彼の家へ
純壱の家はマンションの最上階だった。お金持ちだとは思っていたけど、もしかしたら僕の予想以上の富豪かもしれない。
エレベーターを降りて、小綺麗な廊下を少し歩いた先に、彼の部屋があった。
彼がポケットから取り出したカードキーをドアにあてると、ガチャ、という音とともに鍵が開いた。
「どうぞ」
開かれた扉にむかって、恐る恐る身を滑り込ませた。
目に映ったのは、僕にとってはまさに豪邸だった。
月並みな感想だけど、広くて綺麗ですごかった。とにかく。
というか綺麗すぎて落ち着かなかった。僕は本当にここにいていいのだろうか。不安になってきた。
きょろきょろと家中を見回す僕に気づいたのか、
「気になるなら見て回るかい?」
と彼が提案してくれたが、そもそも他人の家に上がり込んだ経験がない僕は、どこをどう見たらいいのかわからなかったし、何をすればいいのかもわからなかったから、
「いや、大丈夫…」
と断った。何が大丈夫なのか、僕にもよくわからなかった。
マンションに着いた辺りから、一旦落ち着いていた緊張が蘇っていた。
どうしよう、と立ち尽くす僕の肩に純壱が手を置いた。
「とりあえず、座ったら?」
「あっうん…」
僕はリビングと思われる広間の、中心に置かれていた大きいソファに近づいて、ゆっくりと腰を下ろした。さすがに、背中を預けてくつろぐ勇気はまだなかった。なんとなく背筋を伸ばして座った。
「緊張してるの?なんか動きが硬いよ」
ふふ、と彼は僕の様子を見て笑った。
「なんか落ち着かなくて…」
「来たばっかりだから仕方ないか。でも、今日からここが君の家なんだから、遠慮しなくていいよ」
「…そういわれても」
ホテルですら、こんなにいいところに泊ったことなどない。異世界にでも来たくらい、場違い感を覚えて仕方がなかった。
「まずはシャワーを浴びたほうがいいね。そのままだと風邪ひいちゃうといけないし」
そういえば雨に濡れて、服がびしょ濡れだったことを思い出した。緊張で吹き飛んでいた温度感が戻ってくる。少し寒い。
「バスルームはこっちね」
歩き出す彼についていく。扉を経て、洗濯機や洗面台が置いてある部屋に着いた。奥にはシャワーや鏡があり、さらにその横には大きいバスタブがあった。気になるのは、それらがガラス張りの壁でのみ仕切られているところだった。こんなの、映画でしか見たことがない。
「中にあるシャンプーとか好きに使っていいから。着替えは今用意するね」
「わかった…ありがとう」
僕がそう答えると、彼はうなずいてバスルームの扉を閉めた。
「はあ…」
やっと一人になれた。
彼の恋人になると決めたとはいえ、やっぱりすぐには心を許せそうになかった。
でももう、ここまで来たからには、戻ることも面倒だ。
せっかくなら、贅沢させてもらおうじゃないか。
深呼吸をしてから、僕は服を脱いで、ガラス張りの浴室に入ってみた。
ものすごく落ち着かなかった。部屋には誰もいないのに、僕の姿が見られているような感じがした。
とにかくさっさとシャワーを浴びよう。栓をひねると、シャワーヘッドから温水が流れ出る。雨水で冷え切った体が温まっていくのを感じた。少しだけ、何もしないでシャワーを浴びてみた。温かくて心地よかった。
周りを見てみると、高そうなボトルのシャンプーやボディソープが置かれていた。気が引けたが、使っていい、と言われているんだからいいだろう。思い切って、ボディソープと書かれたボトルのヘッドを押し、出てきた液体で体を洗ってみた。ものすごく良いにおいがした。多分、僕が知らない植物とかの匂いがついてるんだと思う。
一通り洗って、泡を落とす。今までとは段違いで肌質が良くなっている気がした。
なんだかとてもさっぱりした気がした。今までの汚れの全部を洗い流したような錯覚がした。
ふと、鏡の中をの自分と目が合った。
いつも鏡に映る僕は、どんよりと落ち込んだ暗い顔をしていた。
けど、今見えるのは、それより血の気が通い、少しだけ顔色が良くなった僕だった。
