18
監獄二日目。
嵐は過ぎ去った、仮眠のつもりだったが深い眠りとなったらしい、周囲の警戒が不要となったことがその理由の一つに挙げられる、典獄が用意したと思われる冷め切った紅茶からは鈴蘭のような香りが漂う。深夜か、典獄も就寝しているだろうか、看守と思われた彼等もまた囚人なのだろう、少し考えれば分かることだが、先刻まではそれすらできなかった。では、典獄もまた囚人なのだろうか、何が変わる訳でもないが、殺人鬼であれば今後の付き合いも考える必要がある、か… 余裕ができたせいか、つまらないジョークで遊んでいる場合でもなかった、私の陣は就寝前と変わらず生きているが、範囲は固定されている。これはそのまま処理能力を表している? いや、意識の問題か、これが最大値という訳ではないのだから。要は制御の問題だろう、実際に数値を弄ってみたが、何も支障はない。対象を選択しなかったことで典獄の結界に何らかの影響を及ぼしたのであれば、悪いことをしたのかも知れない、脳裏に浮かんだあれはこれだったのだろうか。結界内では身魂に著しい作用があるものとして、思えば、月灯のあれもただ私の眼に作用していたのではないか。大したことではないが、ルアに聞けば分かるだろうか、まぁ、この先あれと剣を交えることもないと思うが…
さて、任務を再開しよう。
炙り出しのように周囲にゆっくりと紋章が浮かぶ、『イジェートル・サバイユ』の影響がなければそこまでの負荷はない、元来、戦闘に転化できない兵器であればそう思うのは当然だが、『徽』には物質に限らず対象の性質を変化させるきらいがある。それを好ましくないと感じるのは制御できないからではない、制御できたとしても、その先にあるものは不穏で無気味なもので、それらを正確に形容できない私にとって、または誰かにとって都合が悪いものに違いない、という予感がある。何故、エアはその回答を避けたのか、知ること自体に何らかの不都合があるのだろうか。例えば、未来への着地点などが挙げられる。執念や憐憫、感情が破壊されれば人は何も見ることがない、戦争も同様で、根っ子の部分が腐敗してしまえば終わってしまう… そう、これは生命以外の何かを終わらせる、若しくは変換してしまう能力だろう。確証を得ることはない、何かを犠牲にしたその時に後悔がなければいいと願うくらいの確率でしかない。覚悟すればいい、私ではない誰かの後悔が一体いつまでこの身に響くのかを、そして、吐き出された言葉の正しさを証明するように何かを塗り潰すだろうから。
エアは3階の一室へ移動した。
ここか… 既に隠し通路なるものの絡繰りは解けた、何の変哲もないドア枠をスライドさせると壁の一部が膨らみ僅かな隙間ができる、人一人がやっと通れるくらい幅でその先はすぐに階段となっており地下へと続いている。例の不明瞭な灯りが足元だけにあるが、壁と天井とに阻まれるため非常に見えづらい、もしかしたら子供用の通路なのかも知れない。そこには何もないことを確認し、地下へと降りていく。典獄は別世界と言っていたが、そこに確かな情報がなければ何の意味も持たない、では、何を知っているのか。ここから王宮へと渡るには、かなり深く潜る必要がある、半球状のホールをいくつか経由し、途中からは螺旋階段となり垂直方向にのみ伸びている、全体的に青白いレンガで構成されている、更に古い時代のものだろうか。壁には金属フレームで出来た溝が縦に走る、レールのように見えなくもないが、重機の痕跡は見当たらない。何らかの通行手段が別に用意されていたと考えられるが、滑車の系統か、若しくは個に依存するものかも知れない。さっさと飛び降りることも考えたが、地上と比較しても『瘴気』の影響が強い。無論、『瘴気』に関しては一定範囲で打ち消してはいる、雨が地を穿つように相殺し続けているが、これがすべてではないと言える。また、その他の存在も確認している、このような地下で暮らしているのか、存在すること自体が警告となる。『リニア』の効力や範囲は収束するものの例外はある、恐らく、一定の割合で存在はしているのだろう、要はそのエラーを知覚できるか否か、そして、その例外が捕捉したものをどのように処理すべきか。