雨の降る七号棟

七号棟体育館で行われた訓練の後、スポーツタオルで額を拭った千夏は、カフェテリアの特等席に腰を下ろした。昔除隊した隊員が貰ったらしい賞状が真横にかかったそこは、他の席とも若干距離が遠く、こういった少し大規模な訓練やテストの後なんかにも、人でごった返してしまうことはなかった。人の群がる自販機の上にかかった簡素な時計に目をやる。休憩時間が終わるまで、あと10分ちょっとというところだった。切れかけなのか、いつも薄暗い明かりの下では、若干時刻が見にくい。

休憩後、別の棟から来ている隊員たちはグラウンドに整列して移動となるが、七号棟で生活している千夏たち七-305隊は、そのまま体育館の一角を陣取ってミーティングに移る予定だった。あまり優秀ではないものの一応年長者である千夏は、その際に言うべきことと聞くべきことを、頭のなかで簡単にまとめ始めた。今日の訓練をはじめから思い起こし、一つ一つ問題点を整理していく。そして、一番重要な一つの議題にたどり着いた。同じ隊の構成員で、中学生の美咲みさきのことだ。

訓練の最後、過去数回分のおさらいを兼ねた簡単なテストとして、各隊の先生たちが考えた隊対抗型のゲームを行った。実際の任務を模したそれに、千夏たち隊員は、成績が付けられることを除いたとしても覆らない強い緊張感を覚えた。七-305隊の番が回ってきて、ホイッスルの音で定位置につく。自分のことで手一杯になっていた千夏には、気づくことができなかった。相手の隊員数人を隔てた場所で窮地に陥っていた美咲は、完全に動くことを辞めてしまっていたのだ。

やる気を失ったわけでも、気が動転してしまっていたわけでもない。美咲の性質を、千夏はよく知っていた。美咲は、千夏をはじめとする他の“下級生”の隊員に比べよほど優秀だが、少々臨機応変性に欠けるところがあった。そのうえ少し面倒くさいまでの完璧主義者で、どんな場面でも、自身が“最善である”と判断した行動以外は絶対に取ることができない。しかし、彼女の完璧主義は、何よりも真剣であることの証でもあり、下級生部隊が任される程度の任務や日々の訓練においては、たいへん役に立っていた。だからこそ、こういった“不測の事態”が起こったとき、千夏はひやっとするのだ。こうして問題になる前に、自分にしてやれることがあったのではないか。もしこれが実戦だったら、と。

「あれ、千夏さんいない?千夏さーん!」

カフェテリアの入り口から、千夏の耳に聞き慣れた声が飛び込む。声の方へ目をやると、明るい短髪の少女、凛子りんこが大きく手招いていた。様子をうかがう隊員たちの間を縫って、千夏は凛子に歩み寄った。美咲の友人で、彼女と同じく中学生の凛子は、三号棟に住む“上級生”だった。そのため訓練などで千夏たちと一緒になることは少なく、七号棟のカフェテリアで見る彼女の姿は、千夏にとって少し珍しいものだった。

「凛子ちゃん、どうしたの?美咲はまだ体育館だと思うけど……」

凛子が自分を訪ねる理由にそれしか心当たりのなかった千夏は、当然とばかりに美咲の名前を出す。途端、溌剌とした凛子の表情から活気が消え、その目は気まずそうに斜め下へ伏せられた。

「そのことなんだけど……」

凛子が歯切れ悪く口にしたその時、廊下の向こう、非常階段の方から激しい怒鳴り声が響いてきた。間髪入れずにそちらへ走り出す凛子の後を追い、千夏は非常階段を下った。そこに居たのは、居心地悪そうに俯く美咲と、顔を真っ赤にして彼女を怒鳴りつける正宗だった。彼は組織の古株で、千夏たち七-305隊の隊員だ。

「どうしてあそこで動かない!?死んでたかもしれないんだぞ!?」

正宗の大声が訓練室に響く。階下から足音が近づいてきて、千夏が横目でそちらを伺うと、残りの隊員である瑛太えいたが息を切らして駆けつけていた。ずり落ちた眼鏡を直して階段の手すりに寄りかかった彼に、凛子が小声で状況を説明している。瑛太のことも、きっと凛子が呼んだのだろうと千夏は思った。中学生ふたり、高校生ふたりで構成される七-305隊において、年長者である千夏と瑛太は、衝突の絶えない残りふたりの保護者役のような面があった。

「正宗、今は休憩時間でしょ?そういう問題点はこのあとのミーティングで全員で話し合うことなんだから、今個人を責めたってしょうがないじゃん。」

半ばパニック状態の正宗をたしなめるように、千夏は彼の両肩を抑え込む。正宗はその手を振り払いこそしなかったものの、途切れ途切れの言葉ででたらめに美咲の判断力の無さを責め立て続けていた。このままでは埒が明かないと、千夏は瑛太の方へ一瞥をやり、正宗の説得を促す。しかし、いつもなら千夏より冷静にトラブルを収められる瑛太が、今回ばかりは何も言葉を返さない。不自然に視線を外して固まる瑛太と千夏を見比べ、凛子は気まずそうな表情を浮かべる。

「瑛太?」

千夏が刺すように名前を呼ぶ。そして、彼女の最悪の予感は的中してしまった。

「こんな時、悠人ゆうとならどうするのかがわからない。」


「……ねぇ、どういうつもり?」

虫の音がやけに大きく聞こえる沈黙の中、それを破ったのは千夏の声だった。いたたまれなくなったのか、空気を読んだ凛子が美咲と正宗の仲裁に立候補し、場所を移した千夏と瑛太は裏庭の大きな石の上に並んで腰を下ろしていた。

