忘れられない壱夜

「友達がパーティをするらしいんだけど」

8月の末。熱さも佳境になってきたこの頃。

純壱は突然僕にそう告げた。曰く、純壱の知り合いの一人が主催するパーティが近日中にあるらしい。それに僕もいかないか、という誘いだった。

「ドレスコードが一応あるくらいには、ちゃんとした場所とメンバーで開催するから、静香もいきやすいと思うんだけど、そう?」

僕は少し考えた。純壱と行くのは良いが、僕が彼と、彼の知り合いたちの前で並び立ってもいいものかと。

それに、パーティーというくらいだから、当然酒なんかも振舞われるんだろう。そんな場に、僕がいていいものかと考えた。

「ねえ、僕未成年だけどいいの?」

「ん?そんな子いくらでもいるよ。親についてきた子供とかいるよ」

「えー…ちゃんとした、って言ってなかった?」

「大騒ぎするわけじゃないから、そう言ったんだけど…」

どうやら彼らの間ではそう言ったことは当たり前らしい。そりゃあ、表と違う裏の社会の世界に片足を突っ込んでいる人たちの集まりなのだから、当然と言えば当然か。

正直あまり乗り気じゃなかった。

「純壱は、僕に来てほしいと思ってるの?」

「当たり前じゃないか。だから誘ってる」

「そうだよね…」

困った。僕は正直、キス以外のことは彼に頼まれたら断れない性分だった。

つまるところ、こっちは居候同然なのもあるが、何より色々と「してあげたい」と思ってしまうのだ。それが彼の魅力でもあるんだろう。

「君のこと自慢したいんだ、みんなに」

「え…」

また困った。そんなに自慢できるほどの魅力は僕にはないと思うが。たとえ純壱に褒めたたえられ持ち上げられたとしても、借りてきた猫のような態度しかとることができないと思う。

「あそこのホテルのビュッフェもおいしいんだ。…どう?」

今度は胃袋を責めてきた。どうしてもついてきてほしいようだった。

「わかった…行くよ」

「ありがとう!主催者に伝えとくよ」

そう言って、彼は手首に着けていたデバイスを操作して電話をかけ始めた。さっそく主催のお友達とやらに連絡するのだろう。僕はその様子を横目に見ながら、一度ため息をついてから手元の本に視線を落とした。


