01

ここは…?

一度は死を覚悟した、意識があることに対し安堵するより先に不思議に思う、心音は福音となり、指先、手足をはじめとして全身の感覚を取り戻す。投じた疑念によって脳内に微かな波紋が広がる、視界が緩慢に色付く、静観の中の焦燥、何も変わりはしない、これは私の世界。


「ん? 目覚めたか?」

『狼』の少年は気怠さと共に意識を取り戻した、ベッドの上に仰向けの姿勢、拘束はされていない。どうやら、目の奥の痛みはすっかり治まっているようだ。瞼の隙間から周囲と現在の眼の状態を確認する、簡素な天井の部屋、見知らぬ二人が見下ろしている、一人は穏やかな顔をした優男、もう一人は今にも眠りそうな表情の女性だった。


「大丈夫か?」男が尋ねる、その表情からは安堵と皮肉の色が見える「ちょっと買い物に出たくらいで、意識を失って倒れた、か… 尋常ではないな…?」


さて、彼は何者だろうか。

ジョークとも取れる台詞回しを考慮すると、私の仲間には違いないだろう。無論、記憶にはないが、今はそういう状況であるという事実に、一応の理解は追いつく。そして、買い物に出ていた、か。あそこはバーであった筈だ…買い物というのは、食料のことを指しているのだろうか…


時間が欲しい…

今の心情を悟られまいと身体が動く、心音が危険な信号を奏でる。あの時、私は倒の世界と言った…その後は何を確認して、何を確認していない? この身体に変化はない、顔までは未確認だったが、この手は観察している、紛れもなく自分の記憶にあるものだった。私はこちらの世界の誰かではない、起点はそこにある。そして、今、警戒すべきは私がその誰かではないことが発覚した際の展開にあるが情報が足りていない。女の方はとにかく、男は笑顔を見せつつ反応を伺っている、いや、そこには憂いや慈悲も含まれている点から、単純に私からの返事を待っている。素直に話すべきだろうか…記憶を失った振りをすべきだろうか、実際に失っているのだから事実の上では何も問題がないと言える、嘘にはならない、その点だけに言及すれば安全ではある。但し、今は他にすべきことがある。先ずはこの二人、いや、ドアの向こうにも他に数人の気配があるが…彼らが何者なのかを確かめねばならない。服装や所作を見ても堅気ではないだろう、この世界が何でできているかは知らないが、あちらの世界と比較しても物騒な気配があちこちに漂っている。そして、思案する暇もない…


「襲われたんだと思う。突然、激しい頭痛が起こり、そのまま気を失った、それ以外のことは覚えていない…」

反応が薄い、言葉が足りないのか…

いや、それよりもいつの間にかこの世界の言葉が理解できるようになっている…? あの酒場では聞き慣れない言葉が流れていただけだった、当然その意味も理解できない、しかし、今は違う。何らかの変化が起こった、時の経過や慮外の苦痛、無意識の筋書き、引き金は分からない、いや、現時点では何もかもが理解できない。


「心配を掛けた…」

ありあわせの言葉を足して上半身を起こした。

私が確認したかったものは自分の手だった、やはり、記憶と相違ない。衣類も変わらない。身体は変わらないのに、ここでは私以外の誰かになっている。俄には信じ難いが事実はあるがままに受け入れる必要がある、それ以外の違和感がないというのが当座の解となるのだろう、現状では証明などできはしない…その手段も方法もないのだから。


「まぁ、外傷はないよ。俺がここまで運んだから分かるけどさ。しかし、襲われるような街でもないけど、他に憶えていることはないのか?」

「いや、通りを歩いていたところで頭痛に襲われ、その後はベンチから一歩も動けなかった…」

心配はしているが、それ以外の警戒は薄いことが表情からも分かる…襲われたという表現は些か過激だったのか、そういう臭いは確かにあるが、また違った類のものということだろうか…