「どういう、って?」

千夏の方を見ないまま、瑛太は硬い声で訊き返す。頑ななその様子に、千夏は小さくため息をついた。

「悠人がどうってやつ。」

呆れた口調で千夏が答える。このことが問題になるのは、はじめてではなかった。

「弟さんでしょ?」

悠人という人物は、瑛太の一つ下の弟だった。今はもう、この世にはいない。まだ隊を編成する前の出来事であるため、千夏は詳しいことを知らないが、この“悠人”の存在は、瑛太が組織に入隊したことの、大きなきっかけになっているようだった。そして時折、今回のようなことを口にするのだ。真面目で成績もよく、何処か大人びた雰囲気のある瑛太が、悠人の存在に囚われているときだけは、何かに怯える小さな子供のように見えた。

「いや、ごめん。なんか……無くならないんだよ。」

話を聞こうと声色を優しくした千夏に、瑛太は考え込みつつもなんとか言葉を並べる。無意識に頭を抱えこんだ左手が、千夏には痛々しく写った。

「もう、いないんだけどさ。俺の頭の中にはいて。」

悠人がもうこの世に居ないということを、瑛太はしっかり理解していた。それでも、彼との日常の喪失を受けいれられず、頭の中にその人格をつなぎとめてしまっているのだ。まるで呪縛かのように苦々しく語る瑛太に、千夏は思いきり顔をしかめた。

「悠人くんは瑛太の邪魔すんの?」

怒ったような千夏の言葉に、瑛太の表情がぴしりと固まる。悲しみを怒りで覆い隠して、千夏はただ瑛太をにらみ続けた。

「いや、しない……しないな。」

しばらく続いた沈黙の後、瑛太は小さくそう言うと、長く息を吐いて両手を前に投げ出した。ゆっくりとからだを伸ばすように背中を丸めて頭を下げたため、千夏がその表情を見ることはできなかった。

「じゃあ悠人くんじゃないじゃん。誰そいつ。」

正面に向きなおり、千夏はまた怒った口調で付け加えた。ふたりの間に流れていた空気の緊張感や悲痛さは、あっという間に風に流れ、千夏は久々に肺の底まで息を吸えたような心地がした。

「後悔してるなら、美咲と正宗のことみてやってよ。特に正宗はさ。」

安堵の表情を隠すことなく、柔らかい口調で千夏が投げかけた。正宗は、千夏たち三人よりもずっと前から隊員として在籍している。訓練生から昇格して日の浅い彼女たちと隊を組むことになったのは、正宗のいた元の隊が作戦失敗に伴って壊滅状態に陥ったためだった。“壊滅状態”。この言葉に深く突っ込む者は、誰も居なかった。

「……ごめん。」

千夏の言葉に隠された意図を深く咀嚼して、落ち着いたトーンで謝罪の言葉を口にした彼は、もうすっかり千夏の知るいつもの瑛太だった。安心すると同時に、千夏は少し寂しくもあった。もし自分が何かトラブルを起こして、今みたいに瑛太たちに説得されたら、こうして素直に謝ることができるだろうか。千夏には、十分にその自信が持てなかった。怒っていても悲しんでいても、彼自身が本当に大変なときにだって、瑛太が声を荒らげたり、周りにあたったりすることは一切ない。そんな瑛太にしてみれば、彼の言動や隊のトラブル一つでこんなふうに怒ってみせたりしてしまう自分など、とても幼稚な人間のように思えるのではないかと、千夏は考えていた。

「あたしにも、瑛太のこととか悠人くんのこととか聞かせてね?」

そんな心の小さな不満に対抗するように、千夏はちょっと大人ぶった調子で口にする。ミーティングに使おうと思っていた時間は、とうに終わってしまっていた。

「うん、わかった。」

千夏の気持ちを知ってか知らずか、瑛太はただ自然にそう返し、ふたりは正宗たちのところへ戻るべく歩き出した。


その後千夏たちは、揉めていたはずの正宗たちと合流し、すっかり仲直りした様子のふたりに目を丸くした。横から飛んできた凛子がひそひそと話した内容によると、結局正宗は、美咲を失う可能性について考えて不安になってしまっただけだったようで、凛子や美咲に本音こそ言わなかったものの、美咲を連れだした凛子が場所を移して話を聞いているうちに、勝手に調子を取り戻したのだという。

当時のことを思い出し、千夏は眉間に皺を寄せた。あのときは瑛太や凛子と笑いあって終わってしまった話だが、数ヶ月たった今思い返すと、そんな微笑ましいものには思えなかったのだ。

千夏は、現在進行形で自分たちが所属し、生活を営んでいるこの組織について、ある大きな疑問を抱いていた。そのきっかけになったのが、この日の出来事だった。千夏の所属するこの組織において、こような出来事はそう珍しいことではない。上級生・下級生問わず、組織には、瑛太や正宗のように大きなトラウマを抱えていたり、精神的に不安定だったりする隊員が多く在籍している。それでこの組織がただの学校かなにかであったのなら、特に何の問題もない。広い目で見たら、思春期の子供なんて皆往々にして繊細かつ不安定な生き物なのかもしれない。しかし、ここは“少年自警団”だ。戦いに、失うことに、強烈なトラウマを抱えた少年少女たちが、それでもなおこの組織を盲信して、危険な仕事を続けている。各隊一室ずつ与えられた“家”で、一人ずつ割り当てられた室長の教務官は、“先生”と呼ばれながら、まるで親かなにかのように振る舞う。しかし、彼らが命令を下すとき、“子供役”であったはずの隊員たちは、場合によっては命の危険も顧みず、戦場同然の場所へ赴くのだ。これを異常と呼ばずして、なんと呼んだら良いのだろう。とにかく、今の千夏には、自分の“先生”や組織の大人たちを、親のように慕う気持ちは残っていなかった。徐々に募っていった不信感は、我慢の限界を迎えたのだ。

