拒絶

今夜のディナーも、最高の一言に尽きる。

和也君の作る料理は今日もすごくおいしかった。

彼は僕らより先に家に着いてから、荷物を片付けて、夕飯の仕込みをしていたらしい。本当に働き者だ。僕が食べ終わった食器をキッチンにもっていこうとすると、

「それは俺の仕事なんで大丈夫っす!静香さんは休んでてくださいっす!」

「いや運ぶくらいする…」

「いいっすいいっす!」

と、制止された挙句、手に取っていた皿を取り上げられてしまった。働き者過ぎる。

「ま、そういうことだから、任せておいて大丈夫だよ」

純壱がフォローしてくれる。よほどの時以外は任せきりの方がいいだろう。

そんなこんなで、風呂に入り、寝るには早かったから純壱とゲームをすることになった。

「これ流行ってるから、って友達がくれたんだ」

そう言って電源を入れたのは、大人気の最新ハードだった。僕もCMで何度か見て、やりたいと思ったことがある。こんな形でその機会に会えるとは思わなかった。

ひとまず定番のパティ―ゲームをやってみた。すごろくのようなマップを進みながら、ミニゲームをやったりしつつ、敵のCPUより多くコインを集めたら勝ち、というモードを、純壱とチームを組み協力プレイで遊んだ。

純壱は頭を使ったプレイングが得意なようで、先のことを考慮した戦略でNPCを翻弄していた。

その代わりアクションは苦手なようで、反射が求められるようなミニゲームが出ると、途端に点数が振るわなくなる。

「純壱って頭いいんだね」

「ありがとう。でも見ての通り、反射神経は静香の方が上だよ」

はは、と彼は苦笑する。

つられて僕もちょっとだけ笑った。

相談しながらゲームを進めていく。NPC達をミニゲームで倒しコインを奪いつつゴールを目指す。

このアイテムを買った方がいいんじゃないかとか、こっちの道の方が安全とか、プレイングの方針を話し合った。

誰かとゲームをやるなんて初めてで、テレビのCMとかで見た、お互いに戦いあうのも面白そうと思っていた。

けれど案外、協力して進めるというのも楽しいものなんだと、今まさに僕はそれを知った。

やがて僕たちはゴールにたどり着いた。最終的なスコアは、僕たちの勝ちだった。

「よしよし、勝ったね」

「うん、やったね!」

僕たちはお互いの顔を見合って笑った。

「ほかにもあるけどやってみる?」

と、彼は棚からスポーツができるソフトを取り出してきた。

「こういうのとか」

「いいね、やろう」

こうして、僕たちはそれからこのゲームでしばらく盛り上がった。ゴルフで僕がまさかのホールインワンを決めたり、純壱が野球でホームランを打ったり、テニスでお互いにずっと打ち合って中々試合が終わらなかったり。

僕と彼はお互いのプレイに笑いあった。うまかったり極端に下手だったりして、あんまりにもおかしかったから。

久しぶりにすごく沢山笑っていた気がする。

いつの間にか僕は、彼に対しての遠慮がなくなって、ひたすらにゲームを楽しんでいた。


ひとしきり遊んだ後、満足した僕たちはソファーの背もたれに寄りかかった。

「あー楽しかった。そろそろ寝ようか?」

「うん、そうしよう」

諸々の片付けをしていると、純壱が「ねえ」と話し出す。

「一緒に寝ない?」

どくん。心臓が跳ねる。

「顔は合わせなくていいから、僕の部屋で寝ない?」

鼓動が早くなる。僕はもじもじとして、自分の手の爪を触った。

「いいよ…。でも、手、出しちゃだめだからね?」

精一杯の強がりを言った。純壱はそんな言葉なんて気にせず、笑った。

「わかった。先に行ってて」

先に純壱の寝室へ向かう。部屋の前に立つと、かすかに緊張が走る。

ドアノブに手をかけ、ゆっくりと扉を開いた。手探りで電源を探し、スイッチを入れると部屋が明るくなる。

壁にはウォークインのクローゼットがあり、僕の背丈より高い棚があった。棚には時計や何かの模型や、蓋つきの箱などが置いてあった。

特に目を引くのは、大きいダブルベットだった。白いマットに黒の布団がかかっていた。

純壱が来るまでどうしようか。僕は部屋に入ると、扉を閉め、部屋をうろついた。

彼の部屋はとてもいい匂いがした。これはラベンダーだろうか?