頭の片隅にでも置いておくべきだろうか、今の任務も時限であれば寄り道は避けるのが好ましい、また、ポレポレの言をどこまで追うべきか… 進むべき道は分かっていても、辿り着く先は分からないのだから、程々に警戒すれば良いだけだが、中々そうはさせてくれない。ただの地下通路にしては仕掛けが多く、想定よりも多方面に接続されている、全貌は把握できない、但し、エラーで塗り固められた情報を足すことはできる。私の読みが正しければ、地下通路自体が『イジェートル・サバイユ』の一つとも言える、極小の結界はゆっくりと流れ、時に地上に溢れ出る、もう一つの存在は住人か、管理人とでも言うべきか、或いは人ではない可能性もある、今は対峙するべきではないが気配が読めない、侵入者を快く思わないのであれば気に掛けるだろうけど、現状では動きがない。王宮方面へと続く通路には何も障害がないようだ、また、それとは別に螺旋階段も続く。どうやら、隠し通路ではないようだ、シェルターのように地下で暮らす時代があったのかも知れない。いくつかの階層を貫く螺旋階段、各方面へと通路が伸びる、暗がりに慣れれば小さな灯にもデザインがあることが分かる、通路の幅は一律ではないが平均すると2メートル程度で狭くはない。所々、通路の真ん中に一本の柱を建ててはいるが、意図も用途も不明で、格子のようにも見える。ある種の居心地の悪さが纏わりつく、ゆらいでいるのか、脈動するそれは生物に由来するものだろうか、通路はこの先も数キロメートル以上は続いている、地図上では40から50キロメートルくらいだろうか、地図をなぞらえる必要もないが… 通路の他にもいくつかの空洞を確認しているが、その正体までは追えない。別の通路となっているのか、倉庫や居住スペースとなっているのか、入り組んでいることは確かだ。しかし、レンガやタイルもそこまでの経年変化は感じられないが、ここはいつから存在し、現在も使われているのか否か、昇降機があれば不都合も消えるが… そこにメリットはあるのか、確かにシェルター代わりにはなるが、昨今は目立った戦争も行われていないように見える、尤もこの先のことは知らないが… 不規則に暗転を繰り返す灯りや、微かに振動している天井に誘導されるように先を急ぐ、兆候はなくとも崩されればそれまでだ、生き埋めになるだけだ。当然、避難場所の確保も怠ってはいないが、わざわざ確認する手間までは避けない、直感なるものを信じている訳でもない、今の私なら読めるはずだ。些細な変化を見逃せる状態にはない。通路の色が変わる、半球状のホールだけは変わらない、横道も増えるが測量も兼ねているため方角だけは見失うことがない。管理人と思しき気配も徐々に遠ざかる、使用している通路が違うのか、互いに捕捉を避けているような結果となったが、過程は分からない。その反面、近付く気配も読める、これはポレポレだろうか… 現状では何かの役に立つとは思えないが、気紛れとはそんなものだ、まぁ、暇潰しくらいにはなるだろう。
「やぁ、このめくるめく場面展開に付いていくのは骨が折れるね。でも、どうして僕が来るって分かったんだい? 同調とは違う、この場合はね、だって僕には最初から君の場所が分かっていたんだから。つまり、君が見えない世界と接続された証左ってことになるでしょ、だけど、手に負えないものが一つ一つ増えていくのは楽しいかい? まぁ、僕には無縁なものでもあるけれどね。例えば、折り重なったところを貫いたならば、それだけですべてを捨てる覚悟を求められるかも知れない」
ポレポレの姿は見える訳ではないが、気配だけは確かに在る、その輪郭も掴めそうで掴めないのは、そのような法則がそこを走っているからだろう。但し、私が求めていないのも確かだ、自然というものがあるならばそれだけでいいと思える空気がある。結局のところ、こいつが何をしに来たのかは分からないが…
「考えても無駄なこと、君がこれから対峙するであろう死神は本当に死なないよ、過去に何人も何千人も挑んでは殺されてきた、呆気なく死んだんだ、そんな相手を屈伏させるとしたら食べてしまった方が早いかも知れないね。だけど、君はいつだって対話を望んできた、そりゃそうだよね、捨てることはいつでもできるんだから。反対に、捨てたものを拾いたければリセットするしかないんだね、どれも簡単なことなのに誰しもが難しく考えてしまうのは何でだろうね? 拾うにも覚悟が必要で、そこでも新たな選択を迫られるの? そうして、今度は拾うためにまた何かを捨てるんだ、僕から見れば最初から何も持っていないのにおかしな話でしょ。君がいくら真剣に話したとしても、長々とおなじ話をしたとしても、散々繰り返したとしても、その価値観が伝わることはないのにね。それじゃ、先の対話をどのように試みる?」
