17
監獄一日目。
数日は掛かると踏んでいたが、それでは掛かり過ぎだろうか。この世界へ来てから目まぐるしく状況が変化していく、呼応するように演算を重ねてはきたが、やはり、私はエアではない。それとも記憶だけが独り歩きをし、過去の日々が本当に在ったものかどうかも疑わしい。ここでは重力さえも紙切れのように価値がなく、まるで紙芝居の中の登場人物のように浮いている、典獄か国王か裁定者か、裏で糸を引く者に心当たりはない、それ以外は。ルアはどうか、今は考えるべき時ではない、監獄での自由は外界とは切り離されているから。さて、現状の取りうる手段としては、背景を洗うことか。ここもかつては城であったなら隠し通路なるものがあるかどうか、いや、『瘴気』を追えば探し当てるのは難しくない。そのために濃度の計測にミスがあってはならない、『イジェートル・サバイユ』は幽閉されているものと思われるが、その位置は王宮の南西の筈だ、レールの崩壊による簡易索敵に基づくものだが、何もないよりはマシだろう。そして、監獄は北東に位置する、通常であれば王宮を素通りするだけの理由が必要となるが、隠し通路を通じていると考えるのが妥当。しかし、抜け道があるとしても篩に掛けられる訳ではない、死罪が覆ることもない、ここまでは誰にでも思い付く話だろう。過去に死に物狂いで探した者があっただろうか、まともであったなら冒険をする者もいない、ただそこに見える橋を渡るよりも遥かに危険な賭けとなるから。解れるレールで何処まで探れるのか、現状では15メートル程度、これで隠された空間を探し当てることができるか、いや、発掘には当てが必要だろう。
間もなく嵐となる。
石畳を叩いた雨粒が弾ける、勢いを増した風が結界と重なり悲しげな唸りを上げる、雨の方に脅威はないが、霧や止水の方は危険だ。この思考が止まれば次の瞬間には振る舞いや振れ幅といった可能性を制御できない、どのみち自身を信じる以外の道はないだろうから。そして、それほど信用している訳でもない。環境か… 積み重ねたものが、研鑽がそこにあったのかどうかも確かではない、そして、今しがた崩れたところでもある。入口と通路の方から冷気が押し寄せる、項垂れていた囚人もどうやら寒さは感じるらしいが、そこから動く気配はない。それよりも、頭上から重圧を感じる、もはやどこまでが『瘴気』の影響かは分からない、気が付けば背凭れから離れられないほどに疲弊している、今の私はそれほどまでに『殥』に依存してしまっている。玩具を咥えて離さない子犬のようで、様相はまるで異なる、命綱無しには渡れないところまでは落ちている。柱に彫られた無表情なレリーフが虚空を睨めつける、天窓から光の粒がぽつぽつと降りてくる、次の事象を予感し、エアはゆっくりと見上げる。焦る必要すらない程に頭が切れない、もはや舵を切ることができない、愚鈍な結末に呆れてしまうほど事態を呑み込んでいる。シンプルにも段階があるのだろう、思考の制限、順位が簡単に入れ替わり、光の粒がゆっくりと滑るように移動する、また絶え間なく湧き出しては同様に配列を繰り返す。酷くゆっくりと見えたそれは記憶を引き伸ばしたものに過ぎない、実際に経過した時間は数秒だと思われる。視界の端まで到達したこれは魔法円… 目が眩んで全容を把握できない、そして、一際の光を撒き散らしながら一瞬で収斂した。そこには、山吹色の紋章がゆっくりと回転しながら浮いていた。まるで金貨のようなそれは空間に対しての紋章だろうか、あるべき位置と理由、軸と速度、思考が追いつかない。あの囚人には何も見えていないようだが、感覚を失っている可能性もあるので参考にはならない。
エアは暫くの間、紋章から目を離せずにいた。
危険なものではなさそうだが。神殿の中央、音もなくただ示す、コインのように表裏ではない、角度によって見え方が異なるが原理は影絵と同じ、投影に過ぎない。かつての私はクレヴァスの紋章官だった、すべての公的な紋章を記憶していた、取り分け兵器に関しては対抗要件という点では公的だが、同時に秘匿すべき情報でもある。他国の紋章官がどの程度の情報を持ち合わせていたかは知り得ないが、差異が出る部分でもある。そうした記憶の中にもこの紋章は存在しないが、どうやら、情報を取り出すことができそうだ。これは『殥』の作用ではなさそうだが、この時に顕現した理由を見ると、『殥』の起動が関係している可能性は高い。つまり、これは私にだけ見える不可視の紋章となる。典獄は『トライアド』などと言っていたが、その内の一つということだろうか。