絶望の雨

水滴が窓に打ち付ける音が聞こえた。

妙にいつもより寒い気がした。

目を閉じたまま手探りで彼を探した。

ない。

いつもの温かくて大きい彼の体が見つからない。

遠くにいるかもしれない。もう一度、探ってみた。

ない。

目を開けた。

居なかった。

「…あれ?」

いつも隣で寝ているはずの純壱がいなかった。

先に起きたとしても、彼は必ず僕に一声かけて起きる約束だったはずだ。

なのにどうして?

声をかけられたのに忘れているだけかもしれない。

「はは、よっぽど眠かったのかな、僕…」

ベットから降り、部屋を出てリビングに行ってみた。

そこにも彼はいない。

シャワーでも浴びているのかも、と洗濯室を覗いたけど、そこにもいない。

同じように、キッチンにも、トイレにも、探した。ある限りの部屋中を探して回った。

どこにも、彼の姿はなかった。

「あの、静香さん…」

はっと、声の方に振り返るとそこには和也君がいた。

「その…おはようございますっす…」

「おはよう和也君、純壱はーー」

僕がそこまで言いかけたとき、彼はそっと僕のスマホを差し出した。

「何で君が持って…」

和也君は気まずそうに目線を泳がせていた。

嫌な予感がする。

何か悪いことが起きているのでは。

血の気が引いていくのを感じた。

「たぶん、そろそろかかってくると思うっす…」

「かかってくるって…」

ピリリリリッ!

「ひっ!?」

突然大きいく高い機械的な音が鳴った。それは僕のスマホの、電話の時の着信音だった。

こんな朝から電話をかけてくるなんて、彼しかいない。

僕は慌ててスマホを手に取った。画面には「純壱」の文字が浮かんでいた。

きっと用事があって先に出かけてしまったとか、そういうたぐいの連絡だろう。

ああそうだ、何も恐れることなんてない。嫌な予感も、考えすぎているだけだろう。

震える手で、電話に出るボタンを押した。

「もしもし?純壱!?」

「…静香」

スピーカーから聞こえた彼の声色は、今までに聞いた彼の声の中で、最も低く、暗かった。

「ねえ、今どこにいるの!?なんか声に元気が無いみたいだけど。大丈夫!?何してるの!ねえ!?」

不安をかき消すように、矢継ぎ早に問いかける。

さっきの声を聞いてから、底知れぬ不安が押し寄せてきて、怖くてたまらなかった。

いつの間にか崖際に立たされていたかのようだ。目の前は奈落で、後ろからじりじりと端まで追い詰められていっているようだった。

彼は黙ったままだった。僕の問いに、何一つ答えてはくれない。

「何か言ってよ!」

震える声で叫んだ。それからしばらくの沈黙が続いた後、声が聞こえた。

「…すまない」

「えっ…?」

何が?何にすまない?

待って。

嫌だ。

聞きたくない。

この先を聞いちゃいけない気がする。本能がそう告げていた。

このままだと、僕は追い詰められた崖から落ちて、何もかもが終わってしまう。そんな予感がした。

「何が…ねえ、どうしたの純壱…」

「やらなくちゃいけないことができた」

低い声で言った。暗闇がしゃべっているようだった。

「そのために、僕は国を出ていくことにした…」

完全に崖から足を踏み外した。

「…は?」

世界から音が消えた。時間が止まったかと思った。

実際には錯覚だ。けどそれほどの勘違いを起こすほどの衝撃が、僕の脳にたたきつけられていた。

「出て、行くって…?何言ってるの…」

「前に言ったと思う。僕からすべてを奪った奴らのこと」

純壱たちを逆恨みしたとかいう、あのマフィアたちのことだろうか。

こういう時ばかり、記憶がすぐに呼び起こされるのが腹立たしい。

「それが、何で今更…!?」

「……逃げ伸びていた奴らが見つかった。1人どころじゃない。数十人ほどいる」

「そんな…っ!」

てっきり、そいつらに関しては解決済みだと、勝手に思い込んでいた。

終わっていなかったのだ。彼と彼らの間の因縁は。僕の知らないところで、続いていたんだ。

「僕はそいつらに仲間と復讐しにいく。君は、連れていけない」

それは僕にとっての、死刑宣告だった。

ますます体温が奪われていく。汗が止まらなくなってきた。

「ねえ待って!僕もついて行くから!復讐でもなんでも手伝う!どれだけ過酷な場所に行ったって、純壱といれば平気だよ!邪魔なら傍に置いてくれるだけでもいいから!」

僕はスマホを握りしめた。

「お願いだから、置いて行かないで!!」

画面に水滴が落ちた。僕の目の端から零れ落ちた涙だった。

「…すまない。もう決めたことだ」

「そん、なーー」

呼吸がままならない。息が詰まりそうだ。

嫌だ。

行かないで。

今更一人になったら、どうしたらいい?