午後六時。

僕と純壱はパーティ会場であるホテルの入り口にいた。

一般人だった僕には手に届かないほどの高級ホテルだ。今となっては、隣にいる人のおかげでスムーズに受付を通り、レストランラウンジまですんなり入れるわけだが。

開場のレストランの向こう側には、24時間入れるプールが併設されていて、水に入る人はいないものの、プールサイドで椅子に腰かけて話込んだりしている人々がいた。

純壱について歩く。会場の中を進むと、彼に気づいた一人の女性が、こちらに向かって手を振ってきた。

「純壱じゃん!おひさ~!」

ベージュのドレスを着た女性が近いづいてきて、気さくに彼に話しかけた。

「ああマリちゃんか、久しぶり」

「まじで久しぶりじゃん!何か月ぶりだっけか」

「9か月くらいかな。最後にあったのはエイジくんのクリスマスパーティーの時だからね」

「うっわもうそんなたつ?やば!」

派手めな化粧をしたマリと呼ばれた女性は、きゃははと大きな声で笑った。

「おう純壱かよ!」

また別の男が純壱に向って近づいてきた。

「元気にしてたか?」

大柄でスキンヘッドの男は純壱と握手を交わした。

「久しぶりリーン、まあまあってとこかな」

「ははは、そんなこと言ってよ!まだまだ"あっち"は現役なんだろ?お盛んだろうよ」

「そんなことないよ。最近そういうこと全然してないのさ」

僕は彼らから目を逸らした。そういうことをしていない理由は、どう考えても僕のせいだ。

「ああそうだ、今日は娘も来ててな。ようこっち来いよメリー」

20歳くらいの薄いピンクのドレスを着た女性が、ヒールの音を響かせながら歩いてきた。

「うちの娘だ。メリー、彼が前言ってた友達だよ」

「こ、こんばんは…」

「へえずいぶんと美人になったね。最後に写真で見たときは、まだ赤ちゃんだったのに。初めまして。こんばんは」

「は、はい…」

「悪いな純壱、こいつ人見知りなんだ」

「構わないよ。挨拶はここまでにししておこう。おいしい料理を食べていた方が有意義だ、ほら」

彼女は頷いてから、踵を返して料理が並ぶテーブルへと去っていった。

それからもひっきりなしに純壱に話しかける人が大勢いた。

僕はその間、ずっとその姿を見つめながら、目立たないように気配を消すことに努めた。

話しかけられても、先ほどのメリーさんのようにたじろぎ、うまく会話できる自信はない。

純壱はずっと笑顔で、彼の元に訪れる人々に対応していた。男も女も、はたまたどっちかわからないような人もいた。中には純壱とハグしたり、彼の体に妙にいやらしい手つきで触れている人もいた。そう言った類の人は決まって、

「今日このあと、どう?」

といった内容の誘い文句を純壱に述べていたが、どれも彼はつっぱねて、

「今は相手がいるから」

と断った。

その相手はキスすらしたことない恋人のことだろうか。

いやしかし、友達が多いとは聞いていたが、これほどまでとは正直思っていなかった。彼の人脈の凄さに恐れをなしてみていることしかできない。、

知り合い、その知り合い、またその知り合い、といったつながりで次々と純壱の周りに人が集まっては散っていく。

その中の一人が、純壱と話している最中、不意に僕の方を見た。

「そういえばあの子、誰?一緒に来てたよね?」

しまった、見つかった。

犯罪者でもあるまいし、見つかっても問題はないと思うが、いかんせん2ヶ月前まで一般の中学生だった僕は、この場に未だになじめていないのだ。他の参加者からしたら、異物でしかないだろう。

