12

「おい、あの噂を聞いたか?」

ブロスは面白くないといった顔のままコシェに声を掛けた。夕暮れ時、軍事訓練の最中、模擬戦用の槍を振る腕が止まる。城壁内、騎士は血統や秩序、矜持のために動く、領地や統治、または王や国のために働くことはないが、結果的に守るべきものをただ守れば良い。そこに利点があれば利用し、時には利用され、時と共に縺れていくもの。今度の訓練には200人程度が参加しているが、過去には500人を超えることもあった、近年では参加率の低迷が問題視されている。その理由としてはいくつも考えられたが、主に第三勢力や不穏分子の台頭が挙げられる、現時点でも国としての対応には至らない、後手に回るつもりもなく、単に経過観察とすべきか、または、全く別の方角だけを見据えている、その様な一面だけを見せている。まるで黄金の天秤を掲げるように、勇壮の背後に隠蔽された緻密とは言えない思惑を露呈させている、そのように垂直に下げられた意図を受け取らぬ者もいない。

「なんだ? 噂など腐るほどあるでないか、話題というだけでも数え切れない。しかし、その調子では積年のものか、お前も貴族にあるまじき分かりやすい性格をしている」コシェはしたり顔を崩さない。

ブロスはその指摘に一瞬躊躇ったが、そこまで織り込み済みであれば、より面白くない結果となるのは明らかであったため流すことにした。

「今は別だ。それより、次期鍵主の選定だが… 何でも、ジュリアが候補者に決まったらしい…」ブロスは未練を地面に叩きつけてから続ける「そもそも、クルミエ家は下位貴族だろう、その上、ジュリアは養子って話だ。爵位のない鍵主など、前例がない! 聞いたことがあるか?」

「いいや、俺が知る限りではそのような歴史は存在しない。もし、そうなった場合は、いや、あり得ないとは思うが… 対外的にはどうなる? 無論、公表していない以上、鍵主の存在は伏せられてはいるが、それは、そういうことになっているだけに過ぎない。情報は必ず漏れる、何者にも蓋を付けることなどできない。そして、国力の低下、国家の没落が囁かれる、そこまでは決定事項だ。貴賓の間では、軽んじられる機会が増すことになるだろう、俺は構わないが…俺が仕えるマロシュ家がぞんざいに扱われることだけは許せない」

「何故だ? 鍵主はそれだけ重い役職の筈だ。一体、ジュリアに何の資質が求められる?」

「それは上の連中が決めることだが、槍が上手いだけではそうはならない、もしかするとレスピナス様と見えない繋がりがあるのかも知れない」

「確かに、それは考えられることだ」

「他には…」


「おい! 何をサボっている! 今は訓練中の筈だが…そうか、余程その実力を試したいと見える… いいぞ、俺が相手になってやる、さぁ、掛かってこいっ!」アールが怒号と共に二人に歩み寄る「無論、二人一遍で構わんぞ! この俺に一矢報いることができるのならば!」

周囲の注目を浴びた二人は青ざめたが、アールは既に模擬戦用の剣と槍を構えている、こうなれば立ち会いは回避できない。過去にも同様の経験はある、畏まったところで結果は変えられない、この場は戦場と化した、殺るしかない。アールは同時で良いと言った、それならばこちらにも目はある、実力差を考慮しても可能性は薄いが、とにかく全くない訳ではない。二人は視線を交錯させ、覚悟を決めたが、その決断に至るまでの数秒が命取りとなった。視界に捉えていた筈のアールの姿がぶれる、次の瞬間には背景と同化した槍が伸びてきて鋭く突いた、コシェの肩先を狙った一撃に革の肩当てが吹き飛ぶ、威力を乗せていない挨拶代わりの突きだった、バランスを崩したが致命傷ではない、しかし、攻勢に転じることもできない。コシェは半身で構えながら次に来るであろう剣を待つ。隙が生じれば、もう一人が斬り掛かる算段だったが、アール相手にそのようなものが簡単に作れる筈はなかった。突いた槍は伸び切っていないが、片手で操っている、その姿勢には無理が生じるが、目に映るその姿が作られたものであるのか判別できない。アールはただその目で説き伏せるのみ、つまらないものをいつまでも視界に入れておくのも不粋であると、また、既に結果は確定しているという絶対の自信を振り撒いた。ブロスは撒かれた種に沿う形で剣を振り下ろしたが、剣が届くよりも先に胴当てに重たい蹴りを喰らう、初動は同時でも結果は一方的なものとなる、アールより一回りは大きな身体が数メートル飛ぶ、バランスを崩し片膝を付いた。

