【再会】
第一話 六条松汐緒はモブになりたい
とても懐かしい夢を見ていた気がする。
何かが欠けているような気がして、胸がちくりとした。
忘れてはいけなかったことを忘れてしまったような、そんな寂しさというか、もどかしさ。
枕元に置いている通信端末で現在時刻を確認し、寝ている間に届いていた父からの誕生日を祝うメッセージに返信。
あと五分でアラームが鳴る。
汐緒は表示されている日付を見つめた。
四月三十日。
「十六歳、か……」
生まれ育った山手線沿線の街から、山に囲まれた地方都市へ引っ越してきて、一ヶ月と一週間。少し慣れてきたような、まだ目新しいような、不思議な感覚がする日々を過ごしている。
ベッドからのそのそと出て、オフホワイトの遮光カーテンとレースのカーテンを開ける。
カーテンを閉める。見なかったことにしたい。
もう明日から五月だというのに、朝晩はまだ寒く感じる。実際寒い。今の気温は四度。
灯油ファンヒーターのタイマー予約をしていなかったら、ベッドから出るのが億劫になっていたことだろう。天気予報に感謝だ。
軽く身支度をして、制服の白いブラウスとブラックウォッチのプリーツスカートを身につけ、フリースを羽織った。
東京・長野市・松本市の三拠点生活をしている両親は、昨晩は松本市の家に泊まったので、今朝この広い家にいるのは汐緒ひとりだ。
今日は健康診断。通常の授業はない。
昼前に終わる予定だが、進行状況により終了時間が遅くなることもあるとのことで、通学生はお弁当持参が推奨されている。
汐緒は、ひとり分の朝食と弁当を作るためエプロンを身につけ袖を捲った。
レンジでごはんを解凍している間に、フライパンでおかずを解凍する。にんじんのコンソメ煮、ブロッコリー、ミニハンバーグ。
ミニハンバーグは蒸し焼きで作って冷凍しているので、焼き色がついていない。凍ったままフライパンで加熱して、良い感じの焼き色がつくまで焼く。これでミニハンバーグのストックがなくなった。
「連休中に作らないと。んー、でも最近飽きてきちゃったんだよねぇ……ひじき入れてみようかなぁ」
料理が好きとはいえ、自分の作ったものを食べ続けていると飽きてしまう。
最近は卵焼きに具を入れてアレンジするのにハマっている。今日は『なめたけ』だ。甘い卵焼きの生地に、甘じょっぱいなめたけ。これが意外と合うのだ。
卵を二つ割って砂糖、牛乳と酢をほんの少し入れて混ぜ、なめたけを少し入れる。入れすぎないのがポイントだ。
レンジがごはんの解凍を終えたので、お弁当箱の半分ほどにごはんを寄せるように詰めて冷ましておく。
卵焼き器に卵液を流して大雑把にフライ返しで巻いて寄せる。
汐緒は中学時代に料理教室に通っていたので、卵液を流し入れてくるくると巻きながら焼く通常の「だし巻き卵の作り方」も出来るのだが、手早く作れるのでお弁当の時はこのお手軽な方法で卵焼きを作っている。
昨日の夕食の残りの味噌汁を冷蔵庫から出して温めている間に、火が通った卵焼きをフライ返しでカット。
お弁当箱に、おかずを詰めていき隙間にアルミカップを入れ、レンジで解凍した切り干し大根を詰め込む。
ここまできて、なんだか想像していたものとちょっと違うと気づいた。
「ま、いっか。自分で食べるだけだし」
そう呟いて、お弁当をキッチンカウンターに置く。
「お弁当初心者だから仕方ないよね。誰かに見せるわけでもないし、きちんと火が通っていればいいよね」
独り言が多いのは一人っ子だからだろう。断じて『姿の見えないオトモダチ』に話しかけているわけではない。
ひとりのときの朝食のおかずは、お弁当と同じものにしているので、お弁当箱に入らなかった分が朝食となる。
おかずもごはんもひとつの大きな皿にまとめて盛り付けて洗い物をひとつでも減らす。
味噌汁を汁椀によそってトレーに乗せた。
ひとり分の朝食を作る時はこんなものだ。手を抜けるところはなるべく手を抜く。
ふう、と息を吐いてキッチンカウンターの前に座り「いただきます」と手を合わせて呟いた。
汐緒は、ひとりのときはダイニングテーブルを使わずキッチンカウンターを使って食事をしている。
六条松家は食事の時にはテレビをつけないという教育方針なので、ひとりで食事を摂るときもテレビをつける気にならない。
音楽かラジオは流しても良いので、朝はニュースや天気予報などをチェックするためラジオを聴いている。