思えば、ポレポレに回答したことがあっただろうか、これは会話のようでいてそうではない。テレパシーとも違う、感情的にはエンパシーが近い、では、ポレポレとは何者なのか、重用していたのもマナしかいないように映る、しかし、実際は私に取り憑いていないか? 『徽』による紋章も利かない点からも異次元の存在や不確かなものという見方もできる。まぁ、この辺はどうでもいいことに分類されるが、それだけの余裕を取り戻しつつある。
「やっぱり伝わらないんだ、同じ立場になったとしても伝わらない、会話にならないから代わりに石を握りしめた。まぁ、伝わらないと分かっていながら、それでも対話を続けるしかないんだ、他には何もないから、最後にはそれしか残らないから、意味がなくなっても話し合うしかないんだ、それが君たちの歴史だからね」
10キロメートル地点を経過した、ポレポレの話はまだ終わりそうにない。耳を傾ける行為そのものが、自身への振り返りとなるのは、言葉そのものの価値と言える。黄昏時、誰もいない公園のように静まり返っている、心象の底、混濁した潦(にわたつみ)に手が届きそうなくらい澄んでいる。無造作に開けた引き出しには大抵良からぬものが入っているものだ、また、別の声が聴こえてくる、意識の分岐が視野を横道へと引き込む。これが、別世界への扉であればこちらはどうなる、ポレポレの調子は変わることがないが、その傍らで沈んでいく、もう逃れられない。地下道の暗がりが一転して今度は太陽光で白んでいく、視界が完全に奪われるその前に『殥』への入力を急ぐ。
そして、エアは自ら意識を手放した。
風が吹いた、強い風が吹いた。
意識が持って行かれそうだ、その手に何を掴んで、何を求めて、何処へ。
それさえあればいい、後のすべては些事に過ぎないのだから。
私は誰か、それも大して重要ではない、何を成して、何をすべきか。
この存在もツールの一つに過ぎない。
今、見えるものはこの両の手のみ、踏み抜いた地はその瞬間に過去となった。
君は誰か、時に左右されない存在、この世界では強いものが残り、弱いものが消える。
但し、過去にはそのすべてが混在している。
私を悩ませるものはどの瞬間だろうか、いずれにせよ、どうか強くあれ。
意味はなくとも、そう願わずにはいられない。
祈りとは違う、どこまでも純粋な想いは遠くまで何千年も残る。
今もそこで、迷い続けている。
「其方は一体何を言っている?」
目の前の男は酷く怒っているようだった。ここは何処だったか、時間の感覚がない。歪んだ景色に、辻褄の合わない状況、不自然に波長が伸びた光、重なるように鈍い音が四方から獣のように近づいてくる。私が何を言ったか、そんなものが分かる訳がない、何かに視野を奪われた、私は自分が分からなくなっている、理解が追いつかない、片時も離れることのない絶望の気配が色濃く残るその傍らにただ取り残された。
「理由は知らなくていい、今すぐにそれだけを伝えろ、いいか? カトラスの方だ…」独り言のように呟いた。
今、私が声を発したのか? 状況の整理が追いつかない、私は誰だ… 聞き慣れない、どこまでも冷たく鋭い声色は粗末な合成音声と比べても数段は劣るような違和感さえ残る。耳が正しく機能していないのだろうか…
「お前はこの私を誰だと思っている…」男の怒号が頭に響く。
