秋月の夜

「パートの分際で俺に偉そうに説教か?」

 秋月衣織イオは俯いたまま夫である真宙の話を聞いていた。

「でも、あなたのスマホの通知画面にはっきりと出てたから…」

「はぁ…。あのなぁ。た、か、が、浮気ごときで…うるさいんだよっ!」

「…っ」

 平手が衣織の頬を打ち、乾いた音が家の中に響く。2階の部屋では恐らく娘のるなが声を押し殺して震えている。

 夫は大企業に勤めていて人望がある。近所でも率先して行事に参加しており、リーダーシップと要領の良さから頼れる男だと評判だ。私たちはきっと周りから見れば誰もが羨む家族だけど、その実態は酷く歪んでいる。

「いいか?仮にそうだとしても、お前程度の稼ぎじゃ娘と二人で生きていけんだろ。そんな奴がくだらないことで俺を怒らせるな。わかったか!?」

「…はい。ごめんなさい」


 ひとしきり怒鳴りつけられた後、夫は何も告げずに飲みに出掛けてしまった。

 私は虚しさと頬に痛みを抱えながら何とか泣きじゃくる娘を寝かしつける。もう来年小学校だというのに、未だに夜泣きやおねしょが続くのは、この歪んだ家庭環境に一因があると思っている。

 そんな中でも娘は素直でいい子に育ってくれていて、だからこそ、私がもっと愛情を注いで安心させてあげないといけないのだ。

 娘が寝つくと、私は読みかけだったとあるまとめサイトの続きを確認する。


【流星群の呪い】

 2021年10月15日の午前2時30分に観測された流星群の大量発生以降、全国各地で人間の理解が及ばない凄惨な殺人事件や、建物等の倒壊といった事件が相次いでおり、これらを総称して流星群の呪いという。

 呪いの所以は犯人が例外なく行方不明もしくは被害者同様に凄惨な死に方をするところからきている。

 全容は未だはっきりしないが、複数の証言から犯人の共通点は「何らかの強い感情の揺らぎ」と「」である可能性が高い。

 なお、日本政府は過度な報道は控えるよう国民に呼びかけるとともに、新たな感染症の可能性を示唆している。


「私も見ちゃったんだよなぁ」

 記事は他にも加害者たちの複雑な家庭環境と犯行当日に起きた事件についても触れていた。正直眉唾の話だけど、実際に最近は物騒な事件が続いていた。

 夫は明らかに浮気をしているし、言葉の暴力は日常茶飯事だ。流石に娘に手は上げないけど、私には平然と平手打ちをしたりする。

 私もこの感情の揺らぎとやらに気をつけないと。どれだけ苦しくても、私には愛すべき娘がいるんだから。


 娘を自転車で保育園に送り届け、その足でスーパーのレジ打ちのパートに向かう。夫の稼ぎだけでも生活には困らないが、頼み込んでしばらく罵倒され続けてようやく許可してもらった。

「秋月さんさぁ、あなたのレジだけいっつも遅いんだけど」

「す、すみません」

 お局様は今日も元気に私をいびってくる。

「もう働き始めて3ヶ月でしょ?いい加減覚えてくれないと困るんだよね」

「頑張ります…」

 要領の悪い私は、どこに行ってもこうして詰られてばかりいる。


 仕事を終えるとすぐに娘の保育園のお迎えだ。

 私の日常で数少ない心安らぐ時間。黙って自転車を漕いでいると、余計なことを忘れられるから。

 私は住宅街の坂道を無言で駆け降りる。秋風が運んでくる塩と柔らかな土の匂いが鼻腔をくすぐって、私の心を落ち着かせてくれる。

 夫とはたまたま知人に誘われて参加した慣れない合コンで出会った。後から聞いたら、私の場慣れしていない初々しさに惹かれたらしい。夫は客観的に見て顔は整っていて、出会った時は優しくも野心に溢れた好青年だった。

 あの日私は自分に無いものを揃えた夫に憧れて、けれども夫は言いなりになる人間を欲していただけだった。

 信号を二つ通り越し、右に折れてコンビニがある角を左折する。後はしばらく未知なりに進めば保育園だ。

 5歳になる娘は夫を極端に怖がり、夫も自分の娘に関心がない。子どもがいる、良き父親であるというステータスだけが欲しいだけなのだ。時々求められるアリバイ作りの撮影会は地獄だった。

「さっさと笑えっ!」

「うわぁぁぁぁぁぁ」

「大丈夫、大丈夫、笑ったら終わるからっ。お母さんと頑張ろ」

 今離婚したところで夫の言うとおり食べていけないし、そもそも離婚なんて世間体の悪いことを夫が許すはずもない。両親は遠方で頼れる程の友達もいない私には、パートをしながら地道に自立の道を探るしか術はないのだ。

