第四楽章 選択

 12月24日、コンクール初日、花音は学校の制服で会場へと向かった。


「よし!」


 自身の頬を叩いて、花音は会場の中に入って行った。


「私の番号は……33番か……」


 花音はそれを確認すると席に座り、各出場者の演奏を聴いていた。

 一人一人の演奏が終わるたびに拍手が送られている。だが、誰の演奏を聴いても、花音の自信が崩れることは無かった。


「先生の演奏と、先生から教わった私の演奏の方が上手い」


 自分の番が近づき、観客席を立とうとするその時、それを証明するかのように、そんなことを呟いた。


「33番の大竹花音さん、準備お願いします」

「はい!」


 舞台袖に付いてすぐにスタッフに呼び出され、花音はステージへと上がって行く。

 照りつけるように強い照明、暖房と相まって、額から汗がにじみ出て来る。観客からの視線も、花音を容赦なく襲う。

 しかし、一礼してグランドピアノの前に座り、集中モードに入った花音は、一切何かを感じることはない。大きく深呼吸し、一息ついた後、花音は鍵盤を弾き始めた。


 瞬間、暖房で温まっていた会場は一気に雪景色へと変化し、二人の兵士が浮かび上がる。突如現れた兵士、冷えだした空気に、観客たちは戸惑うかが、すぐにそんなことがどうでもよくなっていた。それほどに、花音の演奏に聞き入っていた。

 二人は崩れた廃墟の中にて、一人はピアノを弾き、一人はハーモニカを奏でている。ハーモニカを奏でる兵士は今にも力尽きそうだ。


 花音は、自身の瞳から涙が流れていることに気づいていなかった。その涙は鍵盤に滴り、濡らしていく。しかしそんなことは気にせず、花音はひたすらに、父親の最期を旋律から聞き取っていた。

 曲のテンポが速くなり、大きく盛り上がるにつれて、観客の目に映る光景も目まぐるしく変わっていく。


 二人の兵士は向き合って会話を終えると、ハーモニカの兵士はすでに力尽き、それを呆然と見下ろし、膝から崩れ落ちるもう一人の兵士。残された兵士はそのまま銃を捨て、ピアノと向かいあった。


 そこで、観客たちが見ていた光景は煙のようにふっと消えていく。花音の演奏が終了したのだ。演奏を終えた花音は、数十秒余韻を噛みしめると席を立ち、呼吸も荒いままに、観客席へ向かって一礼した。


 しかし、見せられていた光景がいきなり消えた観客たちは戸惑いのあまり、状況を理解できていなかった。その空気を切り裂いて、花音から向かって左方向の二段目の席から、拍手が聞こえた。

 思わず花音はそちらに視線を送ると、ぱさぱさとした短髪の黒髪で目元のクマが深い男が、穏やかな笑みで、拍手を花音へ送っていた。

 その音を聞いて我に返った観客たちは、一斉に拍手を始め、それは数分間なり止むことは無かった。



 一日目のコンクールが終わり、予選突破者を発表する時間となった。


「それでは、予選を突破した10名を発表します」

 

 花音は、自信があったとは言え緊張していた。もしここで落ちるようなら、到底久野に認められるようなことは無いと思っているからだ。両手を合わせて握り、プロジェクターに映し出される番号を目で追っていく。


「4、8……19、29、30……33!」


 思わず花音と、離れた位置に座ってプロジェクターを見ていた鍵は、ガッツポーズをする。


「第一関門クリア!」


 そう言いながら花音がうきうきと翌日のプログラムを聞いていると、視界の端に鍵が映った。鍵はこちらに来るわけでもなく、そのまま会場から去ろうとする。


 予選突破で浮かれていたが、自分がすべきことを思い出し、花音は急いで席を立ち、鍵の背中を追いかけた。

 会場の扉を開けると、傾き始めた夕日が辺りをオレンジ色に照らしていた。薄暗い会場にいたため、花音は一瞬目を薄めるが、鍵をすぐに見つけられた。


「先生待って!」


 そう呼びかけるが、鍵は止まる気配を見せず、そのまま建物の外へ進んでいくので、花音は慌てて追いかる。コンクール会場の側にある人気のない河原で、ようやく鍵は足を止めた。