いまだに「関東甲信越のニュースと気象情報」の枠では東京に反応し、長野県北部のことを聞き逃しそうになってしまう。
ラジオを耳時計にしながら、キッチンの片付けを終わらせた。
洗面所の鏡の前で、少し切りすぎたことを気にしている前髪に触れながら、紫色の瞳を見つめる。
幼い頃から揶揄われたり、色々なことを言われた色の瞳だ。
今日から十六歳だが、昨日までの私と違うところはあるのだろうか。自分ではわからない。
汐緒は溜息をついた。
鎖骨あたりまでの長さの黒髪をブラシでとかす。
エックス線検査もあるし、いつものゆるい三つ編みではない方が良いだろう。
頭の後ろで軽く束ね、くるり。髪ゴムだけで作ったお団子ヘアにした。これなら邪魔にならないし、すぐに結び直せる。
「誕生日に採血なんて、嫌なプレゼントだなあ。受取拒否したい……」
家中の窓を見回り、結露が出来ているところがあれば拭いていく。
玄関を出て、敷地内にある診療所の脇の祠に手を合わせる。
「おはようございます。いつもありがとうございます。今日も家族みんな無事に過ごせますように」
挨拶をしたあとは祠の周りをさっと掃除。
これで汐緒ひとりで過ごす平日朝の家事はとりあえず終了だ。
制服のリボンは、ネイビーをベースに桜色とリンドウ色がアクセントになっているストライプ。
ネクタイも選べるのだが、大きめのリボンが可愛いと思い、汐緒はリボンを買ってもらった。
ブレザーもテーラーカラーとセーラーカラーの二種類あるが、汐緒はセーラーカラーのブレザーを着用している。
中学の制服がなんの変哲もないブレザーだったので、ほんの少しセーラー服への憧れがあったからだ。
今日の予想最高気温は二十一度だが、今の気温はまだ十度に届かない。
制服の上にストールを巻いて玄関を出て、祠に向かって手を合わせ、行ってきますと頭を下げた。
「うう、やっぱり寒い」
コートを着たいくらいなのだが、確実に帰りには邪魔になる。
「大丈夫、バスに乗れば暑いんだから」
言い聞かせながら、きらきらと木漏れ日が輝く坂道を小走りで下っていく。
ホー、ホケチョ、ケチョケッチョケッチョ……まだ不慣れな鶯の鳴き声が響いている。
長野市郊外にある学校へはバスで通っている。
立地上の関係で自転車やバイクでの通学は校則で禁止されており、スクールバスが運行されているのだ。
郊外というと聞こえは良いが、校舎のある場所の標高は九百メートルを超えている。
長野市街からみて北西方向の
学校の敷地内にある寮で暮らしている生徒達は、市街地のことを『下界』と言っている。
尚、
住宅街からたった数分山の方へ向かって走っただけで、景色はこんなにも変わるのかと思う。
ぐるりぐるりとループ橋を登っていくスクールバスに揺られ、ぼんやり見える市街地や散り始めている枝垂れ桜を見下ろしながら、汐緒の気分はぐるりぐるりと下がっていく。
溜息をつく。
バスがトンネルに入っていく。
短いトンネルを抜け、すぐに長いトンネルに入る。
ああ、トンネルを抜けたらそこは別の世界──だったら良いなぁ。
完全に現実逃避である。
残念ながら、当然ながら、トンネルを抜けても見覚えのある世界の見覚えのある景色が広がっていただけだった。
山村といった風情の道をバスは走る。
すれ違う車や輝く木々や畑を眺めながら、ケーキを予約したと父が言っていたことをふと思い出す。
ぐるり。大きくカーブする道。
帰ったらケーキ。夕食のデザートはケーキ。ケーキ……ケーキ……それを楽しみに乗り切るしかない。
精神的には乗り切れた気がしないが、迷走神経反射を起こさなかったので乗り切れたということにしたい。
私は頑張った。汐緒は心の中で自分を褒めた。
まあベッドに横になっていただけなんだけど。
横になった状態で採血したなら良いじゃないかと言う人もいるかもしれないが、採血が苦手な汐緒にとっては、採血されることそのものが気分を下げる原因なのである。
登校時から気分は地に落ちていたが、血を抜かれたことにより、気分は地中へと潜っていった。
汐緒は医師である父の勧めもあり毎年大学病院で検査を受けている。
血圧が低いことや貧血の傾向があるということなどは、自分でもわかっていることだ。
年に一度は病院であんなに細かい検査を受けてるんだから、学校での健康診断は免除してくれないだろうかと本気で思う。貴重な血を抜かないでほしい。
