-003

月に怯えるその子は、生まれながらに宝石を握り締めていた。

零れた青く白い光、円に染まれば、それは月となった。光の粒は絶えずその形を変え、また、交錯を繰り返し、瞬間に大きな光を鏤めては消えてゆく。人々の想いも同様に留め処なく虚ろうものとして、呼応するように、時に寄り添うように、輝いては沈み、沈黙しては廻りゆく。


生涯に於いて一人の子を成す掟、背く者に死と追想を、その子は双子だった。

「一人は無事…」母親は安堵し、錯綜する想いに気を失った、後から生まれた子が選ばれた。

「残念だが、掟には逆らえない」男は首を小さく振った、今は考えるべき時ではない、と。

そうして、十年の月日が流れ、記憶も新たに積もった。忘れることは簡単だが、真実が埋もれることもない、放たれた光は永遠に空を漂うのだから。


「また双子だって?」

「これで何人目だろうか。不可解な出来事が続いている、呪いに違いない」

「おい、滅多な事を口にするもんじゃないぞ。縦令そうであれ、それは我々の罪なのだから」村人達は憂い、事勿れと口を噤んだ。大事の裁量は長にしか許されていなかった。


「十年前のあの日、我々は選択を誤った。死すべきはカレン、その子だった。宵の内に紫煙へと追放するのだ」長は自らの非を認めることはない、それは長のするところではないから。責任というものは容易く巡り、不意を襲う形に作られていて、少なくともこの村では百年間その通りだった。


「愚かな母を許しておくれ」母親は床に伏せて泣いている、父親は立ち入りを許可されなかったため、最後に顔を見ることもできない。

「泣かないで、わたしは大丈夫だから…」カレンも泣いていたが、それは母親に同情してのことだった、長の前で自身を案じる余裕はなかった、不安の隙間を埋めるように母親に手を差し伸べた。

「これ以上の会話を禁じる、急いで身支度をするのだ」長は杖を打ち鳴らす、それがすべての合図となっている、以後、言葉を発することはなかった。

「何もいらないよ…」カレンはそう言って家を抜けた、石畳を外すことなく歩く、空と地面の間を木霊が昇降する。カレン以外の人影もなく、辺りには祈りの気配だけが漂っている。足取りが重い、いつもより、気持ちが沈む、少しだけ、カレンはそれらを暗がりに打ち捨てながら村の門を後にした。村人は何も見ていない、同情よりも罪の方をずっと重く恐れた。カレンが闇の中にすっかり消えてから、哀しいと一言口にしただけだった。


森へ一歩踏み入れると、もう村は見えなくなった。紫煙へと続く道には獣の一匹も存在しない、きっと、目には見えない小さな生物だけが豊かに暮らしているんだと思っていた。でも、不気味なほど森は沈黙し、カレンは溜め息を吐いた。その音で気を紛らわせて、奥へと進まなくちゃいけない、こんなのは何でもないことだ、わたしは…だから。カレンは思い出に気を取られ言葉を忘れてしまった。紫煙、山狭の墓場。小さい頃から何度も聞かされた、悪いことをしたら連れて行かれるところ、一方通行で出口はないって。そこでは毒が溜まり、日中は僅かに差す光に反応し、あちらこちらで火花を散らしていた。入り口辺りには樹が一本立っている、疾うの昔に朽ちて所々焦げていたが、どうにかその形を保っているみたいだ。月明かりも届かない、百足の様に地を這う霧が徐々に手足の感覚を奪っていった。それでも足は止まらない、ここで止めてもいいと考えるより先にもう次の足が出ている。岩や枝に当たったのか、皮膚が破れ、血が流れても痛みは感じない。足を止めてしまえばそこで終わり、一歩も動かないと、それだけが答えだと分かってしまうから。息が苦しい、水中にいるみたいな、ゆっくりと溺れていく、時間だけが縦に延びていく、その先で待っているのはなんだろうか、わたしにはもう辿り着けない。