「くっ、重い…」

景色が回転するように勢いよく流れる、アールのことだ、これはただの蹴りではない、何らかの技が使われている、眩暈とまではいかないが僅かに平衡に干渉する。やられっぱなしでは、このままでは終われない、地面からアールを見上げる格好が、この屈辱が、ブロスの覚悟を引き出した。この際、軍法など知ったことではない、どれもこれも織り込み済みだ、そうだろ、アールのあの得意顔を見れば分かる、ブロスは伝家の宝刀を抜く。血と鍛錬、系譜と技術、結晶と化した因子が紋章の形となり脳を焼く、単に対価として得られる金貨とは違う、そこに純然たる価値を浮かび上がらせた。

「俺に続けっ、コシェ!」

この姿勢が実に良い、強化された脚力をもって地面を叩く、ブロスは隠すつもりもない、やるならば徹底的にやればいい、後のことはどうにでもなる、どう転んだところで命まで取られる状況にはならないと考えた。伸び切った右脚が反対にアールを指す、ここは真正面から防御を抜く、槍が十字に重なり衝撃が走る。想定以上の速度だった筈だが、アールは見定めている、片脚を浮かして後方へといなす。そして、まだ不敵な笑みを浮かべている、次はコシェと合わせる。タイミングを見す計らって高速の槍を振る、そのつもりだったが、アールの剣がどこからか飛んできた。ブロスは再度加速を掛け前方向へと振り切る。そのままアールを貫く予定だったが、進路にコシェが割り込む。

何故だ…対角にいた筈のコシェが隣にいるという状況を、先に考えてしまった、アールも当然そこを突く、予定通り三つ巴とするべく乗じる。次の反応が遅れたのは優先順位を誤ったから、この疑問は解消しない限りアールの壁となり続ける、そして、ブロスは派手にぶつかり前のめりに転がった。大きなダメージがあった訳ではないが、その背中に槍を突き立てられたならば、この場に於いての敗北感を払拭することは不可能であることを悟った。コシェも潔く真っ向から挑んだ末に、鋭い槍の一撃を貰い銷沈する。

「何も惜しくはない、な。体力が残っていながら味わう敗北は恥としかない呼べない」アールはそう呟いてから、向かってきた時と同じ調子でその場を離れた。

ブロスは拳で地面を叩き、吐き出せない鬱憤と共に宿した紋章を解除した。

「コシェ、何故お前がこちら側にいた… あれはアールの技能ではないのか? しかし、あの表情からは何も読み取れなかった、寧ろ、何もしていないと語っているようだった。何か、別の因子を扱えるのだろうか、俺はその域にいない。技術の差はあれど、そこに違いはないと思っていた、だが、それでは説明がつかない…異質か…」

模擬戦用の槍はパイプのように中が空洞になっており、一定の衝撃を吸収する仕組みとなっている、また、衝撃に応じて発色し、簡易的に負ったダメージを計測できる。アールと打ち合った槍は数ヶ所で破壊を表す紫色に染まっていた。しかし、アールの槍にはそれがなかったことを確認している、その戦いに於いても一方的であったことは変わりない…そもそも、コシェは打ち合いにすらなっていないがな。ブロスはその後も疑問を解消するべく一人考えていた。ここに居ないジュリアのことを、それでも鬱陶しく思い、自身の血統についても再考する切っ掛けとなった。