男の声は酷くクリアに聞こえた、そして、強く突き飛ばされた。ただの掌底打ちではなかった、後方の扉を容易く破り、その先の通路の壁に背中を強打した、背中と腕に痛烈な痛みが走った気がしたが、次の瞬間には何事もなかったかのように引いた。あの破壊力で怪我すら負わないのだろうか… 考えたところでどのみち理解はできない、私は何かをしなければならなかったのではないか、周りにいるのは誰だ、男の他に従者が二人。先程の男がゆっくりと近付いてくる、何かを確かめているようなその目には迷いがないが、顔は別だ、不測の事態が生じたかのように焦っている。つまり、双方にとっての状況は一致しているようだが、私が第三者であるかどうかは掴めない。この場に存在しているのか、その証明はどうする? 何をもって彼等に対抗すべきか、もはや生き死にさえも疑わしい。何故だろう、理由はなくとも心の中で自然と笑みが溢れた、試練も冒険も罰も違う、この物質観は本物だ、前後は不明だが紛れもない日常、何かが起こったのか、若しくは、昨日まで続いたレールの上にいるのかも知れない。認識が剥がれればこんなものだろう、通常こうあるべきと定義されたものが何処かへ飛ばされた。確認する術がなければ、本物も偽物もありはしない、それらは最初から同義だ。しかし、現を抜かしてばかりもいられない、か。さて、眼の前の男、こいつは誰だ、貴族のような仰々しい格好が板に付いている、歩行一つ取っても無駄に誇張されている、総合的には洗練されていて美しいと言える。
「今はもう、其方しか残っていない。不本意ではあるが、これも仕方のないことだ。マナ様を救え、これは命令ではない、私なりの祈りだ。かつて、其方と対話を試みた者があっただろうか、望むべくもない…」
マナにカトラス、その名前を聞いたことがない… しかし、差し迫った状況には変わりない。ここは地下だろうか、窓もなく光が入らない、理由の数だけが増大する、私は逃走経路の検索を掛けているのか、この状況は危険ではないが、その後は分からない、恐らくだが、その類の予感が走った。
「だが、『坤』はともかく、今は『権勢』がいるのだ。私の方で対処するしかない、いや、私にできることも限られているが、伝書鳩にでも何にでもなってやる… 無論、吐露すべきではないことも含めて、双方で尽くすしかない、そんな状況にあるのではないのか?」男はまだ続けていた。
従者を含めて誰も真剣には聞いていないように見える、取り繕ってはいるが、それだけのようだ。誰もが立ち入れない領域にあることを理解している。
「それは無駄というもの… 今しがたお前が言ったことだ。認識してしまえば、その瞬間『鳥』に飲まれるのだから。元々、複雑だった紋章を更に難しくするだけで、他には何も生まれない、お前が誰であったか、私が誰であったか、その前後すらも一緒くたにされる、『鳥』とはそういう兵器だろう」
「是非は問わない、その方法は残されている筈だ。いつだったか、0ではないと、それは其方が言った言葉だ」再度、男の怒号が響く。
「その手を離せ、さっきからやっている」
認識が天空まで広がる、その瞬間、何かが切り替わった。空間を自在に駆ける三つ星を目で追う、星同士が交差し四散するもののそれぞれがまた加速していく、衝突しても速度を落とすことはない、星はその軌跡しか追えないほど速く、眩い光を散らしながら距離という概念を置き去りにする、そして、次第にその数が爆発的に増えた、点は線に、線は面となり、様々な造形に、星が加速する度に天体が少しずつ綴じられていく。いつしか、星の動きは目にも止まらず、また、徐々に認識からも外れる、結果だけを数えるようになった。流れる景色を眺めているだけでも頭が追いつかない。頭の中で目まぐるしく場面が切り替わる、多方面に於いてただ点を置いていく作業が実に難解で、恐らく、何らかの事象を無数にポイントし、それらを紡ぐことで活路を模索しているのだろう。つまり、私は手繰り寄せられたのだろうか、この男に… 何らかの点と認識されたのか、必要な工程であったと何となく理解できる。但し、協力すべきか否かに関わらず、この意思には最初から決定権が存在しない、舞台の上には彼らの他に誰も残っていない。しかし、一つだけ分かったものがある、この感情は何かを失ったからこそのものだった。その一点でこの男と同調しただけの存在、紙一重の阻害、私は一体誰なんだろうか…
「十分に理解していると思うが、とにかく時間が足りない…」男に肩を押さえつけられる。
