第一楽章 戦場のピアニスト

 退屈な始業式。大竹花音おおたけかのんは右手を自分の膝の上で躍らせながら暇をつぶす。その踊りはまるで、鍵盤を叩くようだ。


「本日は他校より転勤してきた教師を一人紹介します」


 妙だなと花音は首をかしげる。転勤や新任の教師の紹介は、春休みの間にやったはずであったからだ。


「どうも皆さん、別の高校より転勤してきました、坂本鍵さかもとけんと言います。担当科目は、声楽以外の音楽科目です。どうぞよろしくお願いします」


 背が高く、ぱさぱさとした短髪で目元のクマが深い男は、そう簡単に自己紹介し、頭を下げる。

 そこから校長が他の教師にもやっていたように、簡単な職員の説明を始めたが、花音は一切興味を持たず、ただ淡々と右手を膝の上で躍らせていた。



「花音、私たち部活行く……と、電話中だったか」


 一人の友達が花音に声をかけようとするが、楽しそうに話している姿をみて、声をかけるのを止めた。


「ん? ああごめん、今お父さんと話してるの」

「ああ気にしないでいいよ、じゃあね~」

「うん、じゃあね」


 友達へ手を振ると、花音はすぐにスマホへまた耳を付ける。


「友達に挨拶しただけだよ、それで、話の続きは?」


 花音の友達たちは、楽しそうにスマホへ話しかける花音を憐れむ目で見つめる。番号が映っていないスマホへ話しかけ続ける花音を。


「行こう、花音の世界を邪魔しちゃだめだよ」

「そうだね……花音、いつまでああなのかな」


 花音は時折、着信が来ていないのに「お父さんからだ!」と言い話し始める。まるで本当に電話をしている様に。


「お父さんが死んで、5年もたつのに……」

「私らにできることは、花音に合わせてあげることだけだよ」


 止めれば花音が壊れてしまうことを皆よく知っているから、花音の奇行ともいえる行動を止めようとはしない。


 話し終えた花音は、鞄を持って廊下へと出る。


「さて、今日はどうしようか……」


 花音は吹奏楽部に所属はしているものの、ほとんど行くことは無かった。たいして強い部活でもなかったため、それを咎める人もおらず、顧問の先生も「気が向いたらおいで」としか言わないので、花音はその言葉に甘えている。


「今日は……うん、弾こうかな」


 花音は父親の影響もあって音楽自体は嫌いではない。だが、なぜ自分が、ふとした時にピアノを弾きたくなるのかは、自分でもよく分かっていなかった。

 花音の父親は傭兵として世界を転々としているが、たまに帰って来ては花音へ音楽を聞かせ、ピアノを買い与えるほど音楽が大好きな人だ。父親自身もハーモニカを吹いており、花音は父親の奏でる音楽をとても好いている。


「今日も誰もいない、よし」


 ピアノが一台ぽんと置かれるこの部屋は、第一音楽室。吹奏楽部などが使用するのは、ホール上になっている第二音楽室のため、こちらは誰もいないことが多い。

 それをいいことに、花音は気が向いたらここを訪れ、ピアノを弾いている。家にも父の買ってくれたピアノがあるが、アップライトピアノであり、音楽室にあるグランドピアノよりは音が劣る。


 鞄をグランドピアノの横に放り投げ、さっそく鍵盤へ指を置く。一呼吸おいて、花音は指先に力を籠め、鍵盤を押し込む。

 すると、音楽室全体に心地よいピアノの音が響き始め、花音は笑みを浮かべ、短めの髪を揺らしながら曲を奏でていく。


 弾き続けて数分経つ頃、一人の男が音楽室前の廊下を歩いていた。男は、音楽室から聞こえて来るピアノの音に気づき、足を止める。


「《月光ソナタ》か……」


 聞こえて来る曲の愛称を呟くと、音楽室の扉を少し開け、壁に寄りかかって聞き耳を立てる。

 この部屋の扉は、ピアノの椅子に座る人物の背後にあるため、花音は扉を開けられたことに気づくことなく、音楽を奏で続けている。


 もっとも、ピアノを弾いている時の花音は自分の世界に入り込んでしまうため、周りの出来事に一切気づくことは無い。花音が音楽に触れている時の集中力は尋常ではないものであり、それは誰もが認めるものだ。