そこで、扉が開く音がした。
音の方を振り返ると、純壱が服と下着らしきものをもってバスルームに入ってきていた。
僕はあわてて背を向けた。同性とは言え、会ったばかりの相手に裸を見られるのには、まだ抵抗感があったからだ。
「困ったこととか、ないかい?」
純壱の問いに、背中越しにシャワーの音にかき消されないように、少し大きい声で僕が応える。
「だ、大丈夫!」
「そうか。ああ、ここに着替えを置いておくね。タオルはこっちにあるから」
「う、うんわかった!」
彼は棚に着替えを置いて、また扉の外へと消えていった。。
…さっさと出よう。
もう一度だけ全身にシャワーをかけてから、バスルームを出た。
壁に掛けてあったタオルで体を拭き、用意してくれた服に袖を通した。
「…おっきい」
それは高身長である純壱のものだったのか、Tシャツがワンピースかというくらい丈が長かった。スウェットのウエストも緩かったから、調節用の紐を、めいっぱい引っ張った。あと、下着は幸いにもちょうどよかった。
部屋を出てリビングに戻ると、純壱はソファに座り、タブレットを操作していた。僕に気づくと、顔を上げてにっこりと笑った。
「おっ、来たね」
彼は僕の姿を、足元から頭の先までじっと見た。
「やっぱり大きかったね、サイズ」
「そうだね…」
「下着は来客用の新品なんだけど、シャツとズボンは僕のなんだ」
「やっぱり」
「嫌じゃないかい?」
「いや…逆にゆったりしてていいかも?」
「いいこと言ってくれるね、ますます好きになるよ」
好き、という言葉におもわずドキリと心臓が跳ねる。
そうだ、僕はこの人に好かれたからここにいるんだ。すっかり忘れる所だった。
彼が僕を好きでいてくれる間は、ここにいられるということだ。それは、裏を返せば、彼は僕を嫌いになれば、いつでも捨てられるかも、ということだ。
だとしたら、僕は家を出る前と、やらくちゃいけないことは、何も変わっていないのだろうか。
嫌われないように、綱渡りをし続ける生活と。
違うと思いたいけど…。
「今日はもう遅いから、寝ようか」
純壱がソファから立ち上がってそう言った。
「そ、そうだね」
「じゃあ行こうか。寝室はこっち」
彼についてリビングを出ると、廊下に面していた。
「手前の部屋をつかってくれ。もういっこ奥のが僕の寝室ね」
僕は面食らった。
「てっきり一緒に寝ると思ってた」
「はは、そう思ってくれるのは嬉しいね。でもいきなり初日から添い寝何て嫌だろ?」
「ん…まあ」
言葉を濁した。
嫌かと言われれば嫌だし、しろと言われたら多分そうしていたし。
「それとも、そうする?」
純壱は目を細めて、意味ありげに笑った。
悪い人の顔だ。
「きょ、今日は遠慮しとく…!」
首を横に振る。
「うん、それがいい。ゆっくり休んでくれ」
僕は頷いた。それから、ドアノブを捻って、部屋の扉を開ける。照明をつけると、広めの空間にシングルベットが置かれているのが一番に目についた。他にはクローゼットや簡易的な机と椅子が1セットあったりした。
部屋を一通り見渡して、純壱に向き直った。
「ありがとう」
彼はふ、と笑った。
「どういたしまして。おやすみ」
「おやすみ」
そう言って扉を閉めた。とたん、部屋に静寂が訪れた。
ああ、やっと落ち着ける。
即座に電気を消して、一目散にベットに向かい、倒れ込むように横になった。重力に引かれて、体がマットに沈んでいく。
これまでの疲れが一気に押し寄せて、体中から力が抜けていった。
これでやっと、あの不快で気持ち悪い感覚を感じずに眠ることができる。
何も考えなくていい。少なくとも、今は。今後のことは明日考えよう。今日は休んで、と彼にだって言われたんだから。
瞼を閉じる。
深い眠りに向かおうと努めた。
…眠くない。
おかしい。確かに僕は疲れているし、時刻は深夜2時を過ぎている。すぐにでも眠れるはずだ。
ふと、顔が熱くなっていることに気が付いた。
体が震え、目頭も熱くなる。閉じていた瞳をこじ開けるように、涙が溢れてくる。