「わたしはカレン、わたしはカレンだった…」こんな景色を見せられて、それでも呟く心はいつまでも冷たくて、形を変える度に音さえも色を失っていく。

「次は何になるのかな…」遠くで何かが燃えている、この目にはもう光さえ届かない、わたしはここで眠るように死んでいく。


「でも、死なない…」ギィーっと軋む音が響いた、それはとても長い響きだった。カレンは声のする方へ、ふらふらとした足取りのまま進みそのまま倒れた。白濁した煙が四方に散り、大した時間も掛けずにカレンを覆い隠す。

「ずっと、君を待っていた…」カレンの頭上から音が降ってくる、雨のように不規則なリズムで頭を優しく叩く、失っていた色が少しだけ返る。

「あなたは…誰?」カレンは地に伏したまま尋ねる。

「おや、まだ意識があるようだね…私は『蝶』、墓場の番人といったところ、無論、本当は違うが…きっとそれはどうでもいいこと…なんだろう…私が何者であるのかは…今の君にとって重要ではないのだから、ここが地獄や天国でできていても…できることは決まっていて、限られている…そう、今の君には何ができるのだろうか、考えるべきは、すべきことは、それだけだ…指を動かすことが精々だろうか、立ち上がることなど、とてもじゃないができはしない。確実な死を回避するには…視点を変える必要がある…ということだ、例えば、その身体なんかは…捨ててしまっても良いのではなかろうか、できるできないの問題じゃない…選択肢として存在して良いのかどうか、固定観念の問題だ…私にはそういうものがないから、君にしか…その意味は、分からないだろうけど…」ギギ、ギィー、カチカチカチ…様々な音が聞こえる、どれも聞き慣れない音で、距離感が掴めない。

「見ての通り、この体は大小様々な部品から成り立っていてね、それはもう何年も動かしていないものだから…こうして体を蝕む音が、煩くて敵わないんだ…」『蝶』は微かに手を振って見せた、ぎこちない動きは瞬きの様に音も無く草臥れた、どうやら音は別の所から響いているらしい。あれ、でもわたしは倒れたままなのに何で見えているのだろう、この目はもう開かないのに、疑問を覆うように、頭の中に映像が作られているのだろうか。

「わたしのことを知ってるの?」カレンが尋ねた。

「ああ、それはね。生まれた頃から知っている…どうにかその身体を作ることに成功した…」

「私の…体?」

「耐性、という。ここが墓場と呼ばれているのは知っているね…それは、君が今も吸っているその煙で、人は簡単に死んでしまうから。でも君に、は毒を無効…浄化することが、できる…この話をするのは、本当は、君が眠った後が望ましいのだが…ここでは、特に体力の消耗が激しいから。私ならば、夢の中でカレン、君に語り掛ける事が可能なのだよ…」

カレンの身長を優に超える『蝶』の瞳には十字に亀裂が走っていて、その奥では更に深い闇が拡がっていた。見るとも無くわたしを認識して、そこには一つの表情も成さない。黒の斑点模様をした嘴の中ではいくつかの小さな火が揺らいでおり、呼吸か機械の駆動に合わせ白い煙を漏らしていた、シューシューと悲しげな音を立てて。

「何をしているの?」

「この身が朽ちて動けない…だから君に、修理を頼みたい」

「わたしにはできない」

「君にできることもある…簡単なことだ。『羽根』を探して欲しい、それが私の動力となっていてね、それさえあればここから飛び立つことも…可能なのだよ」

「自分では探せないの?」

「私はほとんど動けない…しかし、探せない理由は他にある…その『羽根』は、ブラックボックスと言ってね、私にはその存在そのものを…認識することができないのだ。だから多分これくらいのサイズだろう、という記憶しか、残されていない。それは丁度、君の両の腕に納まる程度だ」