「……音が迷っている。人に聞かせたことないのか?」


 男は「これが正解か分からない」「なんで弾いているのか分からない」聞こえて来る音からそんな奏者の声を感じた。そこからしばらく聞いていたが、曲が終わると扉を勢いよく開ける。


「それじゃあ全然ダメだ!」

「な、なに!?」


 いきなり聞こえた声に驚き、恐る恐る花音が振り返る。花音の視線の先には、始業式で紹介されていた鍵の姿があった。


「えっと、坂本先生……でしたよね?」


 必死に思い出し、花音はそう恐る恐る聞く。


「ああそうだ。そんなことよりお前のピアノだ、なんだあの酷い演奏は」


 顔をしかめ、いかにも不快そうな表情で鍵が告げると、立ち上がって反論する。


「会って早々になんでそんなこと言われなくちゃならないんですか!」

「うるさい! そのガサツな鍵盤叩きと迷っている音が余りにも酷いからだ!」


 花音は拳をプルプルと震わせ、顔を真っ赤にしながら怒鳴る。


「じゃあ貴方が弾いてみてくださいよ! 音楽の先生だがなんだか知りませんけど、そんなに言うなら大層上手いんでしょうね!?」


 その言葉に鍵はため息をつき、「どけ」と一言だけ言う。

 何なんだこいつは、と思いながらも席を立つと、鍵は間髪入れずに席へ座る。


「よく聞いておけ、ピアノって言うのは、こうやって弾くんだ」


 一呼吸置いて鍵は鍵盤を弾いていく。優しい音がピアノから溢れ、音楽室の壁に当たって部屋を包む。一切笑うことなく、鍵は一心不乱に音を奏でる。


「……《バラード第1番》」


 正解を探してしまっている花音の音に対して、鍵の音色はまっすぐで、一切ブレることのない一本の筋が通っている。

 自分が弾いて満足するためだけのピアノとは違い、誰かに聞いてもらうための、語り掛けて来るかのような音色。

 鍵の演奏は、花音が探していた自分の欠けた部分が、完璧に埋まったものだった。

 

 10分もあるこの曲を、花音はただ棒立ちになって聞いていた。何が起こったのか、何に感激しているのか、自分でもよく分かってはいなかった。それでもただ一つ、「また聞きたい、何度でも聞きたい」そう強く思った。