また、この男は別として、女性の方はかなり気掛かりだ。

表情的にはほぼ寝ている気もするが、というか、何も考えていないようでいて、そうではないような雰囲気を纏っている。絵的には無邪気ではあるが…ある意味では邪悪な状況を作り上げている。ただの無邪気であるのか…読めない、私の経験値はそれなりに高いという自負はあったが、彼女に依っていとも容易く破壊されようとしている。そして、次の瞬間には、クマのついた漆黒の瞳に飲み込まれるような感覚、境界の揺らぎだけが辛うじて私の心を支えている。『リニア』さえ走ればある程度の読みは可能だが、無い物ねだりをしても始まらない。今でもレールだけはこの目に映っている、兆しがあっても走らないのであれば、何処かに致命的なバグを抱えているのだろう、可能性の話をしても仕方がない。それに、元来あれは誰の目にも見えるものだ、認識するか否か、捨てるかどうか、ただの情報の一つに過ぎない。


「マナは眠いんだろ、部屋に戻れば? てか、それって寝てるよね…」

男は、私への回答を後に回し、女性に向かって声を掛ける。


やはり、眠たいだけなのか…

呼び掛けられたマナという女性は閉じかけた瞳を半分開け、私を覗く。


いや、これは…

そういうレベルではない、かつての私と同等の能力を有している、はず… 確証はないが、頭の芯に届く、響き合う何かの片鱗を、微かに感じる… 絵的には完全に眠たそうにしているだけだが…


「私は寝てなどいません、ただ深淵を覗くこと、それを正とするのみです。軽はずみな発言によって、この私の下げることなどあってはなりませんよ」


ん!?

台詞だけ拾うと完全に寝てるだけだな、これは… 難しい局面であればこそ、場に出揃った情報以外のものを利用してでも制する必要はあるが、場外からの王手という禁じ手のみが中空を埋めている。


「あなたも事故でないなら不注意には十分に気を付けて下さい、次のオーダーでは必要な人員となりますから、その前に失う訳にはいきません…」


オーダーというのは何かの作戦だろうか、この組織の情報を探るには良い話題だ。


「そう、ドリーマーのポレポレの救出は、現状での最難関オーダーとなるでしょうから…」


ドリーマー? ポレポレ?

どれも聞き慣れない言葉だ…タヌキか何かだろうか… 動悸がするのは、本能がこの世界に馴染めないと断言している証左だろうか… 無知であることは承知の上だが、やはり、ルールが異なるためか、理解を得るにもテンポがズレていく。その過程がより一層不穏を煽る。ひょっとしたら、マナという女性から攻撃を受けているのではないかという不安さえ過る、絵的にはあり得ないのだが…


「政府に知らしめてやりましょう、やがて、我々の認知は世界を席捲し、その他すべてを凌駕するでしょう…」

マナはにこやかに微笑んだつもりだろうが、微笑み切れていない。寧ろ、邪悪な笑みにしか見えない、というか邪悪で合っている。


そして…政府!席捲!凌駕! 

これは…クーデターだろうか… 組織とは…テロリストなのだろうか… とりあえず、レジスタンスか何かにしておこう…


そして、ポレポレは拘束されている?

タヌキか、パンダか… 何かは分からないが、とにかく、正体不明のポレポレは困難な状況下に存在するのだろう… 単に孤高の存在で、自身に縛られているという不条理な世界の住人の可能性すらある… マナの会話に付いていくのもやっとのことだが、大まかな情勢は把握できた。その点では有り難いが、これ以上は私の身体が持たない…できれば男の方と話したい。さて、どうするべきか…ここは素直に謝罪すべきか…


「心配を掛けてすいません」

マナは瞬きに依って一瞬目を大きく開く、その勢いで数秒間は覚醒した様子だったが、また元の瞼の位置に落ち着いた。


この反応は驚いている…?