純壱を囲んでいた何人かの視線が、一気にこちらに向く。まさに針の筵。視線が突き刺さるようだと思ったのは初めてだった。

「ああ紹介するよ、僕の"恋人"の静香だ」

恋人、という言葉が重くのしかかる。

違います"お友達"です、と否定したかった。純壱を慕う彼らを差し置いて、僕がそれを名乗っていいのだろうか。

「あ…あの…」

はいそうです、とはっきりと答えることができず、言葉に詰まってしまった。

何て言ったらいいんだろうか。

「緊張してるの?」

見かねた純壱が僕に歩み寄り、肩をぽん、と叩いた。

「そんなに固くならないで。僕の友達は、みんないい人だからさ」

そういってから、彼は知り合いたちに向って。

「こういう場、初めてなんだ、彼」

と彼はそう言ってわざとらしく肩をすくめた。

「純壱あんた…」

最初に僕に気づいた、グレーのタイトドレスを着た女性が、真剣な面持ちで何か言いたげに純壱を見た。

こんなのを恋人にしたのか、とでも言うのだろうか。僕は覚悟して拳を握りしめた。

「やっぱりショタコンだったのね…」

握った拳の力が抜けた。知らない単語だった。なんだそりゃ。

「若い子が好きだとは知ってたけど…ここまで若い子誘うなんてさすがねー」

「ええ?そんなにわかりやすかったかい?僕の趣味」

「みんな知ってるでしょ。いつも引っ張ってきてたの店の若い子ばっかりだったじゃん」

どうやら僕は彼の守備範囲内だったようだ。周りがそう言っているんだから、本当なんだろう。

「そりゃあ、相手見繕うために建てたんだもん」

「欲望の塊ねー、まあそういう素直なところがいいんだけどね。じゃあそろそろ飲み物無くなったから行くね。ええと彼…」

「静香だよ」

「うん、静香くんね。大事にしてあげなよ?」

「はは、言われなくてもそうするよ、またねリナちゃん」

「そうよねー!じゃ」

笑顔で手を振りながら、その女性は人混みに紛れていった。

少しだけほっとした。

「静香、僕たちもそろそろ料理を取りに行こうか。無くなっちゃうといけない」

「あ…そうだね」

僕と純壱はビュッフェを提供しているエリアへ向かった。

たどり着くとそこには、白いクロスをかけたテーブルの上に、様々な料理が置かれていた。

見たことも無いおしゃれな料理がずらりと並んでいて、僕にわかるのはビーフステーキやサーモンのカルパチッチョといったわかりやすい料理くらいだった。

正直、まだ緊張が解けなくて食欲がなかったが、まったく食べないのもお腹が減るし、何より手持ち無沙汰になって困る。

「好きなだけ食べな。おすすめはこのマッシュルームの…」

ビュッフェなんて初めてで、慌てふためく僕を先導して、純壱が色々と教えてくれる。

気になった料理をちまちまと少しずつ取っていく。自分がどのくらい食べれるのかがわからないから、控え目に盛っていった。純壱は結構食べるほうらしく、マッシュルームのタパスとやらを乗せられるだけ皿に盛っていた。

一通り回り終えた後、立食形式らしく椅子は無く、テーブルだけが各地に配置されていた。近くのテーブルに二人は皿を置くと、純壱が「飲み物を取ってくる」と、僕を置いてどこかへ行ってしまった。

先に料理に手を付けようか、来るまで待つか。どうせすぐに帰ってくるだろうから、周辺をきょろきょろと見渡しながら、少し待つことにした。

参加客は100人くらいいるんじゃないかというほど沢山いた。大抵の人たちは派手な格好をしていて、お金を持っている人たちなんだろうと勝手に思ったりした。僕ほどの年齢の人はいなかったが、20歳かそれより少し若そうな人たちは数人見受けられた。その人々達は、みなそれぞれ会話を楽しんだり、料理を堪能したり、または酒を飲み合い感想を言い合ったりしていた。

見るところがなくなったから、プールの方を見てみた。やはり入る人はいなかったが、プールサイドの椅子で何か飲み物を飲んでいた。

純壱はまだ戻ってこない。遅いな。

僕は彼が消えていった方を見て探してみた。すると飲み物を配っているカウンターの手前辺りで、知り合いに捕まったであろう彼が、知らない人と仲睦まじく会話しているのを見つけた。どおりで遅いわけだ。

これ以上は間が持たないと思い、小さく「いただきます」と言って料理を口に運んだ。一流シェフが調理している、と純壱の事前情報の通り、かなりレベルの高い調理がなされているのがわかった。ただ、触感はわかるけど味がどうしてもよくわからなかった。まずいとかではなく、ここ数日僕の舌はどれを食べてもうまく味を感じてくれていなかったから、そのせいだろう。時間を稼ぐために、咀嚼の回数を増やしたりしてなるべくゆっくり食べ進めるようにした。

ちら、ともう一度純壱がいたほうを見た。さらに知らない人が一人追加で会話に混ざっていた。抜けづらいのか、会話を切り上げる様子は見られなかった。

皿から料理がどんどんなくなっていく。独りでいるのが不安になってきた。早く帰ってきてほしい。

さらにもう一度純壱を見てみた。すると、会話をしていた一人の女性が、彼の頬にキスをするところを見てしまった。

「…あっ」

おもわず声が漏れた。それに気づいて恥ずかしくなる。

彼女は見たところ金髪で、顔立ちからも外国人であることは明らかだった。他の国ではキスが挨拶だったりするから、それだけだと思うが。

僕ができなかったことを、唇ではないにしろ簡単にしてしまえる彼女らを見て、ざら、と心がざわつくのを感じた。

恋人は絶対に性交しなくてはいけないなんてルールはない。中には一切そういったことをしないカップルだっているのは知っている。けれど、純壱は求めていた。そういう行為を。なら、彼の欲求を受けいれられる人が、彼にふさわしいんじゃないか?

僕は、純壱に釣り合わないんじゃないか?

