生徒たち

土屋つちやあかねは上級生だ。年齢は私と同じ15歳だし、高校でも隣のクラスだけど、学校が終わって組織に帰ったら、私は彼女をそう呼ぶことになっていた。


終業のチャイムが鳴って、三年生の教室へ移動する。殆どの生徒はこれから委員会の集まりがあるから、帰りの会はなあなあになった。

目的地が同じ生徒たちとなんとなく連れ立って教室の戸を引くと、そこに彼女の姿はあった。窓際、一番前の席に、ただ一人背筋を伸ばして座っていた。

「びっくりした」

私の後ろをついてきていた女子の一人が、小さくそう口にする。廊下から閉めきられた戸を見て一番乗りだと思いこんでいた私たちは、茜の静かな後ろ姿にそっとおしゃべりのトーンを落とした。

開け放した戸のすぐ横、廊下側の後ろのあたりに、私たちはまとまって座った。スクールバッグを机の横にかけて腰を落ち着けると、私のすぐ後ろに座った友だちが、中途半端に伸びかけた私の髪の毛でくるくると遊びだした。

廊下の前方から話し声が近づいてきて、違う学年の生徒たちも教室に揃いだす。私たちの周りの席はどんどん先輩たちで埋まっていき、反対隅で依然静かに座っている茜だけが、どこか現実と切り離された存在のように見えた。


「はい、皆さんおまたせしましたー。これから体育祭実行委員会の顔合わせね、はじめていきたいと思います。」

何かの行事の後なのか、似合わないジャージを着た年配の女の先生が、教卓越しににこやかな挨拶をする。その間延びしたよく通る声は、私の耳をすり抜けていった。

いつの間にか前からまわってきたプリントに目を通すふりをしながら、教室内の様子を観察する。体育祭実行委員には、“組織の子”が多い。後ろの方で寝てる人も、斜め前の先輩たちも、合同訓練か何かのときに見たことがある気がした。一緒の任務に行ったなら流石に覚えているはずだから、多分そうだ。

理由は単純で、一年通して仕事がある他の委員会に比べ、このようなイベントを主催する委員会は、仕事のある時期が短いからだ。繁忙期にも、先生にある程度事情を話せば融通を利かせてもらえるし、特に体育祭は、ほとんどが体育委員会や保健委員会、放送委員会が主導で動いているから、私たちのような“事情のある生徒”には、実質ほとんどやるべきことは無かった。要するにこの委員会には、“委員会には出られないけど、建前上どこかに籍をおいておかないといけない生徒”のポストが少なからず存在したのだ。

組織で見たことがある人たちの顔を順番に見渡して、最後に恐る恐る茜の方を見遣る。彼女は未だに背筋をぴしっと伸ばして、配られたプリントを読み込んでいる。思わず感嘆のため息が漏れた。

彼女は私たちの組織の中でも特に優秀な“上級生”で、下級生の私とは、生活している棟も、普段こなす仕事も、組織について知っていることも全く違う。伝え聞く成績とそのストイックな姿勢から、上級生の中でも特に下級生人気の高い茜は、組織の子も気が抜けがちな学校でも、全く変わらずイメージ通りの出で立ちだった。しかし、その性質が学校での彼女を生き辛くさせているのではないかと、私は少しだけ心配だった。


私には、私が訓練生の時から側について教えてくれていた先輩がいる。彼女はその後上級生になり、私もなんとか昇格できたため、正真正銘の“先輩と後輩”になることができた。

高校でただ二年生や三年生を“先輩”と呼ぶのとは重みが違う。訓練生のときに教えてくれていた下級生と、持ち上がりで“上級生と下級生”の関係になることが重要なのだ。

訓練生のまま昇格できない子もいるし、下級生から上級生になれない人はもっといる。自分が昇格した後、教えてくれていた下級生をずっと“先輩”と呼ぶ人もまあまあいるけど、憧れの上級生を“先輩”と呼ぶことは、それとは別段に誇らしいことだった。

学校の友だちに絵美佳えみか先輩のことを話したときにこの話をしたら、師弟関係みたいなこと?と聞かれたけれど、それよりもっと親しくてありがたい関係なのだと私は思っている。

