甘え上手な銀髪後輩ちゃんが好きな人

 かつんかつん、と以前通っていた中学校の床を踏みしめるように私はどんどん階段を上がっていく。


「……」


 この学校は昔から警備が杜撰だった。

 あの時は台風の日だったから警備の目が緩くなってしまうのは分からなくはないのだけれども、だからといってこんな日にも警備をする人間がいないというのは如何なものだろうか。


 鍵もセキュリティも、何もかも5年前のままで正直言って拍子抜けであった。

 これではまるで自殺者を量産してくれる学校が、是非とも此処で自殺していってくれと言っているかのようではないか。

 

「それはそれでありがたいのだけれども、ね」

 

 とはいえ、自殺を行う人間にしては冷静である事は重々ながらも承知している。

 自殺をするだけなら、早く死ぬのなら、自宅のマンションから飛び降りてしまえばいい。

 それをしなかったのは、2つほどの理由がある。


 第一に、死ぬのであれば場所は選びたい性分が私にあったからだ。

 あの日の続きをする以上、私が自殺を行う場所はあの中学校の屋上でならなければならない――そんなどうしようもない拘りがあった。


 重ねて言うのであれば、私が先輩に別れのメッセージを送った際にすぐに既読のサインがついてしまって、私は少しだけ気分をかき乱されてしまったのも大きな原因である。


 先輩のおかげで自殺をしようとする気概を削がれかけ、僅かながらの時間のロスが発生してしまった。


 恐らく、先輩の既読サインがなければ予定よりも30分ぐらい前に自殺の決行をしていたに違いないので……最後の最後まで、彼は私の命を繋ぎ止めてくれていた訳なのだ。


「……それにどうせ先輩とお義母様の事だから警察か何処かに連絡をしているに違いないもの。そういう意味においてもこの場所は良い意味でカモフラージュになる」


 ここで自殺を行う第二の理由として、先日、歌乃ちゃんに私の自殺の顛末をざっくりと説明したけれども場所は明らかにしてはいない。


 それに彼女は私の事をあまり深くは知っていないだろうから、彼女なんかに自殺をする場所がどこかであるのかを突き止める事は難しいに違いないだろうし、そもそもの話、この中学校の卒業生が深夜の学校に忍び込んで自殺を図るだなんて、誰が想像できるだろうか?


「……にしても、因果なものね」


 超記憶の持ち主である私はあの日の自殺を行おうとした記憶は色褪せることなく覚えていて、あの日にした筈の気持ちの整理とやらの続きを行おうとしていた。


 あの日との違いは単純に先輩がいたか、いなかったか。

 

「……っ」


 先輩との暖かい思い出を思い出す度に私の脚は勝手に止まってしまう。

 まだ生きていたい、先輩と一緒にまだいたい、と思ってしまう。

 そんな浅ましい自身の行いに私は苛立ちを隠せなくて、私は思わず両手を握りしめて自身の爪を皮膚に食い込ませる。

 

 ぽたりぽたり、と鮮血が暗い暗い廊下に滴り落ちて、私は絞り出すように自身に対する怨嗟を口にした。


「どうしてこんな時にでも私は自分自身のことしか考えられないのよ……!?」


 私は先輩に嘘をついた。

 私は先輩の勉強をするという時間を奪った。

 

 そして、何よりも――私は先輩を信じられなかった。

 あの人がかつて私を迫害した人間になるに違いないと、心の中に未だにくすぶり続ける弱い弱い自分の事だけしか信じられていない。


 人間は全て自分の敵だと愚かで浅ましい人生論を掲げている内なる私を信じて、本当の私の事を知った後でも笑ってくれるに違いないであろう先輩を信じられなかった。


 あれだけ色々と教えて貰ったのに。

 あれだけ人間は素晴らしいと教えて貰ったのに。

 だというのに、私はあの人の事を信じられなかった。


「……う、うぅ……!」


 血と涙が雨のように滴り落ちる。

 泣く権利なんて最初からないだろうに、それでも私は泣く権利を主張したかった。

 

 脚が止まる。

 掌が痛い。

 頭が痛い。

 

