-007

霧の影響で視界は遠く、右手は繋がれている、意識はしっかりしているようでどこか頼りない、十回に一回くらいはその場で足踏みをしているような感じで空回りしている。もしかしたら、頭に霧が掛かっているだけで、実際は晴天かも知れない、けど、真偽を確かめるだけの判断力もどこかに隠れてしまっている。今は空を見上げるだけの力も残っていなくて、右手を引かれる力に合わせて、ただ転ばないように足を交互に出し続けた。腰ほどの高さがある小麦畑を横切るように、細い道を一定のリズムで進む、所々根が残る地面は程良い弾力を靴に返す、適度に踏み鳴らされている、獣道のよう。霞が掛かったように、虚ろな記憶をなぞる様に手や足が草木に触れる。確かにそこに在るのに、目を瞑れば気にならない、きっと半分は夢の中にいるのだろう、もう半分がここなんだけど、それだけでは足りないような気もする。ただ、カレンと名乗った姉の声だけは、やけにはっきりと届く。また、右手と右手を繋いでいるのに、お互いにぶつかる訳でもなく、淡々と歩行を続ける。このリズムがそうさせている、これはいつものわたしが歩くリズムなんだ。いつまで歩くのだろう、さっきまでは下っていたけど、今は上っている、どこまでも緩やかで、わたしがもし元気だったなら、気分良く進むことができたかも。少なくともわたしが見渡す限りは小麦畑が続いている、曲がりくねった道も途切れずにいる、今のところすべてが何となくで出来上がっている。恐らく、空では渦を巻くように霧が舞っていて、一定間隔で降りてくる、どこまでも白い世界はさっきまでいた森とは対照的だけど、雰囲気だけは変わらない。霧に紛れてきちきちと鳴く音が遠く高いところから落ちる、虫か動物か、聞いたことのない鳴き声だった、音は地面に落ちていくのか、空に散っていくのか、不自然な反響を残していく。


「大丈夫?」

「うん…眠気は取れないけど…ね」

大した会話もなく歩き続ける、姉もわたしの反応が悪いからか、無理がないように心掛けている様子が分かる、けど、目的地に着くまでは止まったり休んだりする気配もない。どこへ向かっているのだろう、そう尋ねれば良かっただけかも知れない…けど、聞くことによって目的地が変わってしまうような気がして、また、それによって変化する未来にも不安はないのに、どこまでも不思議な感覚がこの身体をゆっくりと揺らしている。ここでも知らないことばかり、あそこから…『蝶』がいた所から、どれくらい離れたのかな、ここは畑ばかりが広がっていて、森の気配は切れた。崖の下に広がる畑には確かな実りがあって、ここで暮らすのに無理はない、きっとこの先に村があって、もしかしたらわたしが暮らしていたところよりもずっと豊かなのかも。でも、村にはまだたどり着かない、何時間も歩いているような気はするけど、そもそも森を抜けたのはいつだっけ、記憶がないのはなんで? 今のわたしには覚えられないのか、痛みはないけど、倒れた時に頭を強く打ったのかも、不安は広がった先から消えていく、繋いだ右手がそうさせているんだろうか。例えば、無限の勇気が貰えるように。ここでは、そうなるように決まっているような、恰もわたしが決めているような、そんなことはないと思うんだけど。小麦を揺らしながら、耳を撫でる風は少し冷たい、身体も冷えたままかも、やっぱり右手だけが温かい…離れても離れない、魔法みたいに欲しいものをくれる。霧にも濃淡があって、時々暗い影が落ちる、その輪郭は巨大な建造物のような、背の高い塔のようなものに見える。あれは何だろう、霧が見せるまぼろしかも知れない、後で聞いてみたらいいかな。空がこうこうと鳴る、何も見えない、影もここまでは届かない、でも何かが横切ったような圧迫感を微かにある。その瞬間だけは足元にも何も見えない、意識だけを奪っていく、まるで盗賊のような? ちょっと違うかなぁ、こっそりとしてるなら泥棒かも。