「千夏ちゃん」

後ろから声を掛けられ、千夏は思わずびくっと跳ね上がる。声の主は、個人的に稽古を付けてくれていた千夏の“先輩”、絵美佳だった。訓練室脇のベンチに腰掛けたまま物思いにふける千夏の横へ、心配そうに屈みこみ、絵美佳は眉を下げた。

「大丈夫?怖い顔してた。なんかわかんない?」

ゆったりとした絵美佳の言葉に、千夏は急いで笑顔をつくり、首を横にふる。絵美佳は引き下がることもせず、困った顔で千夏の隣に座った。話を終わらせる気はないと言わんばかりのその様子に、千夏はとうとう観念し、ゆっくりと目を合わせて口を開いた。

「少し、悩んでいることがあって……相談に乗ってくれませんか。」


訓練終わりの昼下がり、千夏と絵美佳は、混み合ったカフェの端の席で顔を突き合わせた。あの日から今まで、ぼんやりと考えていたことを、千夏は一つ一つ言葉にする。脳内を占拠する薄暗い疑問は、こうして口にしてみると、なんだかすごく細かいことのように思えてきてしまった。心の内の深刻さがちゃんと伝わっているのか不安になって、千夏は絵美佳の様子をうかがう。絵美佳はアイスティーの氷をストローでくるくると回し、なんでもないことのように口を開いた。

「そっかぁ。それで千夏ちゃんは、先生たちのこと信じられなくなっちゃったんだね?」

“信じられなくなっちゃった”という口ぶりは、まるで反抗期の妹をたしなめているかのようで、しかしあながち否定もできず、千夏は微妙な顔で口ごもった。

「はい……というか、何ていうか、なんでそこまでするんだろう、みたいな。」

千夏の曖昧な言いように、真意を伺うようにして絵美佳は顔を上げる。柔らかいベージュの瞳が、今だけはとても冷たい色を帯びているように見えて、千夏は軽く居住まいを正した。

「先生たちが?」

千夏の目を射抜いたまま、絵美佳は尋ねる。柔らかく自然な口調は、どこまでも鉄壁だった。

「それも、そうだし……みんなも。なんで、そこまでするんだろう。あたしがもし、瑛太や正宗みたいな感じだったら、辞めると思う。」

言い訳を探すようにもごもごと動いた千夏の口は、自分の意見をみつけて、はっきりと動きだす。

「わからな、くないですか?先生たちが何考えて、何のためにこう、こんな感じで……」

今度はしっかり絵美佳の目を見つめて、千夏は強く訴えかける。言葉はうまくまとまらずとも、その頭は自身の疑問の実体を正確にとらえはじめていた。

「家族ごっこみたいな?」

またしても当たり前の相槌かのようにして飛び出した絵美佳の言葉に、千夏は心のパズルがぱちっとはまるような感覚をおぼえる。“家族ごっこ”。千夏が感じていた違和感の正体は、正しくそれだった。苦しんでいたり不安定だったりする隊員たちが、組織を家族と思って献身するのも、先生たちが親のような顔をして、その実隊員たちを守ったり気にかけたりしてくれることがないことも、千夏にとってはとても気味が悪く、何より許しがたかった。

「……はい。」

怒りか、悲しみか、制御できない強い感情で震える声を絞りだし、千夏は強くうなずいた。そんな千夏の様子を観察するように見届けた後、絵美佳は自分のアイスティーへ目をやり、また意味もなくストローを遊ばせた。

「千夏ちゃんは……不満?」

極めて優しい調子で、絵美佳は千夏に尋ねる。そのふんわりとした言葉の一つ一つが、なにか明確な目的を持って品定めをするためのもののように感じて、千夏は少し緊張してしまう。

「不満……では、ないです。みんなのことも好きだし。でも、一度疑問に思っちゃったら、もう、元には戻れないと思います。」

「そう」

はっきりと口にされた千夏の言葉に、絵美佳は素っ気なくそれだけ返した。冷たい沈黙が流れ、周りの客たちの明るい話し声だけが、一つの音の塊のように二人をそこへ閉じ込めていた。

「千夏ちゃんはさ、上級生がどういう任務に関わってるのか知ってる?」

悪くなった空気を仕切り直すように、絵美佳は明るい口調で話しだす。まるで遊びに行く予定か何かの話をしているときのような声の弾みようだが、その導入が誘う話の行き先は、組織の規約に抵触する危険性の限りなく高い場所だった。

「え、いえ……」

固まった喉に無理やり空気を通し、千夏は答える。聞いてはいけない話を聞いている、してはいけない話をしてしまっているという強烈な現実に、膝の上で組んだ手が冷たい汗で満たされていくのを感じた。

「そういうの知ったら、千夏ちゃんがどうしていきたいのか、見えてくるかなぁ。」

怖気づく千夏を無視して、独り言のように呑気な口調で絵美佳は言う。眩しそうに窓の外を見上げるその瞳には、いくつもの光の粒が反射していた。


駅前のネットカフェの一室で、千夏は慣れないパソコンを操作する。今日は休日だったが、“先生”には補講と嘘を付き、家を出ていた。簡素な室内に似つかわしくない制服のスカートは、視界に入るたびに千夏の嘘を責め立てた。