聖堂に呼び出されたジュリアはクリュシュレと鉢合わせる。

「おや、今日は訓練ではなかったか。まさか候補者という立場に名を連ねたことで、自分には訓練など不要などという思い違いでもしてしまったのか。それならば、体制の方にこそ問題があるというものだ、但し、この場合の問題はただ解決すればいいという訳ではない、各々の思い違いとやらを吐き出した後に企画、調整が必要だろう。しかし、その統制を図る者は存在しない、鍵主は独立した地位にある点からも、主の他には候補者と退いた者しか存在しない組織だ、つまり、誰の指図も受けない、無論、国王も例外ではない、飽くまでも、典範の上での話となるが… まぁ、候補者は特殊な地位にはあるが、断じて特別な存在ではないということだ。今ならば、ジュリア、目的や分析、背景に立案、その何れかに君の意見が通るなどとは考えないで欲しい、同じ立場にある私まで辱められるのは避けたい。そして、それらを解決の道筋とするならば楽ではないのが分かるだろう、無為な時間がどれほど流れるのか… 故に、候補者の選定からやり直すべきと言いたい。尤も、私のように血統に縛られる必要はどこにもないが、それに足りる理由というものは付いて回るものだ、君にも理解が及ぶ範囲で、至極明瞭なものと言えよう」クリュシュレが宥めるように伝える。

「クリュシュレ様、お戯れはその辺で」ジュリアは表情を変えず、伏目がちに答える「今更、私のような者を気に掛ける必要もございません、本日は当代の召集に応じただけなのですから、それ以外に目的は持ってはいません。それに、この立場が辞退できるものであれば、私は既にそうしていることでしょう」か細い声でも芯を残し、また、淀みない所作に合わせて冷やかな空気が流れる。どうやら、クリュシュレは最初からここで待っていたらしい。クリュシュレは返答について思案するものの、確かに、時間こそがこの場において惜しいものと気付くと同時にジュリアへの興味を失くした。

「そうか、君も色々と大変だな。しかし、今後はそれ以上に手間が掛かるようになるが、その様子では覚悟の上といったところか。しかし、そこまでが君の想定だろうか、実際は…場合に依ってはだが、国王からも疎まれ、政治的な背景からも逃れられない、罠とあれば下手人から依頼人、君の家紋に至るまであらゆる情報が塵芥のように散らばり、方々に迷惑が掛からぬように管理をするのも容易ではない、その様な君の助けにはなってやれそうもないが…この先の聖堂には幾分か通じている、最後の水先案内人くらいは、この私が務めてみせよう。君はただその神妙な面持ちとやらを引っ提げて付いてくればいい、誰にでもできる造作もないことだ」

聖堂に人気はなく、石床に二人の足音が響く、柱は高く空へと届くような彩色が施され、天井画には奈落をテーマとした渾沌が明るい色調で描かれている。ルネットには天使のようなものが高飛車に描かれており、また、光を通すような加工がされているため柱の上部と調和、または、一部が融合しており、歪な窓の役目も兼ねている。昼下がり、水面を乱反射するように進む光はキラキラとした粒子を形成する、水光との違いはその場に留まるか、規則に則るか、見る人が見れば不穏としか受け取れない、その様な仕組みでも畏怖であればまだ有効に作用していると言えるが、それ以外ではまだ弱い。ジュリアにとっては、その一押が焦れったいとも言える。この聖堂自体が元々、人を招くような造りとはなっていないため、建物の奥へと続く通路は分かりにくく、クリュシュレの後に続くジュリアは注意深く観察を続ける、自身が歩かされているのかどうか、身体の反応を逐一確認することで、鯨探機のように背後に潜む巨大な陰だけを追う。索敵で拾えないものがあればそれまで、ジュリアには血統がない、積み上げられた知識がない、洗練された知恵がない、何より系譜を大事とする貴族に欠けた視点と、それを補う視野とを俯瞰し、何かと気苦労の多い世界を駆けてきた。この場に於いても何も変わらない。崖に面した回廊、光の届かない地下通路、屋内外を通す理由はここにあったのか、それとも他にあったのだろうか。戦場よりもどこか殺伐としている、それだけが少し可笑しいと思えた。


待合室では先代のロシュサックが一人座っていた。特殊な待合室なのか、回廊と比較しても簡素な造りだった、ジュリアもここへ来るのは初めてだったため、待合室ではなく詰所だと思ったが、並べられている調度品に違いを見る。カプセルに灯した火が揺れ、一定以上の光は即時熱に変換され冷気を打ち消している。

「久し振りだな、クリュシュレ」ロシュサックが柔らかな表情を浮かべる。

先代の孫であるクリュシュレとは距離が近い。ジュリアは本人から聞いた訳ではないが、どこからか仕入れた情報の中に入っていたものの一つとして知っている。それが何かの役に立つことはないと、仕入れ先については思い出せない、しかし、時期だけは覚えている、尤もこの場に於いてもその情報が活きることはないと考えている。