棚に近づく。時計以外はよくわからないものばっかりだった。

棚の下の方にあった、蓋つきの箱が目に留まった。

中身は何だろ。う。

しゃがんで箱の蓋に手をかけた。

「お待たせ」

扉が開いて純壱が入ってきた。僕は慌てて立ち上がる。彼は僕の様子に気づいていないようだった。

純壱はベットに腰を下ろして、リモコンのようなものを操作して部屋の電気を消した。ベットのそばの間接照明の電気を入れた。そして僕に目配せをして、

「おいで」

と優しい声で言った。僕はドキドキしながら、純壱と反対のところに座り、背中を向けたまま、布団を被りながら横になった。

なるべくベットの端に寄った。

ぎし、と音がして、ベットが揺れた。純壱も横になったのだろう。

」隣に彼がいると思うと、心臓の鼓動がおさまらない。とても眠れる気がしなかった。

「おやすみ、静香」

ささやくような小さな声が聞こえた。

「うん…おやすみ、純壱」

それにこたえると、それきり彼からは呼吸音しか聞こえなくなった。

今日は僕が眠くなるまで、話をしてはくれないのだろうか。

話しかけていいものだろうか。

隣にいるはずなのに、どこか寂しい。

同じベットに寝ていると、否が応でもお互いの動きが伝わってくる。純壱が呼吸を擦れば、布団の引き具合やベットの浮き沈みでそれが伝わってくる。彼がそこにいるというそれが伝わってきて、ますます僕の眠気は遠ざかっていった。