あの喫茶店での出来事の数日後、千夏は絵美佳に呼び出され、小さなUSBメモリを渡された。

「使い方わかる?コンビニの横のネットカフェでみてね。一人で行ける?」

にこやかにそういった絵美佳に、千夏は何度も頷いた。おそらく意図的に強調された“一人で”という言葉に、きっとこれはなにか、とても危ないものなのだという予感がしていた。

震える手でデータをクリックすると、それはなにかの動画のようだった。自前の有線イヤホンを付けて、更に音量を絞る。深夜の住宅街を、一人の隊員が歩いていた。カメラの方へ振り返り、その顔が映る。千夏は彼を知っていた。動画の隊員__昌平しょうへいは、組織で最も優秀と言われることも多い上級生だ。年も絵美佳と同い年で、千夏から見るとひとつ上のため、本来接点はないのだが、美咲を訪ねてたまに家をおとずれる凛子の“先輩”であったため、少しではあるが話をしたことがあった。

こちらを振り向いた彼が、カメラに気づく様子はない。昌平が言葉を投げかけると、それに応じて真上のあたりから返事が聞こえる。絵美佳の声だ。雑音に混じったふたりの会話から推察するに、この映像は上級生、しかも特に優秀で歴の長い昌平と絵美佳に任された任務の様子を隠し撮りしたもののようだった。

それからしばらくふたりの他愛無い会話は続き、ある程度まで観進めたところで、千夏は画面のシークバーを任務開始のタイミングまで動かした。


ふたりが到着した現場は、寂れたアパートの一室だった。そこにはみすぼらしい身なりの中高年女性が一人と、5、6歳ほどの元気な男の子、子供用の椅子に座らされた生後何ヶ月かの赤ん坊がいた。固まったままふたりを見上げる女性を前に、絵美佳は事務的に免状を読み上げる。どうやら彼女は国家反逆罪等の疑いをかけられており、事情聴取に応じず逃亡したことでこのような事態になっているらしい。断定的なその対応は、彼女がどういった存在なのかを組織がすでに握っているということを示していた。素直に認めて投降しなければこの場で始末、投降したところで、命が助かるかはわからない状況だ。

「あのね、違いますから。あの、どこかのお宅と間違えてるんだと思いますよ。はい。」

女性は平然と取り繕う。しかし、その表情は追い詰められたように固いままだ。元気に走り回っていた男の子は女性によって後ろ手に促され、車のおもちゃを握りしめたまま風呂場のすりガラスの奥に隠れてしまった。絵美佳は指示されたのであろう確認事項を淡々と口にしていく。だが、その背後の昌平は先程から明らかに様子がおかしい。

このふたりで任務にあたるのなら、おそらく隊長的な役割を担うべきは昌平であるはずなのに、彼は一向に動かず、絵美佳の手助けをすることすら無かった。

「おい、なんでここにいんの。」

不自然に力の入った大きな声で、突然昌平が口にした。絵美佳は一歩後ろに下がり、隠しカメラの画角に、昌平と女性の両者をしっかりと収めた。尚も曖昧に口ごもる女性に、昌平は次々と追撃する。

「だからなんでここにいんのって聞いてんだよ。何。何があったの。何したの。なあ。」

「あのね、昌平くんね、」

まくしたてる昌平に、女性がとぼけた声で返事をする。昌平の名前を呼んだ。千夏の頭の中は、疑問と気味の悪さでいっぱいだった。

「あのー、昌平くんね、自警団入ったでしょう?それでね、お母さんー、」

パニックに陥る昌平に、尚も呑気な調子で言葉を返す女性は、“お母さん”と口にした。彼女が、昌平の母親だというのだろうか。

直後、弾ける音が耳に飛び込む。はぐらかすような対応を続ける女性に、昌平が発砲した。

銃だ。千夏は息を呑んだ。訓練でしか扱ったことのないそれが、生活感あふれる薄暗いアパートの居間で、昌平の手によって、美しく、構えられている。腕からまっすぐに続く銃口の先には、真っ赤な塊があった。正確には、真っ赤な塊が、女性によって掲げられていた。

「あーぶなかったあーぁぁ……あは、は。はぁ。」

へらへらと笑いながら、女性はその塊を膝の上に置く。疲れたようにため息をついた彼女の姿は、たった今自警団の構成員に発砲された人間のそれにはとても見えなくて、千夏は背筋が凍る心地だった。

突如、大きな叫び声が聞こえる。それを発したのは昌平だった。彼は力任せに頭を抱え込み、両手でめちゃくちゃに掻きむしった。爪が剥がれたのか、のぞく指が徐々に赤く染まっていく。人の声とは思えない軋むような絶叫は、尚もその空間を満たし続けていた。

呼吸が浅くなる。昌平の異様な行動により、千夏はあることに気づいてしまった。部屋中央のちゃぶ台を向くようにして女性の隣に置かれていた子ども椅子に、赤ん坊の姿がない。現実を直視しないようにかかる大きな力に抗うように、千夏はゆっくりと女性の手元に視線を動かす。そこにあった小さな赤い塊には、かろうじて、手足と呼べるものがついていた。千夏の耳に、鋭い笛のような高い音が聞こえる。それが自分の喉から出たものだと気づくのに、時間はかからなかった。

文字通り阿鼻叫喚のその様子を映し終え、千夏が状況を咀嚼しきったタイミングを見計らったかのように、絵美佳は動き出す。錯乱する昌平に駆け寄ることもなく、その足元に落とされた銃を決められた動きで回収し、組織本部に無線で状況を淡々と伝えだした。

単調に模範的なやりとりを進める絵美佳の声が、画面の大きな揺れとともに途切れる。動画が終わった。絵美佳が録画を切ったのだ。おそらく、援軍か何かを想定し、カメラの存在がばれないようにするためだろう。


