出会い

僕の人生は、降りしきるこの雨と、曇り空によって光を遮られたこの町のようだと思った。

暗く、重い。

30分ほど前から、雨よけに適当に入った軒下からその光景を眺めていた。雨は落ち着きを取り戻すことがなく、ずっと「バケツをひっくり返したような勢い」、というニュースとかでよく見る表現がぴったりな振り方を続けていた。

何をするでもなく、ただただ雨と、傘をさして歩く人々の行き交う様子をじっと見つめる。

頭に思い浮かぶのは、帰りたくない、その言葉だけだった。

目標も、やりたいことも無い。ただ、やりたくないことだけが積もりに積もって、許容量という名のバケツからあふれ出していた。

拒否することも面倒で、相談すべき相手も見つからない。もういっそ、ここから逃げ出して、どこかへ行ってしまいたい。

でも、僕はただの無力な未成年のガキで。

きっと、こんな状態のままでは、何をしてもうまくいかないんだろうな、と。

やまない雨と同じくらい、マイナスの感情がとめどなく脳裏に垂れ流され続ける。

僕の心のバケツをひっくり返したら、この雨と同じく全部流れ落ちて、晴れた空が見えるのかな。


スマホの画面を覗いた。さらに30分ほど過ぎていた。雨はやむ気配がない。

雨が止んだところで帰りたい気持ちは全くないけど、このままここにいてもしょうがないのも事実だった。

諦めて雨粒のカーテンに突っ込むしかないか。僕は大きくため息をついた。

意を決して一歩、軒下から飛び出した。大きい雨粒が髪に当たるのを感じた。

濡れるのは嫌だけど、家に帰るのはもっと嫌だった。僕は早歩きで帰路についた。


いくら梅雨真っ盛りの6月とはいえ、同じ状況になるなんて。

なるべく家に帰る時間を遅くするために、いつも僕は駅前の図書館で暇をつぶしていた。

17時に閉館するまで適当に図鑑などを眺めて過ごした後、のろのろと家に帰るのが日課だった。

今日も同じく図書館で過ごしたが、昨日と同じく帰り道で大雨に降られてしまった。

ろくに天気予報を見ず、午前中晴れていたからと傘をもって来なかった僕が悪いんだけど。

むしろ家に帰る時間が延ばせていいのかもしれない。

帰路の途中にあった、あの軒下に僕はまた身を潜め、滝のような雨が通り過ぎるのを待つことにした。

ポケットの中のスマホを見るでもなく、周りを見渡すでもなく、ただぼうっと過ごす。

何人もの人が、目の前を通り過ぎる。誰か、哀れな僕に話しかけてくれないか、と被害者ぶってみる。

その思考が無意味なのは、僕が一番よく知っているけど。

しばらくそうしていると、だんだんと日が暮れ、道路沿いの街灯に明かりが灯り始めた。帰宅する時間の合図だった。

雨はまだ降り続いていた。

昨日と同じく、雨の中へ駆け出そうと、背を預けていた壁から離れた。

その時、僕が寄りかかっていた建物の扉が、ガチャンガチャンとやけに大きい音を立てて開いた。

初めて聞いたその音に驚き、僕はその方向に視線を向けた。

音の正体はドアについていた、入退店を知らせるベルの音だった。それに気づいた僕は安心したが、同時にドアを開けて出てきた男と目が合ってしまった。

オーダーメイドなのか、体にサイズにぴったり合ったスーツを着た、長身の男だった。

お金持ち、という単語が真っ先に思い浮かんだ。

僕は慌てて視線を地面に落とした。彼が雨の中へ去っていくのを待ってから帰ろう。そう決めて目を伏せた。

しかしあろうことか、彼は去るどころか僕の方に向って歩いてきてしまった。足音と気配が徐々に近くなる。何か気に障ってしまったのだろうか。緊張で心臓の鼓動が早くなる。

「やあ、君ーー」

彼は僕に向って話しかけてきた。僕は彼と視線を合わせないようにしつつ、答える。

「あ、はい…」

「傘、持ってないのかい?」

「え…いや、その」

「さっきからずっと、店の外で立ちっぱなしだったよね?この雨だから帰れなくて困ってるのかな、って思ったんだけど」

彼が話しかけてきた理由はシンプルだった。要するに、いつまでも店の外で突っ立ているものだから、傘が無くて帰れないのでは、と心配してくれていただけだった。ひどく警戒してしまって悪いことしたな。