今回の健康診断で唯一嬉しかったことは、身長が昨年より五ミリほど伸びて百四十九センチになっていたことだ。
これから身長を聞かれたら「百五十センチくらいかな」と答えよう。一センチくらい誤差のうちだ。
健康診断が終了したのはちょうどランチタイム。
汐緒は弁当を食べ、微妙に崩れたヘアスタイルをいつもの通学スタイルである、ゆるい三つ編みに結び直した。
高校に入学してから、汐緒にはまだ友達と呼べる存在はいない。
最低限の会話だけをし、自分から積極的に声をかけたりせず、休み時間もひとりで過ごしている。
汐緒はひとりでいることを気にしていなかった。むしろ気楽な『ひとり』を満喫している。
汐緒は小中学時代に色々ないざこざがあったこともあり、知っている子がいない高校に進学したいと思っていた。
父が生活の主拠点を長野市に移すことになり、こちらの学校への進学を勧められたことは、まさに渡りに船だったのだ。
きちんと三年間通学し、美大か芸大へ進学する。
浮かない程度に教室の隅に居る。
高校での目標はそのふたつだ。
群れたり騒ぐのが苦手で、ひとり教室の隅で本を読んでいる、存在感の薄い子──クラスに何人かいるモブキャラのひとりだと思ってもらいたい。
私が内気で気弱な印象を与える外見をしているのなら、それを最大限利用させてもらおう。
だが、話しかけられたらハキハキと感じよく笑顔で応える。自分の意見はハッキリと言う。このふたつは大切だ。隠キャとモブは似て非なるものだからだ。
入学して三週間。汐緒の作戦はうまくいっていた。
美術部に入部届けを出したものの、本格的な活動は五月の連休明けからだ。放課後は自由気ままに過ごしているが、絵の練習や勉強も欠かさずしているため、暇というわけではない。
それなりに充実した高校生活。
汐緒はひとりに慣れていたし、気楽だと思っていた。
これぞ求めていた平凡で平穏な日常。これこそが理想の高校生活だと思っていた。
そう、今日この日この時までは────
汐緒は学校からバスで長野駅へ向かい、駅ビルのなかにある本屋に入った。
普段なら長野駅周辺から自宅へは運動がてら歩いて帰る。
徒歩だと一時間以上かかるのだが、汐緒は昔からインドア派で学校の授業以外で運動しようとしないため、父から「出来るだけ歩きなさい、散歩しなさい」と言われているのだ。
しかし、今日は健康診断があったため精神面の消耗が激しい。
嫌いな採血を頑張った御褒美にと好きな作家の本を買ったというのに、まだ気分は晴れない。
もういっそ今日はとことん自分を甘やかそうと決めた汐緒は、長野駅前からバスに乗った。
ちまちま毎日読むか、連休のうち一日を使ってどっぷり本の世界に浸るか、どちらにしようかな。
それほど長く無さそうだし、一気に読みたい気が。
あぁでも連休中はお父さんに何処かに連れて行かれるかも。
そうだ、教室で読んでいれば、まさに物静かで内気なモブキャラに見えるのでは。
うん、そうしよう。
汐緒は若干無理矢理、気分を上げた。いや、上げなくてはならない。なぜなら、これから長く続く坂を登るからだ。
善光寺の北側に位置する住宅街。
引っ越して来た頃にはまだ茶色が多かった山は、緑の色が濃くなってきている。
信号を渡り、少し狭い道へ入る。
車の行き来がそれなりにあるものの、歩道のない道だ。この道を歩くのは少し怖い。
東京の家の近くにも歩道のない道はあったが、これほど車の通りは多くないし、車のスピードも速くない。
歩道と車道を隔てるガードレールって有難いものだったんだなぁと実感する。
この先、二十分近くかかる道を恨めしく思いながら足を動かす。
この辺りにもガードレールはあるが、歩道と車道の間に設置されているわけではない。
この先は崖だよ危ないよ、という意味で設置されているのだ。
ふと、引っ越してきた時、両親から日中以外は一人で出歩かないようにと言われたことを思い出した。
この辺りはクマなどの獣が出るというのだ。
タヌキは見かけたことがあるが……クマは勘弁してほしい。
それにしても、なぜ我が家はあんな山の中腹──いや、結構上の方に建ってるのだろう。
住宅はともかく、診療所があんな場所に建っているってどうなの。自宅の標高四百九十メートルってなんなの。
ここから八十メートルくらい登ると思うと足が重くなる気がした。
