第三楽章 父親のハーモニカ
刹那、音楽室から音が消えた。
「死んだって、何を言ってるんですか? 先生の前で――」
「かかってきていない。あの時君のスマホは、どことも繋がっていなかった」
部屋には、二人の声だけが響く。
花音を独り立ちさせるにあたって、現実を受け止めさせなくてはいずれ限界が来ると鍵は思っていた、コンテストと同時に、父親のことも話す必要があると。
だから鍵は、自身の胸の内を抉られるような痛みを感じながら、花音が感じるであろう苦痛を理解しながら、言葉を絞り出す。
「大竹とは、フランス事変の時に出会った。廃墟となった町でピアノを弾いている時、急に現れて、俺のピアノに合わせてハーモニカを吹き始めたんだ……あの時に弾いていたのも、《戦場のメリークリスマス》だったな」
出会いから始まり、ムジカーペアと呼ばれるようになったこと、多くの激戦地を一緒に回ったこと。
「シベリア紛争は、俺が行きたいと言ったんだ、報酬を多く貰える話だったからな。風琴は最後まで反対していたけど俺は、自分の選択を曲げたくなかった。自分の選択を疑うことが無かった」
ハーモニカを握る力が、自然と強くなる。
「俺はずっと、一人で決めて来た。だから、自分の選択に絶対的な自信があった……でも風琴だけは、俺の選択を変えられる不思議な力があった。まるで先生みたいに俺を諭して、考え直させる力を持ってたんだ」
風琴の言葉は巧みに鍵の心を揺すぶり、選択を変えさせることができる唯一の人間だった。
「シベリア紛争の時も俺は揺れたさ。だけど……たまたま、本当にたまたま、俺はその時機嫌が悪かった。使っていた銃の調子が悪くなり、買い替える金が足りてなくて……あいつの判断を無視して、一人でシベリア紛争の依頼を受けるつもりだった。でも、あいつはついてきた『心配だから』そう言ってな」
鍵はそこまで言って、花音の様子がおかしいことに気づいた。全身から汗を拭きだし、真っ青な顔、小刻みに震える膝、鍵はこの症状をよく知っていた。
「
花音の頭の中で、急速に記憶が廻りだす。初めてハーモニカを聞いた時。ピアノを貰った時。シベリアに行くと聞いた時。死亡したという通知が来た時。すでに遺灰となって父が帰って来た時。
そして、初めて父親からかかってきているつもりでスマホを耳に当てた時。
「ああ、あああ! いやああああああ!」
花音は頭を押さえて、悲痛な叫び声をあげる。
「違う! お父さんは生きてる! 生きてるの!」
そんな花音に、鍵は告げる。
「大竹風琴は死んだ……もういないんだよ、風琴は……」
鍵の目にも涙が浮かぶ。助けてやれなかった自分への不甲斐なさに苛立ち、自然と声が大きくなる。自分でも、錯乱状態の教え子に向かって、こんな強く当たってしまうなど最低だと理解しながらも、気持ちを抑えることができなかった。
「違う! お父さんは―――!」
そこで、花音の頭にぼんやりと一つの記憶が蘇ってくる。死亡通知と一緒に届いた封筒、中には風琴の字で書かれた手紙。
「あぁ! いや、いやぁ! なんで! どうしてお父さんが!」
ガタガタと震え、頭を押さえ、滝の様に流れ出て来る涙を拭うこともなく、ぶつぶつと呟き続ける。どうすることもできないまま、鍵がその場に立ち尽くしていると、花音は急にすっと立ち上がり、鍵の顔を睨みつけた。
「お前のせいだ」
憎悪の籠った瞳を向けられても、鍵は何も言うことは無かった。花音の言うことに何も間違いはないため、何を言うこともできなかった。
「お前のせいでお父さんは死んだ! なんで、なんでお前が生き残って、お父さんが死ななくちゃいけなかったの!?」
一呼吸おいて、花音は言葉を吐き出す。
「お前が死んじゃえばよかったのに!」
大口径の銃弾が直撃したかのような苦痛が、鍵の全身を襲う。花音はそのまま、音楽室を立ち去った。
一人残された鍵は、鍵盤に指をかける。
「本当に……俺が死ぬべきだった」
まるですすり泣くような旋律がピアノから流れ出す。鍵の弾く《バーバーのアダージョ》だけが、音楽室の空気を支配していた。
♢
父親が死んだことを自覚した花音は、学校に行かなくなった。部屋に引きこもったきり、一歩も外に出ることは無くなった。
だが、何日も一人で考え続けた花音は、少しずつ冷静さを取り戻していた。今までは、考えることすら拒絶していたはずなのに、不思議なことに、鍵から伝えられたという事実が、花音の心の負担を減らしていた。
花音の部屋にあるクローゼットの奥深くには、父親から送られていた手紙の数々や、アルバムが仕舞われていた。今までは父親の死を受け入れたくないあまり、その存在を忘れていたが、引きこもっている間、花音はそれらに目を通し続けていた。自分の中で、父親についての決着をつけるために。
