第5話

「行こう」

 九鬼龍作は八重山みつに声を掛けた。みつはきっぱりと頷いた。地元の人々や警察が近辺を探しても加代は見つかっていない。イヌワシが連れ去ったという確かな証拠はなかったが、みつの話から推理すると、そうとしか考えられなかった。

 イヌワシは本来相当高い岩場などに巣くっているようだ。中部圏にそのような山々は存在するが、山口県にそんな嶮しい山があるとは、九鬼には思わなかった。だが、イヌワシは実際いるようだ。

 「門山警部補・・・」

 「はい・・・」

 と、門山警部補は返事をしたが、首を振った。彼自身もこの状況に困惑しているようだった。彼もこの事件は知っていたが、ここでイヌワシの存在が注目されるとは、彼自身考えてもいなかった。門山警部補にはイヌワシの存在そのものが知らなかったし、まして山口県にイヌワシがいるとは聞いたことがなかったのだ。


山門警部補は後ろを振り返ったが、実際、何処をどう歩いて来たのか振り返ることが出来なかった。奥深い樹林の中に迷い込んでしまった気がした。

 「この先に・・・イヌワシはいるのか?」

 門山警部補にはこの先どう歩いて行っていいのか戸惑うばかりだった。だが、ランの足取りは確かなものであった。ここまで来ると、ランだけが頼りだったし、九鬼もランを信じていた。


 やがて・・・

 ピーピーヒヨロ・・・

 「何処だ?いたか・・・いや、いる」

 門山警部補が空を見上げると、一羽大きな鳥が飛んでいた。

 「イヌワシだ・・・」

 龍作が叫んだ。ランが唸っている。

 「奴か!」

 定丸勇樹が空を睨んだ。

 「親分!」

 結局、勇樹は仲間を連れて来ていた。四人とも怯えているのか、互いに顔を見合わせている。言い知れぬ不安に襲われているようだった。

 「ヒビるな・・・俺たちは奴と闘うために来たのだが、お前たちは何もする必要はない・黙って見ていればいい」

 イヌワシは何度も頭上を旋回している。まるで、

 「もっと、こっちに来い」

 と、眼下にいるものたちに自分の気持ちを投げ掛けているようだった。どうやらこの場所には降りて来ないようだ。

 「もっと先に来いと言っているようだ。行きましょう。私たちは奴のこの挑戦を受ける必要があります」

 龍作の眼が光っている。ビビは八重山みつの腕の中から顔を出し、やはり空を見上げている。ビビは歩くのに疲れると、彼女の腕の中に潜り込む。それを繰り返していた。

 「そうだな」


 三時間前に雨が降った。彼らが八重山みつの自宅を出る前のことだ。激しいもので、すぐ止んだが、雷が何処かに落ちたようだった。まだ樹林の間から雫が落ちて来ていた。もちろん、雑草も濡れていた。余程足場をしっかりと踏み込まないと滑って足を取られてしまう。


 「いや、驚きましたね・・・近くにこんな場所があるとは知りませんでしたね・・・」

 門山警部補はぬかるんだ樹木に足を取られそうになりながらも、ランに引きずられながら歩いている。ランは、どうやら、奴を追い掛けて行きたいのかも知れない。

 「どうします?」

 「大丈夫ですか、門山警部補。まだ離さないで下さい」

 龍作が門山警部補に声を掛けるが、

 「何・・・これくらい・・・」

 と、答えるが、しんどそうに見える。それ程ランの引っ張る力が強くなって来ていた。雑草と泥の泥濘が、彼には応えているようだ。


 「加代ちゃんをさらっていったのは、イヌワシなんでしょうか?」

 八重山みつは訊いた。

 龍作が応えた。

 「身体の小さな女の子・・・?」

 「はい、三歳ということもありますが、歳の離れた小さくて可愛い妹です」

 「イヌワシは小鹿を襲うこともあるようです。ああ、もちろん彼らも生きていかなければならないのですから」

 「じゃ・・・加代は食べられてしまうの・・・」

 相当山の奥に入り込んでしまったようだった。樹木が行く先の道に覆い覆い被さり、地面は雑草に覆われ、どう歩いて来たのか、後ろを振り返ってもよく分からない。辛うじて、雑草が踏み分けられているのが見られる。自分たちが歩いて来た証しなのである。

 「行きましょう、この先にさらった子の・・・きっと手掛かりがつかめると思いますよ。奴も私たちを誘っているのは、どうやらそのつもりなんでしょう。大丈夫・・・?」

 みつはニコリと頷いた。龍作はみつを気づかった。いつの間にか、ビビはまたみつの腕の中に抱かれていたのだが、その姿勢に疲れ始めたのか、彼女の腕の中から飛び出した。

 「ビビちゃん、ダメだよ」

 みつのいうことを利かないビビである。結局彼女に甘えているのかも知れない。確かに濡れた雑草の中は山の中で育っていないビビには歩きにくそうだった。ビビは雪の降る寒い日に住宅地に捨てられていたのだ。もちろん、ビビにその時の記憶があるわけがない。

 「しょうがないわね、ビビちゃん。私の傍を離れないでね」

 ニャー

 ビビはみつを見上げた。

 やがて・・・

 先の方が明るくなって来た。どうやらこの先に平野があるようだ。

 「やっと平野に出られるのか・・・」

 門山警部補が声を上げた。

 ワンワン

 ランが走り出した。ランはすでにイヌワシの匂いを嗅ぎつけている。

 「門山警部補!」

 その声に、門山警部補はリールを離した。ビビもその後を追った。

 イヌワシが遥か上空から、この様子を窺っていた。

 誰も気づいていないが、イヌワシの他にもう一頭ビビたちを狙っているものがいた。彼らより離れて、後をついて来ていた。

 相当デカいイノシシである。ランさえもその存在に気付いていない。

 イノシシの狙いはどうやらビビを狙っていて、そのチャンスを待っているようだ。勇樹の仲間たちは一番後からついて来ていたのだが、彼らもやはり何も気づいていないようだ。

このイノシシは余程用心深く、しかも賢いようだ。おそらく、多分、余程自分を律しているのかも知れない。イノシシだって生きる知恵を取得しているだろうし、それなりの経験・・・つまり痛い眼に合ったことがあるに違いない。もちろん、一番の敵である人間にである。

 彼の体をよく観察すると、背中や足首に酷い傷があるのに気付く。だが、その彼なんだが、まだある異変に気付いていない。それは、彼の敵は目の前にいるだけではないのである。まあ、こっちがそんなことを気づかっても始まらない。なぜなら、彼・・・つまりイノシシの目当ては黒猫のビビであり、その前を行く人間たちの目当てはイヌワシなのである。ただ、ランだけは背後にある異変を感じ取っていたのだが、そのランでさえイヌワシに神経を集中させていたのである。目下の敵はイノシシではなく、イヌワシ・・・なのである。

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