答えられないうちに、愛情が薄れていってしまわないだろうか。

それは、嫌だ…。

いつの間にか目の前には空の皿が残った。元々残さないように少なめに取っていたから、無くなるのも早かった。

「ごめん、おまたせ」

そんな時に限って、純壱はやっと抜けられたのか僕の元へ戻ってきた。

「なかなか抜け出せなくて、待たせてごめんね。…ああ、待たせすぎて食べ終わっちゃってるね、はは」

コト、と彼はテーブルに透明な液体が入ったグラスを置いた。

「いいよ、大丈夫だから」

僕は彼が持ってきたグラスをあおり、一口飲んだ。中身はただの冷水だった。それを今度は一気に飲み干し、はあ、と息を吐いた。グラスをテーブルに置く。

「純壱」

僕は目を合わせずに言う。

「さっきの女の人って、お友達?」

「そうだよ」

「ふうん…」

僕は出口の方へ体を向けた。

「外の空気、吸ってくる」

「え?具合悪いのか?」

「ううん、別に」

言葉が思っていたよりも、そっけない態度を帯びて出てきた。何故だろう、彼に気遣いする余裕もなかった。

純壱は今どんな顔をしているのだろうか。見る気も起きない。

僕は純壱を一瞥もくれず、すたすたと歩いて会場の外に出た。

そういえば外にプールがあるから、そこにでも行ってしばらく時間をつぶそう。パーティが終わる少し前ぐらいに戻ればいいだろう。そう思い、案内に従って歩いた。

更衣室があったが、夜はプールに入らないならそのまま更衣室を通らずに入れるらしかった。ガラス張りの扉に「服での入場可」と看板がぶら下がっていた。扉をゆっくり開いて外に出た。

空にはまばらに星が浮かんでいた。夏の夜風が涼しい。

ナイト仕様にライトアップされた水面がゆらゆらと動くと、反射で壁に映った影たちも同じように動く。

辺りを見回す。ちょうど誰もプール付近にいなかった。

運がいいな、と思いながらプールサイドを散歩する。風で小さく揺れる水面を眺めた。

顔を上げて会場の方を見てみた。同じ階にあり、ガラスで隔てただけのこことレストランラウンジはお互い見えるようになっている。純壱を探してみた。彼は先ほどいたテーブルから動いていなかったが、また知らない人たちが彼を囲んで談笑していた。

純壱は笑っていた。僕がいなくても、彼は楽しそうだ。

そう、僕がいなくてもだ。・

僕よりも綺麗で、魅力のある人なんてここの会場だけでもいっぱいいる。

僕よりも彼を愛している人だっている。その人たちなら、僕よりもっと彼を満たしてあげられる

いなくったっていいんだろうな。

胸がなんだか苦しい。

何を今更、僕は最初から分かっていたじゃないか。

彼に僕は釣り合わないってことに。

彼は優しくて、かっこよくて、カリスマ性がある。だから皆彼のもとに集まる。皆が好きになる。

あんなにもっといい人たちがいるのに、僕がそのポジションに居座っていいわけがなかったんだ。

僕はあの中に入れない。

なんの魅力も、力もない僕には、できない。

プールの水面を見た。手の爪を触った。

正直に言って。

僕は、純壱のことが―――。

「あ、純壱の彼氏くんじゃん」

誰だ、と驚いてビクリと僕の肩が震えた。声の方に振り向くと、純壱の知り合いの一人で、リナと呼ばれていた女性だった。

「あ、どうも…ええと」

「リナよ。よろしくね静香くん」

「は、はい、よろしくお願いします…」

軽く会釈をした。するとリナさんは僕の足元から頭の先までをじっくりと観察してきた。

けど、そのどこか視線がおかしかった。まるで僕を品定めするかのように感じられた。

じろじろと見られて気まずくなる。

「あ、あの…」

何とか会話をしようと僕は口を開いた。

「純壱…さんとは、どういう関係」

「ねえ静香くん」

僕の声を遮って、食い気味に彼女の声が発せられた。

「彼とはいつ出会ったの?」

「彼って…純壱、さんのことですか?」

「ほかにいないでしょ?」

声色に少しの苛立ちが感じられた。そんなに気に障る一言だったか、と訝しんだが、話を続ける。

「えっと…6月の頭だから…2ヶ月くらい前です」

「ふーん、で、付き合った理由は?」

「え?えーと…」

さてどう説明したものか。一目惚れされました、なんて信じてもらえるだろうか。かといって適当な嘘をつくのも信ぴょう性に欠けるだろう。ここは本当のことを適当に言って流そう。