「やっと、追いついた……先生歩くの早すぎ!」


 花音は息も切れ切れに、走って鍵の前に立つ。


「……久しぶりだな……今日の演奏、よかったぞ」


 不思議な運命で繋がった、残された者と託された者は、再びこうして向き合った。凍えるような寒さの風が二人の間を吹き抜ける。

 風が止むと同時に、鍵は口を開いた。


「まずは、決勝進出おめでとう」


 パチパチと控えめに拍手をする鍵、そんな鍵を、花音は怪訝そうな目で見つめる。


「ありがとうございます……先生、どうしたんですか? 変ですよ?」

「俺はいつも通りだぞ」


 鍵は張り付けたような笑みで、そう答える。


「……花音、俺はお前の父親を殺したと言っても過言ではない。その結果、お前が長い間苦しめられてきたことも、お前の友人や担任から聞いた」

「先生、私ね――」


 花音が言いかけて言葉を遮って、鍵は続ける。


「そんなお前は、俺を恨んでいるはずだ。いや、恨んでなきゃおかしい」


 鍵は明らかにいつもと気配が違った。花音はそれに怯え、一歩後ずさる。


「でも、お前は一人で決めるのが苦手だ、そうだったな?」

「そう、でしたけど……」

「だから、代わりに俺が決めてやった」


 鍵は音もたてずに花音へ近づき、重くまがまがしいオーラを放つ金属を手渡す。花音は、恐る恐る両手でそれを触り、胸の前まで持ち上げる。


「これ、け、拳銃?」

「そうだ。お前の父親の命を奪った、俺の拳銃だ」


 その言葉を聞くと、花音は肩を震わせ、息が浅くなる。

 自室で父親の死を完全に受け入れたはずだった花音も、やはりまだ完全に断ち切れてはおらず、こうして父親の死を感じさせるものを手に取らされると、動揺せずにはいられなかった。


「それで、俺を撃て」


 鍵は拳銃を花音に握らせ、銃口を自身の方向へ向けさせると、一歩下がった。


「俺を殺して、父親の仇を討て。そうすればお前も、踏ん切りが付けられるだろ」


 鍵は両手を広げて、花音の瞳をじっと見つめる。


「先生、私は……」


 花音はじんわりと目に涙を浮かべながら、拳銃を鍵へ向け続ける。鍵は悪くないと自分の中で結論づけたはずだった、だが本能はそれを許してくれない。

 父親に止めを刺した、死ぬ要因を作った、それだけで、仇を討ちたいという感情を生むのには十分な理由であり、頭の中で「殺せ、殺せ」と誰かが叫んでいるように感じていた。


「せっかく決めてやったんだ、早く撃て花音。それで全部終わるんだ。撃ったら拳銃は俺の死体のそばに置いておけば、お前が罪を被ることは無い、『ただ狂った傭兵が自殺した』で済ませられる」

「私は……」


 平然と話していた鍵だったが、いつまでたっても撃たない花音にしびれを切らし、もうたくさんだ、そう言わんばかりに、鍵は声を荒げる。


「撃てよ!」


 強い言葉に花音は肩をすくませる。


「お前の手で……終わらせてくれ……!」


 だが花音はその声の裏に、微かに悲しい音が聞こえた気がした。まるで助けを求めるような悲痛な音。

 その音に、花音の心の中にあった鍵への憎悪は、完全に消えてしまった。


「先生、そんな悲しい音立てないでくださいよ」


 大きく深呼吸し、一呼吸おいて花音は話始める。


「私、先生のこと恨んでないですよ。今は、殺したいだなんて思わない」


 拳銃の銃口を下に向ける。花音は一人で、引き金を引かないという選択をした。


「お父さんの死は、確かにまだ受け入れられない部分もある。けど、お父さんが残してくれた思いがある……だから、先生もそんなに自分を責めないでください、先生まで死んじゃったら、私、大切な人が二人もいなくなっちゃいますから」


 花音の瞳から流れた雫は、手に持つ拳銃へと零れた。


「お父さんは先生に夢を託したんですよ? それから逃げるために死ぬなんて、お父さん、悲しんじゃいますよ?」


 鍵はその言葉を聞いて、表情を歪める。


「ああ、そうか……結局自分のために、自分が逃げるために……」


 そう力なく呟くと、膝からその場に崩れ落ちる。


「自分が苦しみから逃げるために、俺はお前を利用しようと……したんだ」


 口では花音のためと言いながら、心の奥底では、自分が助かるために殺させようとしたことを鍵は自覚した。そんな自分が嫌になり、頭を抱えてしまった。


「俺は、最低だ……」


 そんな鍵の頭に、そっと花音は手を置く。


「まったく、私のお父さんも困った人ですね。一人娘を残して死んで、大切な戦友を置いて行って」


 それからしばらく、日が落ちるまで、鍵はその場で泣き続けた。鍵が泣き止むまで花音は、冷える手を摩りながら、一緒にその場に居続けた。



 翌日、花音へ再び会場へ向かっていた。だが今日は、鍵もその隣に立っていた。


「先生、見ていてくださいね? 私が勝つところ」

「勿論、お前が久野さんに認めてもらう所まで、ばっちり見といてやるよ」


 二人はそんな軽い調子で、会場へと向かって行った。鍵は観客席、花音は関係者用の舞台裏へと向かう。


「よし……大丈夫。私ならできる」


 周りは不安な表情を浮かべていたが、花音だけは、自信に満ち溢れた顔をする。この日のために、学校にも行かず弾き続けたんだから大丈夫。花音は繰り返しそう心の中で呟いた。