「どうだ、これがピアノを弾くってことだ」


 額に汗を浮かべながら、鍵はピアノの横に立つ花音へと視線を向ける。

 そこで鍵は気づく、花音が情けない顔で立ち尽くしていることを。


「おい……大丈夫か?」

「凄い……」

「ん?」

「凄い!」


 止まっていた時間が流れ出すように、花音は動き出し、鍵へと詰め寄る。


「まるでピアノが語りかけて来る感じ! 音が生きているかのように響いてた!」


 花音の感激の言葉は、数分間止まらなかった。


「――っていう感じで、凄かった!」


 永遠と聞かされ続けた鍵は、げっそりとした様子で、「そうかそうか」と頷く。


「まあ分かればいいや、それじゃあな」


 そう言い残して、鍵が席を立とうとすると、花音は鍵の腕を掴んだ。


「えっと……その……」


 自分でも何を言いたいのか分からないようで、花音はずっと「その……」と零すだけだった。


「なんだお前、ピアノ、教えてほしいのか?」

「……多分?」


 煮え切らない反応に、鍵は呆れた様子で聞き返す。


「教えてほしいのか、ほしくないのか、自分で決めろよ」


 その言葉に花音は黙り込んでしまう。そんな姿を見て、鍵は首をかしげる。


「どうした?」

「いや……その」


 言いにくそうに、花音はもじもじしながら、小さな声を絞り出した。


「自分で物事を決められなくて……」


 花音の言葉に、鍵は再びため息をつく。


「なんだそれ、お前のことだろ? なんで自分で決められないんだよ」

「いや~なんでなんでしょうね……」


 花音は鍵と視線を合わせることなく、そう言ってごまかす。

 何なんだこいつ、と思いながらも、鍵は花音に問う。


「お前、よくここでピアノを弾くのか?」

「え? ええまあ」


 その返答を聞いて、鍵は再び大きなため息。


「じゃあ教える。俺の職員としての席はこの隣の音楽準備室にあるから、お前の下手くそな演奏を毎日聞いていたら耳が腐る」


 その言葉で花音の表情は、教えてもらえるという喜びで一瞬パアっと明るくなるが、耳が腐るの一言で一気に不機嫌な表情へと変わる。


「もっと言い方あるんじゃないんですか、先生」

「残念ながら俺は国語の先生じゃないから語彙は豊富じゃないんだ、生徒」

「私にはちゃんと大竹花音って名前があるんです!」


 花音が大竹という名字を名乗ると鍵の表情が強張るが、すぐに元に戻る。一瞬のことだったため、花音はその表情の変化に気づきながらも、気のせいだと処理した。

 こうして、花音は鍵からピアノを教わる日々が始まった。



 それまで独学で、ただ楽譜を覚え弾くだけだった花音にとって、鍵からの教えは新鮮な物だった。


 ある日は、心理的な話を聞き。


「楽譜は作曲者の言葉だ、その言葉を聞きながら弾くんだ」

「は、はい! ええ?」

「お前は楽譜から声が聞こえないのか?」

「聞こえませんよ!」


 またある日は、ピアニストとしての心構えを叩きこまれた。


「ピアノは人に音を聞かせるんじゃない、感じてもらうんだ」

「どうやって?」

「語り掛けるような音を出すんだよ」

「だからどうやって!?」


 花音は、そんな時間が楽しくて楽しくて仕方がなかった。自前の集中力のおかげで、みるみるうちに花音の演奏技術は上達し、花音自身もそれを実感できていた。

 次第にピアノのことだけでなく、勉強を教えてもらったり、純粋な雑談に花を咲かせたりと、二人の仲は傍から見ても分かりやすいほどに近づいていった。


「先生、来ました!」


 元気な花音の声に鍵は振り返り、微笑を浮かべる。


「よし、やるか」


 今日も、二人きりの時間が始まる。



 しばらく弾いた後、二人は雑談タイムに入った。この時間になると、二人は音楽準備室へと移動し、鍵の入れるコーヒーを飲みながらまったりと過ごす。


 花音は話題を探る。今は高3の夏、一年以上もほぼ毎日一緒に居れば、話の話題も尽きて来るものだ。


 しばらく沈黙していると何かを思いついたのか、花音は鍵へと話かける。


「あの、どうして先生は背後に立たれるのが嫌いななんです?」

「随分唐突だな」


 出席名簿に目を通しながら、鍵はそう返す。


「いや、今日の授業でも、誰かが後ろにいると必ず移動してましたし、何だったら一年前からずっとそうですよね? もしかして、昔軍人さんだったりしました?」

「……よく、分かったな」


 その言葉に、花音は「にへへ」と特徴的な笑みを浮かべる。

 花音は、父親が「戦う人にとって、背後を取られるのは死を意味する」と言っていたことを覚えていた。だから、予想することができた。


「俺は教師をやる前、傭兵だったんだ」


 傭兵と言う言葉に、花音は驚く。


「へえ、私のお父さんと同じですね」


 花音の言葉を聞くなり、鍵はピタリと動きを止める。

 しかし、花音は気にせず話始める。


「私のお父さんも傭兵をやってるんです。ハーモニカが上手で、戦地だとムジカーって呼ばれたりもするそうです! それで、相棒にピアノが上手な人がいるらしくて、ムジカーペアって有名らしいですよ!」