僕はベットの上で縮こまり、シーツをぎゅっと握りしめた。
涙がとめどなく流れた。
「うっ…ふうっ…ぐすっ」
声を出さないように、唇を固く閉ざして嗚咽をこらえる。
理由がわからないまま、僕は静かに泣き続けた。
「大丈夫?」
はっとして顔を上げた。そこには純壱が、部屋の扉を開けてこちらを覗いていた。声をかけられるまでまったく気づかなかった。
隙間から差し込んでいる光が僕に当たっていて、泣き腫らした顔がはっきりと見えているのだろう。純壱が心配そうな顔をしていた。
「泣いてる声が聞こえたから、様子を見に来たんだけど…」
「だ、大丈夫…ちょっと疲れてただけ…」
僕の声は震えていた。涙も、ゆっくりとではあるけど溢れ続けていた。
涙を流すのが久しぶりすぎて、止め方も忘れてしまっていた。
手で涙をぬぐいながら答える。
「…そっちに行ってもいいかな?」
無言で首を縦に振った。
純壱は部屋に入ると、オレンジ色の小さい光だけ灯るように電気をつけ、扉を閉めた。
僕はベットの端に座リ、俯いた。
「隣、座るよ」
「…うん」
ぎし、とベットが揺れるのを感じた。
純壱は静かな声で話し始めた。
「やっぱりここに来たのは…嫌だった?」
僕は首を横に振る。
「ぐすっ…違う、そんなことない…」
「なら、どうして泣いているの?」
「僕にも、わかんない。なんか急に、涙が止まらなくて…」
「うーん…」
再びベットが揺れる感覚。ちらと横を見ると、純壱が足を組んでいた。
「そうだね…。僕の立場で君の気持ちを語るのは、おこがましいとは思うんだけどね。多分、静香は今、ここに来てちょっとだけ安心してるんだと思う。それで、今まで辛かったけど、我慢していた分が一気に来た、とかそんな感じなんじゃないかなと考えたんだけど、どうかな?」
「そう、なのかな…」
自分の心に聞いてみる。はっきりと、そうだ、とはならないけど、そんな気もする、くらいには思えた。
「でも、ちょっと…そんな気、する」
「うん、きっとそうだ」
そういうと、純壱は僕の肩を抱いた。一瞬、驚いて体を震わせた。体に触れられるのは、嫌な思い出しかなかったから、体体が勝手に強張った。けれど、不思議といつものような不快感は現れなかった。
むしろ、純壱の手の温かさに、安心感を覚えた気がした。
その温かさに触れたとき、再び大粒の涙が、目から零れ落ちた。
僕は顔を手で覆い、泣き続けた。
今まで誰も、僕に優しくしてなんてくれなかった。手を差し伸べてなんてくれなかった。
今だけの嘘だっていい。涙を流す僕に、そっと寄り添ってくれる人がいることに、いろんな感情が混ざったものが、喉の奥からこみ上げ、声として漏れそうになる。
「好きなだけ泣くといい、僕はここにいるから」
肩を抱いていた手で、僕の背中をさすってくれる。
そのまま、僕はしばらく泣き続けた。
目が覚めると、うっすらと日の光が部屋に差し込んでいた。
ゆっくりと体を起こす。泣いたせいで瞼が重い。
覚えているのは、少し落ち着いたタイミングで、「横になったら?」という純壱の提案にのって、ベットに寝転んだところまでだ。あの後、どうやら僕はすぐに眠ったらしい。
机の上に置かれていたデジタル時計を見た。時刻は11時になろうとしていた。こんな時間まで寝ているなんて、風邪をひいて寝込んでいた時以来だ。
はあ、と大きく息を吐いた。とてもすっきりした気分だった。つきものが落ちたようだ。
目も冷めたことだし、純壱のところへ行こう。
ベットを降りて、部屋を出る。廊下を経てリビングに入ると、ソファに座り、装飾の施されたティーカップでお茶を飲みながら、タブレット端末で何かを見ている純壱がいた。昨日と違い、カジュアルな白いシャツと、黒いジャケットという格好だった。
「あ…おは、よう?」
時間的にこんにちはの方が適切な気もするが。
声で存在に気づいたのか、彼は顔を上げた。その目と僕の目が合うと、彼はにっこりと笑った。
「おはよう。気分はどう?」
「いい、かな?」
「それはよかった」