 決勝の曲は指定されたものではなく、好きな曲を弾くことができる。花音はそんっことを考えて、《戦場のメリークリスマス》ともう一曲練習を重ねていた。


「先生にも言ってないし、驚いてくれるかな~」


 うきうきと自分の番を待つ花音の耳には、一番手の演奏が聞こえ始めていた。



 鍵は観客席で、じっとステージを見つめ、花音がステージに立つのを待っている。

 待ち続けて、ようやくその時が来た。


「さあ花音、何を弾く?」


 ステージ上で一礼し、椅子へと座った花音へそう鍵は投げかける。

 花音は大きく深呼吸し、一息おいて、ピアノを奏で始めた。


 花音が選んだ曲は――

――《3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調》――

                          ―――愛称 《カノン》。



 いよいよ全員の演奏が終わり、久野が締めとして何曲か弾き、コンクールは終了した。この後は、いよいよ優勝者の発表だ。

 ステージ上には演奏した10人の奏者が並び、スタッフの言葉を待つ。


「それでは、優勝者を発表します」


 ト音記号の形を模したトロフィーを持った久野がステージに上がる。


「優勝者は……エントリーナンバー33番、大竹花音さんです!」

「おめでとう、大竹ちゃん」


 久野は笑顔で花音へトロフィーを渡し、握手を交わす。


「大竹ちゃん、貴女の演奏気に入ったわ、私の弟子にならない?」


 その申し出は唐突だった。


「え、それって……」

「ええ、貴女、プロになる気はない?」


 驚きと感激のあまり、トロフィーを落としそうになるが、慌てて両手で持ち直し、首を縦に振る。


「はい! プロに、なりたいです!」


 花音の返事を聞いた久野は、スタッフからマイクを借り、観客に向けて宣言する。


「今日、プロピアニストになれる可能性がある人を求めて、この大会に来ました。でもまさか、今すぐにでもプロになれる逸材を見つけられるとは思いませんでした」


 久野が花音を隣に立たせる。


「皆さん、次の公演をお楽しみに。この大竹花音さんと二人で、素晴らしい演奏をお届けしましょう!」


 その一声で、わーっと会場全体が盛り上がる。慣れない歓声に、花音は肩をすくませるが、その観客席の中に、鍵の姿を見つけ、表情が明るくなる。


「詳しいことは後日連絡するわね、貴女とピアノを弾ける日が楽しみよ」


 久野はそう言い残して、ステージを去った。


 コンクールが終わり、観客や出場者が帰っていく中、花音はきょろきょろと人混みの中で人を探していた。


「先生、もう帰ったのかな?」


 せっかく教え子にプロ入りの道が開け、コンクールも優勝したと言うのに、祝福の言葉もないのかと不満げな顔をするが、何を思ったのかすぐににやける。


「分かった、先生嬉しくて泣いちゃったんだな。その顔を見られたくなくて、先に帰ったんだ」


 昨日の一見もあってか、花音は鍵が泣いている姿をすぐに想像できた。自分の考えに納得したのか、明日学校で鍵に会うのを楽しみに、家へと戻った。



 翌日、スキップしながら花音は高校へ向かった。しかし、いつになっても鍵の姿を学校で見つけることは出来なかった。それは放課後になっても変わらず、不審に思った花音は、鍵はどこにいるのかと職員室へ聞きに行った。


「坂本先生なら、学校を辞めたよ」


 鍵は、12月の半ばには辞職願が出され、そのまま辞めていたという。

 花音は職員室を出ると、俯きながら、廊下を歩きだした。


「お礼も言えないままお別れなんて、あんまりだよ……」


 じんわりと目元が熱くなるのを感じる頃、無意識に音楽室へとたどり着いていた。


「先生、今日も来たよ」


 誰もいないことは分かりきっていた。けど、そう言わずにはいられなかった。

 花音がピアノに近づくと、その上に、何かが置かれていることに気が付いた。


「ハーモニカと手紙?」


 置かれていた二つを手に取って確認する。ハーモニカには《カノン》の旋律が刻まれ、手紙には《銃後のピアニストへ》と書かれている。


「先生……」


 手紙には、花音を祝福する言葉と、父親の件についての謝罪が述べられ、続けて花音との思い出を振り返る文章が綴られていた。

 ぽつりぽつりと涙がこぼれて来る。両手で涙を拭いながら、花音は続きを読む。手紙の最後には、将来の花音について書かれていた。


『――きっとお前は、いいピアニストになる。音楽には世界を平和にできるだけの力があると、風琴はよく言っていたが、その言葉の意味がよく分かった気がするよ。花音、お前のピアノは聞く人の心を大きく揺さぶる力がある。その力を使って、俺と風琴の夢を叶えてくれ。お前のピアノが、世界中の人に届くのを楽しみにしている』


 紙を裏返して右下に、『戦場のピアニストより』と書かれていた。


「粋なデザインにしちゃって」


 文章の最後、通常「。」で締めくくるが、この手紙の最後には、楽譜で曲の終わりを告げる、終止記号が書き込まれていた。

 手紙を読み終えた花音は、大事に大事に手紙を封へ戻し、鍵盤の蓋を開ける。


「また、会えるよね、先生」


 花音が奏で始めたのは《練習曲作品10第3番ホ長調》、通称 《別れの曲》。世界でこの上ないほど美しい曲が、花音の手によって音楽室に響き渡る。

 その音色は、自然と他の生徒を引きつけ、辺りに人だかりが出来ようとも、花音の演奏が途切れることは無かった。

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