16
監獄は断崖の上にあり、周囲に『瘴気』が滞留している、崖を降りるのは自由だが、『イジェートル・サバイユ』との対話は避けられない。縁にはカーテンウォールが築かれている、内外で『瘴気』の濃度が異なるのは単に座標の問題だろうか、老朽化が目立つが一定の機能は保っているように見える。ここにいるのは死刑囚のみ、量刑の多寡はなく、一様に人権は剥奪される、性別すらない、いつ死ぬか、それだけが命題となる。典獄の説明によれぱ、監獄内に鍵の掛かる扉はないらしい、『瘴気』の殺意に当てられた者は通常動けなくなる、絵的には猟犬に射竦められた鶉と変わらない、そして、心的外傷に直面し続けた場合、その目に何が映るのか、何を宿すのか、また、映らない希望に縋ることも許されない。監獄内は人体実験場でもある、どのように観測されているのか、興味はあるが今回のオーダーとは趣旨が異なる。また、典獄の他に何人の職員が在籍しているのかは分からないが、あまり多くもないだろう、この環境下で働ける者は更に絞られるだろうから。正門から続く雑草混じりの石畳の先にはいくつかの古い建物が見える、古城と言い表した方が理解が早いだろう、それぞれの趣旨の異なる建物は連結されており、全体としては一つとなっているようだ、高低差と合わせて立体的な造りの要塞と言える。つまり、単に監獄に転用したことが分かる。恐らく、『イジェートル・サバイユ』が台頭する以前、更に古い時代のものだろうか。いずれかの部屋に典獄が滞在している、この後は自室に籠ってやることがあると言っていたが、特に用がある訳ではない。果たして、この状況に進展があるのかないのか、頭の片隅には入れておく必要がある。一方、死刑囚は特にすることもない、視界にあるのは踞るものと転がるものと、誰も動いてはいない、死体は消えると言っていたのであれで生きてはいるのだろう。彼らは死を受け入れ、ただその時が来るのを待っているのだろうか、表情からは何一つ読み取れない、そういう意味では既に多くのものを失ったのだろう。まるで別世界を眺めているような気分だが、このまま浸っている訳にもいかない、私も例外ではないからだ。今もこの身体を侵食するものが見える、抵抗しなければやがて死に至る。しかし、『リニア』は干渉しない、頼みの綱には数えないが、指の隙間を零れ落ちる砂を見ているようだ。無干渉の理由… 軸が異なるような感覚だが、厳密にはそれも思い違いをしているように感じる。では、結界とは何か、スタート地点が遠い、命の賭かった状況下ではあるが… 爪の先ほどのトリガーか、秒読みの段階に入ったと見るべきだ。
エアは奥の建物に向かって進む。
あそこまでは300メートルほどの距離か… 既に異変はある、石畳を踏む感触が薄い、視界が歪み地が剣山のように迫り上がる、情報の伝達不足か遮断、自由の利かない身体に不透明な展望、ただ進むという目的に付随しない手段そのものを否定されている。何のために進むのか、他に道はないのか、進む必要はあるのか、生命活動の停止や死後は何を解決するのか、救済に引導、その他の渇望、考え得るすべての理由を否決されたような、取り巻く環境は仰々しい審判のような息苦しさを連れ、秩序のない傍聴席には隣国を含むあらゆる悪意が息巻いている。足を掬うように闇が開く、死を想起させる虚無が足元から拡がる、これが刑の執行であれば一抹の納得はできるというもの。但し、この場にあるのは敵味方ではない、意思の比重が泡のように変動している、何を思えばいい、次に動かすべきは右脚だろうか… 中枢神経系が麻痺したかのように動きを止める。現時点に於いては差し迫った危険はないが、この状況の連続を仮定できない、分析より何を優先しなくてはならないのか、まだ数分しか経過していないが再考を余儀なくなれる。歩行にすら抵触するのであれば、当然、目的地には辿り着けない。しかし、この雨音が止むことはないだろう、銃弾のように鋭く地を抉り、飛沫と共にレーダーのような波紋を作る、その光景にひたすら心を奪われるように、ただ一つのことだけを考えてしまう… 例えば、空の青さも見上げればこそ手に入る、このように俯いたままでは気付きはしない。焦りすらも否定をされる、再考する必要がある… 振り向く理由すら持たなくなれば、私は何をしている、自律神経まで届けば危うい、それは理解できる。
私は現時点までに何度同じやりとりをしている?