父が『特殊な仕事』と共に受け継いだこちらの『家』と『診療所』は、立地的に景色は抜群に良い。
しかし良いところはそれだけと言ってもいいのでは無いだろうか、とすら思う。
まぁこんな取り留めのない恨み言も、善光寺平を一望できる景色を見てしまえば吹き飛んでしまうのだけど。
いつもより帰路が長く感じたのは気のせいではないだろう。
「寒暖差すごい……」
朝はあんなに寒かったのに、この時間に動くと暑く感じる。天気アプリで気温を確認する気にもならない。
家を出る時にぐるぐる巻きにしていたストールは学校に着いてすぐにカバンの奥に押し込まれ、存在を忘れられつつあった。
ふと家の方向へ視線を向けると、門扉の前にひとりの少年が立っている。
自宅の敷地内にある診療所は本日は休みだ。門扉も閉じている。
休診日を知らずに来てしまったのかもしれない。
なんとなくだが、少年に対して引っかかるものを感じる。
汐緒は昔からこういう勘は鋭い。
下手に接触しない方がいいかもしれない。
父に確認を取った方が良いだろう。
汐緒は通行人を装い、こっそりと少年の容姿を観察した。
髪色は黒。いわゆる無造作ヘアというものだろう。
上下黒の服装で、ブーツも黒。
上着のポケットに手を突っ込んでいる。
身長は汐緒より頭ひとつ分くらい高いか。いや、もう少し高いかもしれない。
汐緒と同年代だろうか。
汐緒が少年の特徴を脳内で言葉に変換し、通信端末を取り出そうと制服のポケットに手をかけたそのとき、少年と目が合ってしまった。
ぼーん……
ぼーん……
ぼーん……
麓にある善光寺から、日中、毎正時に聞こえてくる鐘だ。いつもより音が大きく聞こえる気がする。
ぼーん……
ぼーん……
ぼーん……
少年の大きな瞳が見開かれた。
吊り目がちの瞳。白い肌。結構整っている容姿だなぁ。
ぼんやりとそう思っている間に、少年は汐緒に飛びかかるような勢いで近づいてきた。
パーソナルスペースにいきなり踏み込まれた汐緒は動けない。
後退る前に肩を掴んできた少年に、ぐっと顔を近づけられたからだ。
いきなりなんなの。近い、近い!
「汐緒、誕生日おめでとう! 約束を果たしに来たぞ! 安心しろ、もう二度と離れないからな!」
「……ちょ、やめて、やめてください!」
抱きつかれそうになり、慌てて汐緒は少年から距離を取った。
「うしお?」
拒絶されたことに傷ついたような、困惑したような表情を浮かべる少年に、なぜか罪悪感を覚える。
なぜ?
いきなりこんな風に近寄られて困惑しているのはこちらなのに。
「え、と……」
汐緒は軽く俯き瞬きをし、脳内で少年の言葉を反芻した。
約束?
もう二度と?
名前を知っているということは、どこかで会ったことがあるのだろう。今日が誕生日だということも、知っている。
汐緒が頭ひとつ分上の位置にある少年の顔を恐る恐る見上げると、目が合ってしまった。
少年は嬉しそうに微笑み、若葉色の瞳を輝かせている。
汐緒は息を呑んだ。
ふわふわしたものが胸に広がる。
頭の中に色とりどりの花々が舞っているような感覚がした。
喉の奥が引き攣る。
涙腺が緩みそうになる。
なぜ?
だれ?
でも、見覚えが、ある。
ペリドットのように美しく輝く若葉色の瞳。確かに見覚えがある。泣きそうになるほどに。
この笑顔にも、見覚えがある。
私は知っているはずだ。胸の奥がきゅうっとする。
忘れている。
絶対に忘れてはいけなかったことのはず。
それなのに、思い出せない。
胸の奥に何かがある。
誰なのかわからない一方で、確実に知っているはず、忘れるはずがないのに覚えていない。苛立ちと悲しさと申し訳ない気持ち。
それなのに、手を伸ばしたくなる。
触れたくなる。
でもその一方で触れることをとても躊躇う。
現実なのか、夢なのか、確かめたくて、確かめるのが怖いような。
混乱の渦に飲み込まれて気が遠くなりそうになる──
小学校のときの同級生?
あまり通った記憶がないけど、幼稚園で同じ組だった子?
いや、違う。
もっと、もっと……もっと……
だめだ、本当に思い出せない。
どちら様ですかと訊いても大丈夫なのだろうか。
汐緒が口を開きかけたそのとき、坂道を登ってくる車の音が聞こえた。
ころんとした四角いフォルムの薔薇色のコンパクトカー。
父の車だ。
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