純壱はティーカップをテーブルに置かれていたソーサーの上に置いた。
「とりあえず、顔を洗うかい?目が覚めるよ」
「そうする。バスルームのとこの洗面台使っていいのかな?」
「ああ。タオルとかは傍にあると思うから、好きに使って」
「うん、わかった」
すたすたと歩いて、昨日シャワーを浴びた部屋に入る。洗面台に向かい、綺麗に磨かれた鏡の中に僕が映った。瞼が少し腫れ、髪には寝癖がついていた。この見た目で純壱と会話したのかと思ったら、ちょっとだけ恥ずかしくなった。
栓を捻って水を出す。手で掬って顔に水をかけると、冷たい水が浅く残っていた眠気を覚ましてくれる。すぐ横の棚に、丁寧に畳まれたタオルが積まれていた。それを一つ取り、水気を拭きとる。同じ棚にヘアブラシが置いてあったのを見つけたので、試しに髪を水で濡らし、ブラシでとかしてみた。
…結果、大雑把に整いはしたが、大きな寝ぐせは直らなかった。整髪剤がどれかもわからないから、諦めてそのままにすることにした。
リビングに戻ると、純壱が話しかける。
「お腹空いてる?」
「…空いてる」
「じゃああっちに」
純壱はそういってどこかを指さした。指先の方を見ると、そこには大きなテーブルと、それに椅子が等間隔で並べられていた。奥には広いキッチンがあった。そこではエプロンを着た女性が一人、何か作業をしていた。おそらく、純壱が雇っているというお手伝いさんだろう。
「君のためのモーニング、いやもうランチかな?はは。それを頼んでおいたから、あっちで食べるといい」
「わかった」
そのまま行こうとしたけど、言い忘れていることを思い出して止まった。
「あの…ありがとう」
「ん?ああ、気にしなくていいよ。君には不自由をさせないと約束したしね」
「でも…」
僕は手の爪を触った。
「それを当たり前だと思ったら、きっと僕、甘えすぎちゃうから。せめてお礼くらい、言っときたくて」
それを聞いて、純壱は目を細めてははは、と笑った。
「まったく真面目だね、静香は。そういうところ嫌いじゃないよ。うん、なら、どういたしまして、と言っておくよ」
僕は頷く。そうして再び歩き出して、キッチンに向かった。
広いテーブルに、ポツンと何かが置かれていた。
近づくとそれは、卵やハムを挟んだホットサンドに、レタスとミニトマトのサラダ、玉ねぎのコンソメスープといった料理が、丁寧に並べられたカトラリーと一緒に置かれているトレイだった。
「飲み物はどうされますか?」
「へっ!?」
声の方に振り向くと、さっきまでキッチンで作業をしていたはずの女性が、僕の前の前にいた。
「緑茶、牛乳、豆乳、オレンジジュースがございます。温かい物でしたら紅茶もありますが、いかがなさいますか?」
丁寧な口調で女性が言う。僕は困惑しながらも、必死に脳を回転させて返答する。
「えっと…あ、じゃあ牛乳で」
「かしこまりました」
そう言って女性はキッチンへ戻っていった。
「びっくりした…」
僕は椅子を引いて座った。食欲をそそる匂いが、鼻孔をくすぐる。
すぐ後に、牛乳が入ったグラスが置かれた。
「どうぞ。お召し上がりください」
「は、はい。いただきます…!」
グラスを手に取り、牛乳を一口飲んだ。甘く滑らかな液体が、乾いた喉を潤してくれる。
続いてホットサンドを食べよう、と思ったが、手でつかんで食べるか、ナイフとフォークで切って食べるかで悩んだ。用意してあるのだから、そういう食べ方の方が正解かもしれない。それに、純壱やこの家の品位を壊さないためにも、ここはナイフを使うほうがいいだろう。僕はカトラリーを手に取り、不慣れな動きでホットサンドに切り込みを入れた。不格好ではあったけど、何とか一切れ切り出し、口に運んだ。おいしい。
「へえ静香はそうやって食べるんだ」
「え?」
顔を上げると、純壱が近くに立って僕を見ていた。
「僕、いつもめんどくさくて手で持って食べちゃうから、お行儀いいなって」
「あ、そ、そうなんだ…」
当てが外れた。まあいいけど。
「おいしい?」