「あなたは家よりもずっと大きな体なのに、『羽根』はそんなに小さいの?」

「賢い子だね、でもその通りなのだ…それは私の知る限り最も重要な部品でね、色々と生み出すことが出来るんだ。言うなれば、魔法の箱みたいなもの…それさえあれば君をお家に帰すこともできる、また家族と一緒に暮らしたいのだろう?あそこで、あの集落で暮らすことは、少し難しいかも知れない、けれど…あとは時の流れに抵抗すべき…だろうが、やはり、質問としては、家族と一緒、というのが相応しい願望だろうか…」

「うん…」

「この先、暗くてよく見えないだろうけど崖になっている、『羽根』はそこにあるんだ…」

「何も見えないよ」あれ、わたしの身体はどうしたんだろう、いつの間にか立ち上がっている、さっきまで見ていた光景を自分の目で見ている。瞬間移動したような、意識が切り替わったような、不思議な感覚…体が軽い、疲れはかなり残っているけど、ちゃんと手足の感覚はあって、怪我もしていない…『蝶』が治してくれたのかな…カレンは深く考えることを止めた、きっと解決することはないだろうから。『蝶』に尋ねることはできたかも知れないけど、気乗りしないのか、禁忌となっているのからか、正確な理由は自分でも分からなくなってしまった。

「見た目よりもずっと…深いからね、触角に掴まってくれ…今そこへ降ろすから」『蝶』は丸めていた触角を解くように伸ばした、どうやら目はほとんど見えていないらしく触角を振動させながらカレンの位置を探り、捕まえた。カチカチカチカチと一定のリズムを刻む音を頼りに崖下までの長さを測っているらしい、ここが底みたいだ。カレンが周りを見渡すと、その先で火が付いた。『蝶』が付けたのだろうけど、その方法は分からなかった。

『羽根』を見付けたら触角のところへ戻ってきておくれ、と言っていたが、障害物が多く簡単には見付かりそうもない。用心深く探してるとこへ、後ろから声がした。

「ねぇ」優しい声音だった。

カレンは驚いて振り返ると、そこには自分そっくりの女の子が立っていた。

「あなたは?」

「今、気が付いたんだけど、あなたの姉ってことになるのかな」そう言ってその女の子は微笑んだ、自分と同じ笑顔だった、見慣れたものに警戒心が薄れていくのが分かる。

「えぇ、姉?わたしに姉がいたの?聞いたことないよ、どうしてこんなところにいるの?」

「それはそうよ。だって、生まれてすぐにここに捨てられたんだから。でもいいの、こうしてあなたにも会えたし」女の子は両手でカレンの手を取り、強く握り締めた。

「えっ」確かな力に戸惑うカレンはどうしたら良いか分からなくなった、これは夢ではなく、本物だ…そんな実感だけが手に残る。

「そうだ、今探し物をしているの、あなたは知らない?」

「ああ、『蝶』の『羽根』でしょ?あいつ、もう何年も探してるけど、きっとここら辺には無いよ。わたしも随分探したもん。何年どころじゃないかも、いつから居るのかも分からないしね…」女の子はそう言って首を振った。

「そうなんだ、それじゃどうしよう…」

「二人で探しに行こっか?もっと遠くへ、じゃないと見つからないと思うよ」女の子はとても楽しそうに語る、話し相手ができたから嬉しいのかも知れない。

「でも、駄目。わたし眠くなってきちゃったし…とても遠くへは行けそうにないよ。一応、この辺を探してみるよ」

「そっか、それじゃわたしも手伝ってあげようか」

草木の一本も生えていない荒れ果てた大地、燃えているのは石ころみたいだけど何だろう、これも『蝶』の部品なのかな。濃淡のはっきりした灯と色の付いた煙の世界、わたしの傍にはこんな世界も在ったんだな…誰も話してくれないからちっとも知らなかったよ。カレンの少し後を独特の歩調で付いてくる女の子、彼女は本当にわたしの姉なのだろうか。