 嫌な記憶を思い出せないぐらいに、先輩と一緒に作った記憶が走馬灯のように脳内の中でぐちゃぐちゃになっていく。


「先輩、先輩、先輩……!」


 5年前のあの日を昨日のように思い出してしまって、私は助けを求めるように彼の事を口にしてしまう。


「苦しいよ……! 助けてよ……!」


 自分が何をしたいのかなんて、もう分からない。

 まだ生きていたいし、早く死にたいと思う。

 まだ苦しんでいたいけれども、楽になりたい。

 まだ先輩と一緒に居たいし、こんな思いになるぐらいならもう二度と先輩と居たくないとさえ思う。


 まだ、まだ、まだ。

 私は、まだ――。


「まだ先輩と一緒に生きたいよ……!」 

 

 でも、彼は優しくて、優しくて……本当に優しくて。

 こんなにも人間のゴミでしかない私なんかが近づいてはいけないような存在だっていうのは分かりきっている。

 

 羽虫が深夜の電灯に近づくように、私は只々彼に向かって飛んでいただけの矮小な羽虫でしかないのだ。


 だから、そんな存在が先輩と一緒にいるだなんて、許されて良い訳がない。

 こんなゴミ虫のように下劣な存在が、先輩のお傍にいて良い筈がない。


「……っ! うぅ……!」


 私は言葉にならないような悲鳴を絞るように出しながら、逃げるように屋上にへと向かった。


 肺が痛い。

 頭が酸欠になって、視界がどんどん赤黒くなってくる。

 脚が壊れてしまいそうなぐらいに痛い。

 階段を上がる際に振る手はすっかりと赤く腫れ、爪先には自分の血がいっぱい詰まっている状態だ。


 嘘とはとても思えないほど激痛が走る私を襲って、私の生きたいという意識と死にたいという気概を削いでいこうとする。


 こんな汚い手で、先輩の手を取って良い訳がない。

 こんな汚い自分なんかが、先輩と一緒にいて良い訳がない。

 こんな自分が――。


「もうやだ……! もうやだよ……! うるさいよ……! 静かにしてよ……! 少しは考えさせない時間をちょうだいよ……! なんで考えさせるの……!? もう何も考えたくないよ……!」


 私は自分の思考を黙らせるべく、更に身体に鞭を打たせるべく先ほどよりも早い速度で屋上への長い長い階段を上がっていく。


 ――そうだ。

 昔から私は天才なんかになりたくなかった。

 そう考えて、高校生になってから今まで振る舞ってきたあのは私が本当になりたかった自分であるという事を自覚した。

 

 馬鹿だ。

 本当に馬鹿だ、私は。


 何が天才だ。

 何が超記憶だ。

 何が東大模試を全教科満点だ。


 私は普通の女の子になりたかっただけなのに……!

 こんな呪われた頭をしていたら絶対に幸せになれる訳がないじゃない……!


「先輩……! 教えてよ……! なんで私はこんなものを持って産まれたの……!? なんで……! 本当になんで……!? なんで私じゃないといけなかったの……!? どうして私なの……!? 他の人でもよかったじゃない……!? どうして私だけがこんな苦しい思いをずっとしないといけないの……!? なんで忘れられないの……!? 先輩の事を忘れたいのになんで忘れられないの……!?」


 本当に気が狂いそうになる。

 どうして、なんで、私が?

 そんな疑問が頭の中に溢れて、それらの理不尽に対する怒りと憎悪が血のように私の身体の中を走り回る。


 私にこんな思いをさせてくる先輩が憎い。

 先輩の所為にさせる自分自身が憎い。

 

 誰かの所為にしないと、やってられないぐらいに、私は先輩で苦しかった。


「――あ」


 無我夢中で走っていると、ついに身体のバランスが崩れ始めてしまって、全速力で逃げるように走っていた私は階段の段差で足を踏み外し、階段の中腹辺りから転がり落ちる。


「――つ、あ、う、あぁ――!」


 顔を、頭を、肩を、足を、手を。

 段差は容赦なく転がり落ちる私を痛めつけて、最終的には冷たい床の上に叩き落とされる。

 