 鍵は手に持っていたカップを机の上に置き、震える右手を花音に見られないように、そっと隠した。


「シベリア紛争っていう戦い以来、なんかずっと忙しいらしくて、6年ぐらい会ってないんですけどね~でも、たまに電話をかけてきてくれるんです! それがずっと楽しみで、いつも色んなお話を聞かせてくれるんですよ!」


 手だけではなく、遂には鍵の全身が震え出す。


「先生、どうしました? 冷房効きすぎて寒い?」

「そうだな、少し冷房の風を弱めよう」


 震える声で鍵はそう答え、リモコンで冷房の風を調節する。それと同時に、花音は「あっ!」と軽やかな声を上げる。


「噂をすれば、お父さんから電話だ!」


 そう言って、黒いままのスマホ画面を鍵へ向ける。


「そうか、じゃあ、静かにしているから、めいっぱい話すと良い」

「はい!」


 生き生きとした表情で、花音はスマホに耳を当て饒舌に話始める。


 そんな様子を見ながら、鍵はポケットに手を突っ込み、その中にある金属でできた楽器を握りしめる。

 花音が話し終わるまで、鍵はその手を離すことは出来なかった。


「先生? そろそろ練習に戻りませんか?」


 スマホを鞄にしまった花音がそう言うが、鍵は首を振った。


「すまない、今日はこの後用事があったんだ。悪いが、ここまでにしよう」

「ええ! いきなり過ぎません?」

「すまないな、カップは水道に置いといてくれ、またな」


 表情豊かに反応する花音と違って、鍵は一切表情筋を動かすことなく、その場を去って行ってしまった。


「ちぇー、じゃあ今日は一人で弾くか~」


 文句を言いつつ、花音はピアノの鍵盤に指を置く。一呼吸おいて奏でられる音は、明らかに1年前とは音色が違って音楽室へ響いていた。



 急いでアパートに帰った鍵は、部屋に置いてある写真立てに向かって土下座し、頭をこすりつける。


「お前の、お前の娘だったなんて!」


 皮がむけてしまうのではないかと思うほど強く、頭を床へこすりつける。


「花音は! お前が死んだことを受け止められていない! お前から電話がかかって来たって、喜んで俺に言ってきたんだ! おかしいよな! だってお前はもう、お前は俺が!」


 血が滲むほど強く唇を噛みしめ、苦しそうな声で鍵は言う。


「俺が、殺したんだから! 大竹風琴は、花音の父親は、俺が殺したんだから!」


 ハーモニカ奏者、傭兵、大竹、シベリア紛争、ムジカーペア、この単語が揃ったのなら、当てはまる人物は一人しかいなかった。

 鍵の元相棒であり、夢を託した人物であり、殺した人物である、大竹風琴、只一人しか。


「お前は恨んでないと思ってたよ! でもダメだ、お前の家族を、俺は狂わせてしまった! その代償には何が必要だ!? 俺の命で足りるのか!?」


 鍵の心は亡き戦友の約束を果たし続けることで、絶妙なバランスで保たれていたが、大切な戦友を失い多くの死者を見て来た鍵の心は、回復不可能なまでに、とっくに荒み切っていたのだ。

 それこそ、死に場所を求めるぐらいには。


「花音に……殺してほしいな」


 ぐちゃぐちゃになった顔で、そんなことをぼやく。


「あの時俺が風琴にしてやったように……花音になら殺されてもいいな……」


 だが、そんな考えを鍵は否定する。


「でも今はまだ駄目だ。花音がしっかり自立できてから……あいつが、社会で立派にやって行けるようにしてやらないと……約束を破ることになってしまう」

 

 死にたい気持ちは強い。だがそれと同じぐらい、鍵の心の中には、風琴の託した願いが根付いていた。


「花音……ごめんな」


 誰が聞いている訳でもないが、鍵は一人、そう呟いた。ポケットに入ったままの、ハーモニカを握りしめながら。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る