ああ、ドキドキする。

僕は胸のあたりでシャツをぎゅっと握った。

顔が熱い。

純壱は今、どんな顔で寝ているんだろう。ふと、そんなことを思った。

でも僕には今、反対を向いて彼の顔を覗く勇気がなかった。

緊張している僕の顔を見て欲しくなかった。

布団の中で縮こまった。

これっぽちも眠くなかった。

「静香」

声が聞こえた。

ドキッとした。悪いことをしたわけじゃないのに、驚いてしまった。

「眠れない?」

「…うん」

「緊張してる?」

「……うん」

僕は素直に答える。この距離だから、もしかしたらこの心臓の音も聞こえているかもしれない。

「部屋、変える?」

「えっ」

違う。僕が欲しいのはそんな言葉じゃない。

「一緒はまだ気が早かったかな」

そうじゃない。もどかしくて仕方ない。

「違う…」

「えっ」

ああもう僕から言うしかないじゃないか。

「その…ちょっと落ち着くまで、話したいんだけど」

緊張で声が震えていたかもしれない。

「あ、ああそうか…」

純壱の声にわずかに動揺が混じっていた気がした。

「もちろん、いいよ」

僕はほっとした。眠いから嫌だなんて言われたらどうしようと思った。

「ありがとう。…なんか、隣で純壱が寝てるって思ったら、ドキドキしちゃって…」

「そっか。いや実は、僕もちょっと緊張しててね」

「え、そうなの?」

「ああ。僕もドキドキしてる。君がそこにいるって思うと」

意外だと思った。純壱は今まで何人もと関係を持ったことがあるらしいし、今更添い寝で緊張なんてするんだ、と。

「背中に耳を当てて音を聞いたら、わかると思うよ」

「なにそれ、暗に背中触ってほしいだけじゃないの?」

「…バレた?」

「えっ、ほんとに?」

「うん。だって本当は君を抱きしめて寝たいんだからね?」

「…本当にもう、素直なんだからさ…」

「言わなきゃ伝わらないから」

「だったらもっと手出せばいいのに…」

「手を出さないって約束した」

「あっそうじゃん…ごめん」

「ふっ、いいよ」

「…じゃあ仕方ないな」

僕はもぞもぞと布団の中で動いて、彼の方を向いた。

「こっち見ないでね…」

「えっ、静香?」

純壱の背中に耳を当てた。

ドクドクドク、と心臓の鼓動が速いペースで脈打っていた。彼の体も緊張しているせいか、火照っているように熱かった。

「…ほんとだ」

「だろう?」

「純壱も緊張とかするんだね」

「そりゃあ、人間だからね」

そうだった。彼もまた生きている人間なんだ。だからこの暖かさは、生きている証だ。

「…なんか生きてるって感じする」

僕は純壱の背中に顔をうずめて言った。

「確かに、人肌の熱さを感じると、ああ、生きているんだなって思う。独りじゃないって思える」

その声はどこか寂しそうだった。

彼もまた、これまでの人生で幾度となく孤独を感じてきたんだろうか。

大切な人を失うということは、どれほど辛いことだったんだろう。

ああなんというか、愛おしいと思った。

「うん、僕も、そう思う」

手を純壱の腰のあたりに回した。そして、自分に引き寄せるように力を入れて、抱きしめる。

「…あったかいね」

これで寂しくないかな、とは恥ずかしくてとても言えなかった。

「っ!静香…」

純壱の心臓の鼓動が聞こえる。

「…ありがとう。うん、静香、あったかいよ」

その声は心の底から安堵したような、あるいは歓喜したような感じがした。

純壱の背中の温かさが心地よくて、僕はそれに身を任せて、眠りについた。



目が覚めると、部屋に日が差し込んでいた。気がつくと、僕の腕の中にいた純壱はいなかった。正確には部屋にすらいなかった。

僕は慌てて飛び起きる。小走りで部屋を出てリビングに向かう。いつものソファーにもいなかった。

もう出かけて行ってしまったのだろうか。一言くらいどこかにメッセージが残っていないかと、寝室にいったん戻ろうと踵を返した。

そのとき、バスルームの扉が開いた。そこから純壱があくびをしながら出てきた。もう着替えも済ませていた。

「いた…!」

「あ、静香、おはよう」

僕は駆け寄って、彼に詰め寄った。

「起きたんなら僕も起こしてよ…!」

「ごめんごめん、まだ寝かせておいた方がいいのかと思って」

「そんなの気にしなくていいから!寝たかったら寝たいって言う!朝起きたらいないとか怖いからやめて!」

泣きそうだった。

朝起きたらあの温かさがなくなっていて、置いていかれたような気持だった。そんな訳ないと思っても不安だった。

「…っ!そうか、ごめんね」

純壱が僕を引き寄せ、抱きしめてくれる。あの温かさを再び感じた。

「次からは一声かけるよ」

「そうして…」

彼の懐に顔をうずめる。そうすると、彼が僕の頭を撫でた。優しい手つきだった。

しばらくそうしていた。やがて彼の方から口を開いた。

「朝ごはん、食べよう?」

「…うん」

僕たちは朝食の場へと向かった。



それから、何日か経過した。

毎日、純壱と同じベットで眠りについた。

でもまだ面と向かって寝顔をつき合わせることはできずにいた。いつも純壱の背中に顔を埋めて、心臓の鼓動と体温を感じながら眠る。

朝、彼の方が先に起きたら、必ず僕も一緒に起きた。

僕が夢を見ている間に、彼がどこかに行ってしまわないかと不安になるから。

どうしてそこまで不安感を覚えるのか、今の僕にはわからなかった。ただとにかく、彼が僕の知らないところにいるのが嫌だった。

そのせいか、一人で眠ることは、もうできなくなっていた。

そして、昼間は純壱と出かけたり、彼が仕事や用事で留守にするときは、適当にネットを漁ったりして過ごした。ゲームや本もあったから、たまに手に取ったりもした。出かけたときは公園で散歩や、映画を見に行ったりや、ゲームセンターのダーツをしに行ったりした。

心の底から、楽しいと思った。生まれて初めて、僕は楽しみというのを知ったような日々だった。

ただ同時に不安も残る。このまま、楽しいばかりでいいのかと。

純壱は、僕が彼に愛情を注いでくれればいいと言った。

けどそれだけでは足りない気がする。いままで家のことは自分でやってきたせいもあってか、家事を任せきりにしているのもどこか落ち着かない。手伝おうかと、望月さんや和也くんに打診したこともあったが、「大丈夫です」と両方にあっけなく跳ね返されてしまった。

