観測者
「なあ、あのニュースみた?」
「見た見た。やばいよなアレ」
「な、ぐちゃぐちゃだったらしいぜ」
「うえぇぇ、グロっ」
放課後の予鈴の音で静かだった教室が途端に騒めきだす。
部活動の準備をする者、だらだらとお喋りに興じる者、掃除という名のチャンバラごっこに勤しむ者。
そんな彼らを星光創一は教室の端から黙って見つめていた。
創一は観測者だ。
観測者とは大いなるものより賜った使命を持ちし者のことで、この世のありとあらゆる事象を観測し、その仔細を記録する。
そして、観測者であることは誰にも知られてはならない。だから観測は人知れず行われなければいけないのだ。
浮き足立った教室内でも、創一に声をかける者は誰もいない。まるでそこには空気しかないみたいに。
だが、観測者に取ってはその状況はむしろ都合がいい。
【教室は今日もくだらないお喋りで溢れていた】
創一は観測ノートに一言そう記すと悠々と教室を後にした。
創一は学校の外でも観測に余念がない。
帰宅途中であっても観測すべきことは山ほどある。
例えば、少し前に創一を追い抜いた女の子は、秋風が巻き上げた砂塵が運悪く目に入り、痛みで思わず声を上げる。女の子の横の塀を優雅に歩いていた野良猫は、その声に驚いて塀に置かれた植木鉢を破り、その音を聞いた頑固親父が近所の悪ガキのせいだと勘違いして庭先に飛び出していく。その隙を見計らったかのようにかかってきた振り込め詐欺の電話を受けた頑固親父の妻が、電話口の男を息子と信じてしまい、慌てて銀行まで走る途中で信号を見落として車とぶつかってしまう。
これは比較的揺らぎが近い例だ。一見無関係な出来事の連続が、最終的に交通事故という大きな事故に繋がっていく。殺人も、略奪も、暴動も、戦争すらも。全ては事象の揺らぎがもたらした結果なのだ。
つい最近も他県で女子高生が起こした猟奇殺人事件が連日ワイドショーや教室内を騒がせているが、それ程の大事件であってもきっかけはごく小さなものだろう。
だから創一は観測する。そして大いなるものがその歪みを調整していくことになるのだ。
創一は目的地の高井戸おうし公園に着くと、自らブランコに揺られながらその時を待った。
しばらくすると、その揺れに呼応するように創一の隣のブランコに別な男の子が座った。
「やあ同志よ。観測は順調かい」
実は、創一には同じ使命を持った同志がいて、それこそが隣で揺られている竹原海斗だった。
「や、やぁ、創一くん。げ、元気?」
「ああ、観測は順調さ。君も相変わらず上手く世界に溶け込んでいるようだね」
紺の地味なリュックに目が隠れる程のもっさりとした髪。おどおどしていて人と話す時も下を向いて目も合わせないその感じは、正に観測に適した理想の姿と言えよう。
「あ、あのさ…。そ、そのことなんだけど…」
海斗が途端に言いにくそうに押し黙る。
「どうした、何かあったのか」
「も、もうさ、こんなこと…。や、止めにしない?」
「止める?」
創一は海斗の言っていることが理解出来ずにただ首を傾げた。
「そ、そりゃ、ちゅっ…中1の時、一人だった僕にさ。こ、声をかけてくれたことは、感謝してる」
『おや、君も一人か。そうか、私と同じだな』
「で、でも、僕たちもう…。ちゅっ、中2だよ?い、いつまでも、ごっこ遊びを続けるのは…」
『ようこそ同志よ。今日から君も観測者だ!』
海斗は何か勘違いをしているようだ。使命は放棄できるものではないし、そもそも観測者はそんな考えを持ち合わせていない。観測者になってまだ日が浅いから、俗世の感覚が抜けきっていないのかもしれない。
「そうか、わかった。ひとまず今日は帰って頭を冷やすが良い」
創一はブランコを降りると、海斗を公園に残して足早に去って行った。
「やっぱり、そうなんだね」
振り返りもしない創一の後ろ姿を、海斗はただ黙って見つめていた。
「ただいま」
癖でつい挨拶が出るが、家には今日も誰もいない。創一の父親は小さい頃に死別しており、母はパートをいくつも掛け持ちしていて滅多に家にいなかった。
【今日の夜ご飯の分です】
テーブルの上には母の書き置きとレトルトカレーが置かれている。今日の母は深夜までコンビニで働いているはずだった。
創一は温めたカレーを頬張りながら国語辞典を開く。辞典は天地や小口が薄汚れ、中は擦り切れ所々文字も掠れており、相当に使い込まれていた。
「今日はどの行にしようかな」