この見慣れない紋章を眺めるだけで情報が流れてくる、コードを端末で読み込んだ際の挙動に似ている、但し、この情報は進行系でその量を増している、神殿のあらましから実測データ、予測される歴史に展開される景色… これは、エアが残したものに違いない、また、今尚観測を続けている可能性もある、進行する二つ以上の軸は現状では認識できないが、何かしらの方法は残されているのかも知れない。あらゆるデータが至るところへ鏤められた世界、次々と浮かび上がる紋章は螢火のように儚げに淡く瞬き、郷愁と幻想とを想起させる。雨音がぱちぱちと音を立てながら肩を抜ける、思考が単一に埋め尽くされたところで、隙間なく打ちのめされたとしても、忘れる訳じゃない、自負している訳でもない、ここでも私は紋章官に過ぎない。
エアはこのジャケットにも紋章を残している。
具体的には脳裏に浮かんだイメージにも紋章が付与されていた、特定の言葉に反応し、連想する際のメカニズムによく似ている。ジャケットはこれ自体が兵器と言っても差し支えない、エアのトレードマークとなるべく数々の技術の粋を集めたものらしい、果たして、これほどの機能をジャケットに詰め込む必要があったのか、よほど荷物を持ちたくなかったのか、その理由については一切触れていない。『紋章』を観測する度に膨大な情報量が流れ込むが、『殥』による情報処理には問題がなさそうだ、これがどういう兵器かは理解できた。次にすべきことは携帯端末の起動、やはり、ポケット内部や外装部分に抵抗膜方式のフィルムを配置していた、基本操作がマルチタッチのみに依存している点からも、ソフトウェアで制御を補っているものと分かる。この場での通信はやはり不可のようだ。結界に干渉するのか、通信範囲が限られているのか、いずれだと思われるが、画面自体が不完全のため遷移先での認識が難しい、光子を飛ばしているのか画面の構成については不明だが、恐らく、認識の方に鍵があるようだ。私から見てそう見えるというだけの仕組みだが、他所からはノイズのように映るのだろうか。まぁ、使えないのであればないものと思えばいいが、気になる点もある。例えば、被弾したらどうなるのだろうか、やわな造りにはなっていないと信じたいが、エアの戦闘を知らないので確証はない。まぁ、壊れたらその時に考えればいいだろう…
あの囚人はどうだろうか。
『殥』で射竦めるように紋章を探す、紋章の創造と共に情報がレンガのように構築されていく、名はない、身長に体重、特徴、性別、そして寿命。間もなく尽きる、そう思った瞬間、目の前で音もなく弾ける、最期は泡のようにすべてを内包した膜が弾けたように見えた、中には何も存在しない。結果として、脳内でそのような解釈がされただけで事実とは異なる可能性もあるが。そして、死後も紋章は残るらしい、まるで石碑のように、生前と変わらずただそこに情報を携えて。既に多くの死を見てきた、雑多な命に価値はない、虫も等価と定められたとしてもそれを認められる者は少ない。理由は時代背景と重なるから、単に今じゃない、と誰かもまた同じように答えるだろう。では、今の私には何が解とされるのだろうか…
既に数時間が経過している。
ここに留まる訳にもいかない。但し、ここで得た情報については一旦整理する必要がある、この通りの兵器を所持しているのは、それが必要なことだからだ。例えば、『リニア』を通して得られる情報の解像度が増している理由、情報に何らかの加工がなされたか、工程に変化があったからだろうか。生成を繰り返す紋章を通じて様々な情報が流れてくる、これは、ただの認識の問題だろうか。認識さえすれば切り替わるその正体は、果たして、知り得た情報なのか、現時点では判別が難しい。どのみち私には理解のできない内容なのだから、便宜が図られたものと見ればいい。無論、掏り替えの恐怖も危険もある、依存はできないが思考そのものに刺さるシステムをどの様に組み替えるのか、対策は思いつかない。この状況では進むしかない、澄み渡る空の下でもう一度考えればいい、勇往邁進、その程度の心持ちで構わない。雨風が収まる気配はない。神殿は2500 年前に建てられたものらしい、尺度はなくとも理解さえあれば良いという歪な形の世界で構成される。この際、意思などは置き去りにしてしまえばいい、大小を無視してでも先へ、ただ先へと駒を進める、只管に。エアは長いこと座っていたような気分だったが、それほど時間が経過した訳ではなかった。短い時間に多くの出来事が重なる、今に始まったことではないが、心労という言葉も雨のように降り積もるような錯覚を覚える、単に受容力の問題であれば頭を悩ます必要もなかった。