「ジュリアはここへ来るのは初めてか、今日は候補者でも滅多に見ることのない、『坤』について説明する。いや、説明ではなく、これは試練に当たる、か。お前たちには『イジェートル・サバイユ』と言った方が覚えはいいか、何か知っていることがあるなら話しておくといい。我が国にとっては何百年も身近にある存在で、対外的な隔壁となっているものの、実際のところは不発弾を転がしておくのとそう変わらない。国として、鍵主として、これをコントロールすべきか否か、未だに指針さえ決まらない。故に、この先は自身の感覚のみに委ねられる、単にそういう世界だと言うことだ、まずはそれを知るべきだろう。早速だが、その場所まで案内しよう」

「危険はないのでしょうか」クリュシュレは冷静に問うつもりだったが、それが保身以外の何者でもないことを恥とした。飽くまでも、冷静に取り繕った格好に過ぎないが、いくつかの予測可能な現実との乖離を前に必要のない本音が露呈した。危険そのものに決まっている、支配のない『龍』を前にして如何なる手段を用意できるものか、抗うための時間が僅かでも欲しい。その点に関してはジュリアも同様であった。

「『イジェートル・サバイユ』は幽閉されていると聞いたことがありますが、その姿、場所や方法については明かされておらず、竜や蜥蜴、狐を見たとする者もいます、何れも噂以下の情報に過ぎません。実際は如何なる軛を用いているのでしょうか。無論、どのような形であっても私の行動に変わりはありませんが、ただ一つ、その結界が問題です、比類なき強力なものであることは公然たる事実であります。故に、対象との距離をなくせば、この身にも相応の影響があるでしょう。その場所に於いては天幕が必ず必要となります」クリュシュレが慌てて訂正する。

「ただ一言、あれは『未知』そのものと言い換えても良い、誰にも理解はできないままに、我々は鍵のみを何世代にも渡り受け継いできたのだ、初代とて例外ではない。つまり、何が求められる? 何も求めない、誰もその解を知らないのだから。ただ全身全霊をもって当たれば良い、油断をすればそこで生命は絶たれる…人の身で対峙することもまた烏滸がましいのだろう、彼等あたりに言わせるのであればな…」ロシュサックが一呼吸置いて続ける「クリュシュレ、ジュリア、心配せずとも良い、このような心配そのものが些事である、どのみち、思い知ることになる。この先は己が瞳に映すものだけを真実とすればいい、それ以外に道はなく、過去を探したところで妙案もない」

諦観、ジュリアはそれ以外を捨てることとした、元より何も持たぬこの身だけが私であること、反対に知らしめてやればよい。一方、クリュシュレは鍵主としての矜持だけでは収まらない、様々な葛藤が渦巻いている、ロシュサックと交差した視線からそれらが読み取れた。

「あの、一つだけお伺いしても宜しいでしょうか。こちらにはロシュサック様しかいらっしゃらないのですか。本日は、当代からの召集と伺っていたものですから」ジュリアが尋ねる。

「ああ、あいつなら数ヶ月前から留守にしている、連絡が取れないため何処にいるかも不明だ。しかし、これに関しては間違いなくあいつが予定していたものだ」ロシュサックがテーブルを手の甲でコツンと叩く「つまり、何らかの事態を想定してのことだろうが、あいつの長期不在は何も今に始まったことではない、安否についても考えるだけ無駄というもの。まぁ、内容が単純だからこそ、こうして立ち会っている訳でもあるが… さて、日が暮れる前には終わらせたい、早速参るとしよう」

ロシュサックがゆっくりと立ち上がる、背後の大きな影が揺らめいては通路の左右から抜けていく、その前にカプセルの火が一際激しく揺らぎ、影を定位置まで戻す。ロシュサックはやれやれといった仕草と共に待合室の奥へと移動する、先程までは見えなかった通路がそこに現れた、クリュシュレとジュリアはそれを追う。待合室からはそう離れてはいない、地下への階段や吊橋を渡るものの厳重な扉が用意されている訳でもない、いくつかの柱を抜けた先の神殿に『それ』はいた。黒く、禍々しい、まるで不吉の象徴、狐のように尖った顔に鬼火のような瞳を揺らし、四度折れた長い角に細く伸びた手足、暗黒の靄のような大きな身体がジュリアの目には映っていた。

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