僕の知らない世界
あれから僕と純壱は何度も交わった。5回目くらいから回数を数えるのをやめた。
母と行為していたせいなのか、僕の体はすんなりと純壱を受け入れ、あまつさえ積極的に快楽を求めるように動いた。
一度は拒否したキスもためらいがなくなり、隙あらば僕からも純壱からも唇を寄せた。ディープキスをして舌の入れ方も知った。フレンチキスとは違った快感があった。カップルが積極的にする理由がよく分かった。
二人で裸になって抱き合うだけでも幸せだった。人肌を全身で感じ、這う指の感覚に身悶えするあの時間が最高の幸福だった。
そんなことを繰り返しながら、月日は流れていった。その間は、純壱とデートと称して出かけたり、彼の仕事についていってみたり、その仕事のタブレットやパソコンで手伝えるくらいの軽い作業を手伝ったりした。
ハロウィンにはコスプレをしたり、クリスマスにはお互いにプレゼントを贈り合ったりした。
そうしているうちに年が明け、いつしか街路樹にピンク色の花が咲く時期にまでなった。
そんなある日の夜。ソファーに座る純壱の膝の上に僕が座り、彼に体を傾けていた時だった。
「卒業おめでとう、静香」
本来であれば学校で卒業式に出席していたであろうこの頃。3月中旬。
彼は僕の頭を撫でながらそう言う。
「前に言ってた話、覚えてる?」
「ん?どれ?」
「アルバイトの話」
「あったねそういえば」
ずいぶん前に、僕が卒業したら彼の会社でアルバイトと称して、手伝いをさせてくれると言っていたのを思い出した。
「純壱のお店って風俗系でしょ?ホストとか?」
「静香がキャストとして仕事したいなら別にいいけど、それよりもまずは、こっちの世界に慣れた方がいいんじゃないかって思うんだ。だからまず、裏方の仕事をしてもらうかなって」
「なるほど。で、どんな内容なの?」
「うちのストリップクラブで演者さんのアシスタントなんてどうかな?」
「アシスタント?」
「お茶配ったり、メイクしてあげたり、衣装の着付け手伝ったりとか」
「へぇ…」
まったく想像できなかったが、少しだけ興味が湧く。
「でも、こんな素人が行っても大丈夫なの?」
「大丈夫だろ。僕の店にはいい子しか雇ってないから、優しく教えてくれるよ」
「本当かな…」
彼の職場がどんなものか知らないが故に少し不安は残るが、嫌なことがあれば純壱が何とかしてくれるだろう。
「とりあえず…やってみたい」
「いいね。じゃあ明日から行こう。店の管理人に話を付けてくる」
彼は僕の足を持ち上げて、そっと下してくれた。ソファーに座る僕に彼は優しく、
「待っててね」
と告げ、立ち上がってスマホそ操作しどこかに電話をかけながら、バルコニーの方へ歩いて行った。
「それにしても…」
僕はおもむろに天井の方に顔を向けた。
「もうそんなに経ったんだ」
純壱に初めて会った時のことをぼんやり思い出して、過ぎた日々に思いをはせた。
そうして思った。前に思い描いていた未来よりも、今はそれよりもずっと幸せな日々を過ごせていると。
純壱の誘いに乗ってよかった。
僕はソファーに寝転んで、彼が戻ってくるのを待った。
「僕の店はね、会員制のストリップクラブで、会員料が少し割高の代わりに、サービスや警備に力を入れてるんだ。客層もそのおかげか、悪い人も少ないし、スタッフもしっかりしてる、と自負してるよ」
車を運転しながら純壱がそう説明してくれた。
日が落ちて暗くなった今夜。車に揺られて数十分のところまで来たところでそれは見えた。
今時ネオンライトを見る機会があると思わなかった。
看板に「ストリップクラブ 紫陽花~アジサイ~」と書かれていた。その建物の裏口付近の駐車場で純壱は車を停めた。
「これが、純壱の店?」
「そうだよ。建物は一回立て直したから、中も綺麗だよ」
車を降りて裏口に向かう。扉を開けると、大音量で流れているであろう音楽がどこか遠くからうっすらと聞こえてきた。
中に入り、先導する純壱についていく。少し廊下を歩くと突き当りに扉が見えた。扉には「控室」と書かれたネームプレートが貼り付けられていた。彼はその扉を開けた。