「信じてもらえないかもしれないんですけど…たまたまあったその日に、純壱さんに付き合ってくれって言われて…」

「…は?」

信じられない、という表情を彼女はした。そりゃそうだ。

「おかしいですよね。でも、一目惚れだったらしくて…。」

ふっ、と自嘲気味に笑いながら、僕は目を伏せる。

「あんないい人に惚れた、って言ってもらえるのは嬉しいですけど、正直最初は困りまし…」

カッ、と固いもの当たる音がしたから僕は顔を上げた。

僕の目と鼻の先にリナさんの顔があった。彼女の表情はあまりにも冷酷で、恐ろしいほど無だった。驚いて思わず半歩後ずさりした。

先ほどの音は、彼女が距離を詰めるときのヒールの音だったようだ。

「こんなのが恋人ねえ…」

彼女は無表情から、醜悪ともいえる笑みを浮かべた。

「あんなにいっぱいプレゼントあげて、デートしてエッチもして…たくさんアピールしたけど駄目だったのに…こんなのが純壱のお気に入りなんだ…」

「え、え?」

「たった一目見ただけで惚れたですって…」

彼女は僕をプールで挟む位置に立った。

「あんたなんかより魅力ないってことかしら?」

「そ、そんなこと…」

ふん、と彼女は鼻で笑った。

「こんな冴えないガキが私より上ですって、面白いわよね」

ここまで来て、僕は理解した。否、理解してしまった。

彼女は純壱に惚れていたのだ。だとすれば、僕は彼女の地雷を真っ向から踏み抜いてしまったことになる。

血の気が引くのを感じた。背中から体温が急速になくなっていく。僕は慌てて取り繕おうとした。

「あ、あのちが…!」

「あんたさ」

彼女の声は決して低い声ではない。なのに、ドスの聞いた重たい声が聞こえた。

「あんたなんか純壱に釣り合ってないのわかってる?」

「それは…」

それは僕が一番痛いほど知ってる。

「あんたなんかが…」

彼女は僕にさらに詰め寄る。僕は後ずさりするが、プールの端を踵で感じて、それ以上進めないことを察する。

「本当にむかつく」

彼女が囁くように言う。

「恥かかせてやるわ」

「なにす…」

僕が問う前に、とん、と足に何かが当たった。彼女に足を蹴られていた。

数センチだけプールの方に足がずれると、ぎりぎりで耐えていた僕の体重バランスが崩れ、体が傾いた。

「ーーーあ」

着水するまで一瞬の出来事だったけど、僕にはその時間がスローモーションで再生され、何秒にも感じられた。

遠くの方で純壱が笑っているのが見えた。

待って。

そう思っても、体は無常にも重力に引かれ、水の中へと落ちていった。

バシャン、と大きな音がしたと思えば、次の瞬間には世界から音が消えた。

水中を漂った。

頭が追い付かなかった。

なんで、と繰り返し頭の中で同じ言葉がずっとリピートされる。

僕は何を間違えたのだろう。

どうしてこんな目に合っているのだろう。

思考は長くはもたない。

息をしなくちゃ、と人間本能が戻ってくる。もがいて水面を目指す。

「ぷはあっ!」

顔を水から出した。幸いにも、このプールは僕の首元までの水深だったために、何とか水中で立つことができた。

「げほっ…げほっ…!」

落ちたときにパニックになったからか、水を飲んでしまっていた。鼻の奥も痛い。

息苦しくて泣きそうだった。流れ落ちる水のせいで気づいていないだけで、本当は泣いているのかもしれない。

そうだ彼女は。

プールサイドを見た。その時、突然のことで吹き飛んでいた聴力が戻ってきた。

「誰か来て!」

彼女は両手を振ってパーティー会場の方へ叫んでいた。

「プールに落ちた人がいるの!!」

絶句した。白々しく、彼女は助けを求めていた。

開場の人の中から、数人が出口へ向かって走りだし、残りはガラス窓の方へと寄ってきた。

とんだ見世物だった。

見ないで。

そう思っても無駄なのはわかっていた。

早くここから去りたい。プールから上がるために、梯子や階段がないかを探した。