「いえ、大丈夫です…」

「そうかい?昨日も結局、走って帰っていたから、今日も同じく雨で困ってたのかと」

驚いた。昨日の立ち往生もしっかりとみられていたらしい。

彼はこの店の常連なのか、それとも従業員なのかわからなかったけど、少なくとも連日通うような事情があるのは理解できた。

「よかったら、これ」

彼は二つ持っていた傘の一つを僕に差し出した。

「貸すよ」

純粋な親切だった。久しぶりのやさしさに涙が出そうだった。けれど、この優しさに甘えるわけにもいかない。

そうだ思い出した、僕は帰らなくちゃいけない。

「いえ、本当に大丈夫なんで…」

「そうか」

彼は差し出した傘をひっこめた。申し訳なくなって、体だけ彼の方に向き直って、会釈程度に頭を下げた。

「すみません…」

「いやいや、いいんだよ。余計なお世話だったみたいだね」

「そんなこと…」

本当は受け取りたかった、なんて今更言ってもしょうがない。

借りたら返さなくちゃいけない。けど、僕はまたここに来られる気がしなかった。きっと返しに来れない、そう思った。

人にやさしくされても、僕には返せるものがないから。

お金も、愛も。何も。

だから借りられない。

借りたくない。

愛情や親切を預かったところで、相手が捨てたら何の意味もないんだから。

「そういうことなんで」

僕は軒下から一歩踏み出す。靴先が濡れる。

帰ろう。そうしていつものようにーー。

いつものように嫌な日々を過ごして、我慢して、耐えて。

そうして高校を卒業して、とっとと家を出て。誰も僕の知らないところまで行って。

もう少し、もう少しなんだ。

雨はいつかやんで、僕の頭の上にも日の光が差し込むんだって、そう思って。

だから、大丈夫。

苦しくても大丈夫だから。

帰って、いつもの続きをしよう。

少し泣きそうだった。でも涙は出ない。いつものことだ。

雨に向って二歩目を踏み出そうとして、止まった。

僕の肩を、男の手がつかんでいた。

「やっぱり待って」

そう言って僕の方に乗っていた手が、僕の頬に触れた。驚いて彼の方を見た。

顔を上げると、再び彼と目が合った。

さっきみたときはわからなかったけど、とても整った顔立ちをしていた。少しだけ口角を吊り上げ、微笑んでいた。

ふれた手で髪を少しどかして、僕の顔を見ていた。

「顔色が悪いけど、本当に大丈夫?」

「え?あ…あの、あ…」

口がうまく回らなかった。

僕の心臓はどくどくと脈打っていた。突然肌に触れられ、目が合って、僕はひどく混乱していた。

その様子を見て察したのか、彼は僕から手を離した。

「急に悪かったね。昔の知り合いが、今の君のような顔をしていたことがあってね。その彼は…そのあとすぐに自殺したんだ。それで心配になってしまってね」

「そう…なんですね」

そんなにひどい顔をしていたのか、と愕然とした。

そして沈黙。僕も彼も、数秒ほど話さなかった。

静けさに耐え切れず、僕は再び俯き、口を開いた。

「その…実は家に帰りたくなくて、ここで雨を言い訳に時間を伸ばしてて…」

それに、濡れて帰れば。着替えや風呂などでさらに時間を稼ぐことができていた。

僕が傘を借りたくないのはそういう理由もあった。もっとも、人からの優しさを、素直に受け取るのが怖かったのもあるけど。

「うん、そうか…」

彼は一度大きく相槌を打ち、それから何も言わなかった。僕の言葉を待ってくれているみたいだった。

「帰りたく、ない」

頭ではずっと思っていたけど、口に出したのは初めてだった。

言葉を発した唇が震える。今にも泣きそうだった。

「帰りたくない、なら帰らなくてもいいんじゃないか?それとも、家に帰らないと何か不都合があるのかい?」

「ふっ、そりゃあるでしょ…」

自嘲気味に笑う。こんな態度でいてはいけないと思いながらも、口の端が釣りあがる。

「お金ない、友達もいない。そんな奴が生きていくためには、大人の力がないといけないでしょ?」

大きく息を吸う。そしてゆっくりと吐く。興奮気味だった体を抑え込む。

「それだけですよ…」

吐き捨てるようにそれだけ言ってから、僕は口を閉じた。

男は黙って僕を見つめているらしかった。

「そうか」

不意に、ぼそりと男がそう呟いた。

「…そうだよね、そうでもなければ、今ここにはいないよね」

彼はそう言って、俯く僕の顔の前に、手の平を差し出した。

「よかったら、話だけでも聞かせてくれないかな?家に帰るのは、もう少しだけ後でも構わないだろう?」

僕は悩んだ。

思考がここから去ることと、彼についていくという二択の間を右往左往していた。

少し考えて、僕は家に帰る時間を少しでも伸ばせればいいか、と思った。

「…はい」

僕は差し出された手を、取らなかった。

けど、僕の返事を聞いて察したのか。

「そうか、ありがとう」

声色だけで安堵しているのが窺えた。

「じゃあ、中で聞こうか」

回れ右をして、男は先ほど出てきたドアに手をかけた。

僕もそれに黙ってついていき、開かれたドアに一緒に吸い込まれていった。



「あらぁジュンちゃん、傘貸してあげるんじゃなかったのぉ?」

濃いめの化粧をした女性、もとい、がっちりとした肩回りから、おそらく体は男性と見える。いわゆるオネェの類だ。

彼は僕と、ジュンと呼ばれたスーツの男が店に入るなり開口一番にそう言った。

「もしかして、帰すのもったいなくて”お誘い”しちゃったぁ?かわいいもんねぇ」

「まだしてないよ。この子色々ありそうだから、心配で話を聞きたくなっただけだよ」

「へぇそうなの。うちは全然かまわないわよそうゆうの」

「ありがとう。奥の方の席借りるね」

「はいはい」

まだ、というのが非常に引っかかるけど。

彼、いや仮にいったんジュンさんとして。

ジュンさんは入り口から一番遠いテーブル席に向かい、「こっち」と僕を手招きした。

僕は促されるまま席に向かい、ジュンさんのテーブルをはさんで向かい側に座った。

ちら、と店内を見た。カウンター席の向こう側、壁一面に液体の入った瓶や、様々な形のグラスが並べられていた。

意識していなかったから気づかなかったけど、どうやらここはスナックとかそういう、酒を飲むためのお店らしかった。少しだけ、彼についてきたことを後悔した。これから怪しいネックレスとか壺とかを買わされたりしないだろうか、と考えてしまった。

