第3話


*****


 女性の一般的な結婚適齢期が、十五歳から十七歳と言われるこの時代の中で、今年十七歳になっても未だに婚約者すらいない花子のような女性のことを、陰で『卒業面』と呼ぶ者がいた。


 ほとんどの女性が女学校在学中に結婚を決め、退学する者や卒業後すぐに嫁入りという基本から逸れた、言わば卒業しても結婚ができないような不細工な面構えをしているという意味だろう。



 だが花子はまったくそんなものには動じていなかった。


 むしろ結婚とはすべての自由を奪われてしまうのだから、一生しなくていいとさえ思っていた。






 「あ、あの……」


 「なに?」


 「あなた一体、何者?」


 「ハハハッ!初めてわたしに興味を持ったようだね」




 男に手を差し出されてから、花子は一秒も経たないうちにその手を取っていた。


 脳内ではあれやこれやとたくさんの心配ごとや不安や問題を見出してはいたものの、花子の根本である【自由になりたい】という意志がそうさせたのだ。





 重なり合った手を見て、男はうなずいた。


 そうして案内されるがままに男について来たはいいけれど、花子は驚きのあまり何度も目をパチクリとさせていた。




 そもそも花子の家は、江戸時代から続く武家の一族で、多くの手柄を立てた功績を讃えられ、伯爵のくらいを賜り、さらには東京の地へ住むよう通達がくるほど格式の高い立派なお家柄であった。



 広い家に、広い庭。屋敷の使用人は五十人以上にものぼり、舞踏会では常に中心にいるような存在の彼女が吃驚するなどということはもう滅多になかった。




 けれど、連れてこられた家を見て、花子は開いた口が塞がらない。



 「西洋から来た建築家が建てた家だよ。驚いた?」


 「あ、あの……、初めて中まで見ました」




 大理石で作られた台所に、居間、階段や湯船まであるこの家。


 いくら花子の家がすごいとは言え、西洋文化をここまで取り入れている家づくりというのは希有なものであった。



 西洋文化を見習い、だんだんと新しくなっていくこの国のことを、未だに悪く言う者も少なくはないけれど、花子はどちらかといえば賛成派についている。



 新しいものを取り入れていくと、新しい発見がある。花子はそういう考えの持ち主であったために、昔ながらのしきたりを重んじる実家をはじめ、彼女を取り巻くすべてのものが息苦しく感じられて仕方なかった。




 「さぁ、もう自由にくつろいでいいよ」


 「ま、まずはお名前を聞かせてください!」


 「そうだね。正幸(まさゆき)、と呼んでもらいたい」


 「正幸、さん」


 「君は花子ちゃん、だったね。末広花子」


 「は、はい」




 はじめに出会ったときはただの非常識な男だと思っていた彼女も、この家を見せつけられると、さすがに見方も変わってしまう。


 いくら肝が据わっているとはいえ、齢十七の女子が萎縮してしまうのも無理はない。




 もしも自分より身分の高い人だったらどうしよう。そもそも素性も分からない人について行ってしまうなど愚かだったかもしれない。


 花子は心の中で何度も自分と語り合う。




 男の容姿からして、きっと二十代も半分ほど過ぎた頃だろうか。


 背は高く、鼻筋の通った整った顔つきに加えて、特徴的だったのは大きな手であった。




 「(何をしていたらこんな立派な家に住めるのかしら)」


 「おやおや、ボヤッとしていていいの?君、手ぶらで家を出て来たのだろう?これから必要なものを揃えに行こうと思うのだけれど、一緒にどう?」


 「か、買い物に行けるのですか!?」


 「残念ながらここに使用人はいないからね。いるのはわたしだけ。だから基本的に身の回りの世話は自分でしなければならない。驚いた?」


 「いいえ!素敵です!ではさっそく買いにいきましょう!」





 花子は今まで一人で買い物をしたことがなかった。


 家を出るときは最低でも二人は護衛をつけなければならなかったので、それがたまらなく苦痛だった花子は自然と外へ出ることを諦めていた。



 けれど今はそんなしきたりはどこにもない。

 この男は二人で行こうと言うのだ。



 未婚の男女が二人揃って外へ出るなど、他所の者が聞けばたちまち「なんと不埒な!」と目くじらを立てて怒り出すに違いない。はたまたご近所の奥様方の噂話のネタにされかねない。



 しかし彼はそんな非常識とされることを平気な顔をして言いのけるので、花子は心の底からジワジワと笑顔になっていく。




 明治も終わりごろの今、街は見る見る変化を遂げている。


 花子はその風景の変り具合を楽しまずにはいられない。




 「わたしが贔屓にしている仕立て屋だよ。ここで好きな服を買うといい。君はどうやらその着心地の悪い服を嫌っているようだからね」


 「に、日記に書いていたことは忘れてくださいませ!」


 「なぜ?あれこそ君の本心ではないの?むしろ君はあの日記に書いていたことを実現させるためにわたしの元へ来たのでは?」



 そうかも、しれないけれど……と花子は下を向く。


 あの日記に書いてきたことは、もはや一種の夢物語に近かった。



 女性が主役になれる日が来る、という旨の内容だった。


 《私がこれから自由になんでもしていいと言われたのなら、まずはこの堅苦しい洋服を禁止する。


 次に男性の機嫌をうかがい、いかなるときも男性を尊重し、敬うことだけが女性の仕事ではないと言いたい。


 誰にでも海を渡る権利を言い渡し、無意味な舞踏会や夜会はすべて廃止にする。



 自由でありたい。自由になりたい。


 あんなふうな霞んだ色の着物が似合う女性になどなりたくはない。自分の好みの色は自分で決められるように、自分の人生は自分で決められるようになりたい》





 「紅掛空色、以外の色がいいのだったね」


 「なっ!だからあれは違います!日記に書いていたことは単なる私の夢物語のようなものなのです!」


 「へぇ、わたしはいいこと書いていると思ったのだけれどね」




 大量に購入した荷物を持ちながら、男は花子に向かって平然と言う。




 「これから、もっともっと時代は変わっていくよ。そのとき、型にはまろうとしない君はきっと重宝されるだろうね」



 花子の目は輝いていた。


 そしてとなりを歩くこの男を、正幸さんを初めて尊敬した日であった。




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