ロマンはまだ、未完成のまま。

文屋りさ

第1話




【一九十〇年 二月十日】


 私の家に、自由はない。


 大層な一族の血を引いているだとか、伯爵の位を受け継いでいるだとか、目には見えないモノを皆病気のように崇拝し、またそれに似合う者であれと誰に言われたわけでもない言葉を骨の髄まで染み渡らせ、無駄のない毎日を過ごすことに命をかけている。


 お父様の笑った顔など今まで一度たりとも見たことはないし、お母様は姉と私を産んだときでさえ、お父様が病室へ来ると知るや否や、お産後すぐに化粧を施し、服装を整えたのだという。




 家のしきたりは異常だ。


 箸は三センチ以上汚してはならない、靴は汚してはならない、服に皺を付けてはならない、近い買い物であっても完璧な装いをしなければならない。



 皆、どうかしている。


 無駄な時間こそが至福のときであり、空気と共にご飯を流し込むことで本当に美味しいものを感じることができ、服に皺を付けるなと言うのなら、端(はな)から着るなと私は言いたい。




 あぁ、ダメだ。

 日記の最初の一枚がこのようでは幸先が悪すぎる。



 けれどもこれが、私の本音だ。

 誰にも言えない、心の内に秘めた真の言葉たち。


 今日から私は、ここにありったけの想いをぶつけようと思う。




*****




【一九十〇年 五月十三日】


 女学校の階級制度に怒りがおさまらない。


 爵位のない者と話してはならい、平民とは目を合わせたくない、果ては一緒の空気を吸いたくないと言う。


 「ならば息を止めていてはいかがでしょう」と言ったのは間違いだったかもしれない。周りが一気に凍てついてしまわれた。


 文句を垂れている同級生よりも、平民である彼ら彼女らのほうが成績が良いことには一つも触れないのだ。今の私こそ、位が高いだけの同級生達と同じ空気など吸いたくないと芯から思う。




【一九十〇年 八月二日】


 毎日毎日、謡や茶事、生花や舞踏会に参加しなくてはならない。


 一度でいいから気の済むまで寝てみたい。好きなものを買って食べ、好きな洋服を着て外を走りたい。


 姉にそう文句をぶつけると、彼女はこの家に生まれてきた以上仕方のないことだと言った。


 ……姉は本当にそれでいいのだろうか。

 ずっと穏やかな人だとは思っていたけれど、自分の意思はないのだろうか。私とは大違いのよう。





【一九十一年 三月六日】


 姉に、好きな人がいると聞かされた。


 私は嬉しかった。

 なんでも両親の言いなりだった姉が、自ら誰かを愛することができるのだと確認できて、何故だか安堵したのも確かだ。


 けれど、これは秘密にしておいてと釘を刺された。

 自分の中に留めておきたいのだと言う。


 ……おかしな人。

 狙った獲物は素早く仕留めないと逃げられてしまうということを、姉は知らないのかしら。





【一九十一年 十一月二十日】


 姉が結婚することになった。

 父が勧めた、たった三度会ったばかりのふくよかな男の元へ。


 目の前が真っ暗になった。


 どうしてお父様は、ただ銭を持っていることだけが取り柄のような男を姉に勧めたのか、どうしてお母様は幸せそうに祝福の空気を醸し出しているのか、どうして姉はよろしくお願い致しますと言って頭を下げているのか、私はその一つだって理解はできなかった。


 姉に、好きな人はどうしたのかと聞くと、彼女は静かに泣いた。

 そして言ったのだ。


 あなたはいいわね、と。

 一度でいいからあなたになりたい、と。来世では私はあなたのような人に生まれ変わりたいと。


 姉のこぼした涙を、私は初めて目にした。





【一九十一年 十二月十三日】


 母に着物を譲ってもらった。


 母の家系で代々受け継いでいるという、紅掛空色という伝統的な色を主とした高級な着物だった。


 このような色が似合う女性になりなさい、と念を押して私に言う。

 私にはひどく色あせた色に見えた。




【一九十二年 一月七日】


 私は───……





*****

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