「うん、にとっても」
「それはよかった。食べ物がおいしいと感じるうちは、元気な証拠だよ」
まるでそうでなかったことがあるような言い方だった。気になったが、聞く勇気はない。
「今日は元々から用事があってね、少し出かけるから。静香はのんびりしててよ」
僕は口に含んだホットサンドの一欠片を飲み込む。
「のんびり…」
言葉の意味を噛みしめて何をしようか少し考えたが、か全く思いつかなかった。
「テレビあるし、それで配信サービスも見れるし、友達がくれたゲームもあるから。まあ好きにしててよ。寝てたっていいしさ。わからないこととか、何か要望があれば望月さん…ああ、キッチンにいるお手伝いさんのことね。彼女に聞けばたいてい何とかなるから」
僕が悩んでいるのを察したのか、純壱はそのように説明してくれた。
「わかった、テレビでも見てるよ。ええと…いってらっしゃい」
僕がそう言うのはお門違いな気もした。けれど、純壱は気にも留めず「いってきます」と言い、微笑んだ。僕は再び食事を進めた。その間に純壱は出掛けていった。
料理を平らげて「ごちそうさまでした」と手を合わせた。とたん、横から手が伸びてきて、トレイが連れ去られていった。望月さん、と呼ばれた女性はとても仕事が早いようだった。一瞬あっけにとられたが、すぐに気を取り直して席を立った。
さて、これからどうするか。
ゆっくり、と言われても、昨日来たばかりの家でくつろぐには、いささかこの住処についてを知らなさすぎる。
テレビはソファの近くにあるのは確認したから、それで暇をつぶしてもいいが…。
参考までに、望月さんに話を聞いてみよう。
食器を洗っている彼女の元へ行き、声をかけた。
「あの…望月、さん?」
「はい、何でしょうか?」
望月さんは手を止めて、僕と目を合わせてくれた。
「あ、やりながらでいいですよ」
「ではお言葉に甘えて」
望月さんはすぐに皿洗いを再開した。切り替えも早いようだ。
「で、何のご用件でしょうか?」
「えっと…純壱…さん、は普段何をしてるのかなと…」
「純壱様は普段、ご自身が経営していらっしゃる店の管理や視察を主に行っており、それ以外の時間は基本的にほとんど遊んでいらっしゃいます」
「へえ、何して遊んでいるんですか?」
「それはもう色々でございます。わたくしが知る限りでは、よそに出かけることが多いです。バーやビリヤード場、プールなどに言ったとおっしゃられていましたね。家にいらっしゃるときは、映画を見たり、ゲームをしたり、ご友人方とお酒を飲んだりしておらっしゃいました。あとは…」
「あとは?」
「よく軋むような音と、喘ぎ声のようなものが寝室から聞こえてきます。おそらくあれはご友人と…」
「え?」
「というか、それが一番多いですね」
「あ、わかりました大丈夫です。ありがとうございました」
無理やり会話を切り上げて、そそくさとその場を立ち去った。
八割方、参考にならなかった。
諦めて無難にテレビでも見よう。
歩いて中央のソファーに向かう。この家は広くて移動も大変だ。
ソファーに対面するように、大きな液晶テレビが、テレビ台の上に置かれていた。テレビと一緒にリモコンが置かれていたので、一番目立つボタンを、テレビに向って押してみた。途端、真っ黒な板にカラフルな映像が映し出された。
ソファーに座る。相変らず背もたれに背を預けるのは気が引けて、背筋を伸ばして座ってしまう。
画面に集中する。普段はいつも学校に行っている時間、それ故に、見慣れない番組が放送されていた。最近流行のスイーツの紹介だとか、コーディネイト対決だとかを、芸人や女優がわいわいと騒ぎながら進行する。面白さがいまいちよくわからなかったが、それでもなんとなく見るのをやめられなかった。
足音がして、その方を見たら、望月さんがティーカップを乗せたトレイをもって、こちらに近づいてきた。
「紅茶です。どうぞ」
そういい、丁寧な所作でテーブルにカップを置いた。
「どうも、ありがとうございます」