千夏は浅くなった呼吸を整えるため、ゆっくりと息を吸い込む。なかなか広がらない喉は、それでも小さくかすれるような音を出し続けている。何分間そうしていただろう、錆びたように固まった体がようやく少しずつ動くようになってきた頃、千夏は再度この凄惨な映像について思考を巡らせはじめた。終始緊張感なくへらへらとしていたあの女性、彼女は一体何者なのか。彼女が昌平の母だったとして、どうして昌平は家族を始末する任務などというものに駆り出されたのだろう。組織はそれを知っていたのだろうか?そして何より、絵美佳はどうしてあそこまで冷静に、自分にデータを渡すときだって平然とした表情で対応できていたのだろうか。千夏の頭は、映像のショッキングさを覆い隠してしまうほどに大量の違和感でぐちゃぐちゃになっていた。

落ち着かない椅子に座り直し、映像を巻き戻す。少しでもこの不気味さを解消する手がかりがないかと、シークバーを一番最初、ふたりが道中雑談をしている場面まで動かした。


現場に向かい、ふたりが歩みを進めていく。若干リラックスした様子で歩く昌平を、絵美佳のカメラが斜め後ろから捉えていた。暗い夜道を歩くふたりの姿を、アパートや団地の明かりが時折弱く照らし出す。最初に映像を再生したときにも聞いた何気ない会話が、ぽつぽつとかわされる。のんびりとした時間の流れるその空間は、これからあのような過酷な現場に突入することとなる隊員たちのものとは思えなかった。そこからしばらく世間話は続き、数分経ったところで、絵美佳がさり気なく話題を変える。

「そういえば、昌平はなんで組織に入ったの?」

おそらく、千夏の捜査のために気を回して訊いてくれた質問だった。昌平は前を向いたまま、明るい表情で答える。

「俺の家族の病気を、治してくれるって言ったんだよな。恩人だよ、ほんと。ここの人たちには感謝しかない。」

照れくさそうに、それでも確かに嬉しそうにそう語る昌平は、この後その恩人たちの手によって、吐き気を催すほどに残酷な任務へ遣わされることを知らない。

穏やかな口調で相槌を打ち、促された絵美佳も自分の話をする。彼女は十年ほど前に起きた一家拉致事件の被害者で、組織によって一人救出されたことにより、そのまま入隊することとなった。“山本 絵美佳”という名前はそのとき改名したもので、事件当時幼かったこともあり、彼女が入隊した経緯を知る者は“後輩”である千夏を含めごく僅かだった。


頭のなかで要点を整理しつつ、千夏は以降の和やかな会話を聞き進めていく。そして、女性たちの居たアパート内の様子を思い出した。会話をまとめて推察するに、昌平の言う“病気の家族”は、風呂場に隠れていった5、6歳の男の子のことだろうと千夏は思った。女性と口論をしていたときの口ぶりから、彼女がその“家族”ではないのだろうとわかったし、彼の入隊時期的に、あの赤ん坊の存在を知っているはずがないと考えたからだ。しかし、病気の家族を医療につなげることが昌平の入隊条件だったなら、どうして彼が家族の居場所を知らないなんてことがあり得るのか。どうして彼の家族は、組織から追われる身になってしまっていたのか。そもそもあの元気そうな男の子は、本当に病気の治療中なのだろうか。

様々な疑問が湧いてきて、千夏は組織への不信感を一層強めた。昌平の問題についての対応だけが原因ではない。“家族の病気を治してもらう”という入隊理由を、千夏は過去にも耳にしたことがあった。一度でなく、何度もだ。

千夏のように、自ら志願して隊員になった者は少ない。そして絵美佳のように直接組織に助けられた人間も、それなりに居はするものの決して多くない。では、それ以外の隊員たちは、一体何がきっかけでこの組織に在籍しているのだろうか。何があって、組織を盲信するようになったのだろう。昌平が口にした、この“家族の病気を治す”という言葉の中に、自分の知りたい真実と、隊員たちの忠誠の理由が隠されているのではないかと、千夏は考えた。


帰り支度を終えて外に出た千夏は、瑛太のことを考えていた。昌平の弟であろう男の子のことを考えて真っ先に頭に浮かんだのが、瑛太の弟、悠人のことだったのだ。瑛太には辛いことかもしれないが、彼の弟についても、もっと詳しく訊いてみる必要があると、千夏は思った。

孤児である千夏に、家族と呼べる人は居ない。クラスメイトで隊員の茜も数少ない同じ境遇の人間で、絵美佳も事件の際に家族を失っている。しかし瑛太や、千夏と交流のある他の隊員はどうだろうか。美咲や正宗、凛子の家族の安否についても、一度しっかり調べてみる必要があった。


ネットカフェからわざわざ学校を経由して、千夏は七号棟の自宅へ向かう。他の隊員は部屋にいるだろうか。美咲は朝早くから学校の友達と遊びに出かけていたから、もしかしたらまだ帰っていないかもしれない。そんな事を考えながらゆっくりと帰路を辿っていると、家を出たときには晴れていたはずの空が、曇りを通り越し、どんどんと暗く淀んでいく。雨が降り出してしまうかもしれない。千夏は小走りで七号棟へ駆け込み、一階に止まっていたエレベーターでそのまま三階へ、305号室の扉に手をかけた。鍵が空いているということは、先生も家にいる。

「ただいま!」

嘘をついて行動した後ろめたさを悟られないように、千夏は努めて明るい声で言った。扉を閉めてローファーを脱ぎ捨てると、室長室ではなく奥のリビングの扉から、怖い顔をした先生が出てきた。