 口の中が鉄の味でいっぱいになって、それ以上にいっぱいにしてやろうと言わんばかりに頬の外側から更なる一撃がどんどんやってくる。


 でも、こんなのは慣れている。

 だって、これは中学校の時に後ろから押されて階段から落とされた時と同じ内容だ。


 この痛みはもう知っている。

 頭から血が流れ落ちる感覚は既に知っている。


 この痛みには慣れている。

 頭から血が流れ落ちる感覚にも慣れている。


 この痛みは何度も味わっている。

 頭から血が流れ落ちて視界を赤くする光景も見慣れている。


 だから、痛くなんて、ないはずなのに。

 私はどうしようもないほどに、痛かった。


「……ごほっ……」


 力なく横に倒れて軽く咳き込んだだけで、口の中でいっぱいになった血と固形物が中途半端に入り混じったものが吐瀉物として吐き出される。

 でもきっと、私が生きているという罰に対してはこれぐらいが丁度いいのかもしれない……そう思って内なる私は頭を振る。


 いや、まだだ。

 こんなものじゃ、まだ足りていない。

 まだ償いにはならない。

 もっと自分を痛めつけて、もっと血を流して、もっと苦しめないと。

 

「……立たなきゃ……屋上に行かなきゃ……」


 ふらりふらりと、虫の息の私はぼろぼろになった自分の身体を両手で支えながら、1つ1つの階段を登っていく。


 ここまで来ると、もはや意地でしかない。

 だけど、私はそんな執念じみた意地を胸に、屋上に少しずつ近づいていく。

 

「……あ、め……」


 屋上に繋がる扉から外が見えるガラス窓を覗いてみると、どうやら雨が降っているらしく、いよいよあの時の状況そのものになってきて――。


「――っ」


 体力の限界で千鳥足のようになっている私は再び階段から転がり落ちる。

 サイコロで言うのなら、最初からやり直し。

 もう一回登り直しで、もう一回あの苦しみを味わえて、私は転がるサイコロのように惨めに体液を吐き出しながら転げ落ちた。

 

「――あ、う、ぐ――っ!? ごほごほ……っ!?」


 ……痛覚神経が駄目になっているのを何となく感じる。

 痛いのが段々と消えていって、口から出てはならないほどの液体が垂れているというのに、痛みという痛みがない。


 ……あ、目の方も駄目になってる。

 だって色の感覚がもうおかしくなってるし、目の奥が爆発でもしているかのような痛みを引き起こしているし、視界が段々と赤く染まってきた。


 ……頭から流れ落ちる血も、先ほどより少ないような。

 いや、もう流れる血がないのかな。


 ……骨が、痛い。

 動かそうとすると、お願いだからもう動かさないでと身体が絶叫する。


「……ほんとうに、むしみたいで、みっともないね、わたし……」


 こんな状態になっちゃって本当にどうしよう。

 こんな状態で飛び降り自殺なんて出来るのかな。


 私、どうしたらいいですか先輩――?

 

「――う、あ――」


 お前みたいに嘘をついて自分の事だけしか考えない人間は死んでしまえばいいと、心の中の先輩に言われて、私は最期の力を振り絞って立ち上がって、階段をもう一回上がっていこうとして……私はふにゃりとだらしなくその床の近くで倒れこんでしまった。


「――おかしい、ね。あのせんぱいは、そんなこと、いわないよ――?」


 もう、考えるのも面倒くさい。

 真偽なんて、どうでもいい。

 とにかく、早く楽になりたかった。


 だけど、私の忘れられない記憶が先輩の弁護をしてくれた。

 嘘をついてくれない私の記憶が、先輩の事を庇ってくれた。


「……そう、ね。あのひとが、ひどいことを、いうわけないもの……」 


 だって、あの人は普通の人だ。

 普通の感性を持っていたから、私はどうしようもないほどに恋焦がれたのだ。

 手に入れたかったから、どうしようもないほどに自分の、自分だけのものにして独占したかった。

 あの人と一緒にいれたら、自分は普通の人だって、胸を張れて言えそうだった。

 