ブレインフォグ…脳への影響が大きい、思考に靄が掛かるこの状況を廃棄する他はない。つまり、目的を手放すこと、これがこの場に於いて残された唯一の正解だ。何処へ向かうにも通常は目的やその他の定義の設定がされるものだが、ここでは手段の選択と到達までの概念が懸け離れてしまう。囚人との違いは、意思決定に於ける策定に左右されるからだろうか、どうにも損失とは釣り合わないように思える。思考を捨てる、確かにそれ以外の解はないように思える、でなければこのまま歩行すら満足にできず、視界の端に映る彼らと同じように朽ち果てるだろう。やはり、ものは考えようだ… 捨てると言ってもどこに捨てればいい? 計画は一旦破棄するが、目的は変わらない、思考が一つに絞られるならば、これからすべきことも決まる。『殥』を使う、現時点で抱えているすべてのパラメータを入力し、ただ実行すればいい。ルアは『殥』を最速の演算子と説明していたが、ただの演算子ではない、今までは出力された値を拾うだけだったが、入力の大半は視界を通したものだと推定される、半自動で何らかのタスクを実行している。結果的には人工知能のようなものだが、それだけに留まらない。その可能性について、現時点で持っている情報はあまりにも少ない。アクセスを試みる、瞬間に負荷が上がる、赤の紋様はまるで涙のように静かに零れ、同時に熱を帯び、やがて痛みに変換される。起動に成功したのだろうか、左目から伝う世界が染まる、意識を失うことだけは避けたいが、負荷の上昇には何らかの価値がある筈だ… 接続に関してはこれで合っていると思われる、結局のところ、脳を拡張する兵器である。初期にあったレールの消失に関しても、何らかのエラーが起因していると思われるが、干渉自体は私の意思を組み替えていないだけだ。現時点でできることには限りがあるが、この身体を制御するのに問題はないだろう。
歩行に関してはこれくらいで実用レベルか。
エアは目立たぬように歩行の練習を続ける、『リニア』を相殺し出力を調整、筋肉の収縮の代わりに、関節を運ぶ。ぎこちなさを悟らせたくはないが、制御の課題のすべてはクリアできていない。まぁ、目撃されたところで、『殥』による代行とは思われないだろうが、ある種の疑念は抱くだろうか。あとは深層学習次第か、視覚や感覚から必要な情報を取捨選択し、パターンの生成さえ出来れば良い、脊髄から歩行リズムの生成まで、あらゆる情報を拾う。開始から数分が経過したが、既にモデルを獲得したと見ていいだろう。細かな位置補正も問題がない、歩行や走行、日常生活に支障を来さないレベルで動ければ、戦闘にも転化できるだろうか… 恐らく、神経の伝達より数倍は速い、応用できれば結界内でも相手を圧倒できる可能性が高い。さて、課題であった意思の整合性や支離滅裂な見地に関して、こちらにも『殥』を使う他はない… 先の熱暴走も一時的なものと判断し続行すべきだろう、まだ十分なパフォーマンスを引き出せてはいない。
エアは通路に沿って奥へと進む、城がベースとなっているため、攻防に要を置いた造りにはなっているが既に機能はしていない。囚人が横たわっている、息はあるが身体は動かせない様子、特に何も思うことはない。『瘴気』に当てられたせいもあるのだろうか、思考が一元化し、方々の思惑に対しても鈍化したように思う。例えば、第三者の殺意に対して殺意で応えるような、極めて単純なプロセスを作る、これでは目的と刺し違えるようなものだろう。囚人の中には動ける者もいるが、自身にしか目を向けられない様子。
ここは教会だろうか、外壁に装飾が施された建物の入口には朽ちた格子が掛かる、内部は暗く多くの長椅子が並んでいる、装飾は外壁部にしか施されていないらしい。ここにも囚人が横たわっている。右手には通路が二本あり、僅かな光が差し込む。その他に中庭へと続く通用口がある。なるほど、すべての扉が破壊されているらしい、老朽化が原因ではなさそうだが。