「こんばんは」
彼が声を発すると、その場にいた数名の人たちが、一斉にこちらに振り返る。
「あら、社長じゃない」
最初に声を発したのは、ボブカットで丈が短いタイトな黒いドレスを着たた、声の低くガタイのいい女性、に見える人だった。
「お疲れ様でーす」
椅子に座っていた二人の女性は純壱にそういうと、一人はスマホを見るのに戻り、もう一人はメイクの続きをし始めた。
「お疲れ様、みんな元気にしてる?」
純壱はボブカットの女性に歩み寄った。
「そりゃあもう、元気すぎて口うるさいわよほんと」
「はは、ならいいね。最近は皆、頑張ってくれてるみたいで嬉しいよ」
「まあね、アタシはともかく、杏ちゃんとかは最近ファンが増えて変なのも出てくるくらいだし。柚子ちゃんはトレーニングの成果で腹筋われてきてるしね」
「へえ、すごいじゃないか。さすがだね二人とも」が
先ほどの椅子に座っていた二人に向って言った。どうやらあの二人が杏と柚子という人らしい。
「ねえ~しゃちょ~、給料上げてくださいよ~」
スマホを操作していた方の髪の長い女性が、回転椅子を回して振り返りながら彼にそう言った。
「うーん、じゃあ今月の成績を見て良かったら、来月から上げてあげるよ」
「ほんと~!?やったあ~!」
「その代わり杏ちゃん、来月から頑張ってもらうからね」
「え~」
どうやらこっちが杏という名前らしかった。
「あそうだ、社長の連れてきたその子」
ボブカットの人と僕の目が合ったので、慌てて自己紹介をした。
「は、初めまして。静香です」
「あら、自分から名前を言ってくれるなんていい子ね。この業界挨拶すらしない子だって多いのに」
そうかな、と言いそうになったが飲み込んだ。
「今日から来るって言ってたアシスタントの子だよ。店長から聞いてない?」
「ああ、言ってたわねそんなこと」
「ちなみにね…」
純壱は彼女の耳元で何かこそこそと呟いていた。すると彼女は「えっ」とどろいた声を発した。
「この子が?」
「そう、かわいいでしょ?」
「ほんとに?一人に身を固めることなんてしてこなかったのに。珍しいこともあるのね」
「まあね」
自慢げに純壱は笑った。
憶測だけど、たぶん僕が恋人であることを報告したんだろう。
「んで、アタシの仕事手伝ってくれるって?」
「あ、はい!」
急に矛先が僕に向いて驚いた。
「あの…お名前は…」
「アタシはナターシア、本名じゃないけどどうだっていいわよね。あとこう見えてちゃんと下についてるから。でも趣味は女の子で恋愛対象は男だ、か、ら。ま、よろしくね」
「そ、そうなんですね、よろしくお願いします…」
困惑しながらも、軽く頭を下げた。実際、彼女の本名がどうかは確かに関係のないことだからいいとして。おもわずナターシアさんの下半身を見てしまいそうになるのをこらえる。普通に失礼だから。
「彼女はここで一番のベテランで、店長の次に偉いんだ。だから経営意外の大体のことは、彼女に聞けばわかると思うよ」
「大げさね、そこまで大物じゃないわよ。大体の子は自分で衣装も用意するし、アタシがやるのはお茶渡すのと話聞いてあげるくらいよ」
「それも大事な仕事だろ?君の話はいつもためになるって、演者の子たちもよく言ってるよ」
「はいはい、お世辞は良いわよ」
彼女は鼻で笑った。それを気に留めずに、純壱はにっこりと笑った。
「ナターシア、悪いけど彼に色々教えてあげてくれるかな?こっちの業界初めてだからその辺も教えてあげてくれると助かるんだけど…」
「社長の頼みなら断らないわよ。いいわ、アタシができる限りのことでよければ」
「ありがとう!…ボーナス上乗せしとくね」
「あらいいのに。ありがと、張り切るわ」
「助かるよ。じゃあ…静香、僕は店の様子を一通り見てくるから、その間彼女に色々教えてもらっていて」
僕は首を縦に振った。彼は扉の外に出て、どこかへ行ってしまった。
「さあて、何から教えましょうか」
真っ赤なリップ塗った唇に人差し指を当てながら、ナターシアさんは何かを思案していた。
「ま、とりあえず…トイレの場所から教えましょうか」
なんで?