その絵美佳先輩は、こことは別の難しい高校の三年生で、茜とは同じ隊に所属し同室で暮らしている。下級生間でよく話題になる茜の話を絵美佳先輩から直接聞けるというのも、私のちょっとした自慢だった。


千夏ちなつちゃん、来年高校でしょ?茜と同じところだよね。」

去年の冬、絵美佳先輩と外で二人で会ったとき、珍しくどこか不自然に彼女が切り出した。

「はい、多分そうなると思います。」

“多分”というのは、まだ受験が終わっていなかったためだ。とはいえ、茜が落ちるのも私が落ちるのも、ありえないことだとは思っていた。

言葉の端に自信が乗ってしまっていたのか、先輩は安心したように微笑みを浮かべて視線を外した。

「なんか、心配なんだよねぇ。」

私は耳を疑った。心配?茜が、だろうか。話の流れ的にはそうだろう。しかし、完璧の代名詞のような彼女のことを心配する人がいるなんて、それが彼女と同室で年上の絵美佳先輩だったとしても信じられなかった。

もちろん、彼女だってしっかりしてはいるものの15歳の子供なのだから、先輩や大人たちから見れば心配な部分もあるのかもしれないが、だからといってこうして名指しで特別心配されるというのは不自然というか、それならもっと先に心配してあげるべき子が居るんじゃないの?と思ってしまうところがあった。

「あの子、しっかりしてるからさぁ。」

目を丸くする私に気づいてか気づかずか、先輩は物憂げに付け加える。そうですね。と、頭の中で返事をした。先輩の口にする言葉の意図を全く汲めていない自信があったので、口に出すのはやめておいた。

“しっかりしてる”という先輩の口調からは、どこか否定的な雰囲気がした。私も友だちの親など周囲の大人から、よく“しっかりしてる”と言われるが、それに否定的なニュアンスを感じたことは一切ない。もちろん、過度に“しっかりした子”として扱われるのに煩わしさを覚えたことがないわけではないが、それでも殆どの場合、私はその言葉を褒め言葉として受け取って生きてきた。茜に対しても、勿論いい意味で“しっかりしてる”と思う。

「まあ、千夏ちゃんがいてくれるなら、大丈夫だと思うけどね。」

何もわかっていないのを隠すこともできず、ぼんやりと曖昧な返答を続ける私に、先輩はやけに明るい口調でそう告げた。信頼していると言われたようで嬉しかったので、私は先輩の言葉に含まれた“この話はもうおしまいです”の号令に同調した。


そして今、私はあのときの先輩の“しっかりしてる”の意味を、ようやく正しく理解できたような気がしている。

いつでもきりっとすまして少しの隙もない彼女は、組織の下級生が遠くから眺めているなら素敵に見えるにしても、同じクラスにいて友だちになろうと思えるタイプではない。実際、入学から今までの一ヶ月と少し、朝礼や教室移動で彼女を見かけたときは、きまって一人だった。

もちろん、彼女は好きでそうしているのかもしれないし、今日だって私の周りの子たちに警戒されても、少しも動じる素振りを見せなかった。

でも、そうじゃなかったとしたら?もし、いつも一人でいることも、同学年の生徒たちに遠巻きに様子をうかがわれているのも、彼女が望んでのことじゃなかったとしたら、どうだろうか。私の脳裏に、あの日の先輩の不安を煮詰めた笑顔が浮かぶ。

わからないなら、決めつけないで一度真正面から関わってみるべきだろう。先輩に頼られたからだけじゃない。私自身が、勝手に偶像化してきた彼女の奥の本当の気持ちを欲していた。


「茜ちゃん。だよね。」

委員会がお開きになった直後、後ろの席から飛んでくる誘いを断って、プリントを丁寧にファイルにしまう後ろ姿に声をかける。“同級生”らしく。と、フランクに発した台詞は全然しっくり来なくて、知らないわけがないくせに、だよね。なんて嘘くさい確認をくっつけてしまう。

