっと欲しかったものをプレゼントされた子供のように喜ぶネオン。

 同じ年頃の異性と同居なんてお父さんは何を考えているのだと狼狽える汐緒。

 これで汐緒も寂しい思いをしなくて済むわぁと能天気に喜ぶ七海。

 三人三様の反応。不協和音である。

 

「ただし、いくつか条件がある。ま、あれだ。ちょーっと男同士で話し合おうじゃないか。こっちに来い」

「えっ、えっ? 」

 

 タツは戸惑うネオンの首根っこを掴んで奥の和室へ入っていく。

 引き戸がピシャリと閉められ、汐緒と七海は顔を見合わせた。

 リビングにある薪ストーブの左奥にある和室は、引き戸はあるが常に開けっぱなしなのだ。

 それを閉めるということは、七海と汐緒には聞かせたくない話なのだろうか。

 

 

「ええええ‼︎ そりゃねえよ!」

「うるさい! これだけは絶対譲れねぇ‼︎」

「なんだよそれぇ!」

「文句あるなら魔界に強制送還するぞ!」

「混血はこっちで生活しなきゃなんねえっての、嘘なのかよ!」

「十年魔界に居ても問題がなかっただろ。特例として認めさせてやる!」

 

 色々と聞こえてきたが、次第に小さくなっていく二人の話し声。

 やがて話し合いはまとまったらしく、笑顔のタツと不貞腐れた顔をしたネオンがリビングに戻ってきた。

 ネオンの様子を見るに、本当に話し合いだったのだろうかと汐緒は思ったが、口には出さない。

 

「汐緒、安心していいぞ。不埒な行いをしないよう、ちゃんと誓約書にサインさせたからな」

 

 おそらく『普通の誓約書』ではないのだろうが、信用してしまうのも癪なので汐緒は口をへの字に結んだ。

 

「汐緒、そんな顔しないの。そういう顔になっちゃうわよ」

「でも、お母さん……」

 

 続くことばが思い浮かばず、汐緒は俯いた。 



 

 

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