005
『狼』の少年は指定のカフェへ向かった。
いつもの通り政府からの依頼には変わりないが、待ち合わせ場所がカフェであることは珍しい、つまり、人目を避ける必要がないということだ。カフェは雑居ビルの一階に入っており、入口の正面に位置し、反対側にはテラス席も見える。普通のカフェであった、営業日も営業時間にも不自然な点はない。
少年が建物の入口に近付くと予期せぬことが起こった。入口から奥に向かって、現実とは別の通路が重なって見えた、四隅は揃っており、そこからネオンのような、微かに光るラインが四本延びている、表現するならば、ワイヤーフレームで構築された未完の世界。しかし、その主張はこの世界に留まることはない、あらゆる物質を凌駕するかのような縦横無尽の拡がりを見せている。
少年はこのまま進んで良いものか思案する、カフェには当然依頼人が待っているのだろうけど、その依頼を受け取ることはないだろうと直感が告げる。但し、退く気も皆無で、そのアプローチの方法だけを模索していたが、その前にそれは現れた。少年の目にはカフェの内装も映っている、そして、重なるように配列された世界には少女がこちらへ向かって歩いていた。どうやらその世界は上下が逆になっているらしい、少年からは天井を歩いているように見える。輪郭だけで少女と認識できた訳ではない、視覚以外で強烈な存在感というものを知らしめる、演出などなくとも。それほど兇悪な個性と言うべきか、絶対者のそれと感じた。少年は動けない、現実を見据えるのみ、その理由は相手が何であれ立ち向かう必要があるからだ。少女も少年へ向かってゆっくりと歩く。但し、少女もこちらを気にしている様子は微塵もない、寧ろ、見えていないのか、または、異なる時間軸のため干渉し得ない映像である可能性も考えられる。無視はできないが、実際は少女が引き連れてきたものに目を奪われた、こちらはイメージとは違う…明瞭な化物であった、但し、お互いに所属している世界が違うため、接触はないものと考えるものの、僅かではない量のイメージが侵食していく、未完の世界を再構築するために、その色を塗り替えていく、それに伴ってこちらの世界は徐々に色を失う、その感覚は少年にも接続されていて決して断つことができない。過去に例のない不思議な感覚だった。
「これは…恐怖だろうか…歓喜だろうか…」
深く暗い感覚を握り潰し、少年は覚悟を決めた、触れえぬ存在には違いないが、この先はどう転ぶか分からない。
「そんなことすら分からない…全てがどうでもいい…」
少年は不敵な笑みを浮かべる。『リニア』と呼んでいるレールを、あちらの世界に沿うように配列していく、殺意は不要、すべてを振り切る加速だけがこの世界を貫ける。化物と形容したものは輪郭だけでも十分な威力がある、但し、距離が迫るほどに存在感と壁が増していく、つまり、この世界は繋がってはいなかった。滲み出る気配の一つ一つに確かなものを感じることはできるのに、まだ届かない、秒間の決意が等速で何処までも延びていく、神経がすり減るか、さもなくば次の瞬間には死が待っている、そして、気付いた時には少女の顔が目の前にあった、逆様の世界でも顔の高さは変わらない、視線が交錯する、輪郭ではない少女の姿がはっきりと映る。逡巡のない瞳はどこまでも澄んでおり、人ではあり得ない雰囲気を纏う、ティアラのような、角のようなものに色が掛かる。
「ここに戻って来られるまでに…次は何年掛かるのでしょう?」
少年の背後から独り言のような、感情の乗っていない声が聞こえた、振り返ると少女の後ろ姿が見える。眼前にいた筈の少女は既に遠ざかっている、少年は一連の流れよりも『リニア』が反応しなかったことが疑問であった、そして、見知った世界は崩壊していく。大きな力が掛かった様子はない、ただ、静かに、足元から塗り替えられていく、捲るという表現が適切だろうか、少年は静観しているが見落としがないか、という一点だけを見つめていた。
「倒の世界… 君が誰かは知らないが、戻ると言うのであれば、再会することもあるのだろう」
少年は望んでいた結果を歓迎したが、世界の法則そのものが異なることに不安もあった、確認すべき点を整理する必要がある。