籠もる力から伝わる感情、焦ったところで結果が変わらないのは分かるが… それにしても、全く意に介していない、目の前の男のことなどまるで眼中にない、先程から次元を超越した規模の模索を繰り返している。私にはそのほとんどが理解できない、秒速の場面展開に一つも関連性を見出だせない、バタフライ効果のように遠く離れたエリアに影響を与えているのか… 逆に考えるならば、これを私に見せるために呼び寄せたのかも知れない。しかし、応える理由はない、何も知らず、誰かも分からず、それでも手助けをする必要性はどこに存在するのだろうか、もし、あるとするならば先の消失感が関係している、記憶がない状態はどのように創り出された? 何らかの仕掛けがあるとするならば、記憶を消された上でこの肉体を共有している。目まぐるしく変わる思考を共有するには何かが足りない、理解の及ぶ範囲でポイントを紡ぐしかないのだろう、視界と意識の境界が曖昧になっている。この身体は動かない、動かせないのではなく身体の動かし方を忘れてしまったように、金縛りとは違う。球状に切り取られた世界をあらゆる角度から検証する、尺度すらも出鱈目で宇宙空間のような自由を感じる、与えられたパラメータに対し、自由度の高さが球体をどこまでも押し広げるようだ。不味い、情報量の多さに付いて行けない、間もなくレールから外される… その先には多くの死体が見えた、煤けた身体に虚ろな目。不浄を呪う赤の火に、氷のように冷たい青の火、遠くから近くまでを順番に焼いていく、行き交う人々は炎に巻かれ、生きたまま囚われていく。そこに慈悲などない、そう、私の生もそこで途絶えていた、何も分からず、何者でもないままにただ死んだ。戦争とは違う、ある意味では先立つ不幸となるが、絶望も安堵もない、闇や光と言うように、ただ一言で語り尽くせるほど何もなかった… これは、この感情を知っている、多くの死をこの目に宿し、年月と共にその数をただ重ね、路上に散らばった骨を踏みしだく、後に来る嵐からその身を守るように全方位を睨めつける、血飛沫を傘で流し、断末魔を掻き消した。これは、目の前の男が負ったリスクそのものだ、命を賭けるに値するか否か、傾いた足場から見た景色は堅牢な支柱などなくとも独立し、世界からは切り離されたようだった。
「完了だ…」
一転して今度は空白の時間が広がる、歪が解けるように緊張を失った後で、ようやく眼の前の男に意識を向けた、つまらないものを跳ね除けるかのように、男の左手を払う。
「私が誰か? そう言ったのか…? そんなものは、この私の知るところではない。無能を嘆くのであれば、下らない主義や主張とやらを今すぐにでも排斥し、それなりに振る舞えば良かったものを…」
眼の前の男が反論するより先に球状の視界が塗り替わる、意識が強引に空へ、或いは、地の底へと引っ張られる感覚と共にここに到るまでの記憶が超高速で流れる。亀裂の断面に色はなかった、その空白を埋めるように、眩しさと共に飛び込んできた景色は屋外だった。私の意識が飛んだのか、瞬間移動したのかは不明だ… そして、視界の外で何かが目覚めた。既視感で覆われた白磁の三つ星、それぞれが自在に自由に飛び回っている。
「何も覚えていない…」エアは周りに誰もいないことを確認してから、思わずそう溢した。
既にポレポレの気配はない、見渡す限りに広がるのは荒涼とした大地で建造物は一つもない、砂埃と虚無だけが舞っている、私はその空白を埋めるようにわざわざ行動したのか… まさか、ポレポレに頼るのか? 携帯端末を起動し、時間を確認する、監獄を深夜に出立した筈だ、日付は変わらないが既に半日が経過したことになる。その間、10時間前後の記憶がない。まず、外傷はないが、地下で何かに接触した可能性が高い、すべての意味はこの三つ星に込められているのだろうか… 体積のない極小の点であり、光を放つ星を目にした瞬間に飛び込んできた異色の世界観、三つ星の存在する小規模の範囲だけが、どこか薄く引き伸ばされた非現実的な領土を主張する、その境界線では冷戦状態、即ち、水面下で争いが繰り広げられているように感じる。その根拠はないが、目に見えないものだからこそ反対にその他の要素が濃く映る。『徴』は起動しているが、紋章はどこにも見つけられない、作意的なものか、或いは、観測の問題の何れかだろう。認識はしていると思われるが、ここに正解はない。何が正しくて、何が間違っているのか、足元に小さく纏まった影が揺れる、陽が頭上に移動する。