第2話



*****



 「返してください!」

 花子の透き通った声が、広い庭中に駆け巡った。



 「ひどい物言いだね。これじゃあまるで、わたしが泥棒のようじゃないか」

 対して、向かいの男はやれやれ、と両肩をヒクリとあげて小さくため息を吐く。


 和服にフロックコートを羽織っており、まるで最新のファッションを先取っているかのようなこの男に、花子は余計に不信感を露わにした。



 だが、いくらはぐらかしたって無駄なのだ。

 何故なら男の手にはハッキリと花子の"それ"が納まっているのだから。



 どうして拾われたのだろうか、どこまで読まれたのだろうか。

 花子の頭の中は、たくさんの疑問と不安が行き来している。




 「盗んだも同然です。私のものだと分かっていたはずです!それなのに中を覗くなんてあんまりです!」


 「待ちなさい待ちなさい。わたしはこの中身を見て初めて君のモノだと知ったんだ」


 「嘘です。表紙に私の名前が書いてあります!」


 「……おっと、そこに目がいかなかったんだ」




 この男……っ、と花子は強く拳を握りしめ、今にも湧き上がりそうな怒りをどうにか堪えた。


 他人の日記を読むなど普通ではない。たとえ興味をそそられようとも自粛するのが大人だ。


 この男は見た目こそ格好が良さげな人ではあるが、中身はまるで出来ていない、と花子は心の中で悪態をつきまくった。



 「まぁそう怒らないでくれ。わたしだって全部読んだわけじゃないんだ」


 「ふざけないでください。返してください」


 「あぁ、分かった。今すぐ返そう」



 花子の屋敷の使用人たちが、チラチラと様子を伺うようにこちらへ視線を向けているけれど、そんなもの気にも留めぬまま、男は爽やかな笑顔を貼り付けて彼女にそれを手渡した。



 風を切るように勢いよく奪い取った花子と、そんな彼女を見て「おっと」と驚いた仕草をする男。



 「日記を拾ってくださったことは感謝しています。ですが内容を読んだことは許せません」


 「大丈夫、そんなに読んではいないから安心なさい」


 「失礼致します」


 淡々と形だけのお礼を述べ、男に背を向ける。


 けれど彼女の心中はとても複雑なものだった。


 何故ならいくらひと気のないところだとは言え、無防備に森の中になど捨てるべきではなかったと悔いているからだ。


 この男はそれを拾ってわざわざ家の前まで届けに来てくれたのだから、怒るのは筋違いだということを花子は十分に理解している。


 ……燃やしていればよかったんだわ、とそれを握り締めながらふと視線を落とした。




 「……」

 家の中に入ればまた、つまらない日常のつづきが始まる。


 着心地最悪な洋服に着替え、最近流行りのダンスを習い、お花を生け、舞踏会に参加しなければならない。


 交流とは名ばかりの、お家同士の自慢話とファッションの品評会、それから少しばかりの愚痴と貶し合いが常のそれは、花子にとって毎度息が詰まりそうになって仕方がないのだ。



 西洋のお菓子も、輝かしい宝石にも花子は惹かれない。


 もっと自由に勉強がしたい、仕事だってしてみたいし、趣味で書き続けてきた小説を本格的に執筆していきたい。


 いつかは海を渡ってみたいとさえ思っているような子なのだ。



 こんなこと、お母様に知られたら殺されてしまうわ……と、また俯くことしかできない自分が情けなく感じ、今日何度目かの小さなため息を落とした。





 「──自由がないのはツラいだろうね」


 「……!?」


 「女学校でも苦労しているようだし?」


 「あなた……っ、やっぱり日記読んでいるじゃない!」


 「君はどうやたこの時代にそぐわない女性のようだ」


 「なんですって?」



 その瞬間、先ほどまでの落ち込み具合はどこへやら、花子は自分よりも十センチ以上背の高い男の襟元を力強く掴み、勢いはそのままにグッと自分のほうへ引き寄せた。



 "そんなに読んではいない"と言っていたのはやはり嘘で、花子の日記は彼に丸々読まれていた。


 加えて、その羞恥と両親に自分の本音や文字で綴った悪態を告げられでもしたら……と不安が頭を過ぎる。




 「大胆だね。花子ちゃん」


 「このっ」


 「ただ、一つだけ教えてほしいんだ。なぜ君が一九十二年の一月七日以降このノートを破ってしまったのか」


 「やめて」


 「気になって仕方ないだろう」


 「ふざけないでください!」




 大きく振り上げた花子の手は、その男の顔を目掛けて風を切る。


 けれど男は即座に察して、体を少しのけ反らせながら危な気なく回避した。



 一向に崩れない彼の爽やかな顔が余計に、彼女の苛立ちを増幅させているということを本人は気付いていない。


 そしてその苛立ちは彼を掴んでいる手に集中していく。




 「(この男、本当どうしてやろうかしら……)」


 「──花子?あなた何をしているの?」


 「……!」



 途端、背後から聞こえてきた上品な声に、花子はビクリと肩を硬直させた。


 それは生まれつき強気な性格の彼女でさえ逆らうことのできない、厳格な母の声だった。



 「お、お母様!」


 「もうすぐお稽古の時間でしょう。早く支度なさいな」


 「わ、分かりました!すぐに向かいます!」


 男への怒りも、日記を読まれたことの羞恥もすべて吹き飛んで、花子は男から素早く手を離し、家の中へ入っていく母の背中を見つめた。




 「(そもそもなぜ私は今日初めて会った男にここまで揺さぶられているのかしら)」


 日記を読まれたことで頭に血をのぼらせていた花子は、男にそれを読まれたところで、もう二度と会うことはないのだから……と自分を落ち着かせた。


 内容を口に出されて哀れみの言葉を吐かれようと、今の時代にそぐわないと言われようと、どうだっていい。



 花子は無言で一礼したあと、母のあとを追うように家の中へ入ろうと再び男に背を向けた。






 「──ここから逃してあげよう」


 「……はい?」


 「聞こえなかった?君を、ここから連れ去ってあげようと言ったんだ」


 「連れ去る……?」



 頭がおかしいのではないか。

 花子は後ろでしゃべる男のことを本気でそう思った。



 けれど、花子が男に復唱して聞き返したこともまた意外であった。


 本当に危ない男と判断したならば、足を止めて振り返り、追求などしない。




 「どういう、意味ですか?」


 「君を誘拐してあげようという提案だよ。 どう?わたしと来る?」




 足を止めるだけの理由がそこに、あったのだ。


 差し出された男の手を、花子はジッと見つめている。



 頭の中はさぞ大忙しなことだろう。


 この男と逃げて、自分はどうなるのか。家は騒ぎにならないだろうか。毎日のようにあるお稽古は出なくてよいのだろうか、勉強はどうなるのだろうか。女学校は卒業間近とはいえ出席しなくてもいいのだろうか。



 そして、この男に着いていっても大丈夫なのだろうか───と。




*****


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