雨滴の音が誘う『瘴気』との混濁か、非常に危うい、エアはただ「動け」とだけ命じた。神殿の内部は年数の割に劣化は少ない、そして、ある筈の天窓も見当たらない、先の私は何らかの情景を重ねたのだろうか。記憶ではないとすれば、何が考えられるのか。これが気のせいであっても、一度ではなく続いている… そこには何かしらの意味があるということだ。理解があるとすればずっと先だろう、織り込み済の勘というものは質が悪い、その場で分かっていれば、それだけ未来を選択できるものを。あの囚人の果てもこの場ではなく、ずっと昔に起こったものかも知れない、脳裏を過る理由は違和感の渦巻く場に支配されているからなのか、悪い状況は続いている。
結界。
紋章を得て最初に浮かんだものだが、やはり、要素や仕組みよりも効果を優先させていた。成り立ちそのものよりも如何に立ち回るか、今の私に必要なものだった。陣による効果は思考に拘わらず一元化の試み、相反する意見は通りにくいのではなく、その場で棄却されてしまう。故に陥る渾沌、手探りであれば命がいくつあっても足りない。思えば、月灯の結界にそこまでの制限や強制力はなかった、単に認識の阻害という一面のみを担っていたのだろうか。その場で閉じる結界のため、比較すると簡易なものだったのかも知れない。『イジェートル・サバイユ』については、児戯の一言で片付けている、エアにとってはその程度の存在だったのだろうか、ここでも認識にずれがあるように思う。恐らく、エアの判断基準は、自身にとっての障害となるかどうか、でしかない。この行程も必要なものかどうか定かではないが、懐柔という目的があればこそ結界も破壊する必要があるだろう。何を以って破壊とするかは意見が分かれる部分だろうが、結局のところ対峙するのが早い。
エアは神殿から本館へと続く通路に移動する。
通路は石造りで高さは3メートル程、壁に吊るされた燭台が仄かな灯を落とし、まばらに組み込まれた赤のタイルがそれを返す。隙間風が足元を抜ける、澱んだ空気が高さに応じてゆっくりと動いては湿度が増していく。床にはマットが敷かれていたようだが、既に判別が付かなくなるほど朽ちている、また、書物なども無造作に散らばっている、かつては棚があったものと思われる。通路を抜けた先は本館らしいが、この通路は不自然なほど頑強な造りとなっており、傍目には抜くのも困難に思えるかも知れないが、却ってその基準が曖昧に映る。常に強力な兵器や結界に曝されているこの世界に於いて、想定すべき点は少なくない。兵器を持たないもの同士であれば分かるが、そうではなかった筈だ。しかし、割合を見ればそこまで考慮する必要はないのだろうか… 個の時代がいつまでも続いているという認識は正しいが、視点が異なるのだろうか。『権勢』か、超常現象や絶対者、思えば国に固執する理由もないのか… 彼等が見据えているものは秩序以外のもの、例えば、支配の先に在るものとして…障壁は各々に存在する。強者同士が衝突しても同様で、崇高に見えたところで源流は得てして原始的で、月が落ち続けるように単純なものだ。遣いに出るようなもの、買い物と変わらない、目的があって出向くのだから。通路を抜けた先は鐘塔と本館に接続されている。ここが王の居室なのだろう、装飾も区別されているようだ、そして、監獄には不要なものとなる。調度は半壊し、壁を彩る絵画の殆どが黴に侵食されている、絢爛な情調は見事に払拭されている。それでも人が立ち入ることに支障がないよう最低限の手入れはされているようだ。朽ちた装飾でも当初の様子は容易に想像できるが、外装からイメージすることは難しい、ある意味での落差を感じることができる。
エアは『紋章』を追って思考する。
想定内ではあったが、やはり負荷が大きい… 常時ではないが、脈動に応じて鋭い痛みが走る、疲弊した脳を天から地へと貫く。振動で足の裏までが震え、感覚を手放すことが唯一の道となりつつある。探知機と因果律を同時に捉えるには四次元の思考が求められるが、恐らく、一部の情報は知覚できない状態で記憶されている、その副産物として損失のような形でエラーが計上されてしまう。例えば、あと少しで思い出せるという混迷した状態が持続するような感覚が近いだろうか。心身への負担も増すばかりで、このままではいつ倒れてもおかしくはない、『殥』の扱いについても再考せざるを得ない。とりあえず、この応接間の地下には空間が存在するが、隠し通路ではなさそうだ、何の変哲もない地下室が2階層分あるだけだろう。上は4階建てだろうか、それ以上は索敵できないが、それだけに頼る必要もなくなった。