ジュンさんはバーカウンターに向って、

「二人ともノンアルジュースね」

とだけ言って、僕の方に視線を向けた。僕はその様子を見ていたために、彼と目が合ってしまった。慌てて視線をテーブルに落とす。

「さて、自己紹介が遅れたね。僕は篠崎 純壱。純壱、と呼んで欲しい。苗字呼びは好きじゃなくてね。君は?」

「桜木 静香、です」

「静香くん、か。いい名前だね」

「そう…ですかね」

僕は僕の名前に思い入れも何もなかったから、どう返事をしていいのかわからなかった。

「そうだとも。それはさておき、いきなり聞くのも野暮だろうから、少し関係のない世間話でもしようか」

そう言って、純壱さんはまず自分の素性を話し出した。

彼はいわゆる経営者で、いくつかの店を経営しているらしかった。あの小綺麗なスーツはその賜物というわけだった。

この店には暇があるとよく来るらしく、普段は適当に酒を飲みながら客と話をするのが主らしかった。

その間に飲み物が運ばれてきた。僕の目の前にオレンジ色のグラスが置かれた。手に取り、付属していたストローに口をつけ、一口分吸い上げる。甘酸っぱい味が舌に広がった。見た目通り、オレンジジュースだった。

ちら、と純壱さんの方を見た。同じ飲み物が置かれ、ストローに口をつけていた。

顔を見てみる。整っていて、美形なのは間違いなかった。歳は若く見えた。

「静香くんはいくつ?」

再び僕を見て彼が言った。慣れてきたのか、今度は視線をそらさずに答えた。

「15、です」

「へぇ、じゃあ中校生?」

「まあ、はい」

「そうか、学校は…その様子じゃあんまりいい感じじゃないか」

「そうですね…」

「…そろそろ聞いてもいいかな」

純壱さんが両肘をテーブルに置き、両手を顔の前で組んだ。

「家に帰りたくない理由」

ドク、と心臓が一瞬止まったような錯覚がした。

戸惑う僕の様子を見て、彼は続けざまに言う。

「嫌なら構わないよ。このまま世間話をするだけでも、気が紛れると思うんだ。それだけでもいい。ただ」

ずっと僕を見つめていた目が伏せられる。

「このまま帰ったら、君とはもう二度と会えなくなる、そういう予感がするんだ」

彼は一呼吸おいて、

「どうしても、君の力になりたい。心配、なんだ。」

真剣な眼差しで、真っすぐ僕を見つめた。

どうしてそこまでして、と当然の疑問が脳裏に浮かぶ。

ただの強い正義感?慈善活動とか、あるいは宗教勧誘のための口実とか。

彼は言葉を必死に選びながら話しているように思えた。彼の本懐へたどり着かないように、うまく誘導されているような。

だとしたら僕は、本当に何かの企みの最中にいるのかもしれない。

うまいこと言いくるめられて、僕の人生の何もかもをめちゃくちゃにされるかもしれない。

それならそれでいい。僕の人生はもうすでにめちゃくちゃだからだ。

いっそのこと、ここで洗いざらいぶちまけてやろう。そうだ、今更隠したってしょうがないんだ。

隠し通したくてもいつかはほころびが現れるものだから。必死に隠し通そうとしても、誰かがほつれた糸を引っ張って、バラバラにしてしまうんだから。

すう、と大きく息を吸った。

どうせいつまで持つかわからない命だ。

どうなったって知るものか。

「はい、それじゃあ…僕は」

僕は口を開いた。


それから、僕の人生においてやまない雨を降らせ続ける、それらについてを話した。話し続けた。まくしたてるように、生き急ぐように。気狂いしたように。

最初は少しずつ水を垂らすように、言葉をこぼした。徐々に自嘲気味になり、もはややけくそだった。

僕の人生はいかに不幸か、僕はどれだけかわいそうな人間であるかをプレゼンしてるかのようだった。

胸が苦しかった。体中熱かった。

それは恥ずかしさか、悲しさか、他の感情のせいか。僕にはわからなかった。

その間、涙だけは決して出なかった。

純壱さんは、僕の話を黙って聞いていた。

一通りため込んだ諸々を言葉にして吐き出した。出し切った。


「…そんな感じ、です」

長話の終わりをおずおずと宣言して、僕はオレンジジュースを一口すすった。

乾ききった舌は、もはや甘酸っぱいオレンジの味を感じていなかった。

僕と純壱さんとの間の空気は、いつの間にか外の雨模様のように暗い雰囲へと変わっていた。