このまま悩んでいても、もやもやするだけだ。

ある日、僕は純壱にそのことを話してみた。

「僕としては、特に何もしなくてもいいんだけど…そうだなあ」

あごに手を当てて少し考えこんだ後に、ぱん、と手をたたいた。

「来年の春になったら、アルバイトってことで、僕の店のお手伝いをしてもらおうかな」

「アルバイト?」

「そう。まあ、今から働いてもらってもかまわないけど、たまにめんどくさいのにせっつかれるから、一応卒業した体はあったほうがいいから…来年ってことで、いい?」

少し先が長い気がしたが、前と違って嫌なことを我慢し続ける生活とは違う。

「いいよ。待ってる」

僕は少し先の、新しい出来事を待つことにした。


その翌日の夜のこと。

「ごめんね、君の前では控えるって約束してたと思うんだけど…」

純壱はワインのボトルを手に持っていた。

「ちょっとだけ、いい?」

その顔はちょっとしたいたずらを思いついた子供のようで、少しおかしくて笑ってしまった。

「いいよ。我慢させちゃって悪いと思ってたし…。たまには飲みたい日だってあるもんね」

「ふふっ、ありがとう。君は本当にやさしいね」

そう言うと、彼はキッチンに行き、ワインオープナーで栓を抜くと、ワイン用のグラスの半分に満たないくらいの量を注いだ。それをもって、ソファーに座った。

「これ一杯だけにするから」

グラスを掲げながら、悪いね、と苦笑した。

「はいはい」

呆れたようなふりをして僕は笑った。

というの、家主は彼の方なのだ。本来は僕に止める権利なんてない。むしろ彼に気を使ってもらっている立場なのだ。

望月さんから聞いた限り、彼は元々よく酒を友達と飲んでいたらしいし、いっそう咎める理由はない。

ただ僕は、彼に酒を控えてもらっていた理由を、この時すっかり忘れていた。いや、無意識に考えないようにしていたんだろう。

僕はじっと、ワインをたしなむ様子を眺めてみた。

彼はワイングラスを顔に近づけて香りを楽しんでから、ひと口分だけ味わった。それからグラスを軽く回しながら、中身をじっと観察し始めた。

「おいしい?」

と声をかけてみた。

「ああ、とっても。いい銘柄のやつ開けたからね」

「へー」

僕はワインに関して知識がまったくなかったが、言わゆるブランドものなのだろうなというのは察しがついた。

彼はすごく幸せそうにその赤い液体を味わっていた。

楽しそうでよかったな。

その姿から視線を逸らし、僕は手に持っていた本に目を向けた。その本は文字がつらつらと並び、物語を記述していた。いわゆる小説というやつだった。僕はそれを、ゆっくりと読んだ。

天才映画監督である彼女と、それに惹かれた映研サークルの平凡な俳優の彼が、人の意識すら変えてしまうほどの映画を撮影する、という話だった。

物語は中盤に差し掛かっていた。彼の恋愛感情に気づいた監督が、それを撮影に生かそうと彼に提案し、そのうえで恋人関係になろう、と提案するところだ。彼と彼女は、今まさに交わろうとしているところだった。

さて彼らが本番に差し掛かろうというときに、ソファーが揺れ動き、いつのまにか僕の横に純壱が座っていることに気がついた。

顔を上げると同時に、純壱がソファーと僕の間に手を入れ、背中を撫でるように触れた。彼の顔を見ると、アルコールのせいで頬を赤らめていて、目元もとろんと溶けたような目つきをしていた。彼はワイングラスをテーブルに置き、今度は反対の手で僕の頬に触れた。

