3.一日
「あ、おはよう。昨日ぶりだね」
朝、教室で本を読んでいると、雨音が近づいてきた。
「おはよう。朝早いんだね」
「まあ、自転車通学になったからね。思ったより早く着いてから、明日からはもう少し遅く家出るかな」
「そ、そっか……」
雨宮さんは椅子に腰かけて荷物を脇に降ろす。ギシィ、と古い椅子からうめき声が漏れる。雨音をBGMにして本の続きを読もうとするが、一ページも読み終わらない内にこちらに向けられた視線に気づいた。
「……ん? どうしたの?」
「あ、いや、なんでもない……」
雨宮さんは申し訳なさそうに視線をそらし、傘の付け根の方に手を伸ばした。そこでようやく僕は雨宮さんの伝えたいことが分かった。
「あっ、ごめん! 気づけなくて。傘持っとくね」
「あ、ありがとう」
僕の持つ傘の中で、雨宮さんは慣れた様子で透明なレインコートを羽織り、前のボタンを留める。
「うん、もう大丈夫。ありがとう」
「いえいえ……」
「……ん、もしかして、落ち込んでる?」
「え、いや、別に」
「そんなに気負わないでほしいな。私としても、その方が嬉しいし。あ、でも、本当にめんどくさかったら言ってくれたらいいからね。そんなに図々しくお願いするつもりはないから」
「いや、明日からも、お願いします……」
「…………はい」
沈黙を埋める雨音の力をもってしても、この気まずさはごまかせなかった。
「あっ、授業始まる」
雨宮さんは急いで教科書を取り出す。
「ホームルーム無いのって、珍しいよね」
「えっ?」
僕は茫然自失としていたため、雨宮さんの言葉を聞き逃してしまった。
「……」
それからは、口を真一文字に結んで黒板から目を離さなくなってしまった。
「あ、あの、雨宮さーん……」
小声で呼びかけるが、少し体が震えた程度でこちらを向くことはなかった。
結局、雨宮さんと次に話すことになったのは、その日の帰り道になってしまった。
*****
「あのっ、雨宮さん!」
「……何」
目に見えて不機嫌な様子で雨宮さんは廊下に慌てて出た僕に振り返る。
「えと、その…………あの……」
「……話あるならさっさと学校出よ。ここだったら人たくさんいるから」
「わ、分かった」
僕は雨宮さんに続いて昇降口を出た。雨宮さんは立ち止まり、またこちらに振り返る。
「自転車なんでしょ?」
「え? う、うん」
「駐輪場ついてくから、案内して」
「ああ、こっち、だよ」
僕は校舎を回って、敷地の過度にたどり着く。さび付いたスタンドを蹴り、車体を転がす。
「で、何?」
校門を曲がってすぐ、雨宮さんがしびれを切らしたようにこちらに問いかける。
「あの、えっと……」
何を話したらいいのか、ここまで考えてきたのに、いざ話すとなると頭が真っ白になる。どうしたらいい。何を伝えたらいい。変なこと言うとまた嫌われるかもしれないし、キザなこと言ってしまったらからかわれる。
「はぁ……言いたいことまとめてから言ってよね」
失望した様子で足を速める雨宮さんの背中を見て、僕は口から思わぬ言葉が飛び出した。
「あの! 話したいから、じゃだめ、ですか……」
「……へっ?」
こちらを振り向く雨宮さんはあっけにとられた様子でフードを脱いだ。
「その、僕結構一つの失敗で落ち込むタイプで、でも、雨宮さんのことめんどくさいって思ったことは全然ないし、もしがっかりさせてしまったんだったら、とにかく色々話して、信頼を取り戻したくて……」
僕はそこまで言葉を吐き出すと、息切れしたような気分になって俯く。
「……顔上げて」
さっきより近くから雨宮さんの声が聞こえた。
「私もごめんなさい。結構めんどくさい性格だってことは自分でもわかってるんだ。でも、君がとても優しいことは伝わってくるからさ。私も君に頼りたいなって、思うよ。とりあえず、うちの近くの公園まで行かない? 時間ある?」
「うん。大丈夫!」
僕たちは並んで歩き出した。
「誰かさんが傘をさしてくれなかったから、レインコートを脱ぎ損ねちゃった。フードも風で脱げちゃったから、髪の毛もびしょびしょ」
「タオル持ってるの?」
「うん。一応二枚持ち歩いてる。公園着いたら拭こうと思ってるから、その時はよろしくね」
「……傘、だよね」
「ふふっ、正解。タイムラグ無かったら大正解」
雨宮さんはおもむろに、今の雨に降られる生活について語り出した。
「私ね、ある嵐の日からずっとこんな調子で、小学四年生からもう七年目になるんだ。なんでか天井が低いところは大丈夫みたいで、家の部屋とかは大丈夫なんだけど、学校は天井高いからダメなんだー」
「一応、誰かに聞いてみたりしたの?」
「うん。病院に行って検査もしたけど、なんともなかった。どの専門家に聞いたらいいのかもわかんないから、それ以降はいろんなところに説明して助けてもらってる。この高校の受験も市役所とか色々回って、ようやく別室受験が認められて受けられたんだから」
「で、その雨は自分にしか降らなくて、周りのものとか人に触れたら消える、と」
「うん。変な体質だよね。何かがきっかけで治ってくれたらいいけど」
そう斜め上を見上げる雨宮さんは、瞼に雨が当たるのもよそにどこか諦めた目をしていた。
「でも、今日言ったからには、これから色々よろしくね」
「もちろん。約束する」
隣の席の雨宮さんは、究極の雨女だった。
そんな雨宮さんは、困ったように笑い、前髪を触っていた。
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