「お父さん……本当に死んじゃったんだね」
封印していた死亡通知と遺書を取り出しながら、花音はそう呟く。
すでに一度封を開けられている封筒から中身を取り出し、広げる。
「……先生のこと、大切だったんだね、相棒として」
その遺書の中には、私や家族への謝罪と共に、ペアである鍵を心配する言葉が綴られていた。花音は自責の念に駆られた、自分の大切な人が大切にしていた人に、「死んじゃえばよかったのに」だなんて言ってしまったことを。
「ごめんなさい、お父さん……先生」
遺書を読み進め、最後の行に入ると、そこには花音へのメッセージが綴られていた。暖かな字で、しかし濃くはっきりと書かれた『お前が音楽家として有名になった後の演奏を聴けないのだけが、本当に残念だ』の一文で、花音の頭の奥底に封印していた記憶が蘇ってくる。
『花音はピアノが上手だな! いい音感を持っているし、将来世界で有名な音楽になれるかもしれないぞ! いや、なるんだ!』
『ほんとう? わたし、ピアノじょうずにひけてる?』
『ああ! 今からお前の将来が楽しみだ!』
『うん! わたし、おんがくかになる!』
「ああ、そうだ。そうだった……私は将来、音楽家になりたかったんだ」
遺書の存在を思い出すきっかけとなってしまうから、花音はずっと封印していた。父親の死と共に、頭のどこかに音楽家になるという夢を封印していたのだ。
それを思い出した花音は、いてもたってもいられず、自室のピアノに手をかけた。
「あのチラシを見た時に感じた胸の高鳴り、あれは、そうゆうことだったんだね」
一呼吸置いた後、課題曲であり思い出の曲でもある《戦場のメリークリスマス》が、部屋を包む。
花音は理解した。どうして自分が意味もなくピアノを弾き続けるのか、プロピアニストになれるチャンスがあると知って喜んだのか。全ては、亡き父親と掲げた夢があったからだと。
「お父さん……私、音楽家になるよ。コンクールでプロに認められるような演奏をして、プロのピアニストになる。そして、先生にも謝らなくちゃ。お父さんにとても、私にとっても大切な人なのに、傷つけちゃったから」
花音はそうぽつぽつと呟きながら、演奏を続ける。その姿はまるで、旋律と会話しているようであった。
♢
学校に来なくなった花音のことを心配しながら、鍵は毎日を過ごしていた。家に行くことも考えたが、むしろ逆効果だろうと、あえて接触はしないでいた。
そんなある日、コンテストも迫って来た12月の半ば頃、鍵は花音の担任から『大竹の家から電話が来た』と呼ばれていた。
「無事だから心配しないでと言われましたよ。彼女、集中し始めるとそれ以外手がつかなくなる性格なので、きっと今はピアノだけに集中したいのかもしれませんね」
やれやれと言わんばかりに担任は言う。
「何か彼女の中で決意したことがあるのか『全部終わったら学校に行く』と言っていたとも言われました」
花音の担任は、鍵が花音と密な仲であったことは分かっていたからか、わざわざそう教えてくれた。
「そう、ですか……わざわざありがとうございます」
「いえ、あの子にとって、坂本先生は特別な人であったみたいですし、当然ですよ。ああ、それでも、生徒と先生の恋愛はダメですからね」
少し茶化すように担任が言い、鍵は苦笑気味に答えた。
「そんなんじゃないですよ。ただ、優秀な教え子なだけです」
鍵はその日、風琴の写真の前で、ハーモニカを吹いていた。
何か覚悟を決めたような、そんな表情で吹き続ける。写真の横には、くすんだ色の拳銃が一丁。
「花音を音楽家にして、お前への未練を断ち切らせてやることが、俺の最期の仕事……それでいいよな? あいつが立派な音楽家になれたら、お前も俺のこと、許してくれるか?」
鍵はずっと、風琴は自分のことを恨んでいないと思わなければ、やっていけなかった。だが、花音に『お前のせいだ』と言われてからその認識は崩れ、家族の心を壊してしまった自分のことを、風琴は許していないと思うようになっていた。
「お前が俺に託した夢を叶えようと、この5年間ずっと先生を続けて来た。泥で汚れた手でチョークを握り、『殺せ』と何度言ったか分からない口で、生徒に語りかけて来た」
嗚咽を零し、苦しそうな声で言葉を零す。鍵はずっと辛かった。
だから鍵は、これで最期にしようと考えた。戦友が思い続けた娘を音楽家にするという夢を叶えて、全てを終わりにするつもりだ。
「コンクールの日に、全てを終わらせる」
そう一言零すと、再び鍵はハーモニカに口をつけ、たった一人で物悲し気なメロディーを奏でるのだった。
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