そのまま、彼は「そうか」とだけ言い、口を開かなくなった。

きっと彼は今、僕の話が思った以上に重たいものだったから、引いてしまっているのだろう。

数分経ったかもしれない。沈黙を破って、純壱さんが話し出す。

「まずはありがとう。話してくれて。それと、すまなかった。話すのはつらかったと思う」

目を合わせて話す。

「別に…貴方もこんな話聞かされて、嫌になったでしょ?」

「いやいやとんでもない。むしろ、今日会ったばかりの人間にこれだけ話してくれて、とても嬉しいと思っているよ」

「そうですか…まあ、知らない人の方が、この話はしやすいと思います」

僕は苦笑した。

「…もっとも、知っている人間にはすでに知れ渡っているんですけどね」

「話を聞く限りそのようだね。まったく、ひどい人しかいないね」

「…まあ、はい」

至極その通りだとは思う。

「うちに帰りたくない、か」

純壱さんはあごに手を当て、考える素振りを見せた。

「確認だけど、要するに衣食住、それと金銭面での保証がないから、家を出ていくことができない状態ということだね」

「え?まあそうですけど…逃げたところで行き場所もないですし…」

「ふむ、そうか」

不意に彼はにやり、と笑った。

「なら、それらが保証できたら、帰る必要はないわけだね?」

「は?」

何を言っているんだこの人は。当たり前じゃないか、そんなの。

「できるならそうしてますよ」

と、そこまで言ってから、僕は彼の考えに気づいた。

「僕の家に来ないかい?」

彼はあっさりと、そう言ってのけた。

「何言って…」

「家に来てくれたらご飯だって出すし、他に必要なものも買ってあげる。家事はお手伝いを雇っているから、その辺も心配いらないよ」

「はぁ…」

まさに渡りに船。

見ず知らずのガキを泊めてくれる。しかもそれだけじゃなく、生活の保障もする、と彼は言った。

いやいや、どう考えたって都合が良すぎる。疑いは拭い去れない。

それは釈迦が垂らした希望の糸か、はたまた無知な子供を絡めとる罠か。

「もちろん、条件がある」

ここで働けとか、臓器を売れとかじゃないだろうな、と訝しむ。

「一応聞きますけど、条件って…」

「うん、それなんけど…」

純壱さんはためらうように一瞬黙った。けれどすぐに話し出す。

「先に入っておくけど…これを聞いたら君はたぶん、馬鹿げていると思うけどね」

「…何させる気ですか」

彼は頬を掻いた。照れているのだろうか。何で?

「僕の恋人になってほしいんだ」

「………は?」

今何て言った?恋人?なぜ?

「恥ずかしい話なんだけど…僕、君に一目惚れしちゃったんだ」

「なっ…!?」

「傘を渡しに行こうと思ったのは、本当にただ純粋に親切心だったんだけど…いやその時に君の顔を見て…ピンと来ちゃってさ。そうしたらちょうど、訳ありさんらしかったから、どうにか引き留めて連絡先でも…と思って」

何て馬鹿な話だろうか。

そんな都合よく家出したい少年と、その子に惚れて何とかしてあげたいと思った大人が出会うなんてありえない。

ああきっとこれは嘘だ。そうに違いない。だって。

「いやあの…僕、15のガキですけど」

いい年した大人が年端もいかない青年に惚れるなど、ありえない。

「?それが、何だい?僕は気にしないけど」

正気か?僕は耳を疑った。

「少なくとも、僕は本気だよ。信じられないかもしれないけど」

「信じられないです」

「はは、手厳しいな」

嘘だ。絶対嘘だ。

「そうやって僕を手なずけて、何かしてやろうと思っているんでしょう?」

「そう思うのも無理ない。僕はただ、君を傍に留めておきたいだけなんだ」

「…ああそう」

嘘としか思えない。なのにどうして、完全に彼を拒否できない?

心のどこか片隅で、僕を好きなったなんて妄言を信じている僕がいるの去ろうか。

「…ちなみに、恋人になったら、どうなるの?」

「どうって…そうだね、手をつないだり一緒に出掛けたりとか。普通のカップルとそう変わったことは求めてないよ」

「それを受け入れれば、生活の保障はするってことですか?」

「その通り」

「…そう」

本当、なのかな。

本当に、純粋に僕が好きだからなのか?