「はい。なんですか。」

彼女が体ごとぐるりと振り向いて、切りそろえられた前髪から真っ黒な瞳が現れ、私を射抜く。驚いた。教室の出口に屯した男子たちが一瞬こちらを振り返るほどよく通る声は、実際に彼女がそうしているのを見たことがあるわけじゃないけど、組織で任務をこなしているときのような真剣さと凛々しさを帯びているような気がして、夕方の和やかな教室には、たとえそれが先生相手に発したものだったと仮定しても、全くふさわしく聞こえなかった。

「実行委員だったんだ、って思って。」

さっきまで話していた友人たちに接するのと変わらない、いや、それよりももうちょっと近い距離感で会話を続行する私は、もう半ばやけになっていた。さり気なく彼女の机の端に自分の鞄を置いてみると、彼女の視線はすかさずそれを追う。見咎めているわけではないのだろうが、こちらの思惑を見破られているようでいてもたってもいられず、眼鏡を何度も押し上げたり、髪を耳の後ろになでつけたりして緊張をごまかした。

「あ、えっと、あたし下級生の__」

「七-305隊の朝谷あさや千夏さんですね。公共の場で組織の話はなるべく控えてください。それとも、火急の伝言ですか?」

慌てて名乗りかけた私に、茜は矢継ぎ早に言葉を投げる。あまりに感触の悪い返答だが、ここで怯むわけにはいかないので、ひとまずは名前を知ってくれていたことを喜んでおくことにした。しかし、そんなことを大げさに喜んでみせたところで、彼女にとっては的外れでしかないだろう。ここは勝負に出るしかない。

「ううん、違うの。そう。組織の話は、良くないよね。学校だし。」

頭の中を整理して、呼吸と脈拍を整える。意味もなく踵を上げて、下ろして、へんてこなリズムを取って話し続けた。

「学校だからさ、ただの“同級生”として、茜に話があるんだけど……」

緊張で死にそうな私とやけになりきった私が、頭の中で激しい綱引きをしている。心底不思議でなんなら若干怪訝といった様子の茜の表情が、脳内の混乱を更に加速させ、用意していたスムーズなやり取りは、全て吹き飛び真っ白になる。

「……カラオケ行かない?」


何がしたかったんだろう、私は。メロンソーダを片手に入室する茜が扉を開閉するのに合わせて、大きくなったり小さくなったりする隣の大学生たちの歌声を聴きながら、私は烏龍茶のはいったコップを握りしめ、そんなことを思った。

「えっと、だいじょぶだった?」

茜が、烏龍茶を注ぎ終えた私に「先に入っててください」と言ったきり、ドリンクバーの前で硬直していたのを思い出し、とりあえずで声をかける。目の前に置かれたメロンソーダは全く彼女に似合っておらず、それがまたこの珍妙なシチュエーションの気まずさを際立てていた。

「はい。慣れない構造だったので。」

彼女がまっすぐにこちらを見ながら返答する。カラオケ以外の場所、ファミレスなんかにもドリンクバーはつきものだが、彼女ははじめて目にした様子だ。スクールバッグからポケットティッシュを取り出し、コップのふちをつたうメロンソーダを丁寧に拭いていた。

「……よく来るんですか?こういうところ。」

カラオケに来たことがないのかと訊こうと思った矢先、彼女が平坦に口にする。そうでないとはわかりつつも、“隊員なのに”と責められているようで、なんとなく萎縮してしまう。

「まあ、たまに?……友達とかと。」

“誘いで仕方なく”という風を装って答える私を気にもとめず、彼女はきょろきょろと派手な室内を見渡した。

「ていうか、今日任務とかなかったの?……あっ。」

新しい話題を探してなんとなく口にするも、教室で組織の話しをして注意されたことを思い出し、すぐに引っ込める。黙り込んだ私に追撃することも話を流すこともせず、彼女は一言「非番です」と答えた。気まずい流れから一転、安心する私を見て彼女は少しだけ表情を緩める。

「別に大丈夫ですよ。ここは個室ですから、一般市民を緊張させることもありませんし、別に聞かれて困るほどの内容でもないでしょう。……それより、今日は“同級生”として呼ばれたのでは?」

そうだった。私は茜の気持ちを知るため、“同級生として”ここに連れてきたのだ。しかし、ここから会話を前に進めるための方法が一向に思いつかない。観念した私は、とにかく今考えていることをすべて話すことにした。