この地下は隠し通路ではない、典獄も3階にいるらしいが… 他に十数人程度がここで働いているようだが、意外にも適応できた人は多いらしい、影響も一律ではないのだろうか… 振り返れば、そう思いたくもなるというものだ。さて、典獄への報告は特に必要と感じないが、それは私にとっての解だ。組織としては一度照会をしておくべきなのだろう。既に地下室から数メートル離れた位置に隠し通路らしきものを発見したが、体調を考慮すればここまでだな… 限界が近いため、これ以上『殥』は使わない方が良さそうだ。上階から接続されていることは明らかなので、ついでに出向くとしよう。ベージュにオフホワイト、ローズレッドの三色の内装、部屋毎にテーマが異なるが基本は三色を置いている。一階の部屋数は十以上、各フロア似たような構成になっている。城として利用したのは300年くらいだろうか、ここでの歴史を知らないため調度品から推し量ることは難しいが、何てことはない、紋章の有無だけを探ればいいと理解できたのだから。それでも、このような状態でも探究心は尽きない、これが私という存在なのだろう。階段も石とモルタル、コンクリートから出来ている、幅は狭いが、一方通行となっているのだろう。階下に比べ、『瘴気』の影響が薄くなる、痛みが抜けていく、この先に典獄がいるからだろうか… 未だに『瘴気』を相殺することはできないが、その方法は既に知っている、相剋、陣には陣を当てるしかない。当然だが、エアは結界を持っている、故に『イジェートル・サバイユ』を軽視していた、但し、今の私にはそれをコントロールすることができない。恐らく、発動するだけなら可能だが、その結末を予測できない。それが、『イジェートル・サバイユ』以上の破滅を招いたとして、本意ではないことを許容できる状態にはないということだ。さて、これが唯一の道と知れば私はどうする、すぐにでも被害を計算するのだろう、すべてを受け入れるために…
本館3階の一室、典獄の他に数名の看守が事務作業をしていた。
他と比較して間取りが広い、サロンとして利用していた部屋だろうか、採光用の窓に細かな装飾がされた柱、床の紋様、蔦から繋がっている。壁際には机が並び、小振りなモニタに端末、書物に書類が並べられている、書物の背表紙には剥き出しの端子が付いている、端末に接続することで出入力が可能になるのだろうか。典獄はこちらに気付き、椅子を回転し向き合う、怪訝な顔で心神喪失の状態にないことを確認し、徐に立ち上がる。机の上部の棚は冷蔵庫になっているようだ、開けるとゆっくりと冷気が降りてくる、中には瓶のみが並べられている、そこから二本を取り出し、内一本をこちらへ放り投げた。空中で五回転してから掴む、水色の瓶は見た目通りよく冷えている、中身は水か。
「さて、何を掴んだのか?」
看守たちはこちらの様子を気にすることなく、事務作業に傾倒している、特殊な環境故に多くのことに注意を向けることはできないのかも知れない。
「収穫はあった。ここには地下室の他に、地下へと潜る階段があるようだが…」エアは当然知っているだろうという体で答えた。
「地下は、また別世界へと繋がっている、私も詳しくは知らないが、国からは触らないように言われている。故に、気に留めたこともなかったが、この国の成り立ちとも関連がありそうだ。お前を止めはしないが、過去に戻った者もいないそうだ。しかし、隠し通路からではなく、中庭に通路だか穴だかを設けていたように思う。もしかしたら、昔はそこから囚人を捨てていたのかも知れない。ところで、『瘴気』は克服できたのか、あれから数時間も経ってはいないが…」典獄は瓶の蓋を折り、中身を飲む、蓋はないらしい。
「いや、今も煽られている、首尾は上々と言いたかったところだが、何もかもが上手く行くとは限らない。しかし、『イジェートル・サバイユ』を組み伏せる算段は付いた…」エアは典獄に付与された紋章についても探る気はあったが、自身の状態を鑑みる。
どのみち、何も残してはいないだろう。
「結界ばかりを問題視しているようだが、『イジェートル・サバイユ』は結局のところ子供と変わらない。二千年の時を経て多少の知識を得たようだが、その差が埋まることはないだろう。ところで、教会にいた双子のことは何か知っているか?」
「いたような気もするが、特に興味がないので覚えてはいない。もしかしたら、この部屋の何処かに情報が転がっているかも知れない。ここには死刑囚以外にも色々と混じっていたこともあるからな、全くの部外者という可能性もある、門が閉じられることはないのでな」典獄の知っている訳がない、という冷ややかな笑み、寧ろ、日常を放り込まれたことによる期待そのものに見える。
