03

部屋に一人。

『狼』の少年は貴重な時間を理論武装に当てていると、不意にドアがノックされた。男が出ていってから、1時間は経過しただろうか… ベッドとクローゼットだけの殺風景な部屋には時計も置いていないため正確な時間は分からない、ノックの音が到達してから認識するまでに時間が掛かった、それだけ深いところへ潜り込んでいたのだろうか、焦燥感との交錯、波際に立つ矢を拾う。


「入るぞ」

軽快な声と共に長身の女性が現れた。

髪は黒く長い、後頭部で結んでいる、脱力しながらもその眼光は鋭い、紅の羽織りを揺らし、腰から刀のようなものを左右に一本ずつ下げている、彼女も戦闘員だろうか。これで四人目のメンバーとなる、私は例の如くただ見つめていた、他に有効な手段があれば選択肢として数えるだろう、しかし、後攻にて手札を数える方が幾分かは勝算が増すと考えた。但し、それも確率の問題でしかない、彼女は私と目が合った瞬間から、より眼光を強める、どうやら、ここの連中は見るだけで様々なことが分かるらしい… 場に立つことすら容易ではない、これはまた、計算違いがあったのだろう、そのまま彼女の返答を待つ。


「ん? その目は…何事だ…? よもや『狼少年』がその嘘を看過される時代が訪れるとはね… こいつはまた随分と愉快なことになっているらしい」


恐らく、彼女が最初に確認したものは危険か否か、左手が流れるような所作で柄を撫で、止まる。そして、不安は見事に的中し、彼女はからかうように笑ったが、状況は深刻だ…この私の嘘がたった数秒で解けてしまったのだから。一触即発の事態、同じ転ぶにしても、どう転ぶか、転ばせるか、ここは戦場と変わりない。私はある程度の覚悟を決め、続く言葉を待った。


「まぁ、いいか… 私はブックメーカーのルアという、その面ではどのみち覚えてはいないのだろう? 何故、顔見知りである筈の私が態々自己紹介をしたのか、説明は不要。お前が誰であろうと、些事に過ぎないからな。但し、お前の能力は必要となる、そのために手を貸すことを優先しよう」


まず、ブックメーカーが何のことか分からないが、この状況に理解があるならば話は早い。疑問は残るが、現状を整理するのにこれ以上のことはないだろう。質問すべき内容は吟味する必要があるが、最短ルートが困難であることには変わりない。私は誰か、能力は何か、オーダーの実行は何時か、組織の目的は何か、所属する者は何人か、私は何時から所属しているのか…


私は『狼少年』と呼ばれ、その中身は問わないが、何らかの能力を保持していることは判明した。過去にも似たようなことがあったのだろう、そうでなければ彼女の理解力は常軌を逸している。そして、私の能力とは『リニア』であろうか、そうであれば必要となるような能力ではないように思う、これは単にレールに沿って力が走るだけに過ぎない、シスと比較しても足りない。人数的な制限を受け、シスとは別の場所で役割を与えられる可能性もあるが、結果的には移動と破壊の二択となる、緻密な作業には向かない。但し、現状ではそれすらも使えない。


「膜宇宙論…但し、マクロではなく、ミクロの方だ。では、四重奏の調べを認識したのが何時か、未来も過去も数えない、調べと時は同じ旋律だからな。そして、その狭間でお前は『パレード』に巻き込まれた。いや、この場合は野辺に招待されたと言い換えるのが適当か… 故に、認識にずれが生じる。光を始めとしたすべてのものに検閲が入る、その様なものと思えばいい」

彼女は淡々とした口調で説明を始める。


解説?

これが説明だと…? 私を過大評価しているのか、こいつ… この説明で理解できるやつが何人いる… その様なもの…に辿り着くまでに情報が入り過ぎている、膜宇宙論の視点、膜の定義を崩せ、あらゆる事象はただ視点によって、結果は同一でも認識が異なる…時の概念も同様、か。『パレード』? 葬列…あれは渾沌と呼ぶに相応しいが、今も作用しているとは思えない。検閲…つまり、今見ているものも双方で異なる、広義でも狭義でもそう捉えることができる、見えざる手に依るものか、摂理に数えられるものなのか、阻礙でなければ乱数を置けばいい… 噛み砕くとすれば、大筋は間違ってはいないだろう、か…



「まず、お前は誰か。この世界…『原始の世界』と呼ばれたりはするが、お前であることには変わりない。同時に、『原始の世界』はもう一つ存在するが… 並行ではなく始まり、連なる存在があるから名が付く、至極当然の流れだ、但し、視点や思考がダブっているのではない、点として認識されている状態に過ぎない、第三者から見れば重なっているため見分けがつかない、それだけのこと」


それだけのこと?

それだけのこと…だと? 嘘だろ、こいつ… 導入部からしてこれか。まず、この世界の私も同一人物で…『原始の世界』であればこそ、原形と表現すべきだろうか、そして、傍から見れば重なった状態にある… つまり、私の認識とは別の物語が現状でも進行している可能性、いや、しているのだと彼女は言っている。俄には信じ難いことが常識として、次々と打ち立てられていく、思考に打ち込まれる楔を払うことはもうできない、そして、これほど疲れることもない、認識を改めるのではなく、もう一つの有り得たシナリオを追う必要がある… 果たして、リアルタイム演算が可能だろうか、いや、文字通り現実的ではない。振り返りの結果を反映することはできるが、それが一体何に成るのだろうか… 命に直結する状況下では不毛、現状では三割も埋められれば御の字だろう。何本の楔を打ち立てたときに望むものに手が届く…


不意を突く形で左目の奥に痛みが走る、押さえた左手、指の隙間から赤の光が洩れる、これは、呪いではなかったのか… 先刻のような激痛はないが、思考を割くように、降り始めの雨がその着弾点に於いて土埃を巻き上げるように、失望と希望とが混濁し、やがて意識を奪う未来が見える。


ルアは『狼少年』のそんな様子を横目に見ながら続ける。

「拙い言葉だけを紡いで到達できる場所が、ここに在る。『殥』は最速の演算子だ… お前の意思に呼応するように、確率を彈くだろう」


演算子…?