「ごめんね、その……変な呼び出し方して。あたし、組織で茜の話とかよく聞いててさ、でも、学校での茜のこと、よく知らなくて……折角その、同じような境遇だし、学校に限っては立場も同じだし……仲良くなりたいんだけど、茜はどう思う?」

勢い任せに散らばった言葉を投げつけて、それを咀嚼する茜の表情を見つめる。“同じ境遇”。それが、私が彼女に興味を持つ理由のなかで、最も大きなものだった。同じ学校で、同じ歳で、同じ志願入隊で、同じ孤児で。私たちを隔てるものは、組織における階級だけだった。だからこそ、それを飛び越えることのできる“同級生”としての時間に、すべてを託してみたかったのだ。

「……いいと、おもう。」

しばらくの沈黙の後、必死な私がおかしかったのか、茜は眉を下げてはにかんだ。彼女の年相応な姿になんだか嬉しくなって、気づけば私も笑っていた。

「なにこれ、この時間。」

友達同士の時間で塗り替えるように、今までの微妙な空気をふたりして笑い飛ばす。私はラックからマイクとデンモクを取ってきて、照明の強さを少し弱めた。続けてつけたカラフルなライトが、ぐるぐるとまわって室内を彩りはじめた。


朝の通学路をのんびり歩く道すがら、昨日のことを思い出す。あの薄暗くうるさい部屋の中、私と茜は色々な話をした。学校の話、友だちの話、自分自身の話。しても構わないという流れだったはずの組織の話は、お互い自然と避けていた。この時間だけでも、同級生として、普通の高校生のように過ごすことを、きっと茜も楽しんでくれていたのだろうと思う。いつでもぴしっと伸ばした背中を丸めておかしそうに笑う茜の姿を見るたび、まるで絵画やテレビなんかの中にいるものかのように感じていた彼女の存在は、暖かな実感を伴って、一人の少女の形になっていった。

正門からグラウンドの脇を抜けて、昇降口に向かう。二杯目のドリンクを取りに行った茜が、変わった香りの炭酸飲料を片手に「美味しくない」と驚いていた顔を思い出す。友だちと駄弁りながら靴箱へ向かう隣のクラスの生徒たちの声に、うっかり上がってしまっていた口角を、きゅっと引き結んだ。

そういえば、茜はもう学校についているだろうか。頑張り屋な彼女のことだから、もうとっくに着席し、一時間目の準備も終えているかもしれない。始業までの僅かな間、もし私が彼女を訪ねて教室を訪れたら、茜はどんな顔をするだろう。そんな事を考えながら、自分のものの真後ろにある茜のクラスの靴箱を、端から順にぐるりと見渡していく。角が黒ずみ剥がれかかった名前テープの文字をたどり、彼女が書いた“土屋”の字を探す。ようやく目が止まったそこには、まだ彼女のローファーはしまわれていなかった。彼女のちょうど隣の靴箱に、女子生徒の白い手が伸びる。彼女は左手でイヤホンを外しながら、掴んだ上履きを慣れた手付きで地面へ落とし、それにつま先をつっかけた。そこで私は、やっと異変に気がついた。茜の靴箱に、彼女の靴は入っていない。しかし、それならばその上にあるはずの上履きも、そこには存在しなかった。彼女の丁寧な字がテープで貼られたその場所は、端から誰も使っていなかったかのように、もぬけの殻になっていた。

勿論、上履きを洗うために持って帰った次の朝なら、そういった状態になることだって考えられる。しかし、茜がそうしなかったということは、昨日の放課後を一緒に過ごした私が一番よく知っていた。この小さな謎に妥当な理由を見つけることができず。なぜだかだんだん背筋がひんやり寒くなってくる。昨日の突発的な思いつきが、私のとった行動が、毎日規則正しく遂行されていたはずの彼女の日常を、壊してしまったのではないか。そんな考えが一度頭をよぎってしまえば、心臓にのしかかった不安感はとめどなく質量を増す。気づけば私は、いつの間にか鳴りだした予鈴を背に、校舎の外へ飛び出していた。


