11
エアは欄干のない橋を渡る。
蛍光塗料のようなパロットグリーンのぼんやりとした光は地下で見たものと似ている、街の灯と月に照らされている、明るさの基準を持たない設計のためか、多くの境界線が曖昧になっている。闇と空の重さに気が乗ることはないが、これも私の仕事なんだろう。いや、本当にそうなのか… 考える時間は十分にあった筈だが、どうにも引かれる感覚が抜けない、重力の軛を断ち切った反動でもあるのか、機構や深淵といった世界のあれこれとはどうしても反りが合わない。どうにも生きにくい、とでも言いたいのだろうか? そんな橋を渡っている訳でもないのに? どのみち選択したのは私なんだろう。月は変わらなくとも距離は近い、世界の境界線はどこに敷かれているのか、月の大きさで推察できるものではないが。普段、こちらの橋は使わないのだろうか、十分な広さが用意されているが、通る者は一人もいない。先に見える門、と言っても関所のように閉ざされている訳ではない、また、門扉の代わりに兵器が設置されている、白の塗料に厚みのある躯体。恐らく、盾のような役割の兵器で、傘のように展開するのだろう、形状からはそのような機能を有しているように見える。また、堀は枯れているが、水が張っていた跡は残っている、戦時のみ流すのか、或いは、水以外の何かかも知れない、その程度の科学力は有していると考えるが、随処にローテクも混在しているため実際のところはよく分からない。どの道、ここ数年は使われていないだろう。橋の強度もそれほどではない、落とすのは造作もないが、そういった状況も考えるほどにないことが分かる。橋の終わりに門番が一人、こちらを見ている。雰囲気からこの結界と同種の何かを微かに感じる、恐らく、彼が今回のターゲットの一つ、典獄だろう。遠目に見ても、その佇まいから自身の正しさを疑わないことが分かる、また、それらを押し付けることも意に介さない、そういう人種。ルアによれば彼がこの国の執行役、名をハル・イスカギアという。
「久し振りだな。長旅、お疲れ様」典獄から声が掛かる「しかし、お前があの『鳥』の遣いをやっているとは驚いた。いつの間にか…随分とつまらないことをしている…」この砕けた雰囲気はグレンと同様だった。
この男とは顔見知りだったのか、記憶にはないが… また、事前に持たされた情報にもない。
「久し振り、か。今の私には記憶がない、ここへは任務で来ただけで他意はないんだ」エアも気軽に答えたが、正直に回答することがこの場では正しいように思えた。
「記憶がない? よもや『鳥』の所持者に喰われたんじゃなかろうか、あそこは真っ当な組織じゃないだろうに、何故それが分からない。いや、当然、理解の上でやっているか、そうまでして手にしたいものは何だ? お前が興味あるものと言えば自身への探求だけだ、他はおまけみたいなもんだろうに… ああ、いくつかの理由があったか、それは限りなく不正解に近い正解のようなもので、お前自身も認めない。認めないのであれば、価値のあるものとは言えない…」
『鳥』ではなく、『鳥』の所持者か。そもそもマナの持つ『鳥』がどのような兵器なのか、それが分からない。禁忌と言っても、技術的な観点と紐付いている。つまり、認識するだけで何らかの危険が及ぶ、知り得ない領域に安寧と危難とが混在し、まるで不可侵であるかのように振る舞うことで機能していると誤認させる、但し、何れかに到達しなければ解は定まらない、要は発散か、振動か、収束することのない道理こそを概念としている。部屋に残された手記にはそのようなメモがあった、記憶のない私に残された唯一の情報でもある。
「いや、記憶を失くしたのは別の理由からだ。まぁ、どのみち立場上では敵同士なんだ、私に手を差し伸べる理由はないだろう」
「敵同士、か… いや、私はここに籠っているだけに過ぎない、それと、敵は作らない主義なんだ。確かに、立場の違いはあるが、お前と敵対する必要はないと考えている。そもそも、ここは私の結界なのだから、相手にする理由すら持たない。それとも、お前が何かを見せてくれるのか? さて、これから国王のところへ向かうが、準備はいいか?」典獄はそう言い終える前からもう歩き始めている、エアもそれに続く。
「ところで、今日はまた随分とラフな格好をしているのだな。そもそも宝剣も持たずに敵だと言われてもな、お前に私を殺す気はあるのか…」
お前もただのロングコートだろ、とは思ったが、確かに用件からして相応しい格好ではない。宝剣が何を指しているのかは分からない、短剣も携帯したままではあるが、そこは典獄の領域ということで不問ということか。城壁内は遅い時間の割には賑わっており、人々の往来やいくつかの乗り物、兵器が点在している様子が見える。兵器に関しては、誰にでも扱えるとは思えないが、何かに備える必要があるということだろう。それ以外に特筆すべき点は見当たらない。
「今夜は月が大きく輝いているが、月自体は変わらない、取り巻く環境に変化があっただけだ。つまらない見方かも知れないが、月は一つしかないんだ、最初から答えは決まっている、お前の存在もそれらを模しているだけに過ぎない。そうそう、月で思い出したが、月灯もこの街にいるよ、その姿を見たことはないけれど、存在自体が浮いているしな、誰の目にも留まらないのかも知れない。あいつは何がしたいんだかも分からない、国のために動いている訳ではない、個に固執しているだけの考えなしなのかもな。今日はやりあったんだろう? その様子じゃお前が勝ったんだろうけど… そんな暇があるなら、こちらにも手を回して欲しいもんだ」