 そして何よりも。

 あの人の事が好きな自分が、嫌いじゃなかった。


「……さいごの、さいごまで、けっきょく、じぶんのことばっか……」


 自分の最低過ぎるほどの馬鹿さ加減が本当に嫌になる。

 なんで今更になって、こんな当たり前に気づけないのだろうか。

 あの先輩は私が嘘をついていたとしても、許してくれるに違いないって、どうして今になって確信してしまうのか。


 もう、取り返しがつかないほどに何もかもが遅いっていうのに。


「――あのね、せんぱい。わたし、せんぱいが、だいすき。すごくだいすきなの――」


 そう最期の言葉を口にして。

 身体の力を完全に失ってしまった私は、床に座り込んだ状態で頭から倒れて、冷たい床に向かってまっすぐと、抵抗できないまま吸い込まれるように頭を――。

















━╋━━━━━━━━━━━━━━━━━━━




「何やってんだ、この馬鹿」




━╋━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



「――え?」


 床に堕ちるはずだった私の頭は、代わりに暖かい何かで支えられて無傷だった。

 一体どうして、と私は周囲の様子を見渡して見ると、どうやら人間の誰かが私の事を支えているらしかった。


 ……もしかして、学校の警備員の人だろうか?

 いや、違う。あの声は――。


「――せん、ぱい――?」


 赤く染まった視界で私はその人の顔をまじまじと見つめていた。

 時間と思考が止まりそうなぐらい、呼吸と思考を忘れて、私は大好きなその人の顔を見つめていた。


「――なんで、いるの――?」


 弱りに弱った声で、私は先輩にそんな当たり前の質問を投げかけた。

 だって、こんなところにこの人がいる訳ない。


 5年前の私と今の私には、まるで接点がない。

 だから、気づける筈がない。


「山崎がどこにいるのかを当てるだけの問題だろ? そんなのはサービス問題だ。この俺が前に1回やった問題をミスる訳ないだろ」


「――え?」


 1回やった問題を、間違える訳がない。

 それが意味する事って……いや、そんな訳がない。

 そんな訳がある筈がない。


 嘘だ。

 言葉の綾だ。

 そうに違いないと信じておきながら、私は心の中で思い描いている噓のように暖かい言葉を先輩が口にしてくれるのを待ち望んだ。

 

「俺が5年前の事を忘れたとでも思っているのか、この馬鹿! 余裕で覚えてるわ! それぐらい衝撃的すぎたからなこの馬鹿! 苗字が変わった? 名前を言ってない? 体型が変わった? 髪色が変わった? そんな引っ掛け問題に東大を目指す俺が引っ掛かるか馬鹿! まぁ髪色が変わるのは色々と理不尽だとは思うけどな!」


「――――――」


 もしかして、もしかしなくても。

 この人は、この人は最初から……!


「きづいて、たの?」


「……まぁ、なんだ? 人って変わるだろ。5年も会ってなかったらそりゃあ変わってもおかしくない訳だし……ほら、勉強だって、やらなくなった途端に成績が下がってしまうし……おまえもそれで困ったんじゃないかなって……って」


「――は?」


 なに、それ。

 もしかして、この人は私が高校生デビューしたに違いないと勝手に想像して、過去の私の事は極力話題にしないように、触れないようにしてくれただけだって言うの?

 

 つまり、その、何でしょう。

 この人は、私がついていた嘘には気づいていたけれども、それが嘘であるとは分かっていなかった……って事?


 そんなの、そんなのって……。


「ばか、なの?」


 馬鹿だ、この人。

 すっごい馬鹿だ、この人。

 信じられないほど馬鹿だ、この人。

 ありえないぐらいに馬鹿だ、この人。

 嘘みたいに馬鹿だ、この人。

 

「馬鹿とはなんだ馬鹿って。そう言う山崎の方が馬鹿じゃないのか」


「……それは、そうね」


 確かに彼が指摘した通り、自分で勝手に暴走して、自分で勝手に死に掛けた私の方がとっても馬鹿じゃないの。

 いや、こうしている時点でとんでもないほどの馬鹿なんだろうけれども。

 