校門前の信号を、小走りで渡る。とにかく今は茜と直接会って話をしたいが、昨日仲良くなったばかりの茜が行く場所なんて、皆目検討もつかない。しかし、宛もなくでたらめに走り回ったところで、収穫なんて期待できないということもわかっていた。幸い、彼女の住む“二号棟”には、絵美佳先輩に会うために何度か行ったことがある。上履きが無くなっていたということは、一度は学校に来ているはずだ。私は、学校から二号棟までの道のりに狙いを定め、彼女が立ち寄りそうな場所がないかとくまなく見渡しながら歩みを進めた。

朝の日差しの中、見慣れない町並みに始業のチャイムが鳴り響く。何度か道を曲がったせいでもう学校は見えなくなっているが、この音は案外大きく聞こえるものだ。私を責めるようにこだまするそれに、今更ながら、何処に居るかもわからない友だちを追って学校をサボってしまった事実を突きつけられる。

そもそも、焦って飛び出してしまったはいいが、茜が外にいる確証なんてないのだ。冷静に考えてみたら、登校後なにかの都合で靴を靴箱の外に移動させただけだったなんて可能性もある。それに、もし外でサボっている茜を見つけられたとして、私は彼女と何を話したいのだろう。私のせいじゃないよね?と聞きたいのだろうか。それとも、サボりは駄目だと言って聞かせる?私だってサボっているのに?


考えなしに行動したり、余計な気を回して的はずれなおせっかいを焼いてしまうのは、私の昔からの悪い癖だ。正直、組織に入隊したことだって、今となってはこの悪癖の延長だったのではないかと思ってしまうこともある。その入隊理由というのも、そこそこ大規模なテロや災害なんかがわりと立て続けに起こっていた時期、政府の指示でサポートにあたった組織の少年少女たちが、四六時中ニュースで称賛されていたからだった。その時暮らしていた児童養護施設の先生たちに高校進学を進められ、就職して出ていける程のやる気も目標もないという理由で漠然と受験勉強に励んでいた当時の私は、共用スペースについたテレビで彼らの姿を目に止めた瞬間、曖昧だった将来設計をそれにすべて託してしまったのだ。困っている人の助けになりたい。誰かの役に立ちたい。そんな漠然とした願望を、私はかなり幼い頃からずっと捨てられずにいた。

しかし、現実はそう甘くない。スポーツの経験もなく、運動能力もごく平均的な私は、テレビカメラに追い回されていた立派な隊員のようにはなれなくて、訓練生を卒業したときの成績だってあまり芳しくはなかった。私より成績の良かったグループの中にも、“向いていない”と辞めてしまった子は結構いる。


密かに目標だったあの子は、今頃どうしているだろう。やっぱり地元に帰り、近所の高校に進学したのだろうか。薄暗い気持ちで思い出に浸りかけていると、木漏れ日の差し込む小さな公園に、ブレザーの後ろ姿を見つけた。ベンチに座る背中に、なるべく静かな小走りで近づく。距離が縮まるたび、その疑念は確証に変わった。茜だ。茜がスクールバッグを握りしめ、何かを覗き込んでいる。公園に足を踏み入れた私は、そっと彼女に歩み寄り、声をかけた。

「茜……大丈夫?どうしたの?」

日差しで暖かくなったブレザーの肩に手を置き、彼女のうつむいた顔を覗く。足元の何かを見つめているように見えた彼女の瞳からは、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちていた。私は思わず息をのむ。彼女の涙に気づかなかったことも、たった今気づいたということを彼女に気づかれてしまうかもしれないことも、全てが後ろめたかった。

「千夏」

茜はうつむいたまま、独り言のように小さく口のなかで私の名前を呼ぶ。その声はあまりに虚ろで頼りなく、いつもの凛とした通る声とも、カラオケでころころ笑っていたときのような柔らかい声とも、全く異なっていた。その声色が私に与えた衝撃は、昨日一日で知った気になっていただけでこれこそが本来の茜なのではないかとすら思えてしまうほどだった。