千夏たち七-305隊の先生は、他の隊のような、絵美佳の言う“家族ごっこ”でいうところの“お父さん役”然とした先生たちとは少し異なり、たまにテレビでやっている任侠映画に出てくるような強面の外見で、隊員たちにも比較的ではあるが無愛想な態度を取る人物だった。しかし、ここまで怖い顔をした先生を、千夏ははじめて見た。

「いますぐ何も持たずにここを離れろ。できるだけ遠くに行け。」

戸惑いがちにリビングへの廊下を進む千夏に、先生は淡々と告げる。

「わかりました」

事前説明なしの急な命令にも慣れていた千夏は、ほとんど反射で返した。玄関へ踵を返し、脱ぎ捨てられたローファーの横のスニーカーに足をかける。そこでふと思い出した。今日の千夏は秘密の捜査に気が急いていて、うっかり鍵を持たずに外出してしまっていたのだ。これがただの自宅の鍵なら大した問題ではないのだが、下級生とはいえ隊員である千夏のもつカードキーでは、組織が管理するエリアの一部に侵入できてしまう。それなのに鍵の所在を確認せず任務に行くのは、安全面から考えても大変危険だ。こうして一瞬でも“鍵のある場所がわからない”などという状況を作ることだって、本来であればご法度だった。千夏たち隊員は訓練生の時から、自分の命より組織を守るべきということを叩き込まれていた。

「先生、あたし家の鍵持ってない。」

廊下に佇む先生に振り向き、お叱り覚悟で千夏は告げる。鍵の所在を確認していないとはいえど、十中八九リビング奥の女子部屋の、自分のデスクの上に置いてあるだろうということを、千夏は確信していた。数秒でそれを取り、そのまま命令に従えばいい。鍵の確認は絶対事項だ。しかし、いつもの任務の常識とは異なり、先生は即座に怒鳴り返した。

「鍵は俺がどうにかするから、早く行け!」

今まで聞いたこともない、すごい剣幕の大声に、びりびりと耳が震えて体に緊張が走る。

「はい!」

千夏は驚きのままに大きく返事をし、踵を返した。


最速で靴を履き直しながら、千夏は考える。鍵の確認が必要ないなんてあり得ない。“俺がどうにかする”というのも、何をどこまで知っての発言だったのだろう。絵美佳に貰ったデータを鑑みるに、ここは“少年自警団”という名前にも、昔テレビでみた堂々たるイメージにも収まらない、とんでもない組織であるはずだ。この実態が外部に漏れてしまえば、誰に何をされたって文句を言えない。尋常でない先生の様子、“できるだけ遠くへ”という指示。千夏の耳には、“逃げろ”と言っているように聞こえた。

鍵がなければ、この305号室に入ることもできない。もしかしたら、自分はもう二度とここに帰ってくることができないのかもしれないと、千夏は思った。

靴を履き終えて顔をあげると、いつの間にか瑛太が玄関扉の前に立っていた。千夏と先生がやりとりをしている間に、奥の男子部屋から出てきたのだろう。今日はずっと部屋に居たのか、服装は部屋着のTシャツのまま裸足に靴を履いているが、背中には弟の形見と言っていた大きなギターを背負っている。この部屋の日常が終わってしまうことを痛いほど予感していた千夏は、彼がそれを持ってここを離れるのを許可されたことを、自分のことのように嬉しく感じた。


「行こう」

靴を履く千夏を待ってそう言った瑛太が扉を開ける。続いた千夏が玄関を出ると、外の空気は湿気と土っぽい匂いで満たされていた。ドアの軋む音が止み、激しい雨音が聞こえる。千夏が帰ってきたときにはまだ崩れかけでしか無かったはずの天候は、この短い間に完全に大雨になっていた。

「降ってるなぁ」

通路の柵から灰色の空を眺め、瑛太が呟いた。傘を取ろうと振り返った彼に倣って、千夏は閉まりかけていた玄関扉を再度押し開ける。そのまま数歩後退り、玄関脇の傘立てから、ふたりで傘を適当に引っこ抜いた。その際、半身だけ室内へ入った千夏の耳は、リビングの奥からかすかに聞こえる話し声をとらえた。先生が、誰かと電話で話をしている。

右耳を突き刺す雨音を頭から追い出すように、千夏はその声に耳を澄ませた。

「ここはもうダメだ。あいつらだけでも逃がそうと思って……ああ。本部には言ってない。」

先生は、至って普段と変わらない口調で、たしかにそう言っていた。彼は隊員を、“何か”が起こってしまったこの組織から逃がそうとしている。千夏の直感は正しかった。そして今の会話を聞くに、これは先生個人の独断ということだろう。

千夏は今日までの自分のことを、とても恥ずかしく思った。組織に疑問を持って、勝手に詮索したからではない。先生のことを、疑ってしまったからだ。千夏がずっと抱えていた違和感は、おそらく正しかったのだろう。絵美佳がみせてくれたあの任務以外にも、きっと組織はいくらだって公にできないことをやっている。それでも、たとえこの組織がどんな場所だったとしても、ずっと千夏の一番近くに居てくれた大人は、千夏たちのことを本当に大切に思い、最後は守ってくれたのだ。

「千夏」

立ち尽くす千夏に、瑛太が声をかける。先生の声が彼にも届いていたのか、その表情から窺い知ることは叶わなかった。歩きだした瑛太の後を追い、千夏も急いでエレベーターの方へ歩みを進める。一歩ずつ、305号室から、先生から離れていくたびに、体の内側が冷えていくような心地がした。時を追って激しくなる雨音が、千夏の心の中に侵食していくようだった。