 それでも私が生きていけるのは、娘がいるからに他ならない。

「よぉし、いい顔だ。この写真なら使えそうだ。ほら、このお金で好きな物を買いなさい」

 夫が最後に私や娘に見せる笑顔は本当に優しくて、そのギャップが気持ち悪かった。


「秋月衣織さんですよね」

 道路標識に従って一時停止していると、不意に自分の名前が呼ばれて私は面食らった。

 恐る恐る振り返ると中学生くらいの男の子が立っている。

「秋月衣織さんですよね」

 声変わり中なのか、低音と高音が不規則に混じり合うザラついた声は酷く耳に残った。平坦に繰り返される言葉はまるでスピーカーから流れる自動音声みたいだ。

「そうだけど…」

 黒髪のマッシュヘアーに何処かぼんやりとして眠そうな目。あどけなさの残る顔とハリのある白い肌は、中性的で捉えどころのない感じがする。服は上下ともに黒のスエット姿で、何故か裸足だった。

 改めて見てもその顔に覚えはない。娘の友達や兄弟にしては大きすぎるし、親戚にもこんな子がいた記憶はなかった。

「流星群は綺麗でしたか?」

「…え?」

 思いもよらない質問に私は一瞬固まった。

「流星群は綺麗でしたか?」

 男の子は機械のように同じ質問を無表情で繰り返す。

「いや…そもそもあなたは誰?」

 先月私が目にした流星群は、確かに圧巻だった。その時だけは嫌なことや不安なことが頭からみんな消し飛んで、ただただ目の前の光景に魅入っていたのをはっきりと覚えている。

 でも、なんで見ず知らずの子がそれを知ってるの?

「実際にその目で見て、何かを感じませんでしたか?」

 男の子は私を無視して逆に質問で返してくる。

「何かって…。さっきからなんなの急に」

 私は少しムッとして言い返した。いくら子どもだからって、初対面でいきなり根掘り葉掘り失礼過ぎる。

「あ、あれでしょ。何かの罰ゲーム。みんなにやってるんだ。ダメだよそういう人に迷惑をかけることしちゃ。名前と学校教えて」

「思い出してください」

 男の子は私の勢いに怯む様子もなく、ただ用意された質問を繰り返すだけのロボットのようだった。

「だから、思い出すも何も…」

「思い出してください」

 繰り返される自動音声が私の脳内に反響し、何かを掘り起こそうとしている。

「思い出してください」

 あれ?なんだろうこの感じ。

「思い出してください」

 記憶の隅に何かが引っかかる。

 目を瞑ると、暗闇の中で男の子の声が段々遠ざかっていき、代わりに在し日の光景が朧げに浮かんでくる。

「思い…出して…ください…」

 私?が空を見上げている。青くどこまでも澄んだ空だ。目の前には広大な海が果てまで続いている。空に浮かんでいる黒い点は…きっと小惑星だ。

 でも、そんなのいつ見たんだろう。子どもの頃?誰と、どこで?思い出せそうで思い出せない。

小骨が喉奥に刺さって抜けないようなもどかしい感覚。


【同胞よ、星の声を聞け】


 その時、明瞭で澄んだ声が突如頭の中に響いて、。それは運命の糸のように大勢の誰かと繋がっていて…。


 クラクションの音で我に帰ると、いつの間にか男の子はいなくなっていた。

 私、何で立っているんだっけ?

 体が妙に重だるく、記憶の奥底から何かが抜け落ちているのを感じる。

「あ、お迎え」

 私は延長保育になる前に娘の保育園に大慌てで向かうのだった。


 薄暗いホテルの一室で、秋月真宙は会社の後輩の女と肌を重ねていた。

【またホテルに行こうね】

 放り出されたスマホの通知画面には複数の女性からの誘い文句で埋め尽くされている。鍛え上げられた肉体と仕事の実績に裏打ちされた強気の言動は、真宙の周りの女性たちを何人も虜にしてきた。

「ねえ、何であんな冴えない奥さんで満足してるわけ?さっさと離婚して私と一緒になろうよ」

 女は猫撫で声で真宙の胸に頬を擦り付けてくるが、真宙はそれを押し退けて立ち上がる。

「お前は欲が強すぎる。その点あいつはそこがいいんだよ」

「なにそれ」

「はっ、だろうな」

 真宙は呆気に取られた女を置いて一人ホテルを出ると、自宅まで車を走らせる。


 帰り道で真宙は自分の現状に想いを巡らせた。

 どこまで登っても終わりのない出世競争と、飽くなき金と女の欲。常に頭をフル回転させていて、誰かといる時は片時も休まることがない。

 そうやって張り詰めた緊張を解すには何も考えないのが一番だ。ジムで体を鍛え、適度に飲み、家に帰ってすぐに寝る。

 そのためには雑用を任せられる家族が必要だ。召使でもいいが、出来の悪い奴にはイライラする。今の時代、当たって辞められてパワハラで訴えられても厄介だ。

 だから何も言わずにやる衣織のような存在が必要なのだ。それに、結婚している方が何かとやりやすい。衣織に対して恋愛感情はないし、子どもなんて面倒なだけの存在だが、使えるものはどんなものだろうと使うのが真宙の主義だった。


