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僕はただそこで待っていただけなんだ。
誰が悪いとか、誰が悪くないとか、今となってはどうだっていいよ。
だけど、今だから言えることもある。
君が教えてくれたあの場所。
そこで待っていれば望んだものが手に入ると。
いや、そうじゃなかったかも。
とても古い記憶で物語の前後すら覚えていない。
僕はそう騙されていただけだったのかも知れない。
嘘か誠か、どちらにせよ結果だけがすべてを喰らう。
過去も未来も容易く翻っては静寂に包まれた日常を裂いていく。
これが僕の一つ目の後悔。
僕は死をぼんやりと恐れていながら、簡単にそれらを振り撒いた。
地震や津波、災害で失った多くの命と同様、僕にとってはそれらはただの数字でしかなくて、直接目にしたものでなければ実感が湧かないというのが普通ってことなのかな。
僕はその先に立っていたのだろうか、いつの間にか命の形そのものが分からなくなってしまった。
多分、命というものには形がないのだろう、だから、心で触れるものであったはずなのに、もう取り返しがつかないところまで来てしまった。
だから、そうなる前に自分の命を捨てなかったこと。
僕には捨てることができなかった。
そこに考えられる理由を集めても一つもなかった。
目的の喪失は損失ではなくて、僕の存在以上の意味があったのだろうから。
二つ目の後悔も一つ目と変わらない。
後悔は生きているからできることであって、僕が奪った多くの命は決して戻らない。
山も湖も空へと飛ばし、陽も遮って、暗がりを好むように世界は暗く黒く染まっていった。
僕にはもう僕の形すら分からなくなった、闇の中で多くのものの境界線が曖昧になっていくように。黄色の雷が横に走り、黒の毛玉のようなものが輪郭を塗り潰す。クレヨンで書き殴ったような世界に僕は溶け込んだ。
一つ、二つと容易に数えることすらできなくなった、数字の消失は破壊と同義だったのだろうか。
遡ることさえ禁じられた、蝕まれる感覚すら蝕まれていく。
そうして、時の流れに削られて、最後にこの命だけが残った。
山を越えたその先の山に目的のものがあった。
標高5000メートル以上の山脈は大人でも越えることは簡単じゃない。
子どもの僕には不可能だと言われた。
確かに、簡単ではなかったけれど、僕にはそれができた。
凍てつく風や雨に氷雪、ナイフのように尖った岩肌、底のない崖や月のような落石も僕の命を存分に脅かすけど、それだけだった。その心さえ一度燃やしてしまえば僕もそう簡単には壊れない。
お腹が空いても、血を失っても、手足が思うように動かなくても、視界が虚ろでも、その上から押さえつけてしまえばいい。
とにかく、僅かでも意識が残っていれば僕にとってはあやつり人形と一緒で、いつしか痛みすら感じなくなった。
いや、痛みを通り越していたのかも知れない。
やっぱり命はぎりぎりのところで取捨選択を繰り返し、僕にしては的確な判断で必要な情報だけを残した。
そんな感覚は最初からあったものではないけれど、道中で気付いたものだったと思う。
それは不思議な山だった。
樹海を抜けた先のとても遠い場所で、すぐには辿り着くことはできないと思っていた。
ただ、辿り着けないとも思わなかった。
方向さえ合っていれば、時間は掛かるかも知れないけど、それだけのことだと考えていた。
そこでは様々な植物や動物が檻に閉じ込められたようにひっそりと生きていた、虫やキノコや菌も。
彼らは僕を発見すると騒ぎ出し、次に逃げ出した。
武器も持たない僕に戦う力なんてないのに、そう思っていたのは僕だけだったのだろう。
多分、少しずつ変化していったんだ。
心も体も擦り減らして、代わりに得たものがあったんだ。
僕は何もしていない。
そう思い込んだりもしたけど、結末が変わる訳じゃない。
隣には誰もいない、最初からそう決まっていたのかも知れない。
この町で僕は最初から他所者だったけれど、僕がそれを決めたことは一度もない、どのように振り返ってもおかしな話だと思う。
思い出や顔見知りにそれほどの価値があるなら、排斥は馬鹿馬鹿しいって言ってみれば良かったのかな。
何かが変わると思えないから誰もが行動を忘れて、また思い出が増えていく。
その繰り返しだけで何かを食い潰すには十分だったのかも知れない。
僕には僕の物語があって、見返りを求めればもうその時は僕じゃない誰かになっている。最初からそう言ってくれれば良かったのに、やっぱり結末は変わらないのだけど、何かを考え直すきっかけにはなったと思う。
あれから何年経ったのだろうか。
僕の頭の中には数字が残らない、昨日も今日も明日も区別が付かない、ただ目の前のものを壊して、その地に触れれば絶え間ない振動が拡がる。
波紋とは違う性質の、もっとずっと質の悪い何かだ。
異能に触れてから、僕の成長は止まったままだった。何かを覚えては何かを忘れ、波のように音だけがその場に散っていった。
波は徐々に大きくなり、山も地も沈んでゆく。
これは知恵の実だ。
誰かがそう言った、それを食べたときの僕はとっくに壊れていたと思う。
でも、その言葉を覚えていたから敢えて食べたんだろう。
もしかしたら食べた後にそう聞かされたのかも知れない、けど、僕と会話ができるやつなんて限られている。
本当にそれはとても限られている。
だけど、やっぱり何も変わらない、手遅れだったんだ。
悪意も知性には変わらないけど、求めていた訳じゃなくて、最初から判断はできていなかったんだろうね。
君の忠告はもっともだと思った。
僕にはもう戻る場所なんてなかったのだから、山の向こうにでも行って、一人で生きていけば良かったんだろう。
それが君の描いた理想だけど、僕はもう何も望んではいなかった。
だから、そんな僕の希望がなんなのか、それを確かめたいと思ったんだと思う。
確かめる術はあったのに、それを怠ったから、色々なものが全部悪い方向に転がってしまった。でも、それが僕の希望であったなら、僕にとっては良い方向に転がったってことだ。
これが?