「なんだ、今度は典獄の野郎じゃねーのか… どこぞの囚人には変わりねーが、どうせ変わり種だろう。じゃなきゃ、とっくにくたばってるってもんだ」囚人が長椅子から身体を起こす。
ほう、どうやらこの男は自我を保っているらしい。長く伸びた髪に年季の入った道着のような装い、いかにも囚人らしい… 一年前後は収容されているのだろうか、逆算するとぼちぼち死ぬ頃かも知れない。とりあえず、無視しよう… はっきり言って、何の実りもない面構えをしている。
エアは一瞥してから歩き出した。
「おいおい、折角この俺が声を掛けてやったってのに無視か? それとも聞こえてねーのか?」囚人は長椅子を拳でこんこんと叩きながら続ける「ん? てか、そのジャケットは見覚えがあるな。まさか、『流転』のエアか… てことは、三年だ。マナ様に言われてから三年が経った、これでようやくお前を殺せるってもんだ」
こいつは何を言っているんだろうか、ひょっとして知り合いなのかも知れない。しかし、マナと接点があるのであれば、これからの成行にも影響があるかもな、さて、どうするか。
「急に晴れたと思ったらそういうことか、こんなつまらねーとこに何年もいたんだ、頭の一つもイカれるってもんだ、お前もそう思うだろ? いや、関係ねえか、お前は最初からイカれてたもんなぁ」
計算が合わない、典獄の話では500日未満で死ぬんじゃなかったか、であればこいつは一体? まぁ、どうでもいいか。しかし、ジャケットか… こいつはエアのトレードマークかも知れない。つまり、私も認識違いをしていたのだろう。これは着慣れたものだと思っていたが、それは誤りだった。記憶の上書きがあったものと考えるのが妥当だ。そして、典獄の言では、私は移動時でも常に腕を組むか、ポケットに手を突っ込んでいた、と。もしかしたら端末の操作でもしていたのだろうか、その線が合理的だ、既に過ちを数えられない状態か、こればかりは仕方がない。
「おい、聞こえてるなら無視するなって… こちとらお天道様にも聞こえるように喋ってんだろが!」
ああ、こいつの存在を忘れていた。一文の得にもならなそうな奴だが、このまま喋り続けられるのも鬱陶しい… 始末するか。
「ああ、すまない… ちょっと取り込み中でね。それで、君は何だったかな? 放っておいたところでどのみち数日で潰える命だろう、他にすべきことがあったのではないか? 足りない知恵を絞ってよくよく考えるといい、まぁ、お前のようなものにとって、それが如何に困難なことであるか、想像に難くないが…」エアは両手をポケットに突っ込んでから、振り返らずにそう言い放つ。
「あぁ? 何言ってんだ、お前は…相変わらずイカれてやがるな、どう考えても死ぬのはお前だろがっ!」囚人は床に伏せていた武器を手に取ると、全力でこちらに向かってきた。
武器は所持しているようだ、ブロードソードのような形状をしている、どうやら勢いのままに右腕で振り下ろすらしい。まぁ、私も短剣を下げたままではある、思えば、この短剣の用途も誤りであったような気もする。とりあえず、目の前のことに集中すべきか… 相変わらず思考に制限は掛かるが、局所的であれば問題はない、今すべきことを実行すればいい。囚人は数歩で間合いを詰める、行動に制限が掛かっている様子はない、『瘴気』を克服しているのか、別の手段を用いているのかは不明だが… どのみち間合いを詰めることしかできない。エアも同様に間合いを詰めるように前方へ出ると思わせてから、バックステップで距離を取る。『リニア』で飛ばしているため音もなく、距離感を狂わされた囚人には追従することもできない、単に出鼻を挫いただけで勢いは半減した。
「おや、それでは永遠に届かないと思うが…」エアは最小限の動きで翻弄する。
囚人は向になってエアだけを追う、周りが見えていないのか、振り翳した剣はより多くのものを斬りつけた。支柱や燭台、椅子に棚、切れ味は良いとは言えないが、太刀筋によるものかも知れない、それならば剣である必要もなかった、こいつには棍棒がお似合いだろう。