「もうそろそろ着くよ」

「うん、結構疲れたね」

頭を擡げて確認するもそれらしいものは何も見えない、確かに小麦畑はいつの間にか切れているけど、霧の向こうにも家はない。もしかして、建物もないようなところなのかな? そもそもどこに向かって歩いていたんだっけ… お家だとは思ったけど、そういう会話があった訳じゃないような。勝手にお家だと考えていたのかな、うーん、思い出せない… あの時、羽を探していたのは覚えているんだけど… 意識がその辺りで途切れてしまっている。でも、最初から何か目的があってここへ来た訳じゃない、私は村を追放されたんだから。うっすらとだけど、死ぬのは覚悟してた、分かってた、死ぬっていうのがどういうことかは知らないけど、村の人だって同じように死んでいくのを見てきたから。ほとんどは怪我や病気、他にはあったかな… 最後には動かなくなって、会話もできなくなって、そのまま意識がなくなる、眠ったように話さない… 悲しい気持ちがもう伝わらないんだって分かったとき悲しくなった、私もそうなるんだと思っていた、たぶん空腹とかで動けなくなってしまうんじゃないかなって… そのまま歩き続けると、また小麦畑が現れた、どうなっているんだろう… 方向感覚もないから分からないけど、また戻ってるんじゃないよね? そして、丘のようなところを丸太で出来た階段を数段上がる、そよ風のように感じたけど、これは陣風だろうか、記憶がはっきりしないけど、気付いた時には霧が切れていた。髪が凪ぐ、差し込む光にも香りがあって、葉に反射した光が瞳を叩く、しんしんとした音が戻る、時が巻き戻ったような感覚にわたしだけが付いていけない。そう、過去に戻ることなんてできないんだから。


「ねぇ、見て」カレンが振り返ってわたしの後ろを指差す。

「あの山が見える? こっちから見るとまんま崖だけどね、 『あいつ』が居たところだよ、最初にあの崖を下ろしてもらったでしょ、ちゃんと覚えてるかな?」


イメージより遥かに高い山を目にし混乱する、あれは2000メートルくらいあるよね? そんなとこを『蝶』に下ろしてもらったの? 精々10メートルくらいだったと思うけど、触覚だってそんなに、崖の下までは届くはずない… 麓では霧が山を避けて左右に流れている、松明のような『蝶』の存在を、離れていても感じる、さっきまで繋いでいた右手と一緒で、わたしの中では確かなものとして残っている、わたしの記憶が変なのかな、分からない。いや、そんなことないよね、冗談を言ってるようには見えないけど、確かめなくちゃ…


「うーん、確かに触覚に掴まって下ろしてもらったけど、10メートルか、20メートルくらいだったと思うよ。そもそもあんな高さからは下ろすのは無理だよね?」

「普通に考えたらそうだけどさ…『あいつ』のやることだからね、普通じゃないのよ。触覚で何千メートルだかを下ろすっていう結末だけを取り出したんだと思うよ。取り出すとか、選択とか、言葉は分からないけどさ、とにかく結果だけを見たらそうなってるの、馬鹿げているよね、あんなのに誰も付いていけるはずないのにね」カレンは呆れたような表情をする。


ああ、そっか、神様みたいなものなのかな、わたしは理解を得るのに一番簡単な答えを探した。それなら何も不思議じゃないけど、呆れるってのは何か違和感がある、その正体を表す何かまでは思い付かなかったけど。


「あぁ、風が散らした霧が戻るよ、結界の中だから仕方ないけどさ。あ、あそこが私たちの家だよ」

カレンが指差した先には木造の家があった、二階建てで全体的にはカーブが多い構造だけど、所々木材が飛び出ており継ぎ接ぎで、修繕中という感じがする。奥にも似たような建物がいくつか見える、ここが暮らしているところか。結界というのは何だろう、おまじないみたいなものなのかな、分からないことばかりが積もっていく。

「随分と歩いたよね? 足がくたくただよ…」

「そうだね、ゆっくり休んだ方が良いかも? さぁ、上がって!」そう言って、カレンが大きな扉を開けると、石畳の上にいくつかの履き物が見えた。窓が開いているのか、空気も流れてくる、僅かに木材の香りがする。

「あれ、お父さんは居ないのかな? 何年も戦争をしているから留守が多いのだけどね」カレンはそう言いながら靴を脱いで上がる。

「え、戦争をしてるの?」

「そうだよ、山の向こう側とこっちじゃ情勢が違うの」


あれ、お父さんてわたしの家にいなかったっけ… お母さんはいつもいたけど、お父さんは… 記憶のピースが欠けたように、その部分だけが思い出せない、わたしは忘れてしまったの? いつから? 姉がその欠けたピースを持っているの? 何でこんなことになったのかなぁ、今まで忘れたりしたことなんてなかったのに、お母さんとの会話だって覚えてる、つまらないことで怒っちゃったことだって未だに後悔してる、その切っ掛けは?何かを飼っていたんだっけ… 小犬かな、リスだっけ、それも覚えてない… 分からない、もう寝てしまいたい。


カレンは微笑みながら再度手を差し伸べる、カレンに続き、石畳の上に靴を脱いでから、その手を取った。

「さ、こっちだよ」


頭の中で木霊する、声だけが届く、わたしは誰… わたしは誰になったのかな?

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