僕が軽く頭を下げると、彼女はキッチンの方に向って踵を返した。
画面に視線を戻し、しばらく見ていると、どうやらニュースの放送時間になったようだ。ニュースキャスターが座っているスタジオが映し出された。キャスターが真剣な表情でニュースを淡々と読み上げる。
T県S市で殺傷事件が、大企業P社に不正の疑いが、アメリカ大統領が来日し、日経平均株価はおおむね…。などと、いつも見るようなラインナップが、次々流れるだけだった。
少年が現在行方不明、みたいなニュースは流れなかった。
ふと、思い浮かぶ。母は今頃どうしているのだろうか。
いなくなって悲しんでいるのだろうか。それとも、すっぱり忘れて新しい男でも探しているのだろうか。
後者の方が、僕にとっても、純壱にとっても都合は良い。けれどその場合を考えると、少しむなしい気持ちになるような気がした。
母の顔を思い出そうとしてしまった。途端、体を這いずり回る不快感と酒の匂いのする唇の感触を錯覚した。鳥肌が立ち、吐き気がしたので、考えるのをやめようと、頭を振り、紅茶を一口飲んだ。
忘れるのが一番だ。
戻るつもりだってないんだから。
画面に視線を戻す。ニュースが終わり、刑事ドラマの再放送が始まった。僕はそれを、実に集中して見ていたと思う。
被害者を殺害した凶器が見つからず、迷宮入りになりかけるも、天才刑事が凶器は食材を冷凍させたもので、殺害に使用した後に料理に使って、証拠を隠滅したことを突き止めた。正直わりと面白い。天才刑事が犯人を追い詰めていく様は実に痛快だと思う。
けれど、終盤になるにつれ、眠気が襲ってきた。
昼まで寝ていたというのに、まだ寝ようというのか僕の体は。
目を擦る。瞬きの回数が増えたし、目に映る映像が途切れ途切れになり始めた。
仕方ない、仮眠をしよう。
僕はソファのやわらかくて、枕のようなひじ掛けにもたれた。
少し目をつぶって、眠気を発散させればいい。それにこの姿勢なら、数十分で勝手に目が覚めるはずだ。
僕は瞼を閉じる。眠りに入る前の、ふわふわとした時間が、一番気持ちいいと思う。
刑事が「貴方を逮捕します」と言ったのが聞こえた気がした。もうドラマは佳境のようだ。
―――。
夢を見た。
ぼんやりとした視界でそれを見ていた。
純壱がソファーで眠る僕に、羽織っていたジャケットを脱ぎ、僕にかぶせる。さっきまで人肌に触れていたジャケットは、ほんのり温かい。純壱と望月さんが何かを話している。夕飯がどうこう、言ってた気がする。話し終わると、純壱が僕の横に立ち、僕の頭をそっと撫でた。本当に、優しい手つきだった。心地の良い感覚だった。
僕はそれに任せて、再び瞼を閉じた。
意識が戻ってくる。
瞼を少しづつ開ける。
視界の隅に映った窓。その向こうには、黒い空が広がっていた。
…黒?
しまった、夜まで寝てしまった。
急速に意識が覚醒していく。あわてて体を起こして、辺りを見回した。
「あ、起きた?」
「えっ!?」
純壱は、僕が寝ていたソファーに腰かけていた。
ふと、ぱさりと膝の上に布のようなものが落ちるのを感じて、見下ろす。そこには、純壱の着ていたはずのジャケットがあった。さっきまでの光景は、夢ではなく、寝ぼけた思考で見ていた現実らしかった。
「あ…ごめん。ちょっとだけのつもりが…こんな時間まで寝ちゃってた…」
「なんで謝るのさ?いったろ、ここは君の家なんだから、好きにしなって」
「そ、そうだよね…」
そういい、僕はジャケットを掴んで、少し持ち上げる。
「あとこれ、ありがとう」
「ああ、どういたしまして」
純壱が手を差し出してきたので、掴んでいたところを手渡した。受け取ると、彼はジャケットを羽織った。
身長が高く、整った顔立ちの彼に、カジュアルな格好はよく似合っていた。
「夕飯、今日は作ってもらってるから、一緒に食べよう」
「うん」
「彼が作る料理はおいしいから、安心して」
彼?望月さんはどう見ても女性のように見えたけど、最近では心だけは男など珍しくもない、そういうたぐいの人だったのだろうか?