「いやだ…いやだ…っ」

足に力が入らなくて、膝から崩れ落ちる。

涙が止まらない。

子供のわがままのように、ただ同じ言葉を繰り返すしかできない。

「静香、君には、きれいなままでいて欲しいんだ。これからきっと、僕といたら君は汚れていく。そうあってほしくないんだ。美しいままで、僕の記憶にいてくれ」

「綺麗なんかじゃない!僕はっ…綺麗なんかじゃないよ…」

僕は穢れている。母に抱かれていたあの時から。ずっと今日まで。

「生活のことなら心配しなくてもいい。家のことは和也君に頼んである。うちの専属になって、家事は全部やってくれる。お金も、ありったけの財産を残していく。家は1年先まで家賃を払っておいた。嫌になったら引っ越してくれ。」

「そんなの、どうだっていいよ…!何がお金だよ!そんなもの、純壱がいなきゃ何の価値もない!!」

地面を殴りつけた。力加減をしていないせいで、拳が痛い。

この痛みは今感じている胸の痛みと比べたら、比較にならないほど些細なものだ。

「戻ってくるの…?だったら待ってる…!」

わずかな希望に縋った。けどそれも、すぐにかき消される。

「戻るつもりは、ない」

「どうして…っ!?」

「穢れた僕を見て欲しくない。それにきっと、生きて帰れるのかもわからない」

「嘘だ…」

「悪いが…本当のことだ」

ぎゅう、と胸の痛みが増していく。

息ができない。

「…本当にすまない。静香、聞いてくれ」

僕はスマホを今すぐ手放して、耳をふさぎたかった。なのに、体が言うことを聞いてくれなくて、聞きたくない声が耳に入り込んでくる。

「ステージ上で舞う君が、笑っている君の笑顔が、抱きしめるとほっとするような温かさが、大好きだった」

「やめて…」

刃を突き立てられて、ゆっくりと押し込まれているようだった。

「これ以上ないくらい。本当に幸せな日々だった。僕にはもったいないくらいだ」

「もうやめて…」

刃が体に食い込んでいくように、胸の痛みが、苦しみが増していく。

「君会えて、本当に良かった」

「嫌だ…!」

刃は、僕の体を貫いた。

「さようなら、静香。心の底から、愛しているよ」

プッ、という音がした。

通話は終了しました。と淡白な文字列が並んでいた。

僕はバネみたいに、立ち上がって走り出した。

「静香さん!?どこいくんすか!?」

和也君の声を無視して、サンダルを履いて家を飛び出した。

着ていたネグリジェのままで、マンションを出た。

外は豪雨だった。雨のカーテンがどこまでも続いていた。

傘なんてさしている暇はない。雨の中へ突っ込んだ。

国を出るって言っていた。なら、彼は空港にいるはずだ。

一番近くの空港を思い出す。あそこまでタクシーで今すぐ向かえば、まだ間に合うかもしれない。

会ったら彼に飛びついて、掴んで離さないようにしよう。せめて一緒に連れて行ってさえくれればいい。

その先がどんなに辛くてもいい。彼と離れるくらいなら、死んでしまったっていい。

僕は大通りに出て、手を上げて必死にタクシーを待った。

けど、こんな日に限って、車両がまったく通らない。

一向にタクシーらしきものが通らない。

「早く…早く…!!」

やっと一台のタクシーが通りかかった。けれどフロントガラスの奥に、乗車中の文字があった。

「ああもうっ…!」

足元の水たまりを蹴り上げた。

雨は降り続いている。

早くしなければ、彼が行ってしまうというのに。どうしてこういうときに限ってうまくいかないんだ。

「静香さん!」

和也君の声だ。振り向くと、傘を差さずに僕の後を追いかけてきていたみたいだった。

「ねえ、和也君もタクシー探して…」

「もう遅いっす…」

「何が…」

和也君は俯いて、おずおすと話す。

「もうたぶん飛行機、飛んでます…」

「まだ、まだこの雨だから飛んでないかもしれないでしょ!?何でわかるの!」

「純壱さん、晴が確実の空港にいるっす…」

「…は?」

「今日大雨で飛ばないの知ってたから、別の国際線がある空港にまでいってるっす…」

「そんな…」

力が抜ける。ふらふらと、地面にへたり込む。

「それと…フライトの予定時間、電話を切った五分後とかなんで…もう、間に合わないっす…」

「嘘だ…」

「すみません、俺…今朝早くに教えてもらってたんですけど…電話するまで黙っててくれって…」

「嘘だ嘘だ嘘だ…」

頭を抱えた。指先に力が入って、顔に食い込んでいる。

「いや…いやあ…嘘だ…純壱…」

嘘だと思いたかった。けど純壱はこんなうそをつかないのは、僕が一番知っている。これは、紛れもない現実だった。

僕は捨てられた。

奈落の底に落ちていくように、絶望が心に満ちていった。

喉の奥から何かがこみ上げてくる。それは、絶叫だった。

「うああああああああああぁぁぁああああああぁぁ!!!!!!」

喉がつぶれそうなくらい叫んだ。もういっそ壊れて、何も言えなくなってしまえばいいと思った。

目から熱い液体が、とめどなくあふれた。雨に紛れて、体を伝って流れていく。

雨はとめどなく、降り続けていた。

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