堕ちていくこの身
熱い水が体を濡らしていく。
雨で冷え切った体が温まっていく。
和也君に「風邪をひくから」と、泣きじゃくる僕を引きずるように家に連れてきた。そのまま、半ば強引に風呂に連れてこられた。
もういっそ、体中冷え切ってそのまま二度と動けなくなってしまえばよかったのに。
しぶしぶシャワーを浴びた。
ただただ、排水溝に流れていく水を見つめていた。
何も考えられなかった。
思考を脳が拒否している。オーバーヒートした機械みたいに、何かを考えようと思っても、意識がうまくまとまらない。
「…どうして」
呟いても答えが返ってくるわけでもないが、しきりにその言葉が口から漏れる。
体中から生気がなくなって、どこにも力が入らない。シャワーを止める動作すら億劫で、もう何分このままなのかもわからないほどだった。
「静香さん大丈夫っすか?」
シャワールームの扉が開く音がした。
「あの…もう結構たってますけど、大丈夫っすか…?
「大丈夫?なわけないでしょ…」
ははは、と乾いた笑い声が出た。化け物みたいな気色の悪い声だ。自分の声と思えない。
ふと、流れていた水が止まった。和也君の手だろうか、シャワーの栓を閉めていた。
「ほ、ほら戻るっすよ!」
腕を掴まれてシャワー室の外に連れ出される。タオルをかぶせられ、勝手に体を拭かれる。
水気がなくなると、和也君が用意しておいた服を手に取って、
「ほら、足上げてくださいっす」
と下着を広げながら突き出してきた。
面倒だと思ってしまった。
「いい。このまま寝る」
「え、あはい…わかったっす」
しゅん、と和也君はしぼんだ。と思えば、急に顔を上げて大きな声で、
「あ、あの、朝ごはんは!?」
といった。
僕はぶっきらぼうに、
「いらない」
そう言ってしまった。
こんな態度じゃ悪いとは思っているけど、気を遣う余裕なんてなかった。
「そ…そうですか」
再び彼のテンションはしぼんだ。
「…和也君、あのね」
僕は彼に背を向けた。
「僕に優しくしないで」
辛くなるから。
僕は彼の反応をまったく無視して、部屋を出ていった。
純壱といつも寝ていた、あのベットに横になった。
シーツを撫でる。いつもあった熱が、そこにはもうなかった。
「純壱…」
僕は布団を引っ張り寄せて、包まった。その下で、体を丸めて縮こまった。
寒い。
体が、というより、心が寒い。
隙間風が吹き込んでいるみたいだった。何もない廃墟みたいな家で、一人風におびえている。
この家はいつ崩れるかわからない。誰か、誰かこの家を温めて欲しい。なおらなくてもいいから、せめて温かくしてほしい。
毛布を握りしめた。
また目頭が熱くなってきた。
閉じていた瞼の隙間に水滴がたまっていく。
「純壱…じゅんい、ち…」
名前を呼び続けた。
もうそこにはいない彼の名を。
どうしようもないほど、ここにはもう彼がいないのだということを実感してしまった。
「いやだ…。一人は嫌だ…」
僕には広すぎるベットで、一人泣き続けた。
「寂しいよ…」
胸に穴が開いたようだった。
僕を形作っていた何かが、純壱がいなくなったことでごっそりと持っていかれた。
それが穴となって、僕に空虚な影を落とす。
寂しい。
僕の声は激しく振る雨音に吸い込まれ、消えていった。
鏡に映った顔を見た。
生気がない。それもそうだろう。
純壱の失踪は計画的なものだった。事業もすでに譲渡されていたし、役員たちにはすでに辞任する意を伝えていた。
一体いつから実行を見据えていたのだろうか。住んでいた家の家賃といい、会社の譲渡といい、何もかもに対策を取っていて、あとが個回らないように徹底して根回しがされている。
僕は気づかないふりをしてのだろうか。もっと、予兆はあったのだろうか。
確かにここ数日、純壱の態度はどこか変だった。とはいえまさか、いきなり出ていくなどど思うことができただろうか。
後悔先に立たず。考えても変わらないのに、あの時こうしていたらと過去を思い返してしまう。
「すでに知っている人もいると思うが、社長が変わった。突然のことで驚くと思うが、特にルールなど変わることは無いから…」
店長の言葉が頭に入ってこなかった。すべての言葉が、僕をすり抜けていった。
なんで、ここにいるんだろう。
再び俯いた。
家にいるのも辛くて、いつもの癖でなんとなく来てしまった。