とはいえ未成年の子供にこんな話をするんだ、どのみちろくなやつじゃないことは確かだとは思うけど。

「恋人、か」

純壱さんをじっと観察してみた。整った顔立ち。清潔感のある髪や肌。性格はわからないけど、少なくとも外見だけは好感を持てる風貌だった。

そういえば彼は男だけど、今の時代同性同士のカップルは珍しくもない。彼もそういった類の人なのだろうか。

純壱さんの手を見た。あの手に触れて、街中を歩くことを想像する。存外、悪くないかもしれない。

ふと思いついた。

恋人、ということは、"アレ"も求められるのか。

「ねえ…恋人ってことは、その…エッチもしなくちゃいけないの?」

「それは…」

彼は視線を明後日の方向に向けた。

ああやっぱりか。

それが目当てか。

「もちろん、君が承諾したらだけど…。正直に言って、僕はしたい。君とそういう関係に…」

「…っそう」

服の裾をぐっと掴んだ。

「あんたも所詮…僕をそういう目的で求めてたんだ」

誰も僕を必要としない。唯一求められた母は、僕を性的な目でしか見ていなかった。

なるほど、僕には性奴隷としての価値しかないんだ。

なら話は早い。どちらにしても搾取されるなら、変わらないのなら、ここにいる必要はない。

わざわざ環境を変えなくてもいい。だって、ゴールは見えているんだから。

現状に戻って、晴れ間を待つ日々に戻ろう。

僕は椅子から立ち上がった。

「…そうだ。求めている。けど、それだけじゃない」

純壱さんは露骨に焦っている様子を見せた。どうしても帰ってほしくないんだろう。

「いいですよ隠さなくて。そうやって何人も騙してきたの?」

にや、と笑ってみせる。

「確かに僕は友達が多い。けれど、君のような子を誘ったのは初めてだよ。君に惚れたという気持ちは嘘じゃない。本当だ」

「…言いたいことはそれだけですか?」

僕は通路に出て、純壱さんに背を向けた。

「話、聞いてくれてありがとうございました」

背中を向けたまま言う。

「ちょっとは…楽になりました」

「それなら、よかった…」

「じゃあ…」

「待って、最後に一つだけ」

純壱さんのほうから、ごそごそという音の後に、何かを机に置いたような音がした。

振り返ると、テーブルの上に小さい紙が置かれていた。紙の中心には篠崎純壱と書かれていた。それは彼の名刺だった。

「ここに連絡先が書いてある。もし、気持ちが変わったら、連絡してほしい。いつでも迎えに行く」

じっと名刺を見つめる。確かに端の方に電話番号などが印刷されていた。

「待ってる」

純壱さんを見ると、今までのどの時よりも真剣な眼差しで、僕を見ていた。

その圧に押し負けて、もらうだけもらっておこうと思った。

「…わかりました」

僕は名刺を手に取り、ポケットにしまった。

「あともう一つだけ」

純壱さんが立ち上がった。

「君は、幸せになっていい人間だ。決して君だけが我慢する必要は無い。いいね?」

「…そうですか」

僕は軽く頭を下げて、黙って店を出た。

外は暗かったが、雨はとっくにやんでいた。



小汚い外装のアパートについた。そこの一回奥の部屋が僕の家だった。

いつもカギはかかっていない。僕はドアに手をかけ、ゆっくりと開ける。見慣れたうちの玄関があった。

乱雑に置かれた靴を避けるように靴を脱いで置く。

廊下に明かりはついておらず、暗かった。唯一光が漏れている奥の部屋へ向かう。

扉の前に立った。

その扉はまるで、地獄の入り口のようだった。ただの扉が、とても重苦しく開けがたいもののように見えた。

それでも、僕は開けなくちゃいけない。

手が震えていた。

大丈夫、いつものことだ。そう僕に言い聞かせる。

そうしてゆっくりと、扉を開いた。

「遅かったじゃない」

母がリビングでテレビを見たまま、僕にそういった。

「…ごめん、その」

「いいから」

遮るように母は言う。

彼女は僕の話を聞く気がない。いつものことだ。

「早く家事やってよ。洗濯物今日多いし、あとお風呂も入りたいから早くして。あとトイレもちゃんと掃除して」

「…うん」

「こっちは稼いできてるんだから、これくらいやってくれないと困るんだけど」

「…ごめんなさい」

「ちゃんとしてくれなきゃ学校辞めてもらうからね。飯も買ってこないから」

「…はい」

いそいそと僕は言われたとおりに家事をこなす。

もたもたしていると、母が機嫌を損ねて物を投げて来たりするから、気を付けないといけない。

そうこうしているうちに、母が風呂に入る。その間にコンビニで買ってきたであろう弁当を食べる。

温める気にもならなくて、冷えた具材たちを、ただひたすら胃に詰め込む作業にいそしんだ。

僕が食事をするのは、お腹が空いたからではなく、食べないと死ぬから、ただそれだけの理由だった。

食べ終わった後の弁当のゴミを片付けつつ、部屋を片付けていた。

ふと、風呂場の扉が開く音がした。

ああ、もうそろそろだ。

ぺたぺたと、裸足で廊下を歩く音がする。僕はそれに気づいてないふりをした。

足音は徐々に近づいてきて、僕のすぐ後ろで止まった。

そして、細い腕が僕の両脇から伸びてきて、腹のあたりに絡みついた。

背中にふくらみが当たる感触がした。彼女は風呂から出てきたばかりで、体は火照っているはずなのに、触れている僕の背中には、寒気がしていた。

体が震える。それとはお構いなしに、絡みついていた手が、僕の下半身へと延びていく。

唇が僕の耳元に、と息がかかるほどの距離まで近づく。

「今日もお願い…」

さっき家事を急いてきた時の声と打って変わって、甘ったるい猫なで声だった。

お願い、と言っているが、僕に拒否権はない。

「…うん」

僕は服の端に手をかける。手は震えていたけど、何度も繰り返されてきた動作は、無意識のうちに手際よく服を脱がしていた。

僕が裸になったのを確認すると、母に手を引かれてベットへと連れていかれる。

そして、押し倒されてベットにあおむけで横たわる。天井を見つめる僕にまたがり、唇を重ねる。

僕は何もしない。ただ、彼女が満足するのを、嵐が過ぎ去るのを待つように、ただじっと耐えて、待つだけだ。

そう、僕は実の母親に、抱かれていた。


僕の両親はいわゆるデキ婚というやつだった。

二人の間にできた子は、もちろん僕。

当時、母は18歳の高校生だった。父は大学生で、ネットで知り合い何度か交わるうちに、身籠ってしまったらしい。

色々あったみたいだけど、結果的に父と母は離婚し、母子家庭になった。

二人だけの生活は厳しかったけど、何とか中学に入学するまでになった。

けれどその間。母になったとはいえ、やはりまだ遊び盛りの年齢だったからだろう。色んな男に声をかけたみたいだった。

けど、子持ち、というだけで誰も取り合ってくれないようだった。

行先に困った欲求不満は、暴力にこそならなかったものの、家事の放棄や、その分を押しつけて来たり、といった形で僕に降り注いでいた。でも、家事は自分でやるのに抵抗はなかったし、必要なことだと思っていたから、当時はそこまで苦しいと思っていなかった。

変化があったのは、僕が14歳の時だった。

体つきが男らしくなり、身長も伸び始めた頃。

誰も相手にしてくれないなら、身近にちょうどいいのがいるじゃないか、と思ったのだろう。

僕はある日突然、母に襲われた。

突然のことに取り乱し、泣きながら抵抗する僕に母は、息子に対する態度ではなく、異性としての男に対する態度で、僕にささやいた。

「我慢できないの、お願い」と。

母の口からきいたことのない甘ったるい声に、嫌悪感と不快感を覚えた。

到底、受け入れられるはずがなかった。

無理、ごめん。僕がそう言うと、「わかった」と以外にも母はあっさりと引き下がり、その日はすぐに寝てしまった。

僕は眠れなかったから、一晩徹夜で夜を明かすことになった。

そして後日、母があっさり引き下がった理由が分かった。

「桜木君はこのままだと修学旅行に行けないがどうするのか」と、担任の教師から尋ねられたのがきっかけだった。どうやら、修学旅行のための積立金の契約がいつの間にか解約されていて、お金が一銭も振り込まれていないらしかった。書類上は参加することになっているから、一応話をしたということだった。一括で払えば問題ない、と教師は言ったけど、その金額を聞いて、一括ではうちの家系事情からして到底払えない、ということは子供の僕にでもすぐにわかった。

