002

「簡単に説明をさせて頂きますと、まず私は当局の管理人となります。管理と申しましても、ここではすべきこともございません、ご存知の通り、ここは確立された世界の一つでもあります、人が手を加えるようなことはしなくても全てが機能しております。歯車が噛み合う必要もなく、個々の歯車が勝手に回転し続けます、例えば、落下しているものを見れば誰もが落ちていると思います、それ以外はないのです、ただ拾う必要はないと言うだけで、ひたすらに落ち続けている、そのような説明が早いかも知れません」

男は地面に視線を落としてから空を見上げた、星一つ見ることのできない闇の中に丸い月だけが揺れている、どうやら高い木々の合間を行ったり来たりしているらしい。糸杉、男は記憶と照合してみたが規模が違う、確かに知ってはいたと思ったが、また別のものだろうという結論を出した。また、月も普段目にするものではない、フィルターが掛かっているのか解像度が低く、ハリボテのような不快感があるが、淀んだ空気に苛まされているだけの可能性が高い、糸杉に触れる頃には十分な絵になっているので、やはり何かが狂っているような、確実に一部は壊れているのだろう。

「説明はいい、さっさと中を案内してくれ」男は急かすように、また、つまらなそうに言った。

「かしこまりました。ではこちらへ」

二人は鳴と呼ばれる中央の道を奥へ向かって歩き続けた、管理人は男のペースに合わせ数歩先を進む、道にはアーチ状に生えた植物が並んでいる。男は退屈していたが、その理由が思い出せない、心に罅が入ったような開放感に返って息が詰まる、管理人が言うには、この植物もただ並んでいる訳ではないらしいが、その理由を聞くほどの興味は持てなかった。こんなところは一刻も早く出たい、何故、視察などする羽目になったんだろうか、そう切っ掛けも小さな歯車に過ぎない、日常生活に於いて何かが狂っていたのか、是正されたのかは問わない、とにかく何かしらの切っ掛けがあった筈だ、男はぼんやりと思案を続けていた。不意に管理人が立ち止まる。

「この場所を忘れないで下さい。もしもの時のために必要になります、普段は口にすることはありませんが、今日は少し違います。特殊な場所には、力場の相関に依って或る時間が存在するのです。その時間が今なのです。しかし、然程気にする必要はありません、何月かに一度は必ず存在する時間でもありますから」管理人は覚えやすいように、数本並んだ糸杉の先にある櫓のような建造物に掌を向けた、似たような景色が続くため他に目印になるようなものもない。

「分かった、覚えておこう。それで、例の檻はまだなのか?」男は一時間近く歩き続け疲労していた。

「もうすぐです。しかし、ここは楼であって牢とは違います。『月の楼』とは世界を隔絶するための装置であって、楼の中と外の関係は等しいのです、言うなれば世界の狭間といった所でしょうか。但し、あちら側の世界は定義されておりませんので、場所も法則も明らかにはなっておりません、三次元に於ける感覚では鑑賞に近いでしょう」


更に六つのアーチをくぐった先にその楼は見えた。

「おい、あれはなんだ?檻の外に出ているぞ!」男は仰天し、立ち止まる。ここには誰も居ないと聞いていたため、第三者の存在を見間違えたのか、一瞬で疑心暗鬼に陥った。

「いいえ、楼を超える事は出来ません、慌てないで下さい。これから楼の前へ行きますので、ゆっくりでも構いませんから付いて来て下さい」管理人の声は非常に落ち着いている、男はそれを許容することができなかった。しかし、管理人が臆することなく進む様子を見て問題がないことを確認する、確かに、それが楼の外にいる訳ではない。

「お前には見えてないのか?」

「いいえ、見えております。ですが、『月の楼』が設計されて以来、過去千年の間境界を超える者は存在しませんでした。つまり、そう見えているだけです。面白いことに、頭では理解できているのでしょうけど、視覚や聴覚、その他の器官は簡単に騙されてしまいます、私も慣れない内は色々な苦労を抱えたものでしたから、貴方の心情も理解はできます」頭で理解しているのか、男は意識が明瞭ではなくなっている、普段であれば白も黒も厭わず、面倒ごとであればそうあるべきと対処する、今は言葉では理解できていてもそれだけだ、他の全ては否定している。安全の確保が優先されるべきこの状況を頭が飲み込めない、しかし、管理人があればこそと隠れるように様子を伺った、用があるのはあの檻なのだ、男は恐る恐る近付く以外の選択肢を見失った。