一刻も早く帰りたかった。

何で今日、ここへ来てしまったんだろう。

「静香君大丈夫!?」

白々しいリナの声が聞こえる。心配そうにしている割には、一切手を差し伸べたりする気配はなかった。

気持ち悪いことこの上なかった。

この変わり身の仕方には覚えがあった。忌まわしい、僕の母親の顔が思い浮かんだ。

ああ、もう何もかも終わりだ。

純壱もあきれ返るだろう。こんな沢山の人の前で恥をさらした僕なんて、恥ずかしくてとても連れだと思われたくないだろうし。

あーあ。

楽しかったのにな。

「静香!!」

開場を飛び出した誰よりも先に、彼はここへ来ていた。

顔を上げる。

「純壱…」

彼は僕の傍へ駆け寄って手を伸ばした。

「こっちへ!」

僕も手を伸ばした。すると彼は服が濡れるのもためらわずに、僕の手を掴んで引き上げた。

水がら上がった僕は、プールサイドにへたれ込んだ。

ふとリナの顔を見ると、明らかに動揺している様子だった。

まさか一番最初に、純壱が自ら駆け付けると思っていなかったのだろう。

「大丈夫か?怪我は!?」

彼は僕の肩を掴んでいた。

「無い、大丈夫…」

「ああよかった…」

そう言って、彼は僕を抱きしめた。胸の中が温かさでいっぱいになった。

行けないと思いながらも、僕は彼に抱きしめてもらって安心した。僕も濡れた手で抱きしめ返す。

「も、もう静香君ったら、びっくりしたんだから、気を付けなよ?」

リナがわざとらしくふざけた仕草で純壱のそばにしゃがんだ。

あくまでも笑い話として場を和ませようとしている、という体なのだろうか。

「その子の介抱、私がやるよ。純壱は会場戻ってて!」

そう言って彼女は僕に触れようとしたが、純壱が手で制した。

「いい。僕がやる」

純壱が僕の手を引きながら立ち上がる。よろよろと僕も立ち上がると、彼が僕の肩を抱いて支えてくれる。

「で、でも純壱」

彼はリナの言の一切を無視して、僕を支えながら出口に向かって歩いた。

「おい大丈夫か!」

先ほどリーンと呼ばれていた男が、駆け寄りながら声をかけた。

「ああ、怪我とかは無いみたいだ。悪いが一部屋借りたい、フロントに頼んでもらえるか?」

「もちろんだ」

リーンさんはすぐに回れ右をして小走りでフロントへ向かった。

「行こう。いくら夏とはいえ、そのままでは風邪をひくかもしれない」

「うん…」

僕は純壱に肩を抱かれたまま、プールを後にした。

その手は温かかった。


シャワーを浴びた。冷たい水が洗い流され、温かい水が降り注ぐ。このざわつく心の霧も洗い流してほしかったが、どうやら駄目だったようだ。

濡れた服を洗濯するため、ホテルの一室を貸してもらい、服の代わりにバスローブに身を包んで一泊することになった。

純壱がホテルの従業員に洗濯を頼みに行っている間、僕は濡れた髪も乾かさずに部屋にあったソファーに横になった。

背もたれの方に体を向けた。はあ、とため息が出る。

疲れた。

たった2時間もないほどの参加時間だったのに、どっと疲れが襲ってくる。

「戻ったよ」

「ん、お帰り…」

純壱が部屋に戻ってきた。僕は顔も見せずに返事をした。

「ごめんね静香、友達に構ってばっかりで、君のことを放っておいてしまって」

「いいよ、気にしないで」

あれからまだパーティ―は続いていた。まだ終了予定の時間まで余裕がある。

「僕のことは良いから、パーティーに行ったら?」

僕は気を使ったつもりだった。

「いやいいよ、もうパーティーっていう気分じゃない」

見えていなかったが、音で彼は一人掛けの椅子に深く座ったのだろう。

真っ先に来てくれたのは嬉しかった。けどやはり僕は純壱に釣り合わない。友人たちといたほうが有意義だろう。

悔しいけど、あのリナとかいう女の言う通りだった。

「僕といたって面白くないでしょ」