家に帰り母を問い詰めた。すると、あっさりと母がやったことを白状した。

「わざとやったの」

なんで、と僕がつぶやくと、母は口角を吊り上げ、気持ちの悪い笑みを浮かべた。

「こうでもしないと、言うこと聞いてくれないでしょ?」

僕の口から、は、と声が出ずに息だけを吐く音がした。

「これはまだ序の口。私の言うこと聞いてくれなかったら、今度はご飯のお金払わないし、勉強に必要なものも買ってあげない。あんたは私の言うことだけ聞いていればいいの」

ふざけるな、と叫んだ。

そんなのはおかしいと、具体的にどうおかしいかを論理的に全く説明できなかったが、そうとだけは確信していた。

耐え切れず、出ていこう、と玄関に向って走り出した僕の背中に、母の言葉が追いすがる。

「どこ行くの?子供のあんたに行く場所なんてないよ?明日からご飯とか、寝る所とか服とかどうするの?」

僕の足が止まる。背を向けたまま、なんとかする、と答えた。

「働けもしないのによく言うよね。それともほかの大人に頼る?ここまで育ててきた親に背いて、ねぇ?」

それは、と言葉に詰まった。

知らない人に「家に帰りたくないから泊めてくれ」なんていきなり言っても誰も取り合ってくれないだろう。

なら専門の機関に頼るか?母に抱かれそうだから助けてくれ、と。

無理だ。言えない。

どうしても子供じみたプライドと、羞恥心の方が勝ってしまう。

そう考え込んでいると、肩に手が置かれた。

「静香、勘違いしないでね」

背中から母が僕を抱きしめる。

「あんたのこと、嫌いだからそういうことしているんじゃないんだよ?」

驚愕。僕の目は見開かれ、僕の口からえっ、と声が漏れた。

「愛してるから」

その言葉は、僕が生まれてから今日まで、母に一度も言ってもらえたことがなかった言葉だった。

その瞬間に、嫌悪感などは消えなかったけど、抵抗する気は無くなってしまった。

馬鹿だな、と僕だって思った。

たったその一言で、僕の中の戦意は失われ、されるがまま、母の奴隷に成り下がることになった。

それから毎日のように、僕は求められた。

学校から帰って家のことを終わらせると、欲情した母が僕に絡みつき、甘い言葉で誘い文句を謳う。

それが日課になった。

それでも、学校だけは行かせてくれた。教室で友達と過ごす時間だけが、唯一の憩いの場だった。

あの時、働けもしない、と母は言った。

なら、働けるようになったら出ていけばいい。卒業さえしてしまえば、きっとどうとでもなるはずだ。

僕は本気でそう思っていた。

だから、これだけ耐えればいい、我慢すればいい。あと少し、一年と少しだけ。

中学3年目。5月。

生徒の一人にバレた。

そいつはよりにもよって、僕が一番仲良くしていた友達だった。

体調不良で学校を休んだ日だった。教師の指示で、僕の家にプリントを届けに来ていた。学生ならよくあることだったけど、タイミングが悪かった。

扉の前に立った彼は、僕がいるはずの家の中から喘ぎ声と、軋むような物音がしたのを聞いた。

安いアパートだったからだろう。その声や音は、扉に耳を当てれば聞きとるのは容易なことだった。

ただの興味本位だったらしいが、彼は裏手に回りうちの窓がある方へ様子を見に行ったらしい。

空いていたカーテンの隙間から、中を見ると、裸で交わる男女の姿があった。

その日、僕の体調不良は午前中に治っていて、ちょうど仕事が休みだった母に目を付けられ、治ったんだからいいよね、と交尾を求められていた。

友達だったやつは、その光景に動揺して、あわててプリントを郵便受けに突っ込み、その場から急いで離れた。

その次の日に登校すると、朝一番そいつに問い詰められるところから始まった。

「お前昨日、学校サボってヤってたな?」

背筋が凍った。見られていたことにまったく築いていなかった僕にとって、寝耳に水、というやつだった。

僕は何のこと、と知らないふりをした。けれど、片方の男の方は僕だと確信しているらしかった。どれだけ話を逸らそうとしても、性に目覚める年ごろの彼は、関心を抑えられない様子だった。

「なああの女、誰だよ?」

あれは母です、なんて言えるわけなかった。

必死に誤魔化して、何とか話をうやむやにしてその場を切り抜けた。

けれど、友人だと思っていた彼は、そのことをべらべらといろんな人に話しまわったようだった。

彼を中心として、噂として広まっっていった。

あいつは学校をさぼってまで大人とヤるやばいやつ。

真相ではないにしろ、それだけで僕が気味悪がられるのには十分だった。

女子生徒は僕と目を合わせなくなったし、友人だと思っていた彼は、僕を笑い話のネタにし、仲間内でケラケラと嗤いあっていた。僕が弁明をしようと何度か彼に掛け合ったが、「近寄るなよヤリチン」と相手にされなくなった。

クラス中から距離を置かれていた。その様子はかなり露骨で、教師の目にも止まっていたと思う。けれど、面倒ごとを避ける性格であった故に、僕の境遇は無視され続けた。

唯一の居場所であった学校ですら、嫌悪の視線に刺され続ける地獄へとあっという間に変わった。

正真正銘、僕の居場所はどこにも無くなった。

僕の世界は真っ暗になった。

けど、まだ唯一の光は残っている。

卒業まで一年は切った。あと少し、適当に過ごして、峠を越えればいいだけだ。

そうすれば家を出ていかれる。こんな状況ともおさらばだ。

学校だって別に、行かなくても卒業できる。家にさえいなければいいだけ。そのへんをほっつき歩いて、行く当てもなくたださまよって時間をつぶせばいい。

大丈夫、大丈夫。

あと少し、あと少し。

晴れ間は見えている。遠くに雲の隙間が空いている。

雨はいつかやんで、僕にもきっと晴が見えるはずだ。

それまで我慢すればいいだけ。耐えればいいだけなんだ。


ーーーー本当に?