「月灯… あれは、奇襲のつもりだったのか」
思い返してみるものの、確かに、目的は定かではない。ルアが準備していたこともあの一点に限られる、のであれば、加勢に駆けつけたのだろう、つまり、あの時点で私に抗う術はないと決めていた。しかし、私も成長がない訳ではない、尤も、本来のエアであれば簡単に処理できただろうことは理解している、何故かそう理解してしまう。『リニア』も持たずに、か。その方法はこれから模索する必要はあるが… 常に追われるこの状況がより難しいものとしている、過去と未来を同時ではなくとも並行して切り拓くことが求められる。
典獄のコートに刺繍された鳥のような紋章と銀の羽根飾りに月が差す、街灯の落とされた広場にはほとんど人が残っておらず、対流のない静寂に典獄の足音、特に靴底のプレートが引っ掻く音が響く。広場を囲う形で造られた爪状のアーケードから、光を帯びた粒が絶え間なく流れている、その柔らかな灯りは何を照らすこともなく散っていく。広場の縁には飲食店が並ぶ、銘々に与えられた時間そのものを享受しているように見える。しかし、月灯という物騒なのも住んでいるくらいだ、各々の想定内の範疇も一味違うのだろう。本当に個が強く、常に迸っている、『原始の世界』ならではの光景か。どこか懐かしくもあり、不可思議な理念が縦横無尽に侵食していく。成立しない、する訳がない、そのカウンターもやはり個に集約されるのか、或いは、対立する流れや世界がすぐ隣に存在しているのか。
「これからの流れを簡単に説明しよう。まず、国王との面会だが、これは実に難航した、この私がいるにも関わらず、だ。そもそも会ってどうする? 目的はなんだ? すべてが不明瞭な状態だ。『鳥』の所持者であるマナ様も、本来であれば我々の護るべき対象、御神体と言っても差し支えない、しかし、こうも好き勝手に動かれては困惑以外にない。制御できないからこその『龍』ではあるが、隔絶兵器は決して委ねるものではない。その点に於いて、お前も危うい存在に変わりないが、マナ様よりはいくらかマシだろう。相変わらずその思考は読みづらいが、準拠するものがあればこそだ。此度の目的が和睦というくらいは分かる、表向きの回答にしかならないが。しかし、次は行動の範囲が読みづらい。ここは私の監視下にあり、平時に於いてはより多くの情報を得られるように出来ているんだがな… 厄介な相手ではあるが、乱世にこそ相応しくもある」
マナ様か…聞き慣れない響きではある、組織内では聞いたことがない、今のところ。というか、あれも兵器だったのか、私の想像を軽く越えている。
「それで、国王に会う気はあるのか?」
「あるが…決して、面白いことにはならないだろう。それくらいは分かると思うが、国王とお前でどちらが上ということもない。しかし、対等以上に嗾けることだけは避けて欲しい、私からのお願いだ、後処理が面倒なことになる。やるべきことや課題は多い、山積みの仕事を今まで以上に下から眺めたくはないからな」典獄の落胆が伝播する。
これは、結界の効果だろうか、時点での距離は近いが、離れていても知覚できるような、地点を曖昧にしているような感覚が走る、真であるならば共感覚を与えるようなものか… 身体への影響、差し詰め指先の感覚を確認したが、肉体には伝わっていない、体験ではなく、単に情報として飛ばしている。ここでは『リニア』も走らない、こちらから情報を得るには何らかの工夫が必要と思われる。思考を巡らせたが、読みづらいと言われただけで、何らかの方法でイメージそのものを掴んでいる可能性もある。そう、ここは典獄の結界だ、飛び込んだ私に残された選択肢や手札はそう多くもないだろう。自信の裏付けには明白な事実のみを突き付ける、護衛もなく王へと続く門を通される、これが答えの一つ。
「この先は王宮へと続いている。見張りはないが、センサーは稼働している、単純に行こう。お前の思惑は理解していたつもりだが、なるほど、確かに記憶が抜け落ちているようだ。慎重に事を進めるそのような姿勢など、かつては目にしたことがない。傍若無人…そのものだったが、無論、良い意味でな… 尤も、その勝手な振る舞いもすべて計算の上では許されていた、諸外国や第三勢力に向けた武力の顕示も不可欠であったからな、それは今も変わらないが… だが、ここへ来て、趨勢は新たな局面を迎えたように思う、いくつかの兆しを見た、相応の価値観が求められるだろう。但し、マナ様が動くのであれば、それは諸刃の剣にもなりはしない、双方に、いや、すべてに甚大な害を与え、尚、想定を上回る脅威となる恐れがある。それが『鳥』の軌跡だから。そういう意味ではお前の存在も活きている、お前がマナ様に付いているのであれば、一欠片ほどの不安要素は消えるから」
典獄の表情はどこか安堵しているように見える、私の人間性そのものを評価しているのだろうか。つまり、マナの暴走を止められる人はいない、と。まぁ、一つの視点からは不穏としか言いようが無いからな…分からないでもない。しかし、今はもう関わってしまった、そこには意味があるし、見出さなければならない問題そのものでもある。さて、王との面会も目前だが、今の環境を思えばとても簡単なことのように思えた。
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