「私も暇ではないんだが、いつまでそいつを振り回せば気が済むんだ?」
「俺がいつ一人だと言った!」
エアの後方に潜んでいた囚人が短い距離を突進する「死ねっ!」
ナイフを固定しての突進だが遅すぎる… 目に前のそれと良く似た風貌をしているが、こっちは女か。
ここへ来て理解したが、崩壊するレールでも情報が拾えないということはない、エアは既に周囲の索敵を終えていた。新たな囚人の突進を宙返りで躱しつつ、その背中を蹴り飛ばした。長椅子を散らしながら派手に転ぶ。
「いや、たった二人しかいないのか…」エアは挑発を続ける「 それでは勝負にすらならない… 一体、誰を相手にしていると思っていたんだか、お前達は最初から思い違いをしている、もう何も望まずにこのまま朽ちるといい」
長椅子は固定されていた、通常であればこのように散乱することはない… となれば、あの囚人は何らかの防御をしたと見るべきか。例えば、身体を硬化した、つまり、そこまで大きなダメージは負っていないだろう。床に這いつくばりながらも銃を抜く、即座にエアに向けて発砲した。やはり、反撃する余地はあるらしい、出力の加減が課題となるか…
銃弾は二発… もう大丈夫だ、この速度であれば意思が見えなくとも追える。既にレールが弾丸を捉えている、刹那にフィードバック、大事を取り靴底で受けることにした。初弾は衝撃をゼロに、もう一発はそのまま返した。どうやら弾丸の軌跡は見えているらしい、顔面に還るところを腕で防ぐ。やはり、硬化しているのか、そこそこのダメージは残るらしいが貫通は免れたようだが、それでも皮膚を割いて血が流れた。
「まだ続けるのか… 正直、殺す気すら起こらない、そこに価値などないからな」エアは二人に背を向け、中庭へと意識を向ける。
「何だお前…本当にあのエアなのか? 確かに勝負は付いたかも知れねぇ、だが、俺はまだ動ける。これは死ぬまで終わらないだろっ!」
「ああ、そういえば、一つだけ聞きたいことがあったんだが… 答えるまで持つだろうか。怪我を負えば、その分『瘴気』の影響が増すとか、なければいいが…」向かってくる二人の囚人を見てエアは小さな溜息を吐いた。
二人は他にも武器を持ってはいたが、エアには届かない。囚人達は手痛い反撃を受けて床に伏せている。散乱した椅子に資材、その他が戦闘の激しさを物語っているが、大半はエアが出力の調整に失敗して破壊したものだった。
「まだ動けるのか? そのレベルで突っかかってきた意気込みだけは認めよう、余程の低能でなければ諦めるだろうから」
「クソっ 化物め… お前は変わらねぇ、人に不運や不幸を押し付けるだけの災害だ… 生きてちゃならねぇ存在だ、お前等はこの世界に生きてちゃいけねぇ…」息も絶え絶えの様子で、啖呵を切るにも苦しさだけが伝わる。
だからと言って、この私が今すぐに死ぬ訳でもない「いきなり斬り掛かってくる奴もどうかとは思うが…」
もう一人の囚人、女の方は意識がないようだ、加減はしていたが、飽くまでも防御を見込んでのことだ、気絶したのであれば防御できない状況にあったか、若しくは打ち所が悪かったのかも知れない。これ以上ここにいても得るものがなさそうだ、先を急ぐとしよう。こいつらの正体に関しては相変わらず不明だが、典獄にでも聞けばいいだろう。まぁ、あいつも私と同様に囚人には関心がなさそうではあるが。
エアは通用口から中庭へと出る、弧を描くように奥へと建物が連なっている、カーテンウォールは内側に軽く湾曲しており、壁沿いには保管庫が並ぶ。中庭も平坦ではなく中心に向かって大きな窪みがある、そのためやたらと階段が多い。他には止り木のような鉄柱が均等に並んでいるが、避雷針という訳でもなさそうだ。奥へと向かってはいるが、目指すべき場所がある訳ではない、単に全体を把握しておきたかっただけ。地理や設備に物資、囚人も一辺倒ではない、しかし、『瘴気』の配置に関しての情報は得られない、理由がないことも念頭に置いてはいたが、どうにも引っ掛かる。エアの警告は『鳥』に集中していた点から、『イジェートル・サバイユ』は些事に数えていたのだろうか…