「静香」

「…なに?」

触れられるのは初めてではないが、妙にいつもよりいやらしい手つきなのが気になって仕方がなかった。

「エッチしたい」

「えっ」

突然だった。

彼は口角を上げ、甘い声でそう言ったのだ。

当然僕は驚いて、心臓の鼓動が早くなった。

「あ…えっと…」

拒否するか受け入れるかしないといけないのだが、僕は口を開け閉めするだけで、意味のある言葉が何も出てこなかった。

なおも純壱は僕をじっと見つめてくる。

「…だめ?」

酔っぱらうと純壱は甘えん坊になるのだろうか。

おねだりするように、首をかしげ、にやにやとしながら迫ってくる。

鼓動は最高潮に達していた。体中が熱くなり、汗が出る。

触れた純壱の手がすごく熱かった。

「だめじゃ、ないけど…」

全く頭が回らず、答えが出せない。

「じゃあ本番しなくていいから、体触るだけでもいい?」

新しく提案された案は、より現実的だった。

僕は生唾をごくりと音を立てて飲み込み、目線を逸らしながら言った。

「そ、それなら…いいよ」

「ほんと?ありがとう!」

純壱は晴れたように笑った。僕からいったん手を離すと、ソファに横に座るように促された。

言われるがまま姿勢を変えると、足を開かれ、股の間に彼が入り込む。

すると彼の手がズボンに入り込み、僕の太ももを撫でた。くすぐったくて、体がびくりと震える。

「わっ…!?」

「肌、きれいだね」

ささやくように彼は言う。

「そ、そうかな…」

「もっと触りたい、いい?」

「ん…いいよ…」

手が腰に伸びる。ズボンに入ってきて、お尻を撫でられる。すごくくすぐったい。

「んっうん…」

変な声が出る。恥ずかしくてさらに顔が熱くなってきた。

純壱がどんどん前のめりになっていって、そのせいで座っていられなくなって、僕は彼に押し倒される形で倒れた。

「わっ…!」

そこに純壱がまたがる。手がお腹のあたりからシャツに入り、胸のあたりを撫でる。

目を閉じて顔をそむけた。

首のあたりに熱を感じた。すると、何か柔らかくて湿った何かが首筋を走った。純壱が舌で舐めたのだろう。

「やあっ…!」

反射的に純壱の肩を掴んだ。

「いや…くすぐったい…」

僕の言葉に全く耳を貸さずに、舌が耳を這いずる。動かすたびにぐちゅぐちゅと卑猥な音が聞こえた。

ぎゅう、と掴んだ手に力が入る。ふうふう、と息が荒くなっていく。

その間にも、彼の手は僕の腰なんかをずっと愛撫し続けていた。

ふと、股間辺りも熱を帯びてきたことに気がついた。

僕は発情していた。

その時彼は上体を起こして僕から離れた。

「はあっ…はあ…」

荒い息をしていた。その目は真っすぐ僕を見ていた。

体に触れていた手を止め、僕の頬を両側から包み込むように触れる。

「静香…キスさせてほしい」

一瞬の間の後、僕は震える唇で答えた。

「…いいよ」

一度頷くと、純壱の唇がゆっくりと僕の唇に近づく。

心臓の鼓動は最高潮に達していた。もはや、暴走する列車のごとくだった。

ああ、僕はやっと彼に愛をあげられる。

恋人として、愛情で彼を満たすことが出来る。

僕は彼の唇を受け入れようとした。

鼻をかすめた匂いを感じた瞬間に、歓喜の瞬間は訪れる前に崩れた。

つんとする感覚。

これはそう、アルコールの匂い。

その時、忘れていたすべてが思い出された。

唇を押し付けられる。不快な匂いと感触に思考のすべてを満たされる、あの感覚。

吐き気がする。

気持ちが悪い。

怖い。

酔いながら歪な笑顔を浮かべて、自己の欲求を満たすためだけに僕を抱いたあの顔が思い浮かぶ。

頭の中から消したくても、インクで印刷されたように消えてくれない。

「いやぁ!!」

僕は無意識に純壱の口元を手で塞いだ。

「んっ…!?」

彼は驚いて目を見開いた。

「あっ…ああっ…あっ…」

うまく口が動かなくて、言葉が出ない。

さっきまでの熱さから一転して、体中から体温がなくなっていくのを感じる。

震えと汗が止まらない。

「どうした…?」

「ごめ、ごめん…むり…ごめんなさい…」

「急にどうしたんだ?」

彼は困惑していた。

「いいって、いったのに…できなくてごめ、んなさい…」

期待だけさせておいて、それを踏みにじってしまったことへの罪悪感に、押しつぶされそうだった。

視界がぼやけ始める。体温と反対に、目が熱くなってくる。

「ちが…さっきまでできるっておも、って…でも…でも…っ!」

「静香…落ち着いて」

肩を掴まれる。

「じゅんい、ち」

彼の顔を見た瞬間、僕の理性は吹き飛んだ。

先ほどまでの笑顔はもうなかった。そこには呆れなのか、失望なのか、曇った顔をした彼があった。

いてもたってもいられなかった。

「ごめんなさいっ…!!」