「…あ?」

過去を巡っていた意識が、現在に戻る。

あの純壱と名乗った男に引き止められた晩だった。

母が自分の上にまたがり、欲望の赴くままに腰を動かしていた。

この行為も、一度も気持ちいいなどと思ったことは無かった。

肌を愛撫されること、舌を入れてキスをすること。行為が終わるまでのすべてが気持ち悪い。

始めのころは吐き気と寒気を我慢するのに必死だった。

けれどいつしか、ただ心を空っぽにし続けて、何も考えないようにするしかないと思った。

ぼうっと天井を眺めて、ただ求められることだけをするように努めた。

そうやって我慢し続ければ、いつしか体力が尽きて解放される。彼女の体力と性欲は無限じゃない。

耐えろ。もう少しだから。自分に言い聞かせる。

相変らず喘ぎ声が聞こえ続ける。うるさいと言ってやりたかった。

でもいい。こんな日々ももう少しでおさらばだ。

あと1年たてば、働けるようになるし、お金さえあればどこへでも行ける。

貧しい生活だろうけど、きっと今よりはましになるはずだ。

あと少し、あと少し。

我慢して、我慢して、我慢すれば。

これから解放される。


ーーーー本当に?


本当に僕は自由になれるのか、そんな簡単な話なのか、そう都合よくいくだろうか?

だってずっとそう信じてきたじゃないか。何をいまさら疑問をいだいているんだろう、僕は。

あの純壱とかいう男のせいだ。

彼が最後に言った言葉が、棘のように刺さって中々抜けてくれない。

「君は、幸せになっていい人間だ。決して君だけが我慢する必要は無い」

うるさい。だったら何だっていうんだ。ならこの状況はなんだ?現に耐えるしかないじゃないか。

純壱さんの姿が脳裏から離れてくれない。駄目だ、彼だって何を企んでいるのかわからないのに。甘えちゃいけない。頼ってはいけない。なのにどうして消えてくれない。

あんな誘い、嘘としか思えないのに、どうして縋りたくなるんだろう。

だってあと1年、たったのあと1年まで来たんだ。いいや正確には1年は切っているし、それだけ、それだけなんだ。

もう少し我慢すればそれでこれを…。

あと、1年…も?

コレを続ける…?

この不快感を、嫌悪感を、ほぼ毎日耐えなくちゃいけない…?

あと少しだから、耐えなくちゃいけない…?

嫌だ。

嫌だ?