隔絶兵器にも序列はある、序列か相性か、まず、『蛙鳴蟬噪』なるものは打ち消して当然のものと言えるだろう、それについての鍵も得た。後は背景を追えばいい、地下通路で接続されているものと考えてはいるが、監獄の地下にそのようなものが存在するだろうか… 背後の教会からは呻き声や悲鳴のようなものが漏れている、あの囚人もまだ諦めてはいないらしい。尤も、結界内では特定のことしか注意が向かず、思慮や配慮には欠けるという現れでもある、生命活動を『殥』に投げている私とはちがうのだろう。さて、何分くらい経過しただろうか、造りから歴史的経緯を探るものの進捗は芳しくない、相変わらず思考にノイズが入るためだ。それでも、現状では他に手段がある訳でもない、選択肢を得られるまでは継続すべきか。
気付けば湿度が増し日が翳る、山に当たった大気のせいか、いや、これはアーチ雲か。ガストフロント、ここにも意思を拾うことはできない、足りないものがあるとすれば? カチッと駆動音が鳴った「やぁやぁ、君はまだこんなところにいたのかい」
これはポレポレか、声がある訳でもないのにそう認識するという不思議な感覚には慣れない… そもそもこいつは何処から話し掛けているのか。
「電池が切れたみたいに全く動けなかったんだ、そもそも僕の外形が動く訳でもないんたけどね。まぁ、それもどれもこれも可能性の問題ではある、僕は座標を手に入れる、君がそれをサポートをする、テレパシーのように君と何も意思がリンクすれば、魔法が掛かったみたいにくるくると回って見せることもできるからね」
「ところで、今はどこにいる? 宿舎との距離はかなりのものだが」
傍から見れば独り言のようだが、ポレポレの相槌のような不思議な音が鳴っている、誰にも届かない声量でも会話にはなるらしい。
「あれは目印に過ぎないよ、だから、次に必要なものは目標だよ。マナは間もなく次点へと駒を進めるだろうから、君は追いつかなくちゃいけない、それも、いつかではなく近い内に必ず、でも、そうはなりそうもないから僕がいるんだ。君だって本当は気付いているんだろう、認識ばかりが世界じゃないよ、誰も彼もがそれぞれに好き勝手をして、それでもぎゅっと纏めたものが前提となるんだ、だから、本来であれば一つ持てばいいだけの想いが数え切れない程に枝分かれしてしまった、時が経つほどに数が増えて最期はまた同じところに帰るんだね。僕がこの目で見てきたものはそういう世界だ、君にも想像できるからちゃんと見た方がいい。いいかい、一度は立ち止まって、しっかりと観るんだ」
とりあえず長いな…嵐になる前に避難すべきか。エアはカーテンウォールに沿って進み、最奥の神殿らしき建物を目指す。中庭にも『瘴気』が充満しており、初手でここを進むことは困難だったことを理解する。現状でも侵食は止まらないまでも、思考には干渉しないように境界を、拙いながらも定義することはできる、単に意思の強さが引き金となる訳ではない、本能的な欲求か、色めく感情か、恣意的な思索か、そこに優劣がある訳でもない。飽くまでも、特定の感情に反応するという話になるが… 結界や『イジェートル・サバイユ』への理解が足りない。神殿は柱にパネルを差し込んだような造りになっているが、それなりに装飾されている、荘厳なパーティションと言ったところだろうか。まぁ、神殿には違いない、背景を探るには十分なものだろう。左右に6本ずつ柱が並べられ、中央が入口となっている。祭壇や像はないが、かつては存在したらしい。エアは入口近くにある木組みの簡素な椅子に座る、丁度全体を見渡せる位置にある、どうやらここにも囚人はいるらしい、建物伝いに来たのか右手側の通路近くの椅子の横で眠るように項垂れている。さて、まずはポレポレか、理解力の落ちている今の状況では十分な会話にはならないと思うが…