「あの、作るのは望月さん…だよね?」
「ん?ああ違うよ。もう一人の方なんだ。望月さんはいつも16時までいて、そのあとは違う人に交代して、そっちの人がいつも夕飯を作ってくれるんだ。まあ、いつもデリバリーか外で食べてるんだけどね」
それを聞いて、キッチンの方を見てみた。
するとそこには、派手な赤色の髪の毛の小柄な男が、何やらキッチンで作業をしていた。歳は20歳くらいだろうか。
「彼、和也くんっていうんだけど、明るくていい子で、料理が得意なんだ」
「へえ…」
彼は手際よく調理を進めていて、次々と料理が出来上がっていく。
「お手伝いさんを雇うときに、名簿で見てかわいいと思って選んだんだ」
「あ、そう…」
それに関しては別にいらない情報だった。
「そろそろ出来上がりそうだし、行こうか」
二人は立ち上がり、キッチンの手前のテーブル席に向かった。
テーブルには出来立ての料理が並べられ、すべてがおいしそうだった。
ぐるる、と腹の虫が鳴く音がした。僕のお腹からだった。
「そろそろできるっすから、そこ座って待っててくださいっす!!」
大きな声で純壱が和也さんと呼んだ彼は、そう言った。
僕たちは椅子を引いて座る。純壱の正面に、僕は座った。
暫くすると、和也さんがカトラリー類を並べ、最後に料理の乗った皿をテーブルに置き、
「はい完成です!召し上がりくださいっす!」
と高らかに宣言した。
「いつもありがとうカズ君。今日もおいしそうだね」
「こちらこそ、いつもおいしそうに食べてくれてうれしいっす!」
くるっ、と和也さんは僕の方を見た。
「えっと、静香さん、ですよね!俺、料理が一番得意何で、味は良いと思うんすけど、口に合わなかったら遠慮なくいってくださいっす!真摯に受け止めるっす!」
「わ、わかりました…」
なんだかテンション感が激しい人だけど、悪い人ではなさそうだ。
「いただきます」
と手を合わせて、フォークを手に取った。
結論から言うと、料理は今まで食べた中で、一番おいしかった。
僕が外食などで、いいご飯を食べてこなかったのもあるが、とにかく全部がおいしかった。
味付けはちょうどよく、火の通り加減も絶妙。盛り付けもプロと見紛うくらい、丁寧に盛り付けられていた。
絶品の料理は僕の胃に吸い込まれるように、あっという間に平らげられた。
「ごちそうさまでした」
手を合わせる。
その様子を見て、空いた食器類を片付けようと和也さんがこちらへ来た。
「和也さん、片付けありがとうございます。すっごくおいしかったです」
「まじっすか!こちらこそありがとうございますっす!あそうだ、俺にさん付けしなくていいっすよ!敬語もいいっす!」
「いいの?」
「はいっす!俺のは癖なので、静香さんは気にしなくていいっすよ!」
「じゃあお言葉に甘えて。ありがとう、和也くん」
「うっす!!」
彼は器用に食器を積み重ねて、キッチンまでもっていった。
シャワーを浴びて、新しい服を着た。シャツにステテコ。今度はサイズがちょうどよかった。
部屋を出てリビングに戻る。先に風呂を済ませた純壱が、いつものソファーに座っていた。彼も僕と似たような服を着ていた。長身の彼と比べると、着こなし方がまったく違って見える。
僕は純一の隣に、少し間を開けて座った。
「もう遅いけど、眠い?」
「昼寝したから、全然」
「ふむ、じゃあ…」
おいで、と純壱は立ち上がりながら、僕を手招きした。立ち上がって、窓に向って歩く純壱を追った。よく見ると、大きなガラス窓の先には、バルコニーがあった。窓を横に引いて開けて外に出る。そこには屋外用のリクライニングチェアが、2つ並べて置かれていた。純壱が片方に座ったのを見て、僕ももう一方の方に座った。背もたれに寄りかかると、勝手に背が倒れ、足元が上がる。