彼女の言葉が遠退いていく… 混迷する意識が、それでも拾い続ける、唯一のもの… 手掛かりが零れ落ちることのないように、慎重に… 揺れる視界の中で、意識がある限りは藻掻くしかない。彼女の…計算違いではないのか…


「ん? 呼応していない? 私の予測を上回るとは…やるじゃないか… しかし…しかしだ、旋律に乱れはない、まぁ、愉快なことになっていると言ったのは私だ、これは片手間では終わらせない、認識を改めるようなことはしないが、お前もお前ですべきことはあるだろう、出し抜く機会を与えよう」

彼女は首を傾げながら、どこまでも冷静に脚本の再建を始める。


与える?

何を…与えるって… この状況でこいつを出し抜く? 何を言っている… この認識は合っているのか、この認識で合っているのか、ちぐはぐな状況自体を検証すれば追いつくことはない、結末からの逆算以外は認められない。いや、認める…? そう言われたからか? 反骨精神だけを直向きに叩き上げてきた私には堪える、無論、その一点を射抜いたとも考えられるが、勝負を降りることはしない。


「已むを得ない」

無明か… 原始の世界には存在しないもの、違和感の排除、六百余年の研鑽、『狼少年』、大言壮語、恥の上塗り、旋律と呪い…

「いや、戦慄か…」

そう呟きながら、指の隙間から覗いた世界、天空には無数の残滓が舞う。天を突く配列には規則性があった筈だ… 『リニア』の配列に偏りがある理由は? レールが破壊された跡だろうか、先程までは無数に見えていた、それは間違いない。つまり、これこそが私の能力なのだろう、でたらめな分解、解析と置き換えても良い、この目の奥に何かを所持している…赤い光を散らし、脳に接触、直結している? 思考に制限が掛かったような気はしないが…そんな問いに誰が回答できるだろうか…それはまた別の問題だ。とにかく、私が理解するより先に演算を終え、結果すら追えない。恐らく、これが成果、だから、彼女は呼応していないと言った… 『殥』は現状では扱えない、つまり、使用しなければ、分解さえしなければ『リニア』は走る、今の虚ろな頭で可能だろうか、試してみる価値はある。


小さな呼吸を置き、空に向けて実行する。

オーダーは通らない、既に配列された『リニア』を実行するも、疼くような痛みと共にレールが雲散した、光ではないから眼には映らない。つまり、感覚の問題ではあるが、崩壊したことは解る。正確には破壊ではないのだろうが、これを制御しないことには先はない、破壊という認識に誤りがあるのか、恐らく、『殥』はスパコンのようなものだろう… 立式なくプログラムが走るものだろうか、脳に干渉している可能性は高い、この場合は『リニア』発動の意思決定がトリガーとなっているのか… いや、すべては脳で支配していると見て良い、血流や電気信号、ホムンクルス… 検証すべきは今じゃない、私はこの世界を正確には認識できない、だが、言葉を手に入れたのはこれのお陰だろう。つまり、段階がある、レールに作用するのであれば身体の一部と認識されている、結界と言い換えても良い、多重スリット問題のように状態方程式で導いた結果を反映しているに過ぎないのか… 不確定要素が多いが、解はシンプルなものである。私が望む結果が得られる、望まない結果が吐き出される、故に、こうすれば良い。


シーソーが傾くように、カタンという音が頭の中で響く、空には龍が昇るように鮮やかな光が静かに縦に延びていく、琥珀色の妖星、そして、音もなく消える。彼女には見えていない、私だけの燧火はここに上がった。レールに沿うように鳥が立つ、その羽ばたきがいくつかの光を返す、昼下がりとしてここに完成された絵を眺めていた。その輝きが何かを照らすことはないが、出し抜くというのであればその一歩を臨む。


「ルアと言ったな、感謝する…」

言葉に詰まる、満身創痍の身体を手放したいが、この手に帯びた喜色を隠せない、今はその時じゃない。だが、この礼は必ずする。


「何だ、もういいのか。それでは続きの話をしよう、エアルミノシネカンリタイド君。ああ、その前に一つだけ教えてあげよう、『鳥』にも欠点があり、それは綻びに関連する。それこそが色とも言えるが要は使いよう、だな…」


私の名前だけ異様に長いな…

彼女は明らかに私の反応を見ては楽しんでいる、フルネームか否か、目を丸くした様子が愉快だったのだろう。お前らは大体二文字だったじゃないか… そして、彼女の言葉に嘘はない。ここでは頭二文字で呼び合うルールでもあるのだろうか… てか、『鳥』とは? 未だに覚めない夢を見ているようで、痛みと関連がなければ惨事と然して変わらない。


その後も小一時間ほど話が続く、当面の計画や仲間のことなどを確認する。彼女の言に引っ張られてか、体力の消耗が激しい。この痛みには慣れることができるかも知れないが、戦闘となれば枷になる、備える必要がありそうだ。私が空回りするのを見計らって彼女は退室した。

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