誤魔化すように顔を上げた千夏の目に、美咲の姿が飛び込む。道の先に佇んだ彼女は、瑛太が軽く手を上げたのを見て、こちらに歩み寄ってきた。珍しくお出かけ用の私服に身を包み、ピンク色の長靴を履いている。その手には濡れた小さなビニール傘が握られていて、彼女が先程まで外に居たのであろうということがわかった。出先で購入したと思われる見慣れないそれは、取っ手と縁が明るいピンク色になっている。長靴や、いつもかけている眼鏡とお揃い。美咲はピンクが好きだった。

「ふたりとも、先生から話聞いてる?」

それだけ言って、美咲はエレベーターへ向かって歩き出す。今まで律儀に二人を待っていたはずの彼女は、まだ合流できていない正宗のことを待とうとは言い出さなかった。彼女に続いて歩く瑛太も、正宗については一切言及しない。こんな状況だ。きっと彼はもう助からないのだと、千夏も察するしかなかった。

「うん、大まかにはね。とりあえず降りよう。」

あの日の口論があってから、美咲と正宗は特別仲が良くなった。本人たちや凛子にわざわざ聞く機会もなく、具体的に何があったのかまでは分からなかったが、小さな喧嘩は変わらずよくするものの、大きな衝突はめっきり減ったと思う。正宗のことで一番不安なのは、関係の深かった美咲のはずだ。なるべく平静を装って、千夏は言った。


エレベーターが近づくと、雨音をかき消すほどの絶叫が、千夏の耳をつんざく。ネットカフェでみた映像の昌平の姿を思い出して、千夏の背筋は凍りついた。しかし、自身の意に反して足は動き続け、とうとうその光景が目に入る。同じフロアで生活していた大勢の隊員たちが、エレベーター前のスペースにぎゅうぎゅう詰めになっていた。泣き叫ぶもの、喧嘩をするもの、死にたくないと繰り返すもの、誰かに電話をしようと試みるもの。沢山の隊員たちが、それぞれに大声を上げていた。耳をすませば外からも、雨音に混じって金切り声が聞こえてくる。上下階でも同じような光景が繰り広げられていると、容易に想像がついた。おそらく彼らの室長は、千夏たちの先生のように彼らを守ってはくれなかったのだろう。正宗がそうかもしれないように、もうすでにこれから起こる何らかに巻き込まれている隊員も居るのかもしれない。

絶句する千夏の横をすり抜けて、瑛太が冷静にエレベーターのボタンを押す。程なくしてエレベーターが到着し、ポーンと音を立てて扉が開いた。この地獄から抜け出す道ができたというのに、悲痛な叫び声を上げる隊員たちは、エレベーターなど見えていないかのように誰も反応しない。千夏にはその理由がわかっていた。命令が下されていないからだ。隊員は、自分の先生や組織本部の大人たちの命令に逆らってはいけない。それが命に関わる場面であっても、その掟は変わらなかった。千夏にも、彼らにも、大きな作戦のために命をつかう覚悟はある。しかし、こうしてそれを目の前にしてみると、千夏はそれに異様さを感じずにはいられなかった。

彼らだって隊員だ。きっとそれが“必要な犠牲”なら、ここまで取り乱すことはない。けれど、これが“そうでない”のならどうだろう。ところどころ聞き取れる悲鳴の中に、裏切りや理不尽を口にするものがあった。千夏たちの先生は決して語らなかった何かを、おそらく彼らは知らされていた。

千夏はそこまで考えて、自分の呼吸がひどく浅くなっているのを感じた。酸欠のせいか、はたまた強い不安感のせいか、自分の足元がぐるぐると回転しているような感覚に襲われる。視界と聴覚が曇り、世界の現実感が急速に失われていく。エレベーターに乗り込む瑛太と美咲の後ろ姿を見て、千夏はようやくのろのろと歩き出した。


千夏がエレベーターに乗り込むと、口々に泣き叫び続ける隊員たちに目もくれず、瑛太がボタンを押して扉を閉める。斜め後ろに立った千夏からは、その表情を伺うことができなかった。千夏の背後に立つ美咲もそれは同じで、彼女もまた、前方のふたりの立ち尽くす後ろ姿を、ただ見つめていた。

エレベーターの扉は閉まりきり、周囲は一気に静かになる。僅かに聞こえる叫び声も、雨音も、エレベーターのたてる機械音にかき消されてしまった。動き出したエレベーターの中に、重苦しい沈黙が流れる。

「下、ついたら待とう。」

二人に振り向くこともなく、扉を見つめたままの瑛太が口を開く。今、待つべき相手は一人しかいない。千夏は思わず、はっと息を吸い込んだ。

「え?」

千夏が聞き返す。実は正宗は無事で、自分だけがそれを知らなかったのではないかと思ったためだ。自らの杞憂に頬が緩み、その声色に喜びを隠せていなかった。

「悠人が降りてきてない。」

当たり前のことのように口にされた瑛太の言葉に、千夏は絶望した。落ち着いているように見えたから気づけなかっただけで、今の瑛太は正気じゃない。また前の瑛太に戻ってしまったのだ。いや、以前の瑛太は悠人の死を認識できていたから、今の方がよほど酷いのかもしれない。千夏はまたも自分のことで手一杯になり、仲間の異変に気づくことができなかった。そして何より、この状況で瑛太の心配よりも、自分自身の絶望感が脳内を支配しているという現状が、情けなくてたまらなかった。

「うん。」

震える声でそれだけ返して、千夏はうつむき、黙り込む。絵美佳に貰った映像をみたときも、エレベーター前の光景を目にしたときも、不安と恐怖に打ち震え、それでもなんとか保ってきていた千夏の精神は、もう限界だった。今まで必死に前を向こうと考えないようにしていたことが、蓋をしたはずの心の奥底から次々と溢れ出てくる。