 もう夜中だというのに、帰宅すると珍しく家の明かりがついていた。ドアノブに手をかけると、鍵も施錠されていない。衣織はいつも家事を済ませたらすぐ寝るはずで、こんなことは初めてだった。

「寝てないのか?」

 真宙の声に反応する者は誰もいない。

 念のため、玄関に立てかけてあるゴルフクラブに手をかける。

「おい、そこに居るのか?」

 真宙はゴルフクラブを日本刀のように構えると、壁伝いにそろそろと奥へ進む。

 扉や家具の影に注意を払いつつ、次々と部屋のドアを開けていくが、盗人はおろか荒らされた形跡すらなかった。

 どうやら単なる不注意のようだ。

 夜中に電気を付けっぱなしで鍵もかけ忘れるなんて、不用心にも程がある。これはキツく言っておく必要があるな。

 例え夜中だろうと関係ない。歪んだ笑顔から真宙の嗜虐的な一面が垣間見える。真宙は説教のために寝室の階段に足をかける。

「うっ」

 階段の上の暗がりに、俯いた衣織が黙って立っていた。

「なんだ、脅かすなよ。鍵、開けっぱなしだったぞ」

 真宙は取り繕うように強い口調でそう言った。

「…」

「おい、何とか言ったらどうだ」

 呼びかけても衣織は一向に返事をしない。真宙もまた、妻の異様な雰囲気を感じ取ったのかそれ以上は進めないでいる。

〈血…?〉

 衣織から雨漏りのようにポタポタと赤い血が垂れていて、階段をまだらに赤く染め上げていた。

「お前…怪我してるのか」

 衣織は答える代わりに一歩一歩踏みしめながらこちらに近づいてくる。

「なあ、いいげかんしにろ」

 何かがおかしい。

 具体的に説明はできないが、今この瞬間に何かが決定的にズレたような気がする。

 衣織は真宙を通り越してリビングに行ったのに、真宙はそれを黙って見送ることしかできないでいる。

〈衣織は階段を登って一階へリビング。天井のソファは衣織目掛けてダイビング〉

 真宙は衣織に遅れてゆっくりと顔を左に捻るも、そこで再び動きを止めた。

「いかいおりいどとにれおにちくなすだ」

 真宙はしばらく首を傾けて口を半開きにしたまま突っ立っていたが、不明瞭な発音で何ごとかを呟くと、ぱったりとその場に倒れてそれっきり動かなくなった。

 

「あああああああ」

 部屋に転がったかつて夫だった男は、見かけ上は安らかな顔をしていた。まるで憑き物が落ちたように無防備な寝顔だ。それとは対照的に、私の顔は多分断末魔の死に際を体現していることだろう。

「お母さん…」

「だっ…大丈…夫…。はあぁーっ。だ、大丈夫だがら、ねっ…」

 私は酸素を求めて喘ぎ呼吸をする。息が上手く吸えず、今にも窒息してしまいそうな程胸が苦しい。

 不安そうに私を見つめる娘の存在が、かろうじて私の命を繋ぎ止めていた。

「行ごう…」

 私は娘の手を引きながら夜の住宅街に染み出した。夫が死んだ今、もうあの家にいる理由はない。幸せな皮を被った、悪魔のようなあの家には。

「ぜぇーっ。ぜぇぇぇ…。っぱ。いぃあぁぁっ」

 拭っても拭っても鼻血が溢れ出て、喉の奥にとめどなく流れ落ちてくる。鼻と半開きの口から垂れる血液は、私の命の灯火だ。そしてそれは白い服を真っ赤に染め上げて散っていく。後頭部が割れるように痛み、視界がぼやけて涙が頬を伝う。

「お母さん、死なないでっ…」

 それでも。

 どれだけ苦しくても、私は死ぬわけにはいかないんだ。娘の手はまだこんなにも小さいのだから。

「だい…。だいじょ…ばあっ。ぷうっ。だよっ」

 体の中から血の塊が噴き出して、会話を容赦なく遮った。私はその勢いに堪えきれず、力無く膝から崩れ落ちる。

「お母さんお母さんお母さんっ!」

 小さな体が倒れそうな私を必死に支え、何とか元の形に戻そうとしてくれている。

 ああ、娘の体はとても暖かい。

「死んじゃやだよ、お母さんっ」

 そうだ、諦めちゃいけない。

 確かまとめサイトでも、必ず死ぬとは書かれていなかった。力だって何とか最小限に抑えられたはずだ。流星群の呪い。そんなものに負けてたまるものか。

 そういえば、あの日私は不思議な男の子に出会って…。

 不意に脳内に張り巡らされた糸のような感覚が蘇る。

 ああ、そうだ。

 やっと思い出した。

「るっ月…。おがあざんっ。が、頑張るがらねぇっ」

 希望はまだある。

 衣織は今にも止まりそうな自分の心臓を鷲掴みにして喝を入れると、遥か先へと伸びる細い糸の先を目指して夜の町を踏みしめた。

 秋の月が、娘と私の行き先をぼんやりと照らしてくれていた。

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