店長の話を聞いた演者やスタッフは、それぞれの持ち場に散っていった。
「ねえ、静香…」
「なに?」
「えっ…いやその…」
明らかに引いていた。よっぽど僕が気味悪いんだろう。
何せ、今までの僕と違って表情の欠片もない、無の表情が顔に張り付いているのだから。
「…何でもない」
そう言って、彼女は去っていった。僕も同時に控室へ向かった。
ついた先で、いつものように化粧をして、衣装に着替えた。
やめるとか休むだとか言っていないから、いつも通りの公演スケジュールが組まれている。
僕はそれに向けて支度した。半ば日々のルーティーンと化していた行動を本能的に行っていた。
「アンタ…社長と行かなかったの?」
突如、後ろからナターシアさんに話しかけられた。
「…はい」
「ねえまさか…別れたの?」
「まあ、そうなりますよね…」
爪を触る。ネイルが剥げかけていた。ああ、塗り直すのめんどくさいなあ。
「はぁ…深くは聞かないでおくわ」
彼女はこういう時に空気を呼んでくれる人だ。ありがたい。
「…ありがとうございます」
「辛かったら、遠慮なく言いなさいね…?」
「気が向いたらそうします」
一切目を合わせずに会話した。
ふと思い出して壁掛けの時計を見た。
針は公演開始時間に迫っていた。
「ああ、行かなきゃ」
僕はのろのろと立ち上がり、ステージへ向かった。
「静香ー!」
「待ってたぞー!」
「こっち!こっち向いて!」
ステージに出ると、会場を埋め尽くす観客たちから声援が放たれた。
僕が手を振ると、ファンの人たちが手を振り返してくれる。
その中から、純壱を探してみた。当然、いるはずもなかった。
無理やり口角を上げて笑顔を作る。
観客の誰にもばれないように、精一杯繕う。
中央にたどり着いて、軽く挨拶をしたら、いつも通りの公演をした。
いつもと違ったのは、毎回感じていた高揚感が無いことだ。
全然、気持ちよくない。
観客が送る拍手や声援。スポットライトの光。激しく鳴る音楽。
昨日まではこのどれもがこの体を刺激して、性的興奮に似た快楽をもたらしていた。
けれど、今は全くそれらが響かない。何も感じない。
元々は純壱のためにと始めたストリッパー生活だった。
そこにいて、いつも見ていてくれた、あの人がいたから、僕はここに立てた。
なのにそれが、今はどうだ?
何のために脱ぐんだろう。
僕はなんのためにここに立っているんだろう。
わからない。わからない。
この会場を埋め尽くすすべてが、自分のものではなくなっている。
ただ一心に体を動かした。
表情は笑顔を保てていただろうか。
少なくとも、観客の様子はいつも通りだ。うまく誤魔化せているんだろう。
音楽が鳴りやむ。
肩で息をしながら、最後のお辞儀をした。
観客たちはいつも通り喜んでいた。
その中に彼はいない。なら、この賞賛も無意味だ。
歓声を浴びながら、ステージ袖へ戻る。
公演は終わった。
僕はおぼつかない足取りで更衣室へ行き、さっさと私服に着替えた。
もう明日から来なくてもいいだろう。
ここにも彼はいないんだし、もはや出演する意味はない。
帰るのも嫌だったが、ここにいるのも気が引けた。
人と関われば関わるほど、周りに不愛想を振りまいて迷惑をかけそうだったから。
僕は控室を出て、廊下を歩いた。
「お疲れ様しず…」
僕に挨拶をしようとしたスタッフの一人は、顔を見た途端に言葉を詰まらせた。
「ああ、お疲れ様です…」
僕はぼそぼそと喋って、帰路に戻った。
スタッフは困惑してしばらく僕を見送っていたみたいだった。背中に視線を感じた。否、他のスタッフや演者の視線も集まり、前以外から人の目の気配を感じ取っていた。
無視して外に出た。さて、これからどうしよう…。
「あ!」
誰かが声を上げた。声の方を見ると、若い二人の男がこちらに駆け寄ってきているところだった。
とっさに僕は笑顔を作る。明日から来ないんだから意味がないと思うが、本能的にそうしてしまう。
「静香じゃん!さっき公演見たよー!」
「今日もよかったよ!」
二人の顔を見て僕は気づいた。彼らは常連での、いつも僕の公演を見に来てくれているファンの人たちだった。
「ああいつも前の方で見てくれてる二人だね!今日もありがと~」
気色の悪いくらいの猫なで声で話す。よくもまあ、こんなに思ってもない態度ができるものだと自分自身に感心した。
