甘え上手な銀髪後輩様の恋愛論

「ふへっ……! ふへへ……! ふっへへ……!」


 いつも通り個性的な笑い声を出しながら、俺と彼女の唇の間に半透明の涎の糸を作ってみせる彼女から、お風呂上がり特有の甘い匂いが漂ってきて俺の鼻腔をくすぐる。


 俺は金曜日の夜だというのにも関わらず、またもや恋人である後輩と一緒にお風呂に入っており、今日も色々とあった彼女が俺にご褒美のキスをしていたのであった。


「ふん。今回ばかりは先輩に感謝している……とでも言った方がいいかしらね」


「まさかシエラから突き指ですごく痛いから身体を洗ってと涙目でお願いされる日が来るとは」


「……忘れて。いい? 絶対に忘れて。いや、忘れるのは私が突き指をしたという失態であって、私の身体を忘れるのは駄目よ絶対。分かった? はい返事。へーんーじーしーなーさーいーよー!? この私が突き指とかする訳ないでしょう!?」


 結果から言ってしまうのだが。

 シエラは今日あった体育のバレーボールの授業で盛大に突き指をしてしまったのである。

 彼女が突き指をした瞬間を目の当たりにした我が妹曰く『それでも私はやってない。シエラちゃんが勝手に自爆したの』と容疑を否認しており――とまぁ、冗談はそれぐらいにして。


「猿も木から落ちる……というヤツかしら。とはいえ、先輩が私の天才的に綺麗すぎる身体をボディソープで洗ったり、髪の毛をシャンプーで洗ったり、タオルで水滴を拭き落としてくれたり、包帯を巻いてくれたり、髪の毛をドライヤーで乾かす事が出来たのだからラッキーだったりする訳なのかしら?」


 突き指をした程度で何を大袈裟な事を言いやがるのか、四の五の言わずに自分で身体を洗いなさいと至極真っ当な意見を言ったら物凄く不機嫌になって、浴室の隅っこで体育座りをして物凄くいじけていた彼女が口に出来るような台詞ではないな、と思いつつも俺は彼女の言葉に対して、1つだけの訂正を求めた。


「ラッキーじゃない」


「……………………え……………………?」


 俺の言葉を聞いた彼女はまるでこの世の終わりのような表情を浮かべていた。

 表情はまるで見てはいけない物を見たかのように青ざめ、表情筋がひくひくと痙攣を起こし、目からぽつりぽつりと涙が落ちており、わなわなという言葉が本当に相応しいほどに身体は震え、口は餌を求める魚のようにパクパクと開け閉めを繰り返していた。


「違う、言葉の綾だ。俺はシエラが怪我をしてしまった事をラッキーだとは思いたくないの」


 俺は慌ててそう言った。

 もしも仮にそんな言葉のフォローをしなければ、彼女はまたあの中学校に忍び込んでは自殺をしてしまいそうな、ただならぬ雰囲気を醸し出しており、そんな俺の噓偽りない言葉を耳にした彼女は「ほぅ」と安堵のため息を吐いては、脱衣所の床に脱力したように座り込んだのであった。


「……よかったぁ……! 先輩に嫌われたかと思ったぁ……! 先輩と一緒にいられないならこんな世界なんていらないぃぃぃ……!」


 まるで子供のような彼女を見て、俺は絶対に言葉に出さずに彼女はひょっとしたら色々と面倒なのかもしれないとふと心に思った、のだが。


「……先輩……? 今、私を面倒くさい女だとか思ったりはしてないわよね……?」


 唇を尖らせながら、涙目ではあるもののどこか強気で、けれども瞳の奥には絶対に拒絶しないでくださいという気配が見え隠れしている彼女であった。


「思ってない。俺がシエラを面倒くさいと思う訳ないだろう」


「……絶対に思ってるぅぅぅ……!」


「ともあれ、大きな怪我をしなくて良かったのは本当だ」


「えへ……! そんなおべっかを言われても……ふへへ……この天才的な私を……ふひひ……! 誤魔化せると思ったら……ぐひひ……! 大間違いよ……ふひっ……!」


 滅茶苦茶に誤魔化せた。

 彼女は実に幸せそうに口の両端を滅茶苦茶に歪めては、笑い慣れていない素敵な笑顔を浮かべてみせたのであった。


「ねぇ、先輩? 本当に? 本当に私の事嫌いじゃない?」


「嫌いじゃない」


「……ん」


 ただその一言だけを言ってみせた彼女は目を閉じて、彼女の淡い桃色の艶めかしい唇を少しだけ尖らせた。

 状況から察するに……キス……をして欲しいという事だろうか。


「……」


 いや、さっきしたばっかりじゃん?