「眠くなるまで、少し話そう。今日は、夜風が気持ちよさそうだし」
たしかに、初夏のこの、程よく涼しい風が吹いていた。
夜空を見上げる。星は数えるほどしかなかったけど、この建物より高い建造物が無くて、ただ黒い世界が広がっていた。まるで、この世界には今、僕がいるこのバルコニーだけしか存在しないかのような錯覚を覚えた。それが、少しだけ僕の心を落ち着つかせる。
「そうしよう」
僕は空を見たまま、そう答えた。
「明日、静香が良ければ色々と買い物をしに行こうと思うんだけど、どう?」
「うん、いいよ。ちゃんと明日は起きる。でも何を買うの?」
「君の服とか、消耗品とか。生活に必要なものをまとめて買おうと思って」
「なるほどね」
「何か欲しいものある?買ってあげるよ」
「うーん、今は思いつかないかな…」
「ならもし、買い物中に欲しいものが見つかったら言ってくれ。何でも買うよ」
「いや…なんだか悪いし、必要最低限のものだけでいいんだけど…」
「いいんだよ、僕が買ってあげたいんだ。甘やかしたいんだよ、君を」
「…好きだから?」
「そう」
「今までもずっとそうだったの?」
「まあね。そりゃ無制限にじゃなく、多少は節度を持ってはいたけどね?でもやっぱり色々甘やかしてあげたくなっちゃうんだ。お酒とかよくおごったもんだよ」
「友達、多いの?」
「ああ。寂しがりやだから、常に誰かと一緒にいた」
「寂しがりや?そんな風には見えないけど」
「そう?」
「最初は一人でなんでもやっちゃいそう、って思った」
「ありがとう。なら、ちゃんとしているように見えたのかな?でも実際はね、僕はものすごくだらしがない人間だから。家のことはお手伝いさんにまかせっきりだし、いろんな友達と遊んでばっかりだし、節操なしにいろんな人とヤりまくってたりしてるしね」
「い、今もその…友達と…やってるの?」
「君が来てからはしてないね」
「だ、だよね」
「いつか君が許してくれたら、そういうこともしたいと思ってる」
「うん…」
「正直に聞くけど、僕のこと嫌い?」
「全然…!」
「本当?」
「嘘じゃないよ。嫌ではないんだ…ただちょっと、慣れてないだけで」
「まだあって1日だしね」
「うん。でも、僕は…もっと純壱を知りたいなって…ちょっと思うし…それでそのまま、好きになれたらいいなって。僕は純壱にしてもらってばかりだから、僕にできるのは、こっちから歩み寄ることくらいしかないから…」
「そんな、気を使わなくていいのに。それに、君にはこの後、返してもらえそうなものがあるんだから」
「え、なにそれ?」
「愛」
「へっ!?そ、それだけでいいの?いや、それが一番難しいんだろうけど…」
「それがもらえれば十分、いや、それが一番欲しいんだ。だから今は、僕を知ってほしい。君が愛するに値するかを、見極めてほしい」
「うん…僕もそうしたい」
「決まりだね。…ところで、静香はアレルギーとかあるかい?」
「ううん、無いよ」
「じゃあいいね。明日は外でランチを食べよう。とびきりおしゃれな店にいこう」
「マナーとか大丈夫かな…その手の常識、全然知らないけど」
「なあに、内装が綺麗ってだけだよ。ランチなんだから、必要最低限のマナーで十分だよ」
「わかった。…ちょっと楽しみになった」
「なら良かった」
「うん…」
「眠いかい?」
「少し」
「じゃあ寝ようか」
「そうだね」
「今日は、付き添いはいる?」
「い、いや、いいよ。昼寝の時眠れたし…大丈夫!…たぶん」
「また眠れなかったら、僕のところに来なよ。起こして大丈夫だから」
「わかった、そうする…」
「うん、じゃあ、お休み。いい夢を」
「お休み」
僕は純壱より一足先に席を立ち、寝室へと向かった。
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