最初から君なんていう存在はなかった。
ただ、イジェートル地方のサバイユという山があっただけだ。
喰い殺すか、叩き殺すか、生き残るためにこれだけの殺意が求められるのか。
分からない、でも僕には殺意の他には何も残っていない、それも生きるためでなく、殺すためだけにただ殺している。
その、ただ殺すという行為が腹を満たすのならば、そういうものもここにはあるのだろう、一応の理解はできる。
でも、立場が逆であったならとても認められない、分かってるからやっている。
大いなる暴力の前に立ちはだかる者、もしかして、それこそが僕の求めるものだったかも知れない。
果たして僕の前に立っていられるものはいるのか、いないのか。
それはもちろんいるだろう、何の取り柄もない僕に何ができるというわけではないのだから。
何か特別なことがあるとすればそれは何だったのだろうか。
止まれ、何かがそう言った気がした。
振り返ると、見るからに王様という出で立ちで、少しだけ他のものとは違いがあるような気がした。
わざわざ会話を挟むようなことはしない、次の瞬間には叩き殺していたと思う。そもそも僕に会話を楽しむような技術はないのだから。そうしてから、従者が何かを叫んだ。
それも次の瞬間には消えた、やはり、死んでしまったのだろう。もう動かないのだから、生きてても死んでても同じことだと思う。誰かが何かを考えたところで、多くのことには左右しない、その中で完結するかそうでないか、伝達もやっぱりそういう類のものなんだろうね。
徐々に思考する時間が増えていき、それだけの期間を独りで過ごした。
そんな僕にも仲間はいるのだろう、同類であればまだ会話になるのかも知れない。結局は殺すとか殺さないとか、そういう単純な話にしかならないような気はするけど。
要は殺せなければいいのだろう、相手が僕よりも強靭でずっと強いものであったなら、その機会が巡ってくる可能性はある。
死を振り撒く存在。
いつしか死神と呼ばれた、死神が徘徊する国に未来はない。
そんな簡単なことくらいは僕にも理解できる、但し、僕も成長している。
あの頃の僕には何もかも大きく見えた、光はちゃんと眩しく、樹はただ巨大で、山は認識の外にあった。意識するかどうかが鍵となり、僕も成長することを理解できた。
例えば、千年に一つ年を取るとか、恐らく、そんな感じだろう。実感を伴わない認識も捨てるには惜しい、どのみち忘れてしまうのだけど。
だから、記憶に関する事象が僕のすべてになってきた。
生き死にはどうでもよくて、死にたいとは思っていたんだろうけど、それ以上にすべきことがあった。
そのために僕ができることは少ない、そういったものを学べる場があるという訳じゃないから。
僕にあるのは俯瞰する景色と怨嗟の声だけ。
意思とは無関係に繰り返される殺伐とした光景。
それを眺める僕は誰?