僕は彼を振り払いリビングを飛び出して、最初に寝たあの個室に走って逃げた。

乱暴に扉を開け閉めして、電気もつけずにベットに飛び込んだ。

震えが止まらない。呼吸も落ち着かない。

「どうしようどうしよう…」

純壱をがっかりさせてしまった。

あんなにうれしそうにしてくれていた。僕もそれを受け入れていたし、キスだってしたかった。

なのにどうしてあれは邪魔するんだ。

嫌われてしまったかもしれない。それだけは嫌だ。

謝らなきゃいけない。でも謝ってそれで許してくれるのか。

受け入れたのに。いいって言ったのに。

あんな拒絶の仕方をしたら誰だって傷つくに決まってるじゃないか。

「忘れてたっ…僕は…僕はっ…!」

ずっとアレの影にとりつかれていることを。

勝手に克服したと思っていた。

思い込んでいただけだった。

「ばかっ…ばかばかばか…」

ベットに顔をうずめる。

閉じた瞼から、涙が溢れだした。

ガチャ、と扉が開く音がした。

「…静香」

「ーッ!?」

反射的に顔を上げると、純壱が部屋の入口に立っていた。

「ちが、ちがうの純壱…っ!」

僕はベットの上で後ずさる。

「僕だってしたかったの…でもっ…!体が、言うこときかなくて!」

「わかってる…」

「純壱が嫌いとかじゃないの!違う!僕はっ…僕はっ!」

「大丈夫だから、静香」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ…!いいって言ったのに…期待だけさせてっ…!」

これ以上ないくらい取り乱した。

どうしたらいいのかわからなかった。

「ちがっ…ちがうの…ちがう…」

唇が痺れてきた。呼吸のペースが速い。

「落ち着いて。僕は気にしてないから」

涙で視界がぼやけて彼の表情が窺えない。

「はあはあはあっ…!じゅん、いち…ごめ…」

「静香っ…!」

彼が僕をいきなり抱きしめて、僕の顔を胸元に強く押し付けた。

「んぐぅっ!?」

呼吸を制限される。必然的に僕の呼吸は抑えられ、ゆっくりとした呼吸を強いられる。

そうして少しずつ過呼吸は静まり、元のペースに落ち着いていった。

「落ち着いた?」

首を縦に振った。

「よかった」

そっと腕が解かれた。僕は脱力して、ただ俯いた。

「…ごめん」

「もう謝らなくていい」

ぽん、と頭に手が置かれる。

「僕の方こそ悪かった」

「悪くないよ…」

「悪い。君が苦手だって言ってた酒を飲んでた」

「純壱が飲みたかったんだから仕方ないじゃん」

「よくない。我慢すればいいだけのことだった。そのせいで君を傷つけた」

「そんなことない…」

ぽた、と涙がシーツに落ちた。

頭の上にあった手が、その時ゆっくりと動き出した。

「泣かないでくれ。君が悲しんでいると苦しいんだ」

「だって…純壱はしたかったのに…期待させるだけさせて、がっかりしたでしょ…?」

「してないよ。むしろ悪いことをしたと思った」

「怒ってないの…」

「何で怒る必要がある」

「ほんとに?」

「本当だ」

心の底からほっとした。僕は顔を上げる。

「…嫌いになった?」

「こんなことじゃならない」

「ん…よかった」

涙を服の裾でぬぐった。それを見届けてから純壱は僕に背を向けた。

「今日は別々で寝よう。お休み」

そう言って扉を閉め、部屋を出ていった。

暗い部屋に静寂が訪れた。

僕は深呼吸をしてからベットに倒れ込んだ。

「何やってんの…僕は…」

あんなに取り乱して、純壱を困らせてしまった。

自己嫌悪で気が重くなる。

「ほんとに、嫌いになってないのかな…」

もやもやとした黒い霧のような不安感が胸に残り続けた。


それから、僕たちの距離感は何となく遠くなってしまった。

僕から申し出て、同じベットで寝るのは元通りになったが、それ以降純壱からも、僕からもお互いの体に触れることは無かった。背中を向けたまま朝を迎える日々が続き、どことなくぎくしゃくした空気が漂い続けていた。

それを喧嘩でもしたのかと思ったのだろう。ある日の夕食の時に和也君が、

「こういう時はケーキっすよ~!」

と自作のケーキを振舞ってくれたこともあったが、お互い「おいしい、ありがとう和也君」といった程度のコメントをしただけだった。僕に至っては素直に喜べなくて、愛想笑いになってしまっていた。それに正直、ご飯の味があまりはっきりとわからないような気がして、まずいともおいしいともわからなかったのが本当のところだった。和也君には本当に失礼をしてしまったと思う。

その後、何度か純壱と一緒に出掛けたりもした。けれど、関係が修復される気配はなかった。

そのまま半月ほどが過ぎてしまった。

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