創一は勉強に興味はなかった。良い点も悪い点も創一に取っては全て同じことだ。怒る人も褒める人も、テストの点数を見せ合う友人すらいないのだから。
花火も、お祭りも、豆まきだって。小さい頃からイベントごととも無縁だった。この間夜中に偶然見た流星群も、世間的には件の女子高生の事件と同じくらい話題になっていたが、どれだけ凄くても話す相手がいないのだからどうでもよかった。
『調整…調定…観察…何かしっくりこないな』
そんな世界では言葉だけが創一の全てだった。ゲームなんか買ってもらえるはずもなく、漫画や小説すらも部屋には存在していない。だから創一は国語辞典を穴が開くほど読み込んで、辞書から新たな世界を創造したのだ。
『観測ー自然現象を観察・測定しその推移・変化について調べること。 物事の様子を見て成り行きを推測すること。うん、これだ』
創一に取って国語辞典だけが全てだった。そのはずなのに、今日はどうにも集中できない。頭に浮かんでくるのは公園での海斗とのやりとりのことばかり。
創一は本日分の観測ノートを書き終えると、違和感を抱えて早めに眠りについた。
次の日、いつものように誰にも話しかけられずに授業を終えた創一は、観測を続けながら高井戸おうし公園に向かった。
もし海斗が心を入れ替えていたなら、同じ使命を持つもののよしみで昨日のことは水に流すつもりでいた。
しばらくすると、公園へと至る十字路の先に海斗の姿が見えた。どうやら公園の手前でわざわざ待っているらしい。
創一がニヤける顔を抑えてわざとゆっくりと歩いていると、道の反対側から見覚えのある顔が現れて、どういう訳か海斗の方に歩み寄った。名前は思い出せないが、確か同じクラスだったはずだ。
「おっす海斗。待った?」
「う、ううん。今、来たとこ」
〈あんな明るい奴と、海斗が?〉
創一は慌てて歩みを止めると、電柱の影から二人の様子を覗き見る。
「早速やろうぜ!俺マジで待ちきれなくてさ」
「ぼ、ぼくも楽しみ。き、昨日、もう一つデッキ組んだんだ」
二人は何やらきらきらと輝くカードの束を見せ合って、食連星だの激変星だの熱く語り合っている。
「まじで⁉︎さっすが天体カードの師匠!でも負けないからな!」
「ふふ、ぼ、僕だって負けないよっ」
天体カードだって?
教室内でも時々他の男子が話題にしている人気のカードゲームだ。
そんな低俗な娯楽のために、海斗は崇高な使命を放棄したというのか。
【大いなるものよ。ご覧になっていますか?大いなるもの、クリエイターワンよ。かつての同志は道を誤り、俗世の娯楽にうつつを抜かしてしまいました。どうか、どうか彼にふさわしき罰をお与えください】
創一は観測した。彼らがいなくなっても、ずっと。
「ただいま」
帰ってきても部屋の中は暗いままだ。
母は今日も警備員のアルバイトで夜中まで帰ってこない。
【今日の夜ご飯です】
母の簡素な書き置きの上にカップラーメンが乗っている。
創一は電気もつけずに乱暴にカップラーメンの蓋を剥がすと、生のまま中身を頬張った。どうしてそんなことをしたのかは自分でもよくわからない。ただ、溢れそうな何かを留めておくにはこうするしかないように思えた。
噛んでいる内に硬い麺が口の中をあちこち突き刺して、鉄のように苦い味が口いっぱいに広がっていく。
けれども、その傷口の一つ一つからどろりとした何かが染み出してきて、創一は慌ててシャワーを浴びに浴室へ駆け込んだ。
わざと熱いお湯を浴びても、この気持ちは収まるどころか膨れ上がる一方だった。
創一は脳を焼く熱さを我慢するために無意識に爪を噛んでいて、いつの間にかそれが指に達して血が滴り落ちているのも気づいていない。もう考えたくないのに、十字路での海斗と同級生のやり取りばかりが浮かんでくる。
「唯一神クリエイターワンよ我の願いを叶えたまえ唯一心よ叶えたまえ唯一神よ叶えたまえ叶えたまえ」
呪文のように繰り返す内に次第に鼻からも血がこぼれ落ち、粘性の塊が排水溝と創一の頭の中を覆っていった。
「大いなるものよ、叶えたまえ」
創一の願いに呼応するように、排水口がごぼりと不快な音を立てた。
次の日は朝から体が重だるく、登校するのも一苦労だった。何とか休まずに授業を受けてはいたが、頭に霧がかかったように思考が覚束ない。昨日シャワーを浴びてからの記憶が曖昧で、髪を乾かさないで寝てしまい、風邪を引いたのかもしれない。
「よーし、トスの練習をするぞー。二人ひと組みになってくれ」