 そもそもいつもキスは彼女がしてきて、舌を絡めるようなキスも基本的には彼女が主導権を握っているのだけれど?


 そんなこんなで俺が色々と考え事をしていると、彼女は少しだけ目を開いては甘えるような声で。


「……私、先輩からまだされた事ないの……」


 彼女のそんな声は、俺の理性を文字通り溶かしそうであった。

 頭の中が白い光でいっぱいいっぱいになって、目の奥がチカチカと光る。

 今すぐに彼女を滅茶苦茶にしてやりたいという俺の身勝手な支配欲が身体中を走り回る。

 

「先輩が私の事を大切に思ってくれるのは分かってる。……分かって、いるのだけれども。それでもやっぱり不安なの……」


 彼女は俯いて、自分自身を嘲笑うような痛々しい表情を浮かべてみせた。


「……先輩に話した事はないかもだけど。私は昔から人間関係が駄目だったの。だから、本当に先輩と上手く行くのかどうかが、実を言うと不安なの……」


 俺は思わず、彼女に対して性欲と征服欲を抱いてしまった自分を殴りたい気持ちに駆られてしまった。

 そうだ、彼女の過去を俺はあまり知らないけれど、それでも彼女は口下手ながらに色々と自分自身の事を語ってくれたではないか。


 母親と上手くいっていないこと。

 父親が怖くて仕方がなかったこと。

 友人を作ることすらも過去のトラウマの所為で、出来ないということ。


 そんな彼女を構成してしまっている要因の数々を1ヵ月前に病院のベッドの上で、涙を流しながら、しゃっくり混じりに彼女の口から告白してくれたではないか。


「……怖いの。怖くて、怖くて、怖くて……本当に怖いの……」


 だからこそ、だろうか。

 シエラは俺の彼女になった後でも積極的にアプローチをかけてくれた。

 その行為の数々の思惑として、自分の事をもっと大好きになってほしいとか、自分の事をもっと知ってほしいだとか、ただ単に俺に甘えたいだけだったという目的もあったのだろう。


「先輩だからこそ言うのだけれども……実を言うと、期末試験が来るのが怖いの。を取った自分がクラスメイトにどう見られるのかを想像すると怖いの……」


 だが果たして、彼女がそんな行動を取る理由としてという行動原理は皆無であると断言できるだろうか?


 彼女は人に嫌われたくないという実に当たり前の願望を持っている。

 それは恐らく、彼女が愛されたいという願望よりもきっと強いモノであり、彼女の心に未だ根を張っている問題でもあるのだろう。


 だからこそ、彼女は今まで勉強の出来ない嘘の自分でその身を守り続けていた。

 だからこそ、彼女はその嘘で守っていない自分を公衆の目がつく所に出すのが嫌で嫌で仕方がないのだろう。


「色々怖いのはまだあるのだけれども……やっぱり、私は先輩に嫌われるのが一番怖いの……。人生で一番好きになった人だから、そんな人に拒絶されると考えただけでも死にたくなるの……」


 なんて面倒くさい女なのかしら私は、と彼女は自嘲するようにそう言い放っていた。

 確かに今の彼女を放っておいたら色々と面倒な事になるのかもしれないかもしれない。


「相変わらず、シエラは甘え下手だな」


 俺がただ一言そう言って、彼女の唇に段々と近づいていく。

 彼女はそんな俺の様子を前に目を白黒とさせては、意を決したように目をぎゅっと瞑って、まるで注射を前にした子供のようにぷるぷると震えているそんな彼女の様子がおかしくて、愛しくて、どうしようもないほどに愛おしくて。


「――――」


 2人分の吐息が1つになって、いつも彼女がするような舌を交じ合わせるような性行為ではなく、俺はあくまで親しみを込めたキスをした。


 彼女の事が大切だからこそ、俺は彼女を存分に甘やかす為の甘い甘い融けるような、いつまでもしていたいようなキスをした。


 キスをされている彼女は意外そうに瞠目していたが、幸せそうに眼を閉じて、俺にされるがままのキスを受け止めていた。


 お互いに新鮮な酸素を取り入れないまま、お互いの二酸化炭素を取り入れ続け、まるで自分たちの中身を交換するように長い長いキスをした。


 俺たちの両手の指は知らず知らずのうちに勝手に絡まって、段々と酸素不足になって苦しくなるけれども、それでもこのひと時を手放すのはどうしようもないほどに惜しくて、お互いに口から離れようと思わないまま、キスをし続けていた。