ここにいたって僕は彼を楽しませられない。それどころか迷惑をかけるばかりだ。

「…そんなことないよ。急にどうしたんだ静香」

唇を噛みしめた。どうしてわかってくれない。

「いいから行きなよ。僕なんかよりずっといい友達が沢山いるんだからさ」

「何言ってるんだ、君よりいいやつなんていないよ」

「嘘言わないでよ!」

思わず叫んでいた。

「僕なんかよりずっと綺麗で話が面白くて気遣いもできる人なんて沢山いるでしょ!?僕なんかより、ずっと、ずっといい人が!!」

言葉を重ねるほど、自分自身に刃を突き立てている錯覚がする。

自虐をもう止められなかった。

「あの会場だけでも沢山いた、純壱を好きだって言う人だっていた!そんな人たちを押しのけてまで、僕が恋人でいる必要なんてないよ!僕なんかっ…僕なんかっ…!」

一気に発声したからか、息が苦しい。もはや絞り出すような声になっていた。

「キスもできないエッチもできないこんな奴なんて…」

そこまで言ったその時、僕の肩を純壱が掴んで、僕を仰向けになるように押さえつけた。

彼は見たことも無い顔をしていた。怒りとも取れるような、悲しんでいるともとれるような表情だった。

「馬鹿なこと言うな!」

彼が叫んだ。そんな声を聞くのも初めてだった。

「僕は君と、そんなことをするためだけに恋人になってほしかったわけじゃない!」

彼の顔が目の前まで迫る。

「僕は本気で君のことが好きなんだ…好きになったんだ…!」

彼の目に涙がたまってゆく。

「君より欲しい人なんていない。君が、君だからいいんだ。僕が愛してるの他でもない、静香だけだ…」

ぽた、と僕の頬に彼の涙が落ちた。それを機に、僕の目にも涙が溢れていく。

「君は知らないかもしれないけど、僕が好きなところは沢山ある。君はかわいい。君は優しい。君といると楽しい。君と話すのが好きだ。君が僕の背を抱きしめてくれたあの日、本当にうれしかった」

純壱は僕の胸に顔をうずめた。

「愛してるよ…静香、心の底から」

「…あ」

僕の目の端から涙が零れ落ちた。

ああ僕は、とんでもないことを言っていたんだ。

嘘だって言ってしまった。

これほどまでに僕を愛してくれている人に向って。

「ごめんなさい…」

僕は彼を抱きしめた。

「ごめん、ごめんなさい…こんな、こんなに思ってくれてたのに、僕は」

「いい、いいんだ…」

純壱は体を起こして立ち上がると、一人掛けの椅子に座った。そして目元を手で覆った。

「僕の方こそいきなり、悪かった…」

はあ、と彼は息を吐いた。

僕が泣いていると苦しい、と言っていた彼の気持ちを痛感した。

好きな人が悲しんでいると、これほどまでに胸を裂かれるような感覚がするのだと。

「ねえ純壱…」

僕は立ち上がり、彼の方を見て言う。

「僕は純壱のことが好きだよ」

驚いたのか、彼の口元が開いた。

好きだ、と口に出すと気恥ずかしさとむずがゆさでどうにかなってしまいそうだ。

「でも僕は、純壱に好きでいてもらえる自信がない」

「うん」

「本当はキスだってしたかった。体が言うことを聞いてくれなくて苦しいんだ。そんなときに純壱の友達が純壱にキスしてるのを見て、うらやましいと思った」

「あれは…」

「わかってる。でもそれを見て正直、焦ってた」

「そうだったの?」

「うん。このままキスもできないうちに、もっといい人に会って、その間に僕は飽きられちゃうんじゃないかって…」

「そんなことないのに…」

「わかってるよ。さっきの言葉で…よく」

「それに、嫌われたくないのは君だけじゃない」

「えっ?」

純壱は顔を覆っていた手をどけた。目元は泣いて赤くなっていたが、口元にはいつもの笑みがあった。

「もし僕から積極的に触れたりとかして、またあの時みたいに拒否されたらどうしよう、って思ってた。そのせいで、僕はずっと君に対して消極的なっていた。そうしたら今度こそ僕を嫌いになるんじゃないかって」