「それで、マナの向かう先に心当たりはあるのか?」エアは先程と同様にぼそぼそと話す、脳内でも会話になるのか試したがポレポレの反応はない。以前にも試したことがあったのだろうか、覚えていない…
「それはいつだって『権勢』のためだよ、マナの仕事は本来『鳥』を所持することだけだったけど、それだけじゃない。『鳥』に支配されながらもどうにかその心を保っている、だから、『権勢』との対話を試みることにしたんだ。君がすべきことを言うよ、一番大切なことは『鳥』は探っちゃ駄目ってこと、心を失くすからね。『権勢』を直接相手にするのも駄目だ、彼らは簡単に言えば前時代的な存在だから、つまり、今は支援に徹するべきだ」
心を失う、か… さらっと危険なことを言うが、それはエアの手記にもあったことだ。つまり、エアは何らかの事象に対して先手を打ったのか、若しくは、失敗をしたのか。または、どちらでもない、路次か… 項垂れた囚人からは歪な存在感が漏れている、これは私の意思を反映しているのだろうか。雨が降り始めても神殿は静まり返っている、ステンドグラスと抽象画が生み出す青白く染まった空気に燭台の火が当たる、その隙間に演出された雰囲気と良く似ている、互いに譲らず、寄せ付けず、干渉することなく孤高を臨む、冷たく湿った空気が執り成すカウントダウンは止まらない。『権勢』なる存在も不明瞭ではあるが、絶対者だろうか、典獄の言からも徒事ではないことは分かるが、対話を試みるのであれば理解の及ばぬ連中と見るのが正しいだろう。
「多くのことを考えては自身で否定を繰り返しているね、ここ監獄でのシミュレーションの果ては破滅と相場が決まっているけれど、何故か君だけは平気な気がするよ。だって、この僕にも見えない未来がすぐそこにあるんだ、境界を超えるものはいつだって君のような存在ではなかったけれど、もっとずっと単純で、後先考えずに走るやつだ、そうだろう? つまり、二面性ならぬ界面こそがそれを可能にするんだ、シフトの先にあるものを僕はずっと待っているから。君はどうだろうか、傍目には単純に映るものの葛藤をいくつも重ねている、手間でも億劫でも拘泥があっても考慮するだけで触らない、いや、触れなかったのかも知れないね。それは過去と現在とをごっちゃにしているからだろう、いつだって目を覚ました瞬間は何ものにも囚われないのにさ、そうしたものも一切悟られないように生きてきた、十分に卑屈に姑息で、僕にとっても誇らしいことだよ」
相変わらず会話にならないが、ポレポレはそういうものではない。最初からそうだったが、ただ傍らにあるものなんだろう。
「あと、君はいくつかの思い違いをしているけど、それぞれの立場でしか導くことのできない道理がある、誰もが思い違いをしていて、それが正しいことにはならなくても否定されなければ同じことになってしまうの? 結論は急がないまでも、刻限はあるものだよね、間に合わなくても、間に合ったとしても大義や情勢はその形を変えるだけでしょ。それさえ忘れなければ、誰かが覚えてさえいれば、少ない確率が弾かれて、飛び出して、転がって、どこまでも走っていくかも知れないね。君が言ったんだ、この薄氷はどのみち撃ち抜けないんだよね? 糸よりも細い道を、抜け道を知っている僕だけが何かを期待するのはいけないことじゃないでしょ、子供の危険な遊びでも爪痕を残すことはあるんだから。君が言いたいことも理解しようとは思うけど、やっぱり難しいよね、泣きたいくらい叫んでも聞こえない、最初から君が遠ざけたからだ、泣きたいくらい後悔してももう遅いから、すべてを失った後でも時間と共に次々と色んなものがやってくるから。だから僕はその時が戻るように祈ってる、期待している、そこには何も力がなくても不可能じゃない、だって、証明するのは君だから」
「好きなように期待すればいい、そこに望みがあれば」
エアの独り言に返事はなかった。
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