第8話 煩悶する女、史佳
「...もう朝か」
手を伸ばした携帯の時計は朝の六時。
昨夜は殆ど眠れなかった。
寝不足の身体が重い、それ以上に亮二の言った何気ない一言が私の心を
「...起きよう」
どうせ眠れそうにない。
ベッドから身体を起こし、着ていたパジャマから普段着に着替え寝室を出た。
洗顔を済ませ、キッチンに向かう。
ここは紗央莉の住むマンション。
以前から時折彼女の家に泊まる事があったので、着替えや生活に必要な物は置かせて貰っていて、昨日もお世話になっていた。
室内は自由に使ってくれて良いと紗央莉から言われてるので、冷蔵庫から食材を取り出し、簡単な朝食を作る。
材料は昨夜、近所のスーパーで買って来たから問題はない。
「亮二...」
頭から昨日の事が離れない。
亮二のアパートを飛び出し、私は階段を駆け降りた。
激しい後悔、自らが犯してしまった愚行、しばらく道路の隅で踞り泣きじゃくっていた。
『行きましょ史佳』
『うん...』
紗央莉が優しく私の肩に手を置いてくれた、彼女が亮二の部屋を出て来たのは心配しての事と思った。
だが違った、紗央莉自身も堪えきれなかったそうだ。
亮二が紗央莉と過ごした思い出まで、既に全て破棄していた事を知り、彼に負わしてしまった心の傷を今さらながらに知ったらしい。
「史佳、おはよう」
「おはよう紗央莉」
紗央莉が眠そうな顔をしながらキッチンにやって来た。
「また作って貰っちゃったね」
「泊まらせて貰ったんだから、これ位はさせて」
「いつも言ってるでしょ、そんなの構わないのに...」
そうは言うが、気なんか遣わないで欲しい、自分の住むマンションに帰りたくないだけだから。
「あれからあまり眠れなかったみたいね」
「紗央莉もでしょ?」
「一緒か...」
紗央莉のまぶたが腫れている。
昨夜は12時まで自分達が亮二にしてしまった過ちを語り合ったんだ、お互い泣きながら...
「着替えて来るわ、洗濯物は他にある?」
洗面所に置かれている洗濯籠を抱えながら紗央莉が聞いた。
あの中には私が昨日着替えた下着や服も入っている。
「ベッドの上にパジャマが、でも私するよ」
「気にしないで、史佳が来てくれたら私は何にも家の事しなくていいでしょ?
史佳の方が家事全般、私より上手だしね」
イタズラっぽく笑う紗央莉。
普段使われていないゲストルーム、そこを紗央莉は私に貸してくれている。
両親が来た時に使う為の部屋と言ってたが、一度も来た事がないそうだ。
室内に巨大なキングサイズのベッドが一つ、52インチのテレビ、生活に必要な物は全て揃っていて、高級ホテルのスイートルームはきっとこうなんだと思う。
まあ利用した事がないので、詳しくは知らないけど。
「下着を買いに行かないとね、さすがに私のを史佳に貸せないし」
「そうね」
昨日は急な事だったので、下着は用意してなかった。
スーパーへ買い出しに行った時、立ちよったコンビニでパンティだけは購入した、ブラジャーは無かったので、私は今ノーブラ。
「私も史佳と買いに行こうかしら?
同じようなのばかり使ってるし...」
紗央莉が洗濯籠に向かってぶつぶつ言っている。
こんな仕草ですら、彼女は美しいと感じてしまう。
容姿だけじゃない、頭も私なんかより遥かに賢いし、学生の身でありながら、著名な企業からも数多くの仕事を依頼され、一人の人間として完全に負けている。
それにしても彼女は本当に美しくて...
「亮二の好みはこういうのかな?
私こういうのに疎いから参考になるわ」
私の下着をしげしげ見ないで、亮二を意識して、履いて行ったのは間違ってないけど。
「負けないんだから...」
そう口にするが、私の心は折れそうだ。
あんなに大好きで、愛していた亮二を裏切ってしまった私なんかより、紗央莉の方が...