偶々、先生に一言“逃げろ”と言われただけの自分たちが、他の隊員たちを押しのけて生き延びてしまって良いのだろうか。泣き叫ぶ彼らと自分たち三人をエレベーターの扉が切り離した時、あそこにいなくてよかったと、自分たちがこちら側でよかったと、確かに安心してしまったのではないか。家族ごっこに絆されて組織を盲信する隊員たちを異様だと言いながら、一番その日常を失う覚悟ができていないのは、自分だったのではないか。今までだって怪しむべき要素はいくらでもあったのに、そこから目を逸らして家族ごっこに縋っていたのは、紛れもない自分自身ではないか。捜査だなんだと騒いでみたところで、その実態は絵美佳に呆れられて当然の、ただの子供の反抗期だったのではないか。先生や大人たちに逆らい自分の意見を主張してみたくなっただけで、何も出てきてほしくない、何も知ってしまいたくないと、心の奥底では思っていたのではないか。ただ呆然と息をする千夏の頭は、暗く蠢く思考でじわじわと締め付けられていった。

「これ乗ってるの、全員メガネだねえ。」

正気を失い黙り込む二人に、美咲は呑気な口調をつくって言う。壊れてしまったこの場所へ、無理やり日常を取り戻すように再開された苦し紛れの家族ごっこは、千夏の耳には届かなかった。

尚も呆然と地面を見つめ続ける千夏を見遣ってから、美咲は縋るように瑛太の方へ目をやった。しばらくそうしていると、ようやく気づいた瑛太がゆっくりと美咲の方へ振り返る。少し驚いてから、それを覆い隠すように美咲は笑顔をつくった。なんでもない、いつも通りというように首を傾げた彼女の表情は、瑛太の目には、今にも泣き出しそうなものに写った。


どれくらいそうしていただろう。一階に到着したエレベーターが、音を立ててその扉を開く。美咲の痛々しい表情に縫い付けられていた視線を、一瞬、うつむき続ける千夏の方に移し、瑛太はエレベーターの外へ飛び出した。エントランスのガラス戸を突き飛ばすように開け放ち、乱暴にビニール傘を広げてグラウンドに走り出る。急いで掴んできたビニール傘は小さくてヨレヨレの古いもので、雨の中を走り抜ける瑛太に掴まれたそれは、ただ頼りなく揺さぶられている。

続いて外に出てボタンを押した美咲によって開きっぱなしにされたエレベーターのなかで立ち尽くしたまま、千夏は呆然とその様子を眺めていた。ガラス張りになったエントランスを通して、裏口を目指す瑛太がグラウンドから裏庭をまわって走る姿が目に入る。瑛太に背負われた“悠人のギター”は、彼がその足を地面に叩きつける度に大きく傾いて、ついにはその小さな傘からネックの部分が完全にはみ出した格好になってしまった。風が強くなったのか、前から降り注ぐ雨のせいで半ば目を閉じて走っている瑛太は、それに全く気づいていない。教えなきゃ。と、千夏は思った。こういう時、隊員の行動に対して口うるさくおせっかいを焼くのは、決まって千夏の仕事だった。扉の脇から心配そうに様子を窺う美咲の横をすり抜けて、偶然持ってこれた丈夫で大きいビニール傘を手に、千夏は走り出した。


「待って!ギター濡れちゃうでしょ!」

瑛太に追いついた千夏が、彼のギターに傘をさす。乱れた息を整えて呆れ顔でため息をつく彼女は、もうすっかり瑛太たちの知る元の千夏だった。千夏の様子に安堵して、瑛太もいつものように穏やかに笑う。

「…ていうか、いいの?待ってなくて。」

思い出したように、気まずそうな千夏が言った。エレベーターの中で瑛太が言っていたことに対しての言葉だった。“悠人を待つ”と言った瑛太のことを気にかける余裕が、千夏にも戻ってきていた。

「遅いから置いてく。」

瑛太は笑って言葉を返した。吹っ切れたような清々しさの中に、少しだけ諦めのような寂しい香りを感じて、千夏はそれ以上何も言えなくなってしまった。

「良いでしょ?ちーちゃん。みんな無事なんだから。」

後ろから追いついた美咲が、柔らかく千夏へ笑いかける。ピンクの縁の傘をくるくると回して、二人の横に並び立った。やはり、彼女の言う“みんな”に、正宗は含まれていなかった。どこか宥めるように口にされたその言葉は、千夏にではなく、彼女自身に言い聞かせているように聞こえた。

「うん。」

千夏は、今の自分にできる精一杯の笑顔を浮かべてうなずいた。聞こうと思っていた家族のことも聞かなかったし、言おうと思っていた動画のことも言わなかった。今後それについて口にすることもしないと、この瞬間、千夏は密かに誓いを立てた。真実から目を背けるその行為がたとえ間違っていたとしても、無理矢理にでも前を向こうとする二人を、千夏は邪魔できなかった。

千夏の笑顔に、瑛太と美咲は嬉しそうに顔を見合わせ、すぐ目の前の裏門へ走り出す。

「ちょっと、二人とも!ちゃんとどこ行くか決まってんの!?」

咎めるようにそう叫び、千夏も後を追って走り出す。ただの空元気だったが、その口調は不思議なほど明るかった。

「決まってない!」

美咲と瑛太が、笑いながら叫び返す。雨の降る七号棟に、三人の笑い合う声が響いていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雨の降る七号棟 ナツメダ ユキ @aduki_an

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る