ナターシアさんについていき、建物の案内をしてもらった。さっきいた部屋は演者さんの控室で、あそこで化粧をしたり、着替えや休憩をしたりする場所らしい。ステージと直結しているらしく、さらに奥へ行くと通路があるとのこと。裏口から控室までの通路の途中にいくつか扉があり、事務室や洗濯室、倉庫などがあった。ちゃんとトイレもあった。
一通り案内してもらった後、再び控室に戻ってきた。
「仕事は大雑把に言うと…衣装を着る手伝いとか、買い出し行ったりとかかしらね。そうねあと…めんどくさがりな子にメイクやってあげたりが多いわね。自分でやるのがほとんどだけど、中には忙しくて疲れてる子もいるから、そういうのはやってあげたりしてるわ」
うんうん、と相槌を打った。
「せっかくだから、メイク教えてあげる」
ナターシアさんは僕を鏡に対面した椅子へ手招きした。僕が椅子に座ると、彼女はどこかから大きめの箱を持ってきて、僕の横あたりの机の上に置いた。
「いつもアタシが使ってるヤツよ」
箱を開けると、見たことない機構で様々な収納スペースが現れた。そこにはよく分からない四角や丸の形をした化粧品や、ブラシなどの小道具なんかがずらりとたくさん入っていた。
「アタシがまずあんたのメイクしてあげるから、ついでに説明してあげるわね」
「わ、分かりました」
「フフフ…あんたみたいなかわいい子化粧してあげるなんて、テンション上がっちゃうわね…」
彼女は怪しい笑みを浮かべた。僕は背筋を伸ばした。妙な緊張感が走る。
「初めに下地を…」
彼女は手慣れた動作で僕にメイクを施していく。都度、道具の使い方や化粧品の効果などを丁寧に説明してくれる
鏡に映った自分の顔が徐々に整えられていく。鏡越しに見たナターシアさんは終始楽しそうにメイクを進めていた。
「静香ちゃんは元がいいから、そんなにいじらなくてもいいわね」
「あの…自分で言うのもなんですけど、そんなに僕って顔がその…いい、ですかね?」
「素材は結構いいと思うわよ?」
「そうですか?純壱、さんに会うまでは全然そういうこと言われなかったし…」
「表情の問題だと思うわね。さっき初めて挨拶してくれた時も、緊張してたせいか、ずっと暗い顔してたわよ」
はっとした。思い返してみれば、意図して笑顔でいようとか、気を使って愛想よくしておこうとか思った記憶がない。それどころか、無表情であろうとしたことの方が多かった気がする。ああたしかに、先ほど鏡に映った僕の顔はどこか暗い表情だった気がしてきた。
「もうちょっと笑ってれば可愛いかもね。愛想笑いを覚えるのも、この業界で大事なことよ。笑顔でいるほうが、余裕だって思わせられるし」
「な、なるほど…」
試しに口角を上げてみた。鏡に気持ちの悪い笑顔の僕がいた。
「固いわねぇ表情筋」
「はい…」
あまりにも笑顔が下手過ぎてちょっとへこんだ。
「こういうときはね、テレビとかで見た知識だけど…楽しいことを思い出すと自然に笑えるって言うわね」
「楽しいこと?」
「そうよ。たとえば…社長といるときとか?」
「純壱と…」
瞼を閉じて、脳裏で純壱といるときのことを思い浮かべた。いつも彼といちゃついているときが一番楽しいと思ったから、その時のことを再生してみた。
彼に愛してると呟かれる。心の中が温まり、自然と笑みがこぼれる感覚。
瞼を開ける。鏡には、さっきよりは自然な微笑みを浮かべる僕の顔があった。
「うん、この方がずっといいわ。要領良いわね」
「えへへ…ありがとうございます」
「アンタ才能あるかもね。こっちの業界イケるんじゃない?」
「そうですかね…」
素直に褒められて照れてしまう。
「それとね」
ナターシアさんは、僕の肩に手を置いた。
「敬語はもういいわ、アンタ気に入ったし。それと、社長のことは呼び捨てでいいと思うわよ?変なとこ真面目に気を遣わなくていいわ。もっと多少、図太く生きてもいいんじゃない?」
「…はい」
彼女は全部見抜いていた。少し気恥ずかしかったが、言っていることはもっともだった。
「じゃあ、もうちょっと気を使わないで生きてみよっかな?」
「そうしなさい。その方が楽しいわよ」
「はーい!」
「あと最後に…純壱に飽きたら、良かったらアタシのとこ来なさいね。いつでも待ってるわ」
彼女は右眼でウィンクした。
「あっはい」