「いやあ出待ちしてたわけじゃないんだけど、たまたまこいつと駄弁ってたら静香ちゃんが出てくるところ見つけちゃってさあ!」
「思わず声かけちゃったけど、迷惑じゃなかった?」
「ううん、大丈夫だよ!むしろ声かけてくれてありがとうね!」
まったく真逆の心境だった。面倒だなあと思っていた。
「あれ…そういやいつもいる男の人は、今日はいないの?」
「え…」
心臓がギュッと締め付けられるように痛んだ。
そんなこと聞かないでよ。
などどいうわけにもいかなかったので、適当に誤魔化そうと愛想笑いをした。
「あはは…今日はいないんだよね。用事があるとかでしばらく帰ってこなくて…」
「そうなんだ…ふうん?」
片方の男の目つきが変わった。あれは何かを企んでいる目だ。
「じゃあ、今日静香ちゃん暇な感じ?」
「え?」
そういいながら男は僕ににじり寄った。顔を近づけ、さっきまでの推しにあった喜びの笑顔と違って、今度はにやりと醜悪な笑みを浮かべた。
「空いてたらさあ、俺らと遊ぼうよ」
「あ、それいいね!」
もう一人の男も同調した。
「いや…それは」
断ろうと後ずさりしようとする僕を、近いほうの男が腰に手を回して阻止してくる。
「一晩だけでいいからさ?そうすれば彼氏にもばれないっしょ?ね?」
「そうそう。たまには息抜きしないとね?」
腰に回していた手が、僕の尻へ伸びていく。ぞわ、と鳥肌が立った。
彼は腕を引いて、僕を体に引き寄せる。その間にもう一人の男が、僕の背後に回った。
その時、ふと感じてしまった。
人肌の温度。寄せた体が触れる部分に熱さを感じた。
その瞬間、僕の中の、何かのタガが外れた。
鍵穴に適切なカギをあてがわれたようだった。探していたものと目の前に現れたものは厳密には違うが、同じように鍵穴を開けることができる、いわば代用品のようなものだ。
孤独をため込んだ箱の鍵穴。開けなければ溜まっていく一歩だ。
けれど、一時的にでも箱を開ければ、苦しみは薄まる。
彼らはまさに、僕の胸にぽっかり空いた孤独の穴を一時的に埋めてくれるかもしれない。
そうだ、そもそも僕は裏切られた側なのだ。
もはや貞操観念など脱ぎ捨ててしまおう。
義理はもう必要ない。僕の愛する彼はもうここにはいない。ならもう、何をためらおうものか。
今度は作り物ではなく、心からの本当の笑みが現れた。
「じゃあ、一晩だけね?」
男の背に腕を絡めた。男は嬉しそうに目を細めた。
「名前、なんていうの?」
背中を撫でながら聞いた。
「リョウ」
「こっちの、もう一人の子は?」
「俺はシンジ」
「うん、じゃあよろしくね。リョウくん。シンジくん」
リョウ、と名乗った男は僕を離した。
今度は二人ともの手を両手で一人ずつ掴んだ。
「優しくしてね?」
ふふふ、と悪事を企む魔女みたいな声で笑った。
近くのラブホテルに3人で入った。
順番にシャワーを浴びた。
全員裸になって、僕を中心に混ざり合うように抱き合った。
僕は積極的に彼らを求めた。
卑猥な言葉をたくさん囁いた。言えば言うほど興奮が高まっていく。
僕はこんなにも、変態的になれたのかと後々思った。
そうしてその日、純壱以外の男と、初めて交わった。
彼とするのに比べたら、物足りない。
けれど一夜だけでも、寂しさを忘れるには十分な時間だった。
男たちのアレを咥えている時や体をまさぐりあう間は、空虚な心の穴が埋まっているように錯覚した。
けれど行為を終えて眠り、朝になるとすべて思い出してしまう。
捨てられたこと。寂しさ。苦しみ。楽しかった過去。
その度にまたステージに立ち、魅了したファンたちにすり寄って、誘う。
そうして何度も、何度も繰り返した。
何人としたのか、もう数えてはいない。
経験したことも無いような変態プレイもした。
そのたびに連絡先が増えていって、今じゃいろんな人から誘いが来る。
僕は確実に闇へ堕ちていた。
無数の欲望という名の手に引き寄せられ、堕落という穴に引きずり込まれていく。
もはや僕は、穢れ切っていた。
何が綺麗なままでいて欲しいだ。
もう僕は、こんなに汚れているよ、純壱。
ある日の夜に、僕は自嘲気味にそう笑って、目を閉じた。
雨が降っていないのに、雨音の幻聴が聞こえた気がした。
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