「ごほっ、けほ……」


「ちょ、山崎!? 大丈夫か!? はやく病院に」


「うるさい、黙って」


 私は何回も咳払いをして、先ほどよりかは鮮明になった意識を呼び戻す。

 身体を支える力を全て先輩に一任させて、喋るだけの力を取り戻して、私は好き勝手に先輩に向かって、隠し続けていた本心を詳らかにする。


 どうせ彼と相対するのなら、本当はクールでかっこいい本当の私じゃないといけないから。


 だって、本当の私を、好きになってほしいから。


「もう1回言ってあげるわ。貴方、すっごい馬鹿ね。私は貴方を騙すつもり気満々で近づいたのよ。5年前の性格と違うからって、それは流石にお人好しが過ぎるわよこの馬鹿。詐欺師のカモになるわよ馬鹿。私が絡むと馬鹿になる訳でもないんだから今すぐに矯正したらどうなのかしら」


「……うわ、この感じ。本当に5年前の山崎だ……」


「は? うわって何。これが私の本性な訳なんだけれども。それともあんな馬鹿みたいな恋愛脳の馬鹿女の方が良かったと今更言うつもりなのかしらこの馬鹿。だとしたら残念ね。もうあのクソ馬鹿アホ女には二度と会えないわよ。だって私は物事を感情で判断しない冷徹人間だもの。ご愁傷様ね」


「そんな訳ない。俺は馬鹿な真似をする小生意気で甘えん坊な山崎も好きだし、5年前の……いや、今の山崎の事もどっちも好きだ! そりゃそうだ! どっちも山崎だからな! 俺からしてみればどっちも滅茶苦茶タイプだよこの大馬鹿野郎!」


「――――」


 本当、馬鹿なんじゃないの?

 頭のネジが取れているの?

 それとも頭に脳味噌が詰まっていないの?

 なんでそんなこっ恥ずかしい台詞をよくもまぁ、いけしゃあしゃあと……。


「私だから、好きなの?」


 とっても恥ずかしい思いを隠しながら、精一杯の勇気と体力を振り絞って、私はそんな言葉を彼に告げる。


「山崎だから、好きだ」


「……何、それ」


「不服か?」


「不服に決まっているんだけど。なんで同じ苗字になる夫にわざわざ苗字で言われないといけない訳? 離婚するの? 馬鹿なの?」


 私は精一杯の恥ずかしさを払拭するべく、そんな強がりを言ってのける。

 とはいえ、そんな強がりのような嘘を言わないと、私は私でいられないほどに弱くて、みっともなくて、どうしようもなくて、しょうもない。


「貴方は、本当にこんな女が好きなの?」


 私は先輩と自分に追い打ちをかけるように、そんな言葉を言い放つ。

 自問自答した私の方はと言うと、相も変わらず愛される訳がないと勝手に落胆していたけれども、私は本当の事しか思わない自分を無視して、先輩が言ってくれるのであろう本当か嘘なのかどうかさえ分からない言葉を待ち望んだ。


「俺はシエラだから、好きなんだ」


 想像通りの暖かい言葉に、私は絶句した。

 だけど、私は頭がいいので事情をすぐさま理解して、なんだかおかしくなって笑ってしまった。


 彼の暖かい手を掴んで私は立ち上がる。

 だけど、それはあくまで立ち上がる為に壁か何かに手で自分の身体を支えるような気分で、私は彼の優しい力を借りる前よりも早く、ぷるぷると震える身体を押し殺しながら自力で勢いをつけて果敢に立ち上がった。


 けれども、それでも優しい彼は私に万が一の事が起こらないようにと、いつ何が起こっても対応できるように両手は空いたままだった。


 だから、私は床ではなく彼の元へ向かい合わせになるように、倒れ込んだ。

 慌てた彼は想像通り両手で私を支えてくれたので、今度は空きっぱなしになっている彼の唇にへと私は口づけをした。


 いきなりの事で慌てふためく彼の口の中に、私の血が混ざった唾液が入り混じってしまうのは申し訳ないなとは思いつつも、どうせ私は嘘をつくような最低な女だし、どうせ優しくて最高の彼は許してくれるだろうから、別に構わないかと思いさえした。


 ――なんて、性格の悪い女。

 ――だけど、今の私はそんな自分が人生の中で一番好きだった。


「5年間待ったわよ。この馬鹿」

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