何か対応を誤ったかも知れない…


「あなたが謝るなんて、余程不調のようですね」


あれ、そうなの?

私は不調だったのか… この状況でこの回答、どれだけ不遜な奴なんだ、こいつ… まぁ、今はこいつというのが私なんだが…


「とにかく、今は回復を急いで下さい。それでは、私は自室に戻ります、存外にやることは多いものですから」

そう言い残し、マナは眠たそうなゆったりとした動きで退室する。ドアを開ける際に、部屋の外に一人の影が見える、三人目だろうか。とりあえず、今は残った男の方を照準を絞る。


仲間…

同組織に所属しているが、レジスタンスであることには相違ない、無論、各々の理由や事情などは考慮ことすらできないが… 彼は私と同年代くらいには見える、20歳前後だろうか。この場の空気から読み取れる情報として、彼とは馴染みである可能性が高い。恐らく、数年は苦楽を共にしている、互いのことは語らずともある程度理解できる、そういう仲の筈だ。


「マナを怒らせてしまった…」

男はやや俯きながら小さく呟いた。


ん?

居眠りを指摘したことだろうか… そこまで怒っていたようには見えなかったが、彼の様子からは割と深刻な雰囲気が漂っている。てか、そんなだったか? 態々思い返したところで記憶にある情景とは一致しない。コミカル&シリアスの織り成す綾がこの世界の標準なのか… こいつがおかしいのか、私がおかしいのか、如何とも判別できない。


「そんなに怒っているようには見えなかったが、いつものことではないのか?」

「お前にはそう見えたのか…? 不調と言うのは本当のようだな…」

男は私が間違っているのだと認めた。


私の不調説が半端ない…

絶好調のこいつ…まぁ、自分のことだが、是非とも目にしてみたいものだな。寧ろ、それを演じる必要はあるのだが、要素が手に入らない。少なくとも、この部屋の中には存在しない、彼と会話を重ねる必要がある。



「しかし、お前が襲われた…なんて嘘だろう?」


即時、撓んだ精神を拾われた、彼は恐らく戦闘員なのだろう。

戦地での嗅覚が囁いたのか、正体を看破した訳ではない、真実を嘘と置換した理由は経験のみ。もう一度、彼と波長を合わせる…それ以外の方法では乗り切れない、また、この場に於いて他に手札は一枚も残っていない。


「まぁ、視点を変えれば何でもありの世界だ… 確率だけで語るのではとても追いつかない。だが、お前がただやられるだけで済む筈がないだろう、代わりに何を手に入れた?」


彼の瞳が私を捉えて離さない、そこに猜疑心はなかった。

その眼はあり得ない、この環境で保持していると言うのであれば、私も再考せざるを得ない。私に対する信頼から来ているのか、揺るぎない光を宿していた。しかし、彼の精神に応えることはできない、私の存在は偽りで成り立っており、真実で拵えられた状況は、薄氷で出来た綱渡り、嘘で塗り固めることでしか渡れない。私は私として生きるという選択肢しか選べない、その他を考える余地もない。


「ナイフが落ちていた、この手に持っていただろう?」

「ああ、確かに持っていた、あれは鍵だ。その建物にポレポレが囚われているだろうから… しかし、あれは敵から奪ったものではないのか?」


あれが鍵?

ナイフにしか見えなかったため、注意深く観察した訳ではない…そこにも見落としがあった…やはり、浮かれていたのか、観ることすらできない、今の私はその程度だろうか。そして、青い瞳の少年…やはり、彼が関わっているが読めない。この組織に所属している可能性は高いが…


思案中にカチャリとドアが開き、青い瞳の少年が現れた。


なるほど…

これは、デウス・エクス・マキナ…というやつか。気付けにこれでは身体が持たない。かつては全てを喰らう『狼』と呼ばれていたこともあったが、ここでは縄張り争いにもなりはしない。百花繚乱、稀代の兵が鎬を削る、ここはそういう時代の話。

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