白磁の星はこの身体をも容易く通過する、何ものも障害とせず、また、通過したところで知覚できる訳ではない。そして、支配下に於いてはその軌道を定義することができる。つまり、三つ星を認識さえしていれば、自在に操れるということだ、但し、空間に固定させることはできない、常に一定の速度で運動を続けている。星同士が衝突した場合は、互いにすり抜けるため一般的な意味での干渉はないが、その数が増すことが分かった。2次元に置き換えれば、進行方向を軸としてそれぞれが120度の軌道で3つに分かれる。つまり、新たに星が4個生成され、計6個となる。三つ星で構成されるため、衝突が一度発生した時点では、7個の星が存在することになる。三つ星を首星とした場合、派生したものとの衝突した際のまた挙動は異なる、しかし、そのすべてを支配下に置くことは難しい。同時にいくつのもの軌道を制御できるのか、という問題に直面するからだ。まぁ、検証の機会は今ではない、それ以上の使い方については現時点では何も分からない。しかし、これがエアを優位に立たせたものであることは理解できる。他の2つが実用的なものではない、と言えば語弊があるが、こと戦闘に於いては補助的な役割を担う。仮に相手が銃を使った場合、『殥』や『徴』では避けることすら難しい、軌道や着弾点などの演算はできても肉体で弾くのであれば無傷とはいかない。もしかしたら『徴』で銃や弾丸の性質を変化させることはできるかも知れないが、変化を齎すものについての情報がなければ結果については何とも言えない。それも着弾までの僅かな時間で行うのは無理があるように思える。そうした点から、この三つ星が最も実用性が高いと考えられる。
「僕は消えてないよ」エアの意識がその内面へと向けられると共に周囲が草木に覆われていく、それも驚異的な速度で「この世界は、誰かの歴史や空想をなぞらえてもまだ御釣りが来るんだよ、見逃しちゃ駄目だよ、絶対に、それだけはね」
単に認識の問題だろうか、解決しない問題が増えていく、次に空間を支配する『イジェートル・サバイユ』の結界を懐かしく思った。
「私は今までどこにいた?」エアはポレポレに尋ねる。
「今まで君はずっと走っていたよ、所々返答はあったけど、意識はどこか虚ろだったかも知れない、まぁ、それもどれもこの時のためだと思うよ。意図しないことがあれば、見守られていると考えるのは悪いことじゃない、弱さと受け取ることもできるけど、肯定や否定は二の次だね」「おい、お前かっ」ポレポレの声に混線する形で突如として響く巨大な存在感、この気配は『イジェートル・サバイユ』か…「どうした、この俺を追っていたんじゃないのか?」
高速で塗り変わる世界に新たな二人組を認識する、背後を取られていた。殺気はあるが臨戦態勢にはない、まだ意識が混濁しているのか、振り向くより先に答えを探す。髪の整っていない粗野な男と槍を持った騎士の女が立っている。男の鋭い目つきからは殺気が、騎士からは中立の視線が飛んでいるが、果たして…
「ああ、君が『イジェートル・サバイユ』か、思っていたのとは随分と違うが」エアは蔑むように話し掛ける「ところで、これから何処へ向かう予定なんだ?」
「お前は何のために生きている? すべての敵を討ち滅ぼすためじゃないのか? 何処へ向かうとしても急ぐことはないさ、お前を殺してからでも遅くはない」男がゆっくりと答える、そして、笑う。
隠さず、臆せず、殺意はあれど脅威とは感じない、意味のない感情だ、それを制止する形で騎士が口を挟む「デス、許可しない…」呆れるように呟いた。
男は直ぐに反論した「こいつは反逆罪で投獄された奴だ、つまり、死んで当然の罪を負っている。殺されたところで誰も何も言わないさ」
異邦人の私が反逆罪か… 典獄は随分と勝手なことをしている。しかし、こいつも存外と情報を仕入れている、どうやら今まで幽閉されていた訳ではないらしい… しかし、やはり行動原理は変わらない、結界を削ったことが気に食わないのだろうか…
「まぁ、私の方はいつでも構わない、しかし、携えたその剣と同じで実力も銘のあるものではないだろうから、勝負にすらならないのではないか、それだけが心配だ。所詮、結界だけが独り歩きをしただけのこと、素人騙しもいいとこだな」エアは憐れむように答えた。