尊敬に値すると思っていたが、どうやら撤回した方がよさそうだ。
「お疲れ様…ん?」
僕がナターシアさんと化粧品について話しているとステージに続く通路の方から、筋肉質の男性がタオルで顔を拭きながら歩いてきた。公演で脱ぎ捨てたのだろう、手に衣装らしきものを持っていたが、服を着ていなかった。僕を見て驚いた顔をしたが、次の瞬間にはにっこりと笑った。
「始めまして~。新人さん?」
彼は僕に近づいて話しかけてきた。
「あ、這い。静香って言います。よろしくお願いします」
さっき覚えたばかりの笑顔で返す。心なしか、ナターシアさんがうんうんとうなずいている気がした。
「へえ~名前も顔もかわいいね!いつから出るの?」
「えっ?あ、ありがとうございます。けど、出るって、え?」
僕が困惑していると、横からナターシアさんが口を挟んだ。
「違うわよ辰ちゃん。この子はアタシの方のお手伝いさん」
「そうなの?てっきり出るほうかと思ったよ~」
彼はははは、と豪快に笑った。
「今度からよろしくな!」
じゃ、と片手を上げて彼は着替え用のブースに入っていった。
「女の子だけじゃなくてああいうのもいるから、ウチ」
「は、はあ…」
「いろんな変態と需要があんのよ。ああいう子が好きな奴だっているしね」
「へえ…」
「プロテイン買ってきてくれって言われるから覚悟しといてね」
「はーい…」
「じゃ、続きやりましょ」
僕たちは話の続きに戻った。
暫くすると、純壱が見知らぬスーツの男性と一緒に戻ってきた。
「ちゃんとやってくれているようで安心したよ。これからもその調子で頼むね、店長」
「了解しました」
「あら店長、社長に何か言われたの?」
「いいや特に。皆よくやってるってさ」
「それは良かった」
僕は純壱を見た。彼もまた僕に気づいて、お互い目が合った。
「ただいま静香。ああそうだ、この子が例の…」
「ああ、アルバイトの子ですね。社長の紹介なら問題ないでしょう。ま、俺よりナターシアの方が教えるの上手いだろうから、俺はなんもしないですけど」
「いいよ、僕もそう思うし。とりあえず面倒見てくれればいいから」
「わかりましたよ。では仕事に戻ります」
40代ほどの年齢に見える店長は、純壱に一礼した後、控室を出ていった。
「お疲れ様ナターシア、静香」
「はいおつおつー」
「おつかれ、純壱」
「今日の用事は終わったから、今日はいったん帰ろうか。ありがとうナターシア、今度からよろしくね」
「どういたしまして。静香、アンタいい筋してるから、期待してるわよ」
「はい!今日はありがとう」
僕は頭を下げた。顔を上げると、ナターシアさんが手を振っていた。
純壱と外に出て、車に乗った。辺りはすっかり暗かった。
「今、何時?」
「11時。クラブは基本夜がメインだから、仕事するなら今日と同じくらいの時間になるね」
「ん、わかった」
エンジンが動き始め、ゆっくりと車体が進みだした。
「ここに来るときは、僕ができるだけ送るよ。それ以外の時は、店長に連絡すれば迎えに来てもらうように頼んであるから。あとでスマホに連絡先、登録しておいて」
「おっけー」
車は家に向けて走っていく。
「今日はどうだった?」
「まだ全然何もしてないけど…メイク楽しかったから、覚えれたらいいなって。あと、ナターシアさんが優しかったから、今のところ続けられそうだよ」
「それならよかった。そういえば静香、メイクやってもらったんだ?」
「うん、説明がてら試しに、あっ、メイク落としてなかった…まあいいか。悪くなかった?メイクした僕は」
「ああ、化粧が入るとより一層かわいく見えるよ」
「そう?じゃあいっぱい練習して、上手になるね。純壱ためにも」
「はは、ありがとう。そうだね、ゆくゆくは…」
「ん?」
「いや何でもない。明日も僕は別のとこに用事があるから、良かったらまた行くかい?」
「そうしよっかな。覚えたこと、間開けたら忘れそうだし…」
「りょーかい。今日は帰ったら寝よう」
「すぐ寝るの?」
車が信号に停車した。ちょうどいい、僕は彼の太ももに手を伸ばして、そっと触れた。
「しょうがないね。少しだけだよ?」
「やった」
信号の色が青に変わる。車はゆっくりと走り出した。
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