「……どうしたの、学校は?」

細い手首で涙を拭い、茜は顔を上げて私の方を振り向く。泣きすぎて赤くなった顔には、今はもう爽やかなつくり笑顔が乗っている。私はそれにほほえみ返してしまいたくなくて、小石の転がる土の上で居心地悪そうにしている自身のつま先へ視線を逃した。

「学校、は、抜けてきた。茜の下駄箱見たら、上履きなくて。なんか気になっちゃって。」

今朝の突発的な行動をどう説明したものかと、頭をフル回転させて言葉を選ぶ。しかし、どんなに考えたって、あの衝動に論理的な理由付けはできなかった。

「それだけ?」

私の曖昧な言葉をきいて、茜は柔らかく笑う。昨日の楽しいひとときを思い起こさせるそれに、今は少しだけ疲れや諦めのようなものを感じて、私はたまらなく寂しくなった。きっと、気を使わせてしまっている。

「……朝、登校して……千夏と遊んだときのこと、思い出したの。」

ベンチの少し奥に腰をずらして、茜はぽつぽつと話しはじめる。取り残されたスカートのプリーツを太ももに撫でつける彼女の動きに倣って、開けてもらった一人分の席に、いつもよりゆっくりと腰を下ろす。

「今日も会えるのかなって思って……怖くなった。」

軽く投げ出した茜のローファーのつま先同士がぶつかって、ゆったりと一定のリズムを刻む。のんびりとしたその動きに反し、彼女の両手は、指先が白くなるくらいきつくスクールバッグを抱きしめていた。

「怖、かったの?」

ちぐはぐな彼女の気持ちをどうにか汲みとりたくて、私はぎこちなく復唱する。茜はただ、こつこつと時を刻み続ける彼女のつま先を眺めていた。

「うん。怖かった。そしたら向こうから用務員さん来て……」

そこまで口にして、彼女のつま先の動きは止まった。ただそれを追っていた目は、上でも下でもなく、ただ何もない場所を見つめながら、彼女の目にした光景を取りに行くように、その光を遠くに逃がしていった。

「上履き持ったまま、走って。なんか、ちゃんと受け答えできる気、しなかったから。」

彼女の瞳はその時の記憶から戻ってこないまま、口だけが起きた事柄を淡々と言葉にする。“ちゃんと受け答え”なんて考えなくても、きっと他の生徒にだって、体調や機嫌が悪い時くらいあるんだから。真面目すぎる彼女の痛々しいまでの正しさに、私は思わず空気を噛み締めた。

「茜は、あたしが怖い……んじゃ、ないよね。」

私にこうして思いの丈を話してくれている時点で、きっとそうでないということはわかっていた。しかし、彼女が怖がる“何か”の正体に見当すらつけることのできない私には、こうして曲解した訊き方をすることが精一杯だった。虚ろな目をしていた茜が、途端にぱっと視線を上げて私の目をみる。

「ちがう。うん。ただ……学校が、楽しみなのが怖い。」

食い気味に否定した茜は、自分でも理由に自信がないのか、また少しずつ視線を下げながら尻すぼみに口にした。彼女は、学校を楽しむことに、どうして恐怖心を抱いているのだろう。

「楽しみ、とか、なんか……駄目じゃん。絶対。」

自信なさげに震えていた声は、徐々に強くなっていく。それはなんだか、自分自身を責めているようで、傷つけるように強く抱きこまれた彼女のスクールバッグに、思わず身を乗り出して手をかけた。

「違うよ。駄目じゃないよ。あたしだって学校楽しいし、友だちとカラオケ行ったりすんの好きだし、訓練とか任務とか、だるいなーって思うときだって普通にあって……」

自責の心が強く込められた言葉に、私は必死になって返す。彼女はきっと怖がっているだけではない。隊員として完璧に振る舞う自分と、ただの高校生の自分との間で板挟みになって、それに激しく苦しんでいるのだ。本当に、朝靴箱で頭をよぎった悪い想像の通り、昨日の私の行動が与えてしまった葛藤だ。

「勿論、あたし下級生だし、説得力ないかもだけど……ほら、絵美佳先輩とかだって、結構そうだったりするよ?」

どんなに必死で訴えても、すべて的外れのような気がしてしまって、苦し紛れに先輩の名前を出す。絵美佳先輩の言った“しっかりしてる”という言葉は、おそらく茜のこういった危うさを指していたものだ。説得のだしにつかうようだが、茜に楽になってほしい気持ちは、先輩も同じだという確信があった。