純壱もそんなことも思っていたなんて。

「でも嬉しいよ、好きって言ってくれて」

「…えっ!?あ、うん」

途端に恥ずかしくなった。やっぱりまだ言い慣れない。

「僕たちはもっと話し合うべきだったね」

「そうだね」」

「今度から、言いたいことは言おう。嫌なことは嫌だ、ってね」

「うん、わかった」

僕は心の底から安堵した。彼は僕を微塵も嫌っていなかったし、飽きてもいなかった。

また彼の心の奥底が知れて、また一つきずなが深まったような気がして嬉しかった。

僕の口角がおもわず上がってしまう。

この幸せな気持ちになった今なら、できそうな気がする。

「純壱」

「何、静香」

僕は純壱目の前に立つ。

「試してみてもいいかな。今度は僕から、キス」

純壱は一瞬目を見開いたが、すぐにいつもの笑顔に戻った。

「もちろんだよ」

「ありがとう。それで、もしうまくいかなくても、また挑戦させてほしい」

「もちろん、何度でも構わない。どれだけかかってもいい。僕は待ってるよ、ずっと」

「ずっと…」

純壱はいつまでも、僕を好きでいてくれるのだろう。

それは何て幸せなことだろうか。

それだけで満足だけど、挑戦するといった以上、ここでやめるつもりもない。

「いくよ…」

座っている純壱の、太ももの上に乗る。

「目、閉じて」

僕の言う通りに、彼は瞼を閉じた。

「動かないでね…」

彼の頬を両手で包む。ゆっくりと、唇を近づける。

吐息がかかる距離。僕の心臓の鼓動は、今までで一番の速さに達していた。

あと数ミリ。彼は言われたとおりに何もせず、ただじっと待ってくれている。

少しだけ怖くなって距離を離す。

脳裏に"あの女"の影がちらついてしまう。

「静香」

彼の唇が動いた。

「愛してるよ」


ふっ、と影が光に照らされたように、僕の思考から消えていった。

時が止まった気がした。

僕の唇は、彼の唇と重ね合っていた。


ああ。できた。


体の中に太陽が現れたかのように、胸が熱くなった。

彼の唇は柔らかくて、温かい。ずっとこのままでいたいほどの心地よさ。

これはダメだ。やめられなくなってしまう。

数秒ののち、彼から顔を離した。

「…純壱、できた」

彼が瞼を開いた。

「静香、今…」

彼はとても驚いた顔をしていた。

「できた、できたよ、できちゃった…!キスってこんな感じなんだ…!すごい、すごいよ、皆したくなるわけだよ!あーもう、嬉しくてどうにかなりそう!」

笑いながら、目からぽろぽろと涙が流れ続けた。

心を幸福感が満たしていた。嬉しくて嬉しくてたまらなくて、涙が止まらなかった。

「純壱、僕も愛してる、愛してるよ…!」

純壱を本能のままに抱きしめた。僕の胸元に顔を押し付ける。

心の底から、幸せだと思った。

と、もごごと純壱から声がしたので腕を解いた。

「苦しいよ静香」

「あつ、ごめん…」

完全に舞い上がっていた。

「嬉しくて調子に乗っちゃった…」

「いいよ、はしゃぐ君が見れてよかった」

「えへへ…」

今度は僕が彼の胸元へ顔をうずめた。人肌が心地よい。

「こっちも試していい…?」

「ん?何を…」

純壱の体を、服の上から撫でるように触る。

「本番…」

どくどくと心臓の鼓動が加速する。彼の体に触れるほど、体が熱くなっていく。

「いい?」

上目で彼の顔を見た。優しい大きな手が、僕の頬に触れた。

「もちろん。途中で嫌になったら遠慮なく言って」

「うん、ありがと」

そう言うと彼は僕をお姫様抱っこしてベットまで運ぶ。ベットに横たえられた僕の上に、純壱が覆いかぶさる。

彼の背中を抱えるように腕を絡める。そうしてもう一度、僕と彼はキスをした。

その日は、僕にとって一生忘れられない一夜になった。

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