ポレポレが会話に参戦することはなさそうだ。そう思うと同時、ルアからの短いコール音の後に自動的に通話に切り替わる「また面白いことになっているらしいが、まぁ、いい… 終わったらこちらに顔を出せ」それだけ伝えると切断された。
ルアは相変わらず忙しそうだ、気を取られた振りをしていると、粗野な男は唐突に腰に下げた剣を脇に投げ捨てた、幹に当たり鈍い音が飛んだ「こんなもの、最初から必要ない…」男は騎士の方を見ながら「結果は見えている」と諭すように伝えた。
「デス、私は許可しないと言ったんだ…」騎士はエアの方へ視線を向けてから、観念したように続きを話す「申し訳ない、私は鍵主のジュリアと申します。『イジェートル・サバイユ』ことデスと、ある目的のために行動を共にしています。危険な旅ではあるのですが、すべての責任は私にありますのでこの場は引いて頂けますか?」
「貴方も随分と苦労しているようだ。私はエアという、それが話していた通り先刻脱獄した身ではあるが、元よりこの国には属していないとも言える、つまり…」その時、粗野な男の狂気が放たれた。
結界はその形を変え周囲の景色を一変させた、樹木は切り裂かれ、空気と草が抉れた大地と共に舞う、陣風のような一撃だった。発動前から捉えていたため、傷を負うことはなかったが簡単に往なせるものではない、そして、これで終わる筈もない。デス、その名が表す通りで、死神に違いはないのだろう、不穏な空気を纏って獣のように距離を詰める、爪に依る一撃をジュリアの槍が弾いた、ガンっという大きな衝撃音と共に球状の波が駆ける、男が拳に纏った光が散ったように見えた。
「これで三度目だ…」騎士が辟易した様子で呟く。
騎士からも得体の知れない力を感じる、その根源は『イジェートル・サバイユ』と変わらない、二人には見えない繋がりがあるということだ。この騎士は鍵主と言ったが、『イジェートル・サバイユ』とは主従の関係にあるのかも知れない、双方に目的はあるが鍵は第三者が握っている、そんなところだろうか… 懐柔が目的ではあったが、どうやら事態は次の段階にあるらしい、であれば、この場は無視しても構わないだろう。
「それを処分するのであれば手伝うが?」
「それは、鍵主である私の役目です、また、その前に見極める必要があります、デスは何に対抗できるのかを。『蝶』が始動したのであれば、尚更…」
「そいつは気に喰わない、禍根は断つべきだ…」割って入った男の言葉は最後まで聞き取れなかった。
騎士が槍の柄で男の胴を薙いだからだ、素早く強烈な一撃だった、動作のすべてを追えていただろうか、次の瞬間である男が吹き飛ばされるところは認識できたが… あれを今の私に無力化することができるのか、銃弾のようにその手から離れたものに関してはその効果や影響を予測できる、意思あるものに関してはその限りではない、最大値の演算ができれば対応は可能だが… いや、そうでなければ命を落とす。
エアの鼓動が僅かに早まる。
あれで手加減をしているつもりか、男は数十メートルは飛んだがそこに殺意があった訳ではない、単に黙らせるためだけに叩いた、というのが恐ろしい。まぁ、殺しても死ぬような奴ではないため、判断基準が不明瞭になっているという要素はある。ジュリアといったか、彼女もまた高名な騎士なのだろうか、手元には何の情報もないが、元より偏りがあるので今更基準について言及したところでデータは足りていない。とりあえず、帰るか…
エアはその場を離脱した。
上空より位置を確認する、西の方に神殿があるが、あそこに『イジェートル・サバイユ』が祀られていたのだろうか、では、彼らが東に向かった理由は? 頭を地に向けて眺める世界はどこまでも薄っぺらく見えた、嵐に隠れ、陽を割いて、それでも尽きることはない。戯れに眼下の瘴気を払うのはいかがだろうか、思惑の交錯や干渉が様々な色の信号を点す、私は何に怯えるべきなのだろうか、疲労が残る頭でぼんやりと考えていた。視界の端でデスと呼ばれた男が立ち上がる、生い茂った草木の間から首を出す、騎士の元へとゆっくり歩き出した、反転した世界には似付かない無邪気な光景だと思った。
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