「ねぇ、やっぱりおかしいよ。赤ちゃんだったら一人で生きられないじゃない?」

「そうね、でもお父さんがいたから」

「お父さん?でもさ、ここで暮らすのはちょっと無理じゃない?食べるものだって何もないしさ」

「この先に村があるのよ、あなたは行き止まりって聞かされてるだろうけどね?」

「止まれ」

「えっ」頭の中に『蝶』の声が響いた。カレンは会話に気を取られ無意識に前進していた、この先には火が届かないらしく何も見えなかった。

「その先は崖だ…」

「そっちは崖よ、気を付けて」同時に声がした。

「うん、でもここだけ随分暗くなってるのね」

「こういうのを歪みって言うのよ、穴が開いておかしなことになってるのね。近くからじゃないと見えないから危ないの」


『蝶』は思案する、カレンは明らかに第三者と話している、共振によってカレンとの会話は可能だが第三者の特定は不可であった、そもそもその場所には何者も存在する筈はないのだ。つまり、これは並行世界の複製という『羽根』の副作用、或いは、思惑の外のこと。あの日から、それ程の時間が一度に流れたのだ。しかし、前者ならば…カレンにこそ対処が可能というもの、何の道、私の助言も全てその作用の前に掻き消されてしまうだろう。

「カレン、よく考えるのだ…今日、君は村を追われ…独りとなった、それは十年前からの定めなのだ。以降、君は運命が数える通り、たった独り…そのままに死んだのだ。今は他に何も望んではいけない…」

恐らく、この言葉も届きはしないだろう。私は熟、厄介な兵器だ。そう、私をこの地表へ叩き付けたのも私に他ならない。弾いた石はその瞬間に未来を内在している、次の瞬間には何処からか烏がやって来てその行方が不明になろうとも…因果を断ち切ることで、初めてその揺らぎを制御する可能性を手にするというもの。何千年経っても私には分からない、君が最期に何を言おうとしたのか、それも触れ得ぬ領域となって、無言のままに現状を取り巻いている。


「へぇー、触れようとすると逃げるのね」カレンは恐る恐る指先で、その吹き溜まりのような暗黒を追いかけた。

「逃げるんじゃなくて、そう見えるだけなのよ。あなたも実際はほとんど追い掛けていないの、そうして少しずつ位置がずれてしまうのね。気付いた時には見失ってるという感じかな」

「うん?なんだか難しいね、私はずっと村にいたから外のことは何も知らないのかな」

「大人だってみんなそうよ、村のことだけで手一杯。外のことは迷惑でなきゃ放っておけば良いと思ってるの」その時、地面から音が聞こえた。風切り音のようだが、辺りにはそよ風すら吹いていない。音は一箇所から聞こえてくる訳ではなく、少なくとも三箇所は鳴っている。

「時間かな」女の子が告げる。

「何の音なの?それと、何の時間?」カレンは音の正体を知っている女の子に聞いてみた。

「クロムウェルの計時機、だと思うけど。何の時間を報せるのかは、設定した本人にしか分からないかも?」女の子は考える素振りを見せながらも、音のしない方向だけを眺めている。

「いきなり鳴り出したから驚いたけど、不気味な感じはしないね」きっと独りじゃないからだ、一度は死を覚悟したカレンであったが、足りない分はここにあったんだと気付く。

「そういえば、あなたは何て名前なの?」

「あなたと一緒、カレンよ。私たちは双子だもん、同じに決まってるじゃない?」

「そうなんだ。でも私のことは知ってたの?」

「うん、お父さんから聞いてたよ」カレンはそう聞いたところで崩れるようにして倒れた。再度、足元の煙が一瞬舞い上がり、音も無くカレンを埋める。槍のような枯れ木のてっぺんでは、梟のような鳥が微動だにせずに眺めている、生きているのか死んでいるのか、どのみち動かないのだから判別はできない、それがカレンが最後に見たものだった。


「また、一度に時が流れた…どうやら、この話をカレンにしたのは全くの過ちで、彼方はその機会だけを、私と同様、何年も心待ちにしていた、らしい。しかし、『羽根』は一部であっても、その全貌をイメージすること自体…が到底不可能だ」『蝶』は微かな声を震わせて、眼前の火に向かって投げた。

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