何を今更、そんなことを考えているんだろう。

そんなこと、はじめからそうだったじゃないか。


意識が戻る。気が付けば、母は幾度の絶頂で満足したのか、僕に絡みつくように抱き着いていた。

そうして、行為の最後に、彼女は耳元でいつもこう呟く。

「愛しているわ」と。

いつ通りの終幕だった。幾度となく繰り返された、僕の日常だった。

でも、今日の僕はいつもと違っていたせいか、気づいてしまった。。

ああ、嘘だな、と。


本当は、どこか心の奥底で気づいてはいたんだと思う。ただ、それから目を逸らしていただけで。

母が愛していたのは、パートナーとしての僕だけだった。

だって彼女は、セックスの最中でしか、僕に愛してると言ってくれなかった。

それ以外のどの場においても、好きだとかありがとうだとか、そんな類の言葉をかけてくれたことなんてなかった。

そうわかっていながらも、どこか奥底で、捨てられたくない、と思っていたんだろう。故に僕は、嫌だと思いながらも、奴隷になることを半分受け入れていた。

まったく、実に馬鹿だと思う。

依存していたのは母じゃなくて、僕の方だったんだ。

わかった。わかってしまった。

このまま現状を貫いたって、結局は何もできないまま終わってしまうだろうな。

なら少なくとも、実の親じゃない何かに縋れたら、少しはマシになるのだろうか。

母はもう寝ていた。

その姿をちら、と一瞥した。

ごめん。

僕は適当な服に着替えて、スマホと名刺だけを持って家を出た。

外ではまた、雨が降り出していた。



午前1時直前。

「お待たせ」

純壱さんは傘を畳みながら僕にそう言った。

「ずぶ濡れだけど、大丈夫かい?」

「傘さすの面倒だったので」

「ははっ、そうかい」

彼は僕の隣で、同じ壁によりかかった。

ここは例の、純壱さんと最初に会った店の軒下だった。

迎えに行くから分かりやすい場所にしよう、と言われて、思いついたのがここだった。

「夜中にごめんなさい」

「大丈夫だよ。僕は夜型だからね」

にこり、と彼は笑った。

家を出てしばらくして、僕は名刺に書かれた番号に電話した。

さっきの話を受けたい、と告げると、突然心変わりした理由も聞かずに、すぐに迎えに行くと言った。

場所を指定して待っていると、彼は20分ほどで来てくれた。

「その日中に連絡が来るとは思ってなかったけどね。ああいや、0時を超えているから次の日か、はは」

「…ふっ」

くだらないな、と思いながらも少し笑ってしまった。

「うん、まだ笑える元気はあるみたいだね。良かった」

「そうみたいですね」

「うん、本当に」

純壱さんは雨が降る街の景色を見ていた。

「来てくれるんだね」

「はい」

僕は手の爪を触る。

「正直、まだ半信半疑です。貴方が本当にいい人なのか、悪い人なのか、僕にはわかりません」

「いいや僕は悪い人だ。君の生活を保障する代わりに、恋人になることを強要しているんだから」

「まあ、それならそれで、いいです」

瞼を閉じた。

「少なくとも、実の母親じゃなきゃ、少しは楽になるのかな、って」

「何がだい?」

「いろいろ。後ろめたさとか、罪悪感とか。ほかにもいろいろ」

僕は深く息を吸って、吐いた。

「…わかんないよ。何が楽しいとか、何がいいとか、もう」

「うん」

「だからせめて、今よりはマシになるかも、って方に、依存先を乗り換えたいだけ」

「そうか」

今より悪くなるかもしれない。辛くなるかもしれない。けれど、何も変わらないより、きっといい。

「純壱さん」

「何?」

「行く、って決めたけど、まだ勇気が出ないんです」

僕は瞼を開いた。そして純壱さんに向って、右手を差し出した。

「連れて行ってっくれませんか?」

「なるほど」

純壱さんは優しく微笑んでいた。

「わかった」

彼の左手が、僕の手を取った。

大人の人の手、だった。ごつごつしていて、大きかった。

そして何より、とても暖かかった。

「でもまず先に」

彼は右手に持っていた、二つうち一つの傘を、僕に差し出した。

「今度こそ、受け取ってくれないかな?」

ちら、と軒下の外を見る。まだ空からは大粒の水滴が絶え間なく落ちてきていた。

車が近くにある様子はない。きっと少し遠くに止めているのだろう。

断る理由ももうない。素直に受け取ろう。

「はい、ありがとうございます」

僕は傘を受け取った。

二人で傘を開きながら、降りしきる雨の中へと入った。

僕は純壱さんに手を引かれて歩いた。

真夜中の街。

雨が傘に当たる音と、歩く僕らの足音だけが聞こえた。

純壱さんの車に着くまで、僕と純壱さんはひたすら黙って歩いた。

正直言って、僕はとても緊張していた。話しかけられてもうまく答えられる自信がなかったから、むしろ助かった。

しかもその間、僕の心臓はかつてないくらいの速さで脈打っていた。

これは緊張によるものなのか、はたまた別の理由なのかは、今はまだ僕にはわからなかった。



純壱さんの車は、雨の中の大通りを走っていた。

僕は助手席に座っている。

二人とも暫く黙っていたが、純壱さんの方から口を開いた。

「…音楽でもかけようか?」

「ああ…すみません全然喋らなくて…」

「いいんだ。静かなのが苦手でね」

「そうなんですね…」

「敬語は使わなくていいよ。これから一緒に暮らすんだから、ね?」

「ん…いいですけ、いいけど…すぐには変えられないから…」

「いいよ、気を使わなくていい、ってだけの話だから」

「はい。あっ…うん」

「僕も、静香って呼ぶけどいいよね?」

「うん、じゃあ僕も…純壱、って呼んだ方がいい?」

「その方が嬉しいね」

「じゃあ、それで」

「ありがとう。で、話すのが嫌じゃなければ、世間話でもしないかい?」

「いいよ」

「ふむ、じゃあ聞きたいんだけど、静香は好きな食べ物とかある?」

「…特にこれ、ってのはないなあ。あ、でも食べてみたいっていうのはいっぱいある、かな」

「へえ、例えば?」

「キューバサンドとか…ネットとかで見たおしゃれな料理をたべてみたいなあ、って思って…」

「へぇなるほど。それならいいお店を知ってるから、今度行こうか」

「え…でもそういうところって高いです、よね…なんか悪い…」

「そういう心配はしなくていいよ。自分で言うのもアレだけど、それなりにお金は持ってるからね」

「あ、ああそう…まあじゃあ、お言葉に甘えて、食べに行きたい」

「うん、そうしよう」

「純壱さ…純壱は?」

「うん、僕は生ハムが好きかな」

「ピンポイントだね…」

「酒に合わせると美味しいんだ」

「ふーん…」

「お酒、気になる?」

「ううん。むしろ…嫌いかな」

「へえ?」

「その…酔っぱらったまま、されたことことあるから。匂いで吐きそうだったし…」

「ああなるほど。なら君の前では控えたほうがいいね」

「でも…そこまで気を遣わせるのは」

「大したことじゃないよ。他にも楽しみはあるさ」

「うん…そっか」

「ところで、行きたいところはある?旅行とかもしたいと思ってるんだけど」

「えっ、ああ、それなら…京都に行きたい。修学旅行で行くはずだったけど…行けなかったから」

「そうか、ならそこにしよう。中々いいところだよ。友達の紹介で舞妓さんと遊んだりしたなあ」

「言ったことあるんだ」

「ああ。友達に会いに行ったときにね。ついでに金閣とか要所は一通り見たかな」

「やっぱり金閣は、生で見たほうが綺麗かな…?」

「ああ、反射が美しかったから、ぜひともいっしょに見たいね」

「うん…ちょっと旅行、行きたくなってきたかも」

「それは良かった」

「…本当に連れて行ってくれるよね?」

「もちろんだよ。約束する」

「ん…わかった」

「そろそろ着くよ」

車はマンションの地下駐車場へと入っていった。

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