「知らないのであれば結構、そもそもお前にとっては業務がすべてなのだろうから」エアは地下へと続く道を探す前に休憩を取るべきか一考する。
この状態で満足に戦闘ができるのかどうか、道を進めば『イジェートル・サバイユ』と出会す可能性もあるということだ。当然、『瘴気』以外の脅威が本質となるだろうから、対峙してどうする。当初の予定では懐柔を目的としているため、消滅は望まない、且つ、純粋な力のみで通用するのかどうかは確かめる術もない、不確かな言に基づく希望的観測も同様の価値を持つが、果たして… 万全とはいかないが、備えるべきだろう。
「部屋を借りたい、余ってるところはあるか?」
典獄は少し考える素振りを見せてから答える「このフロアにも部屋はいくつもあるさ。そうだな、お前には奥の部屋が合っている、後ほど遅めの昼食を用意しよう」
エアは奥の部屋へと移動する。
部屋の手前には4階へと続く階段が見える、炭のように黒い手摺が上下に2段並んでいる、淡い光が転ばぬように段鼻を照らす、また、暗がりを照らすように空では雷鳴が燻っている。仮眠室か、他とは違い、趣向とは異なるものが並んでいる。シェルターのようなカプセルベッドは、取っ手を軽く引くと床板とマットレスが排出される。仮眠を取れば何が変わるのか、睡眠学習という言葉もあるが、『殥』による効果で並列処理がされるのだろうか。まぁ、考えようによってはここで気を失う分にはリスクも低い、か… ならば、最後に試してみよう。『蛙鳴蟬噪』なるものを、すべて撃ち落とす…
エアは再び紋章を顕現させた。
その兵器の名を『徽』という、あらゆる情報を紋章として保管し、任意で取り出すことができる。この場合のあらゆる情報には生死に直結するものも含まれる、戦闘であれば弱点に当たるものだろうか、状態から極限まで練り上げられた情報は容易に人を殺す。また、それだけではない、現時点では繙くことはできないが、紋章という形を取ったことには意味はあるのだろう。兵器の性能を引き出せてはいないが、今の私にはそれくらいが相応しいということなのだろう。『リニア』の解析すら進んでいる、これは誰かに教わったものではない。摂理に於いて、その在り方や存在などというものは得てして理解が及ばずに生涯を閉じるものだ、それだけ情報は大切ということ。尤も、神の真似事をしている連中にも、もしそんな奴らがいるのであれば、一つ教えてあげないといけない。
エアはレールの剪定をし、『リニア』を起動する。
『瘴気』というように、細分化すれば、雨粒のように無数の結界… 小規模の結界が折重なるように構築されている、止むことのない雨のように天から降りてきてはまた上っていく。『イジェートル・サバイユ』の結界内では結論など出せる訳がない、破壊か…破滅か…それはお互い様だろう。『リニア』が撃ち抜いた結界の粒は跡形もなく消えた、『殥』を起動し、それをサポートする。何千、何万のレールが陣を抉じ開けるように伸びていく。すべてを、エアを取り巻くすべてを残らず撃ち抜く、徐々に回復する天気のように、ゆっくりと確実に切り拓く。『リニア』の起動と破壊とで色めく空は戦争のように萌える、光もなく、音もなく、数億の紋章だけがイメージの中で散っていく、それを象った世界がここに在る。
虚空はエアの領域となった。
認識には限界がある、無意識には際限がない、呼吸や歩行と同様で直に慣れるだろう、結果だけを見れば、『リニア』で『瘴気』を払ったことになる。結界には結界を当てるという認識ではあったが、いくつかの論理を飛ばしている、理由はそうできる気がしたから、つまり、これが『徽』の作用であることは理解できる。ポレポレの話に依ればレールはこの世界のものではないらしい、そこには道理を超えた理解があるのだろうか… 分からなくとも受け入れていくしかない、私の存在そのものがそうして出来上がったものとも言える。典獄の表情を捉えることは難しいが、何となく脳裏にその顔が浮かぶ。一定数の理解に能力は不要だろう、その塩梅はこの嵐と似ているが、私には似合わない、寒さに揺れる風説も過去に飛ばした星空も帰る場所はない。あの双子は流転といったか、言い得て妙だ。手放した意識の輪郭をなぞるようにカプセルの蓋が閉じた、今頃は何処で何をしているのだろうか。焦ることはない、盤面を返すことに今更迷う必要もないのだから。
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