 そして、気づけば俺たちの舌は全く同じタイミングで相手の身体の中に侵入しようとして、両手はお互いの衣服を脱がそうとしていて――。












「兄さーん! シエラちゃーん! あんまりにも長すぎるから様子見に来たけどだいじょう、ぶ――。……あー。うん。私、今日は銭湯の気分だからお外に行ってくるね! でも来週の月曜日から期末試験だから保険体育の復習は程々に、ね……?」










 そそくさと脱衣所の扉を閉める妹を2人で追いかけようと立ち上がる。 

 だけど、お互いに呼吸を忘れたままキスに耽っていたので、酸欠のような症状が出てしまってまっすぐに立てなくて、立ったかと思えばフラフラとしてしまって追いかけることすらままならない。


 けれど――。


「――ふ、ふふっ、ふへへ……! あぁ、歌乃ちゃんに凄いところ見せちゃったわね……!」


「は、はははは……! あぁ、本当にそうだな……!」


 俺たち2人はお互いの腕でバランスを取りながら、笑う以外の感想がなくて笑っていた。

 おかしくて、おかしくて……俺たちは気づけば3分ぐらい全力で笑っていると、妹の事は別にどうでもよくなってきた。


「ねぇ、先輩はって知っているかしら?」


 一通り笑い終えた彼女は、超記憶だから覚えているのよねソレ、ととても軽い調子で言ってきたのでその恋愛論とやらは一体何なのかと聞いてみたら、どうにもそれは日本の昭和に活躍した小説家の著作との事だった。

 

「――人は恋愛によっても、みたされることはないのである。何度、恋をしたところで、そのつまらなさが分る外には偉くなるということもなさそうだ。むしろその愚劣さによって常に裏切られるばかりであろう。そのくせ、恋なしに、人生は成りたたぬ。所詮人生がバカげたものなのだから、恋愛がバカげていても、恋愛のひけめになるところもない。バカは死ななきゃ治らない、というが、われわれの愚かな一生において、バカは最も尊いものであることも、また、銘記しなければならない」


 彼女はまるで朗読するように、感情を込めて、昔の本で読まれるような、今やっている現代文に出てくるような小難しい文章を易々と暗唱していたのだが、俺は不思議と彼女が奏でるその言葉に耳を傾けていた。


「人生において、最も人を慰めるものは何か。苦しみ、悲しみ、切なさ。さすれば、バカを怖れたもうな。苦しみ、悲しみ、切なさによって、いささか、みたされる時はあるだろう。それにすら、みたされぬ魂があるというのか。ああ、孤独。それをいいたもうなかれ。孤独は、人のふるさとだ」


 ……あぁ、それは確かに。

 俺は彼女の為ならば、どんなにバカだと言われても、俺は彼女の為だけにどんな行いをしてみせるのだろう。

 だって、現に、俺は彼女の為だけに自殺をしようとする彼女のエゴを無視して、俺のエゴを……彼女がいない世界を過ごすのが嫌だったから、その欲望を貫き通したのだから。


 そして彼女もまた、今までにずっと孤独だった。

 孤独だったから、自殺しようとして、俺に出会って、俺を好きになってくれた。


 そういう意味では、なるほど、


「恋愛は、人生の花であります」


 あぁ、それはその通り。

 俺たちは、俺たちに出会ったからこそ、こうも人生を楽しめているのだから。

 俺たち以外だったら、こんな花咲くような幸せな人生は送れてはいないだろうから。


「いかに退屈であろうとも、この外に花はない」


 そう文を言い終えた彼女はこの世界で一番綺麗な花のような笑顔を浮かべてみせて、こてんと顔を俺の肩に預けた。


「――私、先輩の事で馬鹿になってしまうぐらい大好きよ」


「俺もシエラの事が馬鹿になるぐらい大好きだよ」


「……ふふっ、ばーか」


 昭和の小説家の一文でさえ自分たちの惚気に使ってしまうぐらいには彼女は天才で、それにあやかって行動を起こす勇気を持つどこにでもいるような普通の女の子だった。

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