「今夜はとても冷える、そう、今夜はとても冷えるね」風に乗せたノイズのように囁く声が聞こえる。

「何か言ったか?」男は反射的に聞き返した。

「いいえ、何も。ここには私と貴方の他に誰も存在しませんから」

「そうじゃない、檻の中だ」男は怒鳴るように言った。

「よろしいですか?ここでは主に熱力学第二法則をコントロールし、値の最小を取ることで代わりの自由を得ているのです。それは平衡状態に於ける定義のみに関わりません。無秩序である状態を撃ち出すことが不可逆過程に相反しなければいいだけと考えれば辻褄を合わせることはできます、放つべきは乱雑な秩序の方であった、と。私達にもその計算式は知らされておりませんが、貴方の祖先が築き上げたものです」

「お前の話はさっぱりだ。それより本当に安全なんだろうな」

「はい、ご安心を。ここは『月の楼』ですから」


近付く程に異様な気配が増していく、檻の外に見えていたものは消えていた。月が勢いよく昇り、眼下に残光を叩きつける、青い月が寒さと混ざるように黒ずんでいく、糸杉は足並みを揃えるように縦に伸びたように見えたが、実際は存在感が増しただけであった。人は見えるものだけに怯える、見えたときに怯える、何処かでそんなフレーズを聞いたことがある、男はそれを必死で思い出そうとしていたが、頭の中にあるものは乱雑に並べられた他の言葉たちだった。檻の正面に立つと、遠くに一匹の狼が見えた。狼は木陰に佇み、月を見るともなく見ている様だった。内心と違い、辺りには静寂が広がっている、これが本来のあるべき姿だろうか、男は安堵した。

「ここがそうか。それで、具体的には何をしたらいい?」

「何も。ただ眺めるだけで結構です。そして、見たものをそのまま書いて頂ければ」管理人はメモ帳とペンを取り出し、男に手渡した。

「分かった、ではここで書いてしまおう。これで視察は終わりだな?」

「はい、それでは出口までご案内しましょう」

「書き終えた」男は短い溜め息を吐き、管理人にメモ帳を渡そうとしたが、視線を戻した際に、管理人の背後に巨大な狼を見た。

「おい、お前の後ろだ…」男はあり得ないと言った、先刻の恐怖が瞬間的に蘇る、正確には、拭えないままこの時に至った。一歩でも動けば瞬時に消し飛んでしまう程の重圧、遠くにあった筈の異様な気配のすべてがここに揃った。男は動けず、また目を離さず、時を傷む余裕すらない。4メートルを超える大きさ、体毛は黒く、赤青白の光が雷のようにさらさらと流れる、凪の中でも湧き立つ漣は不和を主張し、治下であるかの如く天地を塗り替えていく。

「先程も申し上げた通り、そう見えるだけです。でも、貴方は信じてしまった。ここに在るものと言えば、光と意思のみですが、人にはその二つを使って創造ができるのです」

「お前がそいつを連れてきたのか?」

「いいえ、何者も楼を超えることは出来ないと言ったでしょう。これは貴方が創り出したものです。さて、長い話はこれで終わりにしよう、こんな月夜の下では言葉で語るものじゃない、と。あなたもそう思わないか?」

「お前は一体誰なんだ」男にはこの『狼』が管理人と重なっていくように見えた。

「私は誰でもないさ…そして、ここには最初から管理人なんて存在しないのさ。まぁ、私は救いに来たんだ、あなたの中には渦巻く狂気と嘘が在る、そいつと交換でな。話は終わりだ、とりあえず、先程記憶した場所へ向かうんだな。私はこちらから帰るとしよう」

「お前の目的は何だ?」

「それは、これから分かることだ。そうだな、あなたの言葉を借りるとしよう。行く当ては無い。しかし、あなたは私を放っておくことなんか出来はしないんだよ、『月の楼』から抜けることなど、本来あってはならない事態だからな…」


管理人の姿が見えなくなるまで、男は一歩も動けずにいた。顛末を理解するにはまだ時間が掛かる、しかし、それは誰にも理解できることではなかった。

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