本日最後の授業は嫌がらせのように体育だった。最初は体育館の端で靴紐を結ぶフリをしながら上手く時間を潰していた創一だったが、二人ひと組を強制されては逃げることもできない。
「お、今日は奇数だな。えーと、じゃあ…星光。お前は先生とやろうな」
先生が創一に声をかけ、その僅かな時間だけクラスのみんなが創一を認識する。観測中は目立つことを避けたいのに、中々上手くはいかないものだ。創一は視線を避けるように下を向き、認識が阻害されるのをただ黙って待った。
海斗はというと、件の同級生と一緒のペアになっている。
「なあ、武臣。なんで竹原なんかと一緒にやるんだよ」
「そ、そうだよね…。ほ、本当に、僕でいいの…?」
「いいに決まってんだろ!お前知らないの?海斗は俺の天体カードの師匠なんだぜ?」
「まじで⁉︎武臣より強いとか神じゃん」
今までは創一と海斗がペアになることが常だったし、観測上もその方が都合が良かった。それなのに。
「俺とも対戦しようぜ、竹原」
「も、もちろん」
「よーし、なら放課後公園に集合な!」
海斗は下を向きながらも嬉しそうに笑っていた。海斗のそんな顔を創一は今まで見たことがない。
「星光、鼻血出てるぞ。大丈夫か?」
「あ、はい、大丈夫です」
創一は垂れてくる鼻血を拭うと、それからの時間は観測を放棄して集中して授業に取り組まなければいけない羽目になった。
帰り道、熱った体を引きずりながら、今日も創一は高井戸おうし公園に立ち寄った。もう海斗が来ないことは薄々感じていたのだが、それを認めたくはなかった。
創一が定位置でブランコに揺られながらぼんやりと世界を観測していると、反対の入り口からあろうことか海斗達がやってきて東屋に陣取った。
「なんでここなんだ…」
おうし公園は広く、カードゲームに熱中している海斗達はブランコに座る創一には気づいていない。
「っしゃあ!No.13オルバースで海斗のS O Dー散乱円盤天体を攻撃っ」
「きたきた、武臣の彗星将コンボっ」
「ふふっ、その瞬間、僕はオールトの雲を発動する」
「うわあぁぁぁぁっ!」
「彗星将が、き、軌道を乱されて、攻撃は失敗するっ」
海斗達の白熱した声が公園に響き渡る。
『同志よ。ここは神聖な場所だ。ここを我らの拠点としようじゃないか』
この公園は、創一と海斗の大事な場所だ。少なくとも創一はそう思っていた。
「くそおおお、海斗強えぇ。もう一回だ!」
「うん、やろう!」
それなのに、どこの馬の骨とも知れない奴らを連れてきて、あんなに楽しそうに…。
創一の体が怒りに震え、頭の中が真っ黒い感情に支配されかけたその時。
【星の子よ、同胞を巡れ】
創一の感情に呼応するように、突如頭の中に荘厳な声が響いた。
「だ…だれ?」
辺りを見回してもそこには誰もいない。
【星の子よ、同胞を巡れ】
透き通ったその声は創一の脳を静かに揺さぶった。声と同時に頭の中にいくつもの映像が流れてきて、そのあまりの情報量に創一は一瞬意識を失ってしまう。
真っ暗な世界を漂う数多の塵芥と、そこから遠ざかっていく雄大な青白い彗星。
そんな言葉は知らないのに、創一には何故かあれがエンケ彗星だとわかる。
視点が宇宙から地上へと高熱を帯びて急速に落ちていき、草原の真ん中では誰かが不安気に空を見上げている。その眼に映るのは遥か彼方に広がる大海原とそこに降り注ぐ巨大な火球だ。
直径5キロはあろうかという巨大な隕石がゆっくりと大海原に着水し、衝撃波と津波が世界を一瞬にして飲み込んで、創一は再び意識を取り戻した。
瞼の裏に見ず知らずの誰かの顔と名前が次々に浮かんできて、灰色の世界で再び流星がビル群に降り注ぐ。
「行かないと」
一刻も早く彼らの元に。
創一はブランコを降りると、家と反対方向にふらふらと消えていった。
「星光くん?」
東屋での天体カードの勝負がひと段落し、だらだらとお喋りに興じていた海斗は、公園を去っていく人影が星光創一に似ていることに気づく。
その後ろ姿は何となく不自然で、急に心配になった海斗は慌ててその背中を追うが、すでに人影はいなくなっていた。
地面には点々と血痕が続いていて、奇妙に捻れたブランコが風もないのにひとりでに揺れていた。
「おーい、急にどうした?」
「そろそろ帰ろうぜ」
「あ、うん」
海斗達がいなくなったあと、静かになった公園に鈍い金属音が鳴り響く。
鎖が捩じ切れて崩れ落ちたブランコが、主人の行く末を案じていた。
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