「美味しいわ」
「...ありがとう」
口数も少なく、静かに朝食をとる。
カチャカチャと食器の音だけが聞こえる部屋、何か話をと思うが、言葉は出てこない。
「同じ材料を使っても、私と史佳の味とじゃ全然違う...なんでかな?」
「さあ、どうしてかしら?」
「やっぱりレシピ通りに作るだけじゃダメね、経験の違いか」
「紗央莉なら直ぐに追い付くよ」
優秀な彼女の事。
本気になれば、私なんか問題にならない位、美味しい料理を作れるようになるだろう。
最初からたいした物は作れない、子供の頃から料理を作るのが好きだっただけで、本格的に勉強をした訳じゃない。
「自炊を始めて二年になるけど、全然上達しないの」
「でも紗央莉の淹れたコーヒーは美味しいよ」
自虐は過ぎると嫌みになる、でも紗央莉なら余り感じない、なんでだろうか?
「まあ...コーヒーはね」
紗央莉の表情が曇ってしまった。
「ごめん...」
「良いのよ」
迂闊だった。
コーヒーは亮二が大好きな飲み物、付き合っていた頃、美味しいコーヒーの店があると聞けば、よく一緒に行ったっけ。
紗央莉は亮二の喜ぶ顔が見たくって、練習を重ねたんだろう。
「...あの店もコーヒーが評判だった」
「あの店?」
「高校の時、亮二がバイトしてた喫茶店よ」
「...へえ」
亮二が高校時代にバイトしてた店か、そこで斜里と知り合ったって聞いた。
「亮二がバイトを始めると、店は女のお客が増えたの...」
「まさか?」
「当時の写真見る?」
「見る!!」
残していたの?
見るに決まってるじゃない!!
「はい」
「うわあぁ...」
紗央莉は持ってきたタブレットの画面を私に見せてくれた。
そこには今より少し幼くて、そしてはにかんだ笑顔をしたエプロン姿の亮二が写っていた。
当時の店で紗央莉が撮影したのかな?
着ているベージュのカッターシャツと黒いスラックスはバイト先の制服だろう。
これは女性客が増えたのも分かるよ、私だって当時の亮二を知ってたら通い詰めていたわ。
「...私は傲慢だった」
「紗央莉...?」
「自分勝手よね、どれだけ他の女から言い寄られても亮二は絶対私の傍に居てくれるって自惚れて...寂しい思いをさせてさ...」
「それは...」
紗央莉に掛ける言葉が見つからない。
「バカ...普通に考えたら分かる事...亮二の愛に胡座をかいて、自分は遊び呆けていたんだから、捨てられて当然よ」
「あ...あぁ」
紗央莉の言葉が自分の胸にも突き刺さる。
私の部屋はケーキを作った時の道具がそのまま放置してるから今は酷い惨状だ。
亮二のバースデーケーキは何度も作り直した。
『もっと...もっと美味しく、亮二に喜んで貰うのよ』
納得出来るまで何回もやり直した。
亮二の笑顔を想像するだけで、心は満たされ、手が止まらなかったんだ。
部屋はその高揚感、ドキドキの残滓が残っているだろう、今はそれが辛すぎる。
『史佳のケーキは二年ぶりだな』
昨日、亮二が言った言葉。
去年の誕生日、私は亮二にケーキを作らなかった。
いや作れなかった、材料は用意していたが、前日の夜に
「....なんて事を私は」
あの時、私は近くのケーキ屋で出来合いのバースデーケーキを買って亮二の部屋に行ったんだ。
『...ケーキ、失敗しちゃったの』
そんな嘘の言葉で誤魔化して。
『珍しいな史佳が失敗なんて、良いよ祝ってくれる気持ちだけで』
...あの時亮二は優しく笑ってくれた。
その時私は何を思ったの?
罪悪感は無かったの?
ある訳ない、そんな事を感じられる人間なら最初から二股や浮気なんかしない。
私は多少の気まずさを感じながら、嘘で切り抜け、亮二を騙せてホッとしたような奴なんだ...
「私は...亮二に...なんて事を...」
クソだ!
紗央莉が傲慢なら、私は最低のクソ女だ!!
数時間前まで浮気セックスをしておいて、シレっと恋人の前で嘘を吐ける人間なんだ!!
「落ち着いて史佳...」
紗央莉の慌てた声が、心配を掛けたらダメと分かっているのに。
「亮二の部屋で誕生日を祝いたかった!!」
「史佳、しっかりして!」
「せっかく亮二の部屋に行くチャンスを紗央莉から貰ったのに!
私にそんな資格は無い!!」
一年が過ぎ、甦る悪夢。
幸せだった二年の記憶が真っ黒に塗り潰されて行く絶望に、私の意識は遠退いた。
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