「おんなじ。茜悩むことないよ。」

何故か泣きそうになってしまった私の声色につられてか、茜はまたぽろぽろとその目から涙をこぼす。それでも視線をそらすことも、手で涙を拭うこともせず、ずっと私の瞳を見つめ続けていた。

「でも……私は私のこと許せない。絶対、そっち行きたいって思っちゃうから……」

そっちに行きたい。私自身の、誰にも口にしたことのない本心を言い当てられたかのようだった。

自分の選択に覚悟があって、やる気と納得感を持っていたとしても、毎日遅くまで教室に居座る友だちや、みんなが休日の予定について楽しそうに話しているのを見たとき、どうしても頭の隅をよぎってしまう。そっちに行きたい。本当は私も、“やるべきこと”を見つける前の、何者でもない、どうしようもない、退屈な自分に戻りたかった。

「うん。思う。あたしも思う。でも一緒に慣れよ?あたしは、たとえ隊員として頑張るのが難しくなったとしても、隊員じゃないただの茜のこと、茜にも大事にしてもらいたい。」

すらすらと口を飛び出していった言葉は、ただ自分の気持ちを肯定したいだけの綺麗事だったのかもしれない。それでも、綺麗事だっていいじゃないか。現実に真正面から向き合うばっかりに、本当の自分の感情に蓋をするなんて、あまりにも悲しすぎる。そんなことは自分自身にも、大事な友達にも、やってほしくなかった。

茜のスクールバッグの上に置きっぱなしになっていた私の右手を、彼女の熱い両手がぎゅっと包み込む。やっと開放されたスクールバッグは、寄った皺を伸ばすように少しずつ形を変えていった。

茜が小さく数回頷く。瞼に溜まった最後の涙が、静かに彼女の頬をつたった。


「ね、茜はさ、美術館と水族館だったらどっちが好き?」

茜の手を握り返したまま、私は立ち上がる。思いつきのまま彼女に尋ね、繋がった手を軽く揺らした。

「……水族館。なんで?」

倒れたスクールバッグの持ち手を右手で集めて、茜が答える。不思議そうに訊き返す彼女の顔には、もう寂しい表情は少しも乗っていなくて、私はつい笑顔になった。

「空いてるんだって、平日の昼間は。友だちが言ってた。」

そのまま手を引いて、彼女をベンチから立ち上がらせる。涙の乾ききらない茜の瞳は、木漏れ日を受けてキラキラと輝いていた。

「行こ、バス乗って!もしなんかあったら、あたしも一緒に怒られてあげる。」

そう付け加えて尚も手を引くと、茜は少し逡巡した素振りで視線を彷徨わせたのち、今までで一番楽しそうな呆れ顔でスクールバッグを肩に掛けた。そのまま私の手を離し、弾む足取りで隣に並ぶ。

「……絵美佳さんに?」

いたずらに笑った茜に、軽く睨むように見上げられ、思わずちょっと吹き出してしまう。眼鏡と前髪を軽く直して、笑ったのも隠さないまま歩きだす。サボりがバレたときの絵美佳先輩の様子を、ちょっとだけ想像してみた。

「えー、先輩怒るかなー。茜がサボりとか、逆に面白がりそう。あたし褒められちゃうかも?」

おどけた口調でそう返すと、茜はおかしそうに笑って私の肩を叩いた。

きっと絵美佳先輩は怒らない。だって、あんなにも茜を心配していたんだから。こうして今、ただの“同級生”の友だちと屈託無く笑いあっていることを知ったら、心の底から安心してくれるだろう。

先輩の笑顔を思い描いた思考に割って入るように、隣から茜が軽く肩をぶつけてくる。

我に返って振り向くと、幼い子供のように笑って細められた目と目があった。

「……おんなじ、だもんね。」

茜の言葉に、私は小さく笑い返した。おんなじだ。置かれた立場がどうであれ、この時間が続く限り、私と彼女__土屋茜は、同級生だ。

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