僕が死神という訳ではない、感覚を共有しているけど、それだけのことなんじゃないかって思えた。
僕が二人いるのか、他人と同居しているのか、そのどちらかだろう。
自分のことも大半のことは知っていた気になっていたけど、肝心なことは何一つ理解していなかった。
欠けたピースが埋まるとき、僕は完成するのだろうか、やっぱりその先はどうでもよくて、分からないままに死ぬのが多くの人にとって幸運となるのだろう。
止まれ、何かがそう言った。
周りには何も見えない、見渡す限り何も残っていない、それが僕の存在そのものだから。
食い潰す、山も湖も川も崖も均してしまえばよい、その方が簡単なんだから。
決して正しいとは思わない、けど、間違っているとも思えない、それらを押し付ける存在がなくて僕は困っていたのだろう。
その時はその声が辺り一面に響いた。
空に何かがいた。
身体が大きくなってからは下ばかりを見ていて気付かなかった。空にも多くのものが浮かんでいる。
死神め、ただ滅びを享受すればいいものを。
そう言ってから、それは槍を投げた。
勢いよく飛んだ槍は僕の身体に深く刺さり、次に血が流れた、頭に響くこの痛みこそ、僕が求めていたものなんだろうか。
痛い、痛い、そう思うほどに実感が戻ってきた。
僕は誰だ、この怨嗟の果てにあるものは決して正しいものじゃない。
空にあるものとの戦いは長い間続いた。
僕は死なない、簡単に死なないのかそうでないのかは分からない、薄れゆく意識と途切れた意識の隙間をただ闇が埋めていく。そうして、何事もなかったように次の戦いが始まる、このままではいずれ相手を殺してしまうだろう、ただ逃げれば良かったと思う。
この身体を引き裂くような痛みも、初めは鬱陶しく思えたが、今はそうでもない。
心と体が分離したかのように輪郭が曖昧になっていった。
この感覚は初めてではない。
僕の鋭い爪や牙に角、纏わりつく闇が、飛び回る槍を破壊した。爪で切り裂けなくとも、牙で砕けなくとも、角で弾けなくても、次に襲いかかるものがあれば対処は困難だろう。僕自身は争いに興味はない、何もないのであれば、それはそれで良かった。
だけど、今は気付いてしまった、良くない感情が芽生えてしまったのかもしれない、これは退屈という現象だったのだろう。
退屈だ。
日常を喰らえば次に退屈が襲う、このまま戦いを続ける方が良かったと思った。
空に浮かぶものが何かを叫んでいた。
元々嫌悪していたものだ、更に嫌悪が集ったのだろうか、この戦いは対話と変わらない。
痛みも何もかもまどろんでいく。
高速の動きに景色の方が追いつかない、やがて、空間がひび割れて大きな音を放ち始めた。
夢か現か、僕の周りにあるものは例外なく黒ずんでゆく。
光が失われ、画一的な闇に支配される。
その時、騎士は言った、『鍵』をくれてやろう、と。
僕の分離はより明瞭に、朽ちた木々が風もなくざわめく、ただ支配をするのはいずれか、明け渡しや比較、拘泥、生死の境目を決めるものが中空にあった。亀裂の中は真空状態ではない、さらなる下降を求めた、まるで異なる世界と隣り合うように対立する格好となった。
雨のように、雪のように、嵐のように、言葉が降ってくる度に僕は震えた。それ以外の表現ができずにいること、鎌鼬のように切り裂かれること、尺度を持たずどこまでも矮小であること、今ならば塗り替えることができる、この血塗られた歴史を。それを希望とは呼べないが、少なくともここから離脱することで、退屈を求める僕という存在を消し去りたい。今も一つの命が失われた、翼を失った鳥のように地に落ちた。僕が受け止めたところで、死が加速するたけだ。僕には救うことができない、死そのものだから。
恐怖があるならば、痛みの外に、持ち得たものは取捨選択の後に。なびく旗も、鈍色の兜にも価値はあった、僕が奪った生命は闇に伏せ敗北を語る、もう正しさは主張できない。敗走することで得た知識だ、僕にはそれを判断することもできない。思念の渦に当てられて、一瞬で数年が経過した。僕はもう自分を知らない、その『鍵』に鍵穴はなかった。ただ静かに、僕は僕に別れを告げた。あれから片割れはどうしたのだろうか、元は僕だったものだから特別な存在ではあるが、何故か感知することはできない。何処にいるのか、生きているのか、動いているのか、留まっているのか、寝ているのか、一切の情報がない。向こうも同じだろう、自分で自分が分からない、自覚のない
私を呼ぶものに名はあるのか。
死神は死なない、殺すこともできれば避けたいが、人や獣には特性がついて回る。だから、なるべくしてそうなった。かねてより二つあったものが元に戻っただけなんだろう。でも、またいつかは一つとなる、そう最初から決まっていた。『鍵』があればこそ、時の融通がきいているだけ。その時までにいくつか手に入れるべきものがある。これまでの経緯から推測すると、時間はまだ多く残されている。しかし、それ以外のものはそう簡単ではない、私はそれだけ多くのものを奪ってきたのだから、カウンターも比例する。
この世界は理知や趨勢に左右されない不可視の道理が走っている。私のような存在がまさにそれだが、私自身はそれを良しとした訳ではない。後悔とも異なるものだが、不運や理不尽によって閉ざされる道に目を背けてきたことで付けが回ってきた、死神が死を説くなんて喜劇だろうから。すべての罪は死で償うべきだが、罪の定義が揺らぐようでは弱き法となる。例えば、偶像崇拝は罪か、窃盗は罪か、過剰防衛は罪か、答えは簡単だ、圧倒的な力が裁けばいい。
私は私を手に入れる、そのことでまた多くの時代が流れるだろう。
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