どうやら少女と接触したことで、世界が反転したらしい、切っ掛けは目が合ったことかも知れないが、理由は現段階では分からない。あの瞬間に何が発生したのか、カフェはショットバーのようなお店に変わっており、少年は店内に立っていた。外観は分からないが、間取りは垣間見たワイヤーフレームの世界と合致していたので、あの少女の背後に存在していたものに間違いはないのだろう。但し、天地の転回は不知の領域であった。視界には沢山の人たち、各々が食事を楽しんでいる、人種は不明だが言葉は通じないようだ、聞き慣れない言葉が飛び交っている、そして、そこには作りものではない確かな実感があった。少年の視界に於いて、その他の要素としては元の世界と何ら変わらない、但し、『リニア』の発動は不可であった。少年は直ちにこの世界に於ける手段を手に入れる必要があった、見渡した限りでは危機が迫っている様子はないため、焦燥感はないが確認を急ぐ。
「発動しない…か。座標や時間軸にズレが生じたのか、現状では受信ができない。ここでは狭すぎる…」
少年はさっさと退店するが、店員からは怪訝な顔をされる、出ようとしているため、声を掛けられることもなかったが、外見から未成年であると認識されているのだろうか。酒場に未成年がいるべきではないと、ここでも一般的なルールは変わらない。
少年には数えられるものすべての認識を改める必要があった、想定していた事態の一つでもあるが、手順書を用意していた訳でもない。但し、『リニア』を解除するならば、思考に制限が掛からないため、少年はここで対策を練れば良いと考えていた。
最初に飛び込んできたのは夕陽だった、道を挟んで向こう側は煉瓦調のバルコニーのような広場になっている、椅子やテーブルが並んだその先は崖になっているのか、樹海や滝、遠くに湖が見える。緩やかな空気の流れが平穏を誘う、少年の険しい面持ちには危機感のなさが反映されている、通りを歩く人々は半数が帰路だろうか、疎らではあるが雰囲気は平時のそれであった。
間もなく夕陽が沈む、夜の帳が下がっても少年には静寂は訪れない。少年はバルコニーのフェンスまで寄り、樹海を注意深く観察する、広大な土地、流れる空気に変化はない、宿場町であれば道は何処に繋がる、どれもこれも失われた時代のものか、同時に情報の整理を行う。しかし、この世界は何も待ってはくれない、少年の足元から落下音が響く、反射的に確認するとナイフが転がっている、周りには誰もおらず、自分が落とした訳でもない。ナイフと革製のカバー、少年は周囲を確認したが、通りの雰囲気に変化は感じられない。それほど大きな音がした訳ではない、少年はもう一度振り返る、数十メートル先に立っている青い瞳の少年と目が合った。何も語りはしないが、そこには確かな意思を感じ取れた、しかし、解読はできない。青い瞳の少年が立っていたのは数秒間に満たない、距離とは無関係に異質な存在感があった、それは威圧ではなく穏やかなものではあった。この世界の価値観は何処にあるのか、少年は眼下の樹海に視線を戻し思案に暮れる。
しかし、次の瞬間には左目の奥に鋭い痛みが走る、初撃以外は鈍痛に変わり、徐々に痛みが拡がる、心拍数が上がり、痛みの間隔も短くなる。過去にはない痛みに困惑する、少年は攻撃を受けている可能性を探る。フェンスから離れ、ベンチに座る、左目から赤い光が漏れている、視界が赤く染まり溢れる、頬を傳うものが血か涙か判別できない。急速に力を失う、拳を握る力の加減もできない、取り巻く環境の認識が薄れていく、少年は1秒前のことも思い出せない、思考が回る、高速を超えて尚回る、混沌の渦の中、領域を越えることはなかった。
「これは…動かない…」
『狼』の少年は只管そう唱えている、そこには計画の破綻、生命の危機、あらゆる思念を含む。たった一歩が踏み込めない、迷いなどなくとも脳が止まっている、身体に命令が走らない、電気信号が徒に駆ける、脳内の思念の渦が見える、加護の破壊は同時に夢の終わりでもあった。最後の力を振り絞り、少年は項垂れたまま微笑む、そこには何の意味がなくとも、秘めた思いは誰にも探せない。
「死は理不尽だ…だが、お前はそう思わない…だろう…」
『狼』の少年はベンチに倒れた、受け身が取れないため遅れて走る痛みも既に感じない、意識が途絶えてもナイフは手放さなかった。そして、死角にナイフを隠